近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

沖縄の歴史・文化 “沖縄の最新情報”・沖縄と台風

2008年08月28日 | 歴史
台風シーズンも間近の折から、沖縄の台風について振返ってみたい。

今年の梅雨明けは、全国的に相当早まったが、これも地球温暖化の影響か?
はたして今年の台風シーズンは無事乗り切れるか?特に台風の通り道である沖縄ではどうか?

温暖化現象と台風との関係はどうか?台風の発生件数は?辿るコースは?中心気圧などの規模は?被害の恐れは?等々気になる点が多い。

過去のデータでは、発生した台風の4個に1個は沖縄に接近している!

最近では沖縄本島には接近するが、直撃することはあまりなく、直撃の度合いは、大東島・宮古・八重山地方に偏っていると云う。

戦後の主な台風を見ると、1957年9月の“フェイ台風”は、沖縄本島を中心に死者・不明者124人、家屋全壊4,572軒という大惨事となった。

1959年10月の“シャーロット台風”は典型的な秋台風で、秋雨前線を刺激し水害による山崩れが続発し、大宜味村などで死者・不明者は46人に上った。

最大瞬間風速85.3メートルを記録した“第2宮古島台風”は1966年9月に襲来、時速8キロとゆっくりした速度で北上し、長時間強風下にあった宮古では、倒壊家屋が2,768軒にもおよんだらしい。

しかし、建物が主として木造にも拘わらず、この台風による死者は皆無で、住民たちは安全な家へと避難し助け合ったと云う。沖縄諸島の住民は、それぞれ地域住民を家族同然と考え、面倒を見てきた、伝統的な互助精神が定着しているだけに、イザという非常時にはその強みを発揮する。

最近では2006年10月に、石垣島が台風13号の直撃を受け、石垣島天文台が観測不能に陥っている。

西表島では観測史上最も強い最大瞬間風速69.9m/sを記録したほどで、その後慶良間・本島を通過したが、沖縄全体で60人の怪我人が出た以外、死者が出なかったと云う。





写真は、2007年7月沖縄本島を直撃した台風の中心の渦巻き及び猛烈な風速状況。

沖縄では台風の勢力が最大のときに通過するにもかかわらず、建造物の倒壊・損傷・人的被害が少ないのは何故かと考えるに、先ず第1に、現状家屋のほとんどが鉄筋コンクリート造りで堅固であること。

屋根が瓦の場合も漆喰で塗り固められており、飛散することはほとんどない。

さらに屋敷を石垣や防風林で囲い台風に備えていること、アルミの雨戸が使用されている点など日頃から台風に備えていることが大きい。

第2に沖縄の人は台風対策に慣れ、テレビ・ラジオで台風の動きを確認し、台風が来ると解ればいち早く家の周りを片付け、最悪の事態に備えると云う。

第3に、台風の進路や強さの度合いを経験的によく知り尽くしている。

第4に幸いにも大きな川も少なく氾濫による被害が少ないことも挙げられる。

いずれにしても、先人の知恵・経験が活かされ・守られていることが、台風対策にも及び、伝統を重んじる沖縄風土・慣習のお蔭であると思われる。

沖縄に謙虚に学ぶ余地が多いと見るが・・・・・。

沖縄の文化 “琉球民族の知恵”・伝統文化の今日は?その2

2008年08月25日 | 歴史
沖縄の伝統文化を遡ると、琉球王朝時代に琉球古典音楽が生まれ、一般庶民の間では沖縄民謡、祭事やお祝い行事での歌や踊りが生まれた。

叉戦後沖縄のローカルテレビ番組に沖縄民謡や沖縄芝居といった独特の世界観を持った番組が多く放映された。しかし最近では、都会的風潮が沖縄まで押し寄せ、独特の沖縄ローカル番組は姿を消しつつあると云う。

沖縄方言を理解できない若者が増えたことも原因の一つと云われている。

最近全国的に沖縄ミュージックが注目を集めている要因は、バブルの崩壊により東京など都会からのUターンが急増し、Uターン組が改めて沖縄の文化を再認識したことが大きく影響していると云う。

一方で、戦後の沖縄では、米軍基地周辺のバーを中心にロックやジャズを演奏していたグループが、一時期全国にもブームを起こしたこともあったらしい。

若者の間では、沖縄民謡から現代風にアレンジした音楽を好む者、アメリカの影響を受けたロック・ジャズ・ポップスの世界を開拓した者、そして別のルーツとして、南米などに渡っていった開拓移民の子孫たちが沖縄に戻り、ラテン音楽の要素を含んだ、新しいミュージックを沖縄にもたらすなど、マルチインターナショナルミュージックを育んだ。





写真は、沖縄の琉球舞踊館“うどい”及び沖縄舞踊団の公演風景。

沖縄の伝統舞踊に目を転じると、沖縄南城市の琉球舞踊館“うどい”は、沖縄の伝統文化・琉球舞踊を気軽に鑑賞できる常設館として、琉球王朝時代から受け継がれている琉球舞踊を伝承・披露している。

沖縄文化の華ともいえる伝統舞踊、中国・東南アジアなどの芸能の影響を受けつつも、今では沖縄本来のものとして根付き、その国際性と芸術性で日本のみならず世界各地でも上演され賞賛されていると云う。

叉沖縄の伝統文化と云えば、琉歌・島唄が挙げられる。一般的に琉歌は“八・八・八・六”の短歌ことで、ムラの賛歌もあれば、教訓歌・恋の歌など、それらが“八・八・八・六”のわずか30音のシマ言葉に込められ、それぞれに歌のメロディーがあると云う。

それぞれの地域で歌い語り継がれた琉歌が、地域の人々により歌碑というモニュメントの形で残され、その数は100近くに及ぶらしい。



写真は、沖縄糸満市の“白浜節”の碑。

それらの中の一つ、“白浜節”を紹介する。
「吾んや白浜ぬ、枯松がやゆら、春風や吹ちん、花や咲かん、二人やままならん、枯木心」という白浜節。

この白浜節は歌劇『浜に咲く花』の主題歌で、ストーリーの骨子は、貧しさゆえに糸満の海岸に捨てられた娘を漁師が拾い、その家の息子と共に育てられる。
二人は成長して恋を知る年頃になるが、兄は妹が赤の他人であることを知るも恋をする。しかし、世間では兄弟としてみなされ、結婚するわけにもいかず悶々とした日が続く。

そのうちに金持ちになった娘の真の親が現れ娘を引き取ることになるが、事の事情を知った真の親は育ててくれた恩返しにと二人を結ばせるという物語。

琉歌を理解することで、沖縄の民族意識・ムラの美意識なども理解できるのではないか???

沖縄の文化 “琉球民族の知恵”・伝統文化の今日は?その1

2008年08月23日 | 歴史
沖縄の古典音楽とは、琉球王朝時代に首里王府を中心に演じられた音楽の総称のことで、14~15世紀頃中国から伝わったとされる三線を中心に、箏・太鼓・笛・胡弓の伴奏で歌われる、八・八・八・六などの定型琉歌。

三線が伝わるまで、自由型で作られていた歌は、三線の普及をきっかけに飛躍的に発展したと云う。





写真は、沖縄古典音楽と舞踊の奉納及び首里城正殿前庭で公演された組踊。

その後中国からの外交使節を歓待する御冠船踊りを中心に、他の古典舞踊や沖縄芸能の総合芸術ともいわれる音楽劇「組踊」と深い関わりをもちつつ発達してきたらしい。

19世紀になると、国王尚泰の命を受けた、“野村安趙”や“安冨祖正元”(あふそ)が登場し、古典音楽の基を築き上げた。

現在では、野村安趙の流れを汲む野村流と、安冨祖正元の流れを汲む安冨祖流が古典音楽の二大流派となっていると云う。

実際の演奏には、三線のほかに、箏・胡弓・笛・太鼓などが加わって合奏する。
三線ほどの演奏人口はないものの、箏や太鼓・笛・胡弓などを学ぶ人は多く、古典音楽のすそ野はさらに広がっているらしい。

沖縄県内各地には古典音楽研究所があり、後継者の育成が精力的に行なわれ、また沖縄県立芸術大学でも音楽学部があり、その研究が行なわれているほか、地元の新聞社主催による古典音楽コンクールなども開催されている。





写真は、沖縄浦添市の“国立劇場おきなわ”及び人間国宝・島袋正雄氏。

2004年には、『国立劇場おきなわ』も開場し、古典音楽の保存振興の拠点として期待されている。

2000年5月、野村流からは島袋正雄氏が、安冨祖流からは照喜納朝一氏が、2003年には組踊太鼓奏法で島袋光史氏が人間国宝に認定された。

沖縄の歴史・文化 “琉球民族の知恵”・泡盛の最新情報とは!

2008年08月20日 | 歴史
泡盛焼酎は、沖縄原産の黒麹菌で発酵させた蒸留酒で、約600年の歴史を誇る。
泡盛の製造に用いられる、沖縄原産の“黒麹菌”は、数多くある麹菌のなかでも成育する段階で“クエン酸”(疲労回復に効く)を多く生成し、高温多湿の沖縄でも、“モロミ”(アルコール発酵を活発化させる)が腐敗することもなく泡盛の発酵ができるらしい。

沖縄には、現在46ヶ所前後の泡盛蒸留酒造場が活躍していると云う。

中でも、泡盛酒造メーカー老舗の那覇市“瑞穂酒造”は、創業160周年を記念して30年古酒(くーす)・“琉球泡盛 嘉榮”を売り出したが、甕で30年間長期熟成させた銘酒。





写真は、那覇市首里に誕生して160年の歴史を持つ“瑞穂酒造”全景及び瑞穂酒造の銘酒・“嘉榮”。

商品名・“嘉榮”は、「創業嘉永元年にあやかり、今後も栄え、発展していく思いを込めた!」と伝えられ、まろやかさと円熟味がさらに増して、ふくよかな香りと芳醇で豊かな味わいに仕上がっていると云う。

瑞穂酒造は、“古酒は沖縄の宝もの”をモットーに、人の手で麹を混ぜ合わせる昔ながらの製法にこだわり、古酒造りの伝統技法である“仕次ぎ”による古酒を他に先駆けて製品化するなど、勢力的に古酒造りを続けている。

“仕次ぎ”とは古酒をとるカメを3つ並べ、1番のカメからサケをとると2番のカメからとった分をつぎ足す。2番のカメには3番のカメからつぎ足し、3番のカメには新酒を足すという方法を守ることで、伝統の味が引継がれている。

容量720mlの“嘉栄”価格は6万円で、アルコール度数は40度と云う。

もう一つの沖縄泡盛は、久米島の久米仙・“百浦添”で、12年古酒100%の泡盛。“百浦添”は首里城の落成を記念して製造された泡盛で、外見も高級感にあふれている。“百浦添”とは、琉球王国時代の首里城正殿の名前らしい。



写真は、沖縄久米仙の“百浦添”12年古酒。

“百浦添”は100%12年古酒ということで、深い味わいと泡盛ならではの癖もなくまろやかな味と云う。

泡盛は寝かせば寝かすほどに角がとれてまろやかになるらしく、度数は“35度”と高いが、飲みやすい口当たりにびっくりすると云う。あまりの飲みやすさに、飲みすぎないようにご注意!

因みに“百浦添”の値段は、容量720mlで2,710円とリーズナブル。
泡盛焼酎の伝統は、活き活きと引継がれている!

沖縄の歴史・文化 “琉球民族の知恵”・沖縄伝統文化に変化?

2008年08月18日 | 歴史
先ずはバイキングだが、本土同様沖縄でも流行しているらしい。

美味しい物を腹いっぱい楽しめるのがバイキングの醍醐味。和洋中琉のメニュー豊富な定番の店は勿論、最近では専門店に負けないこだわりを持った店や、サイドメニューが食べ放題の店などスタイルもいろいろ。

特に流行なのが、遅めの朝食と早めの昼食を兼ねた、ブランチバイキングやケーキの食べたい放題など、女性を意識したバイキング。

今日は何を食べようか・・・?そう思ったのなら、豊富な品揃えで迎えてくれる欲張りバイキングと行こう!





写真は、ホテルバイキング・朝食と飲茶バイキング。

いろいろな料理をちょっとずつ、目にも腹にも満足度100%。迷わずココで正解!ホテルバイキングは和洋中に琉球料理と多彩で、最近では宿泊客以外にも門戸を開放し、昼食は一般客の方が主流みたい。

食材もできるだけ県産品を使い、野菜が多めのヘルシーなメニューなど工夫を凝らし、開店と同時に満席になる人気ぶりと云う。

沖縄では早くから外食に目覚めたことから、食生活スタイルに更なる変化を求める風潮と集客に工夫を凝らす店側の思惑が一致したのか?今後もバイキング人気に拍車がかかりそう!

次に那覇市若狭公民館を使った、“朝食会”を通じて交流を図ろうとする、市民グループの取組を紹介する。

“朝食会”は、市民グループ・ワークショップへの参加者の意見を取り入れ実施しているもので、月末の土日のいずれかに開催していると云う。

情報交換の場づくりや地域の人との交流を目的にしており、同館館長は「頑張りすぎることなく、無理なく参加できるようにユルーイ感じで継続的に行っている!」と話す。





写真は、沖縄らしいおかずのサンプル、豆腐とゴーヤチャンプル及び豪華なチャンプルー尽くしのおかず。

朝食メニューは、同館が用意する白粥のみなので、参加者はおかゆに合う“おかず”を1品持ち寄り、自由に取り分けて食事と会話を楽しむという企画。

おかずは夕食の残り物でもいいし買った総菜でもOKで、皆でおかずを持ち寄るとかなり豪華になると云う。

普段なかなか出会わないような人など、世代を超えた交流が楽しいと云う。

例えば、『出会い』という裏テーマを設けて少し参加者を増やそうと企画したり、あくまでもゆるゆるとやっていきたいと期待は膨らむ。

ここにも高齢化の影響があるように思えるが、年寄り中心の家庭重視・家族団欒の伝統が少しずつ崩れ、話し相手を外に求める風潮の現われではないか?

地域仲間のコミュニケーションを図ることは、沖縄らしく結構ではあるが、各家庭を中心に地域仲間が寄り合った、重石役のお年寄りが減っている現象だとするとチョット寂しく、行く先が思い遣られる。

沖縄の歴史・文化 “琉球民族の知恵”・沖縄のラーメンとは!

2008年08月15日 | 歴史
沖縄そばのイメージが根強い沖縄において、何かと陰に隠れているラーメン、そんな沖縄のラーメン業界が、いま少しずつ活気付いている。

沖縄そばが主流を占め、“ラーメン不毛の地”といわれた沖縄県内でラーメン店は堅調に店舗数を伸ばしている。

2001年に163店あったことから、現在では200店を越えていると思われる。
特に沖縄の素材にこだわった店は行列ができるほどの人気だ。“沖縄ラーメン”という名物が誕生するかもしれない。

もともと沖縄そばとラーメンは共通項が多く、スープは昆布・豚骨・カツオ節・鶏ガラ・煮干・椎茸・タマネギなどが主体で、脂を徹底的に取り除き、マイルドなテーストを心がけているので、口当たりはさっぱり。

麺は、沖縄そば同様“カンスイ”を使っていることから“沖縄のラーメン”と呼ばれ、ラーメンの一種として分類される。しかし沖縄そばの麺は一般に太めで、和風のだしを用いることもあって、その味や食感はラーメンよりむしろうどんに近く感じられることが多いらしい。

と云うことで沖縄そばは、新たなジャンルを形成するに足る独自の存在感を打ち立てつつある。そこで沖縄そばとラーメンの違いについて考えてみる。

沖縄そば或いはラーメンを決定付ける要素には、スープと麺のほか、具が大きく左右する。スープは、醤油・塩・味噌・とんこつなどに限られ、麺はストレート太・ストレート細・縮れなどが一般的で、スープ・麺とも、沖縄そばとラーメンを引離すほどの違いはない。
ラーメンの具にはチャーシュー・青ネギ・メンマ・海苔・タマゴなどがある。







写真は上から、沖縄ラーメンのチャーシュー及び沖縄そばのソーキ2点。

具の中でも、トッピングされる豚肉の違いが大きい。
ラーメンのチャーシューに対して、沖縄そばの豚バラ・豚あばら肉の調理法・盛付けなどは決定的な違いと云える。

特に沖縄そばの“ソーキ”と呼ばれる、豚のスペアリブは、じっくりと煮込まれ、豊かな味わい・柔らかい食感・ボリューム感で、多くのファンを魅了する。

味が立っている“沖縄そば”に、優しく豊かな味わいの“ソーキ”がセットになる事で、芳醇かつ深い味を楽しむ事ができる。沖縄という、独特の食文化や世界観を持つ土地を代表する一杯。

沖縄そばが際立っているのは、豚肉の調理・味付けの格差が余りにも大きい。見た目にも、味わってみても、ラーメンとは格段に違う。

沖縄ラーメンは、材料をできるだけ県内で調達するという“沖縄にこだわった味”が好評で、札幌ラーメン・博多ラーメン・喜多ラーメンなど本土の著名ラーメンでも、麺・スープなどブランドを支えている材料・調味料以外は、素材はできるだけ沖縄産を薦める。











写真は上から、那覇市の“麦麦”の博多とんこつラーメン、“琉球新麺・通堂”のとんこつラーメン、那覇市のラーメン“ちゃんや”店、うるま市の“こはぐら”の海ブドウラーメン及び富山ブラック・サトウキビラーメン。

“麦麦”は、“本流博多ラーメン”と銘打ち、4日間かけて仕込んだとんこつスープ、福岡から空輸する歯応えのある麺にこだわる。

“通堂”は、沖縄そばの素材を活かした“琉球新麺”という新しいご当地ラーメンを開発。麺はストレート細麺で、とんこつスープでこってり系だが、食してみると、以外にもアッサリしているとか。

現在のところ、沖縄では博多系とんこつラーメンに人気が集まっている。

“ちゃんや”のラーメンは、海老からとった濃厚なスープが売りで、海老好きにはたまらないらしい。麺もシコシコとしていて、九州系のラーメンが多い沖縄ではなかなか新鮮!!

“こはぐら”は、海ぶどうに合う美味しいラーメンを試行錯誤してきたが、かなり完成に近い逸品になったと云う。先ず海ぶどうありきから発想した例。

最後に黒醤油をベースに魚介系の隠し味を使い、豚骨スープと鶏ガラスープを加えて作り上げた、富山ブラックラーメン。見た目は驚きの真っ黒だが、奥深い味わいの醤油ラーメンらしい。

沖縄の素材を活かしながら、本土のノーハウ・特産品を旨く合わせた、ご当地ラーメンが魅力。

沖縄の歴史・文化 “琉球民族の知恵”・沖縄と豚肉!

2008年08月10日 | 歴史
現在豚肉消費量は、国民一人当たり年間約16kgと肉類の中では一番多く食べられている。因みに2位は鶏肉約12kg、3位は牛肉の約11kg。

現在我々が食べている豚肉のタイプは、明治時代に輸入されたものだが、古代日本では猪を食べていたらしい。弥生時代から既に飼育されていた事が判っている。

しかし天武天皇(631~686年)の時代に最初に肉食禁止令が出されてから、多少の例外があったが、千年余りにわたって日本人の食卓から肉類は消えた。

と云うことで、日本本土では豚肉を食べる習慣は廃れたが、南西諸島の琉球王国では中国と同様、日常的に養豚が為されており、琉球人たちはハレの日には豚肉を食べていたと云う。

このように本土とは違い、沖縄では豚肉料理が特に発達している。





写真は、沖縄アグー豚の青空牧場及びアグー黒豚のトンカツ。

沖縄で飼育されている豚は、1385年に中国より渡来したという、琉球王国時代より続く血統の黒豚「アグー」が有名。

ここで豚肉の3種類についてひとこと、簡単に言えば、豚肉の種類には白豚と茶褐色の豚、もう一つはバークシャー種・黒豚の品種に当たる。

餌にも大きな違いがあり、黒豚には出荷2ヶ月前からサツマイモを与え、甘みの有る肉質にしているらしい。黒豚飼育の餌がチョットしたコスト高に通じる。





写真は、鹿児島県産の黒豚肉及び黒牛肉との対比。

沖縄のアグー豚と共に、鹿児島県産黒豚もサツマイモを含んだ飼料を食べさせることにより、うま味・甘みが増すとともに、脂肪の融点が高くなり、脂がベトつかず、さっぱりとして全国的に人気がある。

それと飼育期間が一般の豚は、生後約6ヶ月で製品にするのに対し、黒豚は生育が遅いため8ヶ月かかる。又、白豚は一回に12頭前後生まれるのに対し、黒豚は8頭前後しか産まれないため、コスト高になってしまうと云う。

と云うことでコスト高・採算難から、黒豚は急速にその数を減らし、一時は殆ど姿を見なくなったが、黒豚の味の良さが見直され、“割高であっても美味しい豚肉”と云う時代のニーズと共に、再びその数を伸ばしている。

豚肉が日本人に普及したきっかけは、明治末期に発明されたトンカツだと云う。豚肉は急に加熱しても固くなりにくく、外から脂が染み込みにくいのでトンカツにぴったりらしい。

ここで沖縄の焼豚に関するエピソードを一つ紹介する。

ある時、豚飼いの少年が父親の留守中に誤って火事を出し、生まれたばかりの子豚を家もろとも焼いてしまった。

気が動転した少年は、焼け跡から焦げた子豚を出そうとして指に火傷を負ってしまったが、その指をなめたところ、美味しい味がする。少年はあぶり焼きになった肉の塊にかぶりついた。

やがて帰ってきた父親もすっかりこの味の虜になり、その日から親子は子豚が手にはいると豚を家に閉じこめ、家を焼いては焼豚のご馳走にありつくようになったという逸話。

“家”という字は、屋根を表す文字と豚を表す文字を一緒に合わせたことから、家を焼いて焼豚を作ったという説もあながち嘘ではないかも????

沖縄の歴史・文化 “琉球民族の知恵”・沖縄の家庭菜園とは!

2008年08月08日 | 歴史
沖縄諸島は、年間平均気温が約23℃という亜熱帯気候に恵まれ、台風の通路というハンディはあるものの、露地栽培を含む家庭菜園に適した環境にある。

一般家庭の日用野菜は、家庭菜園で十分まかなっていけるし、叉必要に応じ近所と収穫野菜を融通しあうこともできる。

ただ老齢化が進み、家庭菜園従事者が少なくなっているのが気がかりだが・・・。

パパイヤは果物だが、沖縄では野菜として食べられることが多い。
熟する前の青いパパイヤを千切りにして炒めるなど。もちろん、パパイヤを赤く熟させて食べる事も可能。





写真は、沖縄県産の、誰でも栽培できるパパイヤ菜園及び沖縄の名物料理・パパイヤチャンプルー。

沖縄の庭先にパパイヤを育てている人が多く、身近な果実らしい。パパイヤは、メキシコが原産で熱帯地方に多く自生している。

特に沖縄では、一般家庭の庭先に自生していることが多いそうだが、自生と言うよりは植えているといった感じかな?

又はアパートのベランダにパパイヤを植えている人もいるなど、パパイヤは身近に定着し、誰でも何処でも育てられるということか?

誰でも育てられるが、パパイヤ生産は産業に向いていないというのは、パパイヤは繁殖力が強くて、一般家庭の庭でも収穫が可能なので、消費者が購入することが少ないという点。もうひとつは台風に弱いので生産量が不安定という理由で、パパイヤ生産が産業に向いていないと云う。





写真は、沖縄今帰仁村の“米須巨峰園”及び巨峰。

沖縄今帰仁村の“米須巨峰園”で7月5日からブドウ狩りが始まっている。1,000坪ほどの敷地に露地栽培された40本ほどのブドウの木から垂れ下がるのは、紙袋に包まれた巨峰。

濃い紫色で粒のそろった房が収穫を待つ。今年は雨が少なく、甘さも十分で昨年より美味しいらしい。

ある程度の敷地を持ち、農業従事者が力を入れれば、産業としての可能性があるほど、沖縄は栽培気候に恵まれていると云える。

ブドウ狩りは7月末まで行われ、週末はバスツアーなど、多くの行楽客でにぎわうと予想されている。

沖縄の歴史・文化 “琉球民族の知恵”・沖縄の家庭料理とは!

2008年08月06日 | 歴史
沖縄の家庭料理は、中国・東南アジア・日本本土の影響を受けたが、貿易国であった琉球王国には、他にもさまざまな国から料理法が伝来し、独自の食文化が発展した。

かつて琉球王国では、中国皇帝から派遣される使節を接待する目的で、料理人を本場中国料理の勉強をさせていたが、こうして習得した技能は琉球料理に大きな影響を与えながら発達したと云う。

その後、日本本土に支配され琉球王国が崩壊すると、琉球料理は本土の影響を受けつつ、家庭料理へと進化しながら、庶民の暮らしの中に少しずつ浸透していったと云われている。

沖縄の家庭料理は、例えばパパイヤチャンプルー・ゴーヤチャンプルー・ヘチマ汁・トウガン汁・ハンダマ炒め・ンジャナ和え物・長命草のてんぷら等々。













写真は上から、典型的な沖縄家庭料理のトウガン汁・ハンダマ野菜・ハンダマ炒め・ンジャナ和え物・沖縄原産の長命草・長命草のてんぷら。

パパイヤ・ゴーヤ・ヘチマを使った沖縄料理は本土にも紹介され、割合ポピュラーであるが、ここではそれら以外の沖縄家庭料理を紹介する。

トウガンの原産地は熱帯アジア・インドとされ、消化しやすいことから、中国では弱った胃腸にやさしい食べ物とされ、叉和食でも淡白な味を生かした汁物の具として使われている。

ハンダマは、原産地の熱帯アジアから中国を経由して日本に伝わったとされるキク科の多年草。寒さに弱いため、国内では沖縄から南九州の温かい地に自生していると云う。

ンジャナは苦味があることから“苦菜”と呼ばれ、ゴーヤ同様食欲の落ちる暑い夏にさわやかな苦みで食欲増進を図る葉野菜で、南アメリカ 熱帯アメリカ原産。

長命草は、厳しい自然条件の海岸地帯などに自生し、主に沖縄・台湾・フィリピンに分布するセリ科の植物。沖縄県内にある植物の中でももっとも生命力に溢れている植物と云われ、長命草を煎じて飲んだり、叉料理と合わせて食事療法として珍重されている。







写真は上から、アメリカ産のコーンビーフハッシュ、同ポークランチョンミート及び沖縄のポークタマゴ。

さらに現在の沖縄料理にもうひとつ強い影響を与えたものが、戦後24年間続いたアメリカ統治下におけるアメリカの食文化。

戦後、沖縄駐留米軍海兵隊や家族たちなどに、アメリカ本国から続々と送られてくる大量の物資や食材は、沖縄住民のこれまでの食習慣を大きく変えてしまった。

写真のような、コーンビーフハッシュやポークランチョンミートなどの缶詰類は、米軍基地勤務の沖縄人経由ほか、スーパーでも入手可能であった。

これらの缶詰類は今日でもスーパーで購入できるが、一般沖縄住民の家庭には常時在庫している必需品として愛用されているらしい。

写真のような“ポークタマゴ”は、缶詰ポークと卵の炒め料理で、元来豚肉を食べていた沖縄で、戦後米軍の持ち込んだ缶詰のポークは瞬く間に沖縄の食卓へ溶け込んだ。何といっても手軽さが受け、沖縄の家庭料理を一変させた特別メニュー。

叉アメリカ発のファーストフード文化は、いち早く沖縄の若者に受入れられ、今日の食の洋風化に拍車をかけたと云える。

沖縄の家庭料理は、琉球宮廷料理の伝統とアメリカ的洋風料理が、うまく溶け込んだ結果と言える。

女性は長年全国長寿県トップの座を維持しているが、男性は近年長寿ランキングを落とし、社会問題にまで発展している。

食の洋風化に対する反省・見直し気運が広まり、琉球伝統の食生活復権が叫ばれている。

沖縄の歴史・文化 “琉球民族の知恵”・伝統食文化は!

2008年08月04日 | 歴史
食に関する最近のホットニュースは“ノニ”で、日本・沖縄で注目され、現在では全国的に知られるようになってきた健康フルーツ。

ノニで最も注目されている成分が“プロゼロニン”で、タンパク質の活動を活性化させ精神的な安定を促す効果は、健康維持に最適らしい。





写真は、沖縄特産のノニの木及びノニジュース。

ノニはフルーツハーブの一種で、健康維持のために広く利用されていることから、ポリネシアの島々では、ハーブの女王・奇跡のフルーツ・神様の贈り物等と呼ばれている。

独特な風味があるが、臭みと味が独特で気になるらしい。「良薬口に苦し」と云われるが、健康のためを考え、ジュースや炭酸飲料と混ぜることをお薦め。

栽培からノニジュースの生産まで一貫して作られているのが、100%果汁。

赤道付近の熱帯地方に群生する熱帯植物・“ノニ”の実は、基本的にフルーツで、各種ビタミンやミネラルなど非常に多くの栄養素を持つハーブフルーツ。

ノニ果実の醗酵液には各種酵母菌や酵素、アミノ酸、中鎖脂肪酸、ポリフェノール類などの成分が含まれ、現代病予防に有効らしい。

もう一つの画期的な発明は、パイナップルの果皮を利用して、開発されたパイン酢。





写真は、沖縄のパイナップル畑及び沖縄特産のパイン酢。

パイン酢には抗高血圧作用や活性酸素の働きを抑える作用があるらしい。

パイン酢の特徴として、ほかの酢と比べて活性酸素を抑えるラジカル消去能力が高く、抗高血圧作用をも併せ持つと云う。

これらの発明は一つ一つの効用は僅かでも、合わせて相乗効果をもたらし、沖縄長寿の秘訣が、ここにも隠されているのかもしれない。

沖縄の歴史・文化 “琉球民族の知恵”・沖縄史の裏話!

2008年08月02日 | 歴史
14世紀中頃になると、それまで各々のグスクを拠点とした多くの按司によって支配されていた沖縄本島は、北山・中山・南山の三つの小国家に集約されていった。
これら三山の按司は、中国・明の皇帝から各々“王”の称号を与えられたが、絶対的な権力を持つ存在ではなかったらしい。

そのため三山とも、各々勢力城内での対立が絶えなかった。叉三山の王たちは、互いに勢力争いを行いながら、農業生産力を高めることや海外貿易に力を注いだ。



写真は、14・15世紀進貢貿易が始まった頃の進貢船。

特に“進貢貿易”を進めることによって、中国より経済的な利益を得るだけでなく、新しい文物・技術も取り入れ、国王としての権威付けを行うと共に、勢力拡大に努めようとの意図があった。

当時はアジア有数の大国である明朝との関係を築き、貿易を行うために、アジアの多くの国々が中国と朝貢関係を結ぼうとしていた。

こうして明朝の使者が琉球に派遣され、三山が其々入貢を始めたことで、明朝の対琉球“朝貢体制”が敷かれ、進貢貿易・海外貿易によって勢力を充実させる中で、琉球の群雄割拠時代が続いた。

琉球王国の人々は、毎年旧暦の10月(新暦では11月)以降、台風シーズンが過ぎ去ったあと、新北風(ミーニシ)が吹きはじめる頃に進貢船をしたてて中国・東南アジアなどへと船出した。

進貢船は中国へ貢ぎ物を運んだり、アジア各国のめずらしい品物を積み込んで航海したために宝船とも呼ばれていた。

進貢船は那覇港から慶良間諸島を経由して、久米島へと船を進めた。





写真は、沖縄県の広域地図及び中国福建省の福州。

当時那覇から中国へ直接向かわず、何故わざわざ久米島を経由したのか?

実は那覇から直接中国へ向かうと、途中で黒潮の流れにつかまり、進貢船は行き先の分からない漂流船となってしまう恐れが大きかったらしい。14~19世紀の王朝時代、漂流船の件数が100件以上にものぼり、ときには朝鮮半島の済州島や、四国沖、更には千葉県から宮城県の沖合まで、黒潮の本流や支流の流れに沿って流されてしまった、という事例が残されている。

久米島へ渡った進貢船が“風待ち”をしたのは、強い“ミーニシ”をとらえて、久米島の目の前を走る黒潮を、風の力でいっきに乗りきるため。

南へ吹き下ろすミーニシを利用して黒潮を乗りきった進貢船は、台湾から近い福建省の福州へと向かったと云う。

琉球へ帰るときは、翌年、本格的な夏に入る前に、南から北へ吹き上げる季節風と、黒潮の流れにのって進貢船を走らせたらしい。

エンジンのない時代、潮と風を読む知識を蓄え、自然の力を最大限に活用してアジアを駆け巡っていた先人の知恵には頭が下がる。