近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

奈良県河合町の佐味田狐塚古墳とは!

2011年01月30日 | 歴史
佐味田狐塚古墳は、後円部に馬蹄形周濠を持つ、古墳時代前期の帆立貝式古墳。

全長約86m・後円部径約66m・高さ約7m・前方部長約20m・前方部復元幅約25.5m・高さ約5mを測り、馬見丘陵の帆立貝式古墳群の中で、乙女山古墳に次いで2番目の規模を誇る。

馬見古墳群の北方広陵町には、全長約85mの西面する帆立貝式の池上古墳があり、また巣山古墳のすぐ西側の三吉2号墳も帆立貝式古墳とみられ、県下でも数少ない、しかも大型のものが5基も存在し、この特殊な形式の古墳の集中する地域として注目されている。

これまでに1974~1975、1998~2000、2002年と3回の発掘調査が繰返されたが、被葬者など詳細は不明。







写真は上から、佐味田狐塚古墳の前方部墳丘、後円部墳丘が破壊された残墳光景、案内板から覗く墳丘の光景。

墳丘は後円部に比べ前方部の長さが極端に短く、また前方部の高さが後円部に比べ著しく低い帆立貝のようになっていることから、帆立貝式の前方後円墳と呼ばれている。

叉墳丘の周囲はすでに埋没しており、周濠の存在をうかがい知ることはできないが、馬蹄形をした周濠がある。この周濠の外側には周庭がある。これらの外周施設をふくめた全長は、96mになることが知られている。

これまでの発掘調査では円筒埴輪などが採取されており、墳丘には埴輪の配列がなされていたらしい。

更に片側2車線の都市計画道路が、本古墳後円部の真ん中を貫通しているため、哀れな姿を留めている状況。

1974~1975年町道の建設時に、初めて古墳ではないかとの疑いで調査され、この地域に多い帆立貝式古墳と判明したが、その時点で既に計画道路が墳丘裾まで迫っており、結局道路により後円部が真っ二つに割られてしまった。









写真は上から、佐味田狐塚古墳の中央部にかけられた橋の様子、道路で割られた古墳の遠景、古墳を分断した歩道橋及び古墳分断の見取図。

このようなモニュメント的古墳が、道路建設の直前まで古墳だと分からなかったとは信じがたいが、結果的に残念ながら分断されてしまったのでは、被葬者も浮かばれない。

叉巣山古墳の周庭帯の北西隅が、本古墳に遠慮するかのようにゆがんで見える。

本古墳は、河合町の飛地に築かれているが、現在は馬見丘陵公園の中に取り込まれ、前方部は公園の中央エリアに、後円部は公園の南エリアに位置し、本古墳前後の間を都市計画道路の上にかかる歩道橋でつないでいる姿は、全国の古墳群を見回しても他に例がないと思われる。

南エリアから見る古墳は小綺麗に整備されているが、都市計画道路から眺めた姿は、とてもここに古墳が位置しているとは思えない状況。

1974年と1975年に発掘調査が行われ、粘土槨で棺を保護した埋葬施設が、後円部中央で発見された。棺内は盗掘を受けていたが、青銅鏡や鉄刀の破片などが出土し、更に古墳の周辺から円筒埴輪を利用した円筒棺が見つかったと云う。

巣山古墳の西側に残る三吉2号墳とともに陪塚的位置を占めるため、有力な豪族を埋葬した古墳であると推測される。



奈良県河合町の佐味田ナガレ山古墳とは!そのⅡ

2011年01月28日 | 歴史
ナガレ山古墳巡りを続けます。

ナガレ山古墳の埴輪列は10cm間隔に円筒埴輪を立て、10~20本毎に大型の埴輪を配置しており、遺存状況も良好だったので、東側には葺石と埴輪列を復元整備して、約1600年前の姿に再現されている。

叉本墳丘は葺石が敷かれ、大和では中規模の古墳であることが明らかになったが、前方部から未盗掘の埋葬施設が見つかっている。後で追葬されたものと考えられている。

本古墳の特徴として興味深いものは、東くびれ部(後円部と前方部が接する箇所)から出土した円筒埴輪列が、墳丘の主軸に向かつて二列に平行した埴輪列に区画され、2.5m間隔を保って直線に据え付けられていた。





写真は、佐味田ナガレ山古墳墳頂から望む埴輪列の様子と墳丘に向けた二列の埴輪列及び本古墳から出土した滑石製品。

埴輪列に挟まれた部分は通路に当たり、墳丘への登り道と考えられ、また墳丘裾くびれ部には円形の土壇状遺構があり、滑石模造品を用いた祭祀を行った場所と見られる。

1と2段目のテラスの埴輪も、くびれ部に並行した、延長上で途切れており、これも登り道であることを裏付けている。

このような前方後円墳で墳頂部にいたる通路を設けている例は珍しく、他に富山県小矢部市の谷内16号古墳がある程度。

古墳の名称「ナガレ」という名は1971年の分布調査時に、西斜面の小字名「ナガレ」に因んでつけられた名称らしく、地元では「お太子山」と呼んでいたというが、現在はナガレ山の名称が定着している。





写真は、佐味田ナガレ山古墳から出土した粘土槨及び円筒型・朝顔型・形象型などの埴輪類。

前方部の埋葬施設は、箱形木棺を粘土で覆った粘土槨で、棺内は赤く塗られていたことも分かり、特に写真に見られる、濃く赤い部分に被葬者の頭があったと考えられている。

遺物は、円筒埴輪・形象埴輪・石製模造品・石製玉類・鉄製品・土師器・須恵器・水銀朱などが多種出土。特に、円筒埴輪と形象埴輪は数が多かったと云う。

この前方部の埋葬の形は、女性を葬ったものと推定されている。

後円部は盗掘され、被葬者は特定できていないが、前方部の被葬者とあわせて、夫婦を埋葬した可能性が指摘されている。

いずれにしても、葛城氏 準首長から中流階級クラスの埋葬施設と考えられている。

墳丘は東半分が築造当時の姿に、西半分は芝を張って整備復元され、馬見丘陵公園内で公開されている。




奈良県河合町の佐味田ナガレ山古墳とは!そのⅠ

2011年01月26日 | 歴史
馬見古墳群は、大和の三大古墳群の一つに挙げられている、奈良盆地西部の葛下川(かつげかわ)の間、河合町から大和高田市にかけて横たわる、南北7km・東西3kmの範囲に平地との比高差30mほどの、なだらかな洪積層台地の丘陵の「馬見丘陵」上にある。

この馬見丘陵の東側斜面を中心に大型の古墳が多く分布しており、一般的に「馬見古墳群」と称されている。この古墳群は大きく三つのグループに分けられている。

1960年代、丘陵近くの300㌶が日本住宅公団によりニュータウンとして開発され、奈良盆地中最も変貌の激しい地域となり、開発地域内の古墳について破壊の恐れがあり、地元の保存会が中心となり、古墳については緑地公園として、数多く保存することとなったが、開発はすざましい勢いで進んだ。

中でも、丘陵中央部にある全長約105mの前方後円墳・佐味田ナガレ山古墳が、1975年には土取により4分の1、前方部の半分近くが削り取られ、墳丘は剥き出しになり無残な姿であったが、橿原考古学研究所・河合町郷土を学ぶ会・広陵町古文会会員などの保存運動により、佐味田ナガレ山古墳を史跡として保存することとなり、1976年12月、国の史跡に指定された。

葛城地域には、古墳時代前期中頃から有力な古墳の造営が始まり、前期中葉から古墳時代中期には、墳丘長200mを超える規模の古墳が造営されている。

佐味田ナガレ山古墳は、「馬見丘陵公園中央エリア」の南西にあって、最も人気が高い、南向き2段築造の前方後円墳。





写真は、前方後円墳の佐味田ナガレ山古墳全景と本古墳登口石碑。

本古墳群の位置・概要は、自然地形を最大限に利用し築かれた大型の前方後円墳で、古から丘陵頂部に優美な姿を横たえる古墳であったと云う。

自然の地形を最大限に利用して造られた全長約105m・後円部直径64m・同高8.75m・前方部幅70m・同高6mほどで、5世紀前半頃の築造と推定されている。

全長は105mほどだが、見かけ状の前方部下段を加えると125mをこえる規模になるらしい。東側くびれ部には埴輪列により墳丘鞍部へ登る道が造られていた。

1971年に奈良県の遺跡分布調査によって、初めて100m級の前方部を南に向けた前方後円墳であることが確認されたが、後円部は既に盗掘されていたらしく、1975年には上砂採取により墳丘の一部が崩壊された。

その後、この一帯が馬見丘陵公園の古墳群として取り込まれこととなり、1988年から復元整備のための発掘調査が行われ、調査の結果、本古墳墳丘は丘陵の自然の岩盤を整形して造られていたことが判明。









写真は上から、佐味田ナガレ山古墳後円部近景、本古墳前方部から見上げる後円部と粘土槨の位置、前方部遠景及び後円部から望む前方部の様子。

後円部は3段、前方部は2段の築成であるが、前方部の前面に掘り込みが施され、一見すると3段に見える、見せかけの築成となっている。


奈良県河合町の乙女山古墳とは!

2011年01月24日 | 歴史
乙女山古墳は、「馬見丘陵公園北エリア」の「大芝生広場」から南側の「中央エリア」に入ると直ぐ所在する。

我が国最大級の帆立貝式古墳として有名で、全長約130m・後円部直径約104m・後円部の高さ14.7m・前方部長さ約30m・同幅約52m・同高さ3.5mを測る国指定史跡。

帆立貝式には前方後円墳の前方部の短小な形式と、円墳の前面に方形の造出部を付すものとがあるが、当墳は後者の代表的なもので、大円墳の前面に祭壇を設けたような極端に低くて短い前方部が東南に造付けられている。

乙女山古墳とは、いかにもロマンチックな名前だが、歴史的には当地で合戦の最中、少女が犠牲になったことからつけられた名称ということなので、悲しい歴史が隠されていたらしい。

叉乙女山の名称は、元々は“お留山”と呼ばれ、巣山古墳などと同様に、樹木や鳥獣の保護のため、立入禁止にされたことによるものとも伝承されている。













写真は上から、森林に覆われた乙女山古墳遠景、竹薮墳丘の様子、本古墳入口案内板と墳丘、後円部墳丘の様子、下池に浮かんで見える乙女山古墳全景及び空撮された帆立貝式古墳の墳形。

墳丘の周囲には馬蹄形の濠跡や水田・溜池などの周濠が残り、南側に外堤を築いている。

墳上に埴輪片や葺石が散乱していたが、外部施設の詳細・内部主体・副葬品なども明らかでない。

滑石製の勾玉や石製模造品の出土が知られ、地元の人の話から粘土槨のような埋葬施設があったと考えられている。



写真は、乙女山古墳から出土した家形埴輪。

昭和61年、後円部南西側の「造り出し部」から円筒埴輪列が見つかり、その内側から家形埴輪や楕円筒埴輪が出土したと云う。

円筒埴輪の一つには、土師器・小型丸底壺などの土製品が納められ、出土した埴輪から、近隣の「池上古墳」と同様、5世紀前半に築かれたものと推定される。

この古墳の北方広陵町には全長約85mの西面する帆立貝式の池上古墳があり、また巣山古墳のすぐ西側の三吉2号墳も帆立貝式古墳とみられ、佐味田狐古墳・雨山古墳と合わせて、県下でも数少ない、しかも大型のものが5基も存在し、箸墓周辺の古墳群とともに、この特殊な形式の古墳の集中する地域として注目される。



奈良県河合町から広陵町にかけての馬見古墳群とは!

2011年01月22日 | 歴史
馬見古墳群は、佐紀盾列古墳群・大和柳本古墳群と並ぶ大和3大古墳群の一つに挙げられている。

奈良盆地東南の大和柳本古墳群と対峙するかのように佇む古墳群からは、当時の歴史を窺い知ることができる。

奈良盆地西部の葛下川の間、河合町から広陵町・大和高田市にかけて横たわる南北7km・東西3kmほどの範囲に平地との、比高差30mのなだらかな洪積層台地の丘陵が「馬見丘陵」。





写真は、佐味田ナガレ山古墳墳頂から望む二上山・葛城山と奈良市街地光景。

数多くの古墳群を包み込むように豊な自然が広がり、馬見丘陵公園は、歴史と文化遺産や素晴らしい自然環境を整えている。

この丘陵の東側斜面を中心に大型の古墳が多く分布しており、一般的に「馬見古墳群」と称されている。この古墳群は大きく三つのグループに分けられている。

馬見古墳群は奈良盆地西南部の奈良県北葛城郡に広がる馬見丘陵とその周辺に築かれ、北群・中郡・南群の三郡からなる県下でも有数の古墳群。





写真は、河合町から広陵町にかけての馬見丘陵古墳群の上空写真及び馬見古墳群・中央エリアのマッピング。

巨大古墳が数多く存在することで知られる馬見古墳群は、日本を代表する一大古墳群。馬の背に似ていることから「馬見丘陵」の名がついたという丘陵地帯を利用し、4世紀末から6世紀にかけて巨大な古墳が築造された。

これら古墳群は、古代豪族・葛城氏の墓域とみる説もあるが、大王クラスの墓も多く、被葬者についてはいまだ謎が多い。

奈良盆地西部の馬見丘陵に所在する、250基を超える大古墳群のうち、巣山・新木山・築山古墳など大王級の古墳を中心として、さまざまな古墳が分布する。

大和盆地を東西に二分する勢力、天皇家と葛城氏の興亡を背景とした古墳群の盛衰を象徴しているかもしれない。

馬見丘陵は、嘗ては雑木林や竹やぶの間に田畑が存在する、のどかな山村風景で、広陵町にある牧野(ばくや)古墳などは、かつては子供の遊び場であったと云われている。

1960年代、丘陵近くの300㌶が日本住宅公団によりニュータウンとして開発されることになり、奈良盆地のうちで最も変貌の激しい地域となり、開発地域内の古墳について破壊の恐れがあり、地元の保存会が中心となり、古墳については緑地公園として、その多くは保存されることになったが、開発はすざましい勢いで進んだらしい。

中でも、丘陵中央部にある、全長約105mの前方後円墳・佐味田ナガレ山古墳が1975年には土取により前方部の半分近く、全体の4分の1が削り取られ、墳丘は剥き出しになり無残な姿であったが、地元の保存運動により、本古墳を史跡として保存することになり、1976年12月、国の史跡に指定された。

一方乙女山古墳の墳形・築造時期は5世紀前半の築造で、前方部が極端に短い典型的な帆立貝形古墳。墳丘は、北西から南東に延びる尾根を切断して、整形したもので、南側は盛土により外提が築かれている。

帆立貝形古墳とは、古墳の平面の形が帆立貝に似ているため命名されたもので、大和における帆立貝形古墳20基余りあるが、このうち馬見古墳群に6基が集中しており、乙女山古墳のほか、別所下古墳・佐味田狐塚古墳・池上古墳・三吉2号古墳などがある。

帆立貝形古墳は5世紀前半に現れ、同中頃に一端消えたが、同世紀後半に再び現れ、その後は造られなくなっていると云う。

というように、それぞれの古墳にはその歴史や経緯を窺い知ることができるが、ここでは馬見丘陵エリア内外で代表的な古墳群、佐味田ナガレ山古墳・乙女山古墳・佐味田狐塚古墳・別所下古墳・佐味田宝塚古墳・牧野古墳等々順次巡っていく。



橿原市の観音寺遺跡とは!そのⅡ

2011年01月20日 | 歴史
観音寺本馬遺跡巡りを続けます。

本馬遺跡の平地住居跡は直径6mほどだが、縄文時代の住居跡の出土例は、穴を掘って築造する竪穴式住居が中心で、平地住居は近畿では兵庫県の佃遺跡に次いで2例目という。

一方平成21年2月には、観音寺遺跡で縄文時代晩期の樹木の根株30本分がまとまって見つかったと発表された。



写真は、樹木の根株と漁労用の定置杭列。

幹は直径1m近いものもあったが、木は洪水で一気に埋まり、地中でタイムカプセル状態のまま残った。

また、川跡からは、直径約1.8mのサークル状に杭(高さ20~80cm)を34本並べた遺構を確認。

杭の間につるをからませて、「定置式漁法」の仕掛けと判明した。

更に平成21年3月には、奈良県立橿原考古学研究所が、橿原市の大規模集落跡の観音寺遺跡で出土した約3000年前の縄文時代晩期中葉の土器棺墓から、4歳前後とみられる幼児の人骨・歯などが見つかったと発表した。



写真は、土器棺墓に埋葬されていた幼児人骨。

他地域の同時代の土器棺墓にあった人骨のうち、幼児と特定されたものは計7例。
専門家は縄文時代の子どもの埋葬状況が分かる貴重な資料とみている。

土器を利用した棺に人骨が残った例は近畿では極めて珍しく、縄文人の暮らしぶりや葬送儀礼を考える貴重な資料になりそうだ。

土器は直径・高さとも40cmで、頭骨や足などの骨や歯が10本以上残っていたと云う。

土器棺には、頭骨の下に腰骨や足の骨があったことなどから、別の場所で埋葬した遺体を土器に埋葬しなおしたことが判明。



橿原市の観音寺遺跡とは!そのⅠ

2011年01月18日 | 歴史
ここからは、奈良県の古墳巡りから離れて、奈良県内最新の縄文時代遺跡を追ってみたい。

京奈和自動車道インターチェンジ建設に伴う、橿原市“観音寺遺跡”の約1万3,000㎡と、南に約200m離れた御所市“本馬遺跡”の約4,000㎡で行われていた調査で、土器棺墓や、近畿では珍しい縄文時代の平地住居跡、他にも祭祀用とみられる土偶や装飾が施された石棒などが出土した。

一帯は縄文文化が発達した東日本の影響を受けた縄文時代晩期(約3,000年前)の大規模集落だった可能性が強まったと、県立橿原考古学研究所と御所市教育委員会が発表した。









写真は、観音寺遺跡発掘現場の様子と葛城山を望む広大な奈良盆地の光景。

一帯には4万㎡に及ぶ大規模な集落があったと推定。埋葬エリアが観音寺地区遺跡、居住エリアが本馬地区遺跡だったと見られている。

以前の発掘調査では、両遺跡からは計19基の土器棺墓(観音寺地区からは16基)が出土。

人骨は残っていなかったが、数基ずつまとまって見つかり、家族ごとに埋められた可能性もあるという。

土器棺墓は高さ20~40cm、直径20~30cmの深鉢を転用し、再葬による人骨を納めたとみられ、斜めか横向きに埋葬されていた。

多くが同時期の河川跡2本の間に群集し、あるものは岸辺に沿って等間隔に点在するため、川を意識して埋葬されたとみられる。

県内では橿原市・曲川遺跡で同時期の土器棺墓が70~80基見つかっていると云う。

観音寺地区では、ほかに石組炉(縦約80cm、横約55cm)と、壺などの土器も遺物収容箱に200箱以上という膨大な量が見つかった。

叉土偶は女性をかたどったとみられ、計5体分が出土。



写真は、観音寺本馬遺跡から出土した土偶と石棒。

土偶は、観音寺本馬遺跡の観音寺地区の発掘調査で、2008年に見つかった高さ約15cmほどの完形の土偶で、目と大きく開けた口、両足を少し広げたユニークな姿で、祭祀で使われた後に廃棄されたとみられる。

一方石棒は、長さは約26cmで、先端には幾何学文様の線刻がある。

東日本では線刻のある石棒の出土例は多いが、縄文文化が発達しなかったと考えられている西日本では、ほとんど装飾がないという。

いずれも子孫繁栄を願う祭祀具とみられる。




奈良県高取町の大田皇女墓とは!

2011年01月16日 | 歴史
大田皇女は、菟野讃良皇女(“うののさららのひめみこ”は天武天皇皇后・持統天皇)の同母姉にあたる。

父は天智天皇で、母は蘇我倉山田石川麻呂(蘇我入鹿のいとこ)の娘・遠智娘(おちのいらつめ)。

大田皇女は天武天皇の妃となり、大伯皇女(おおくのひめみこ)・大津皇子を生むが、夫の即位を見ずに若くして亡くなったと云う。

当時大伯皇女は7歳、大津皇子は5歳で、母方の祖父である天智天皇に引き取られたらしい。









写真は上から、奈良県高取町の大田皇女墓の遠景と近景及び今回発見された、明日香村の越塚御門古墳の現地説明会の光景と同墳墓石室と石槨の様子。

研究者らが探していた大田皇女が眠る場所が、明日香村の越塚御門古墳と分かり、「これほど近くだったとは」と誰もが驚き、「日本書紀の記述通り」と感動した。

今回、日本書紀と考古学が巡り会った遺跡から、動乱の時代を生きた3人の女たちの物語がひもとかれる。

大田皇女は、大化改新前夜に生を受けた。蘇我一族の中で、中大兄皇子方に組みした倉山田石川麻呂が、娘を中大兄皇子に嫁がせて生まれた子だ。

645年には実妹の持統天皇(~702年)が生まれている。後に倉山田石川麻呂は、中大兄の命を狙った疑いで無実の死に追いやられ、大田皇女の母は悲しみのあまりに死んでしまったという。

成長した大田皇女は、天智の弟・大海人皇子(後の天武天皇)の妃となった。

斉明の百済救援九州遠征(661年)に伴われ、道中で大伯皇女、663年に大津皇子を生んだ。しかし間もなく20代の若さで世を去った。

一方、姉の死後に大海人の妃となった持統天皇は、草壁皇子を生み、天皇として君臨する。

大津皇子は、皇位継承をめぐって草壁皇子のライバルとなり、686年ついに謀反の罪で処刑された。

病弱な草壁皇子に対して、容姿に優れ、学問にも秀でていたと伝えられている。

祖母の斉明天皇、叔母の間人皇女とともに葬られたと云う。




奈良県高取町の車木ケンノウ古墳とは!

2011年01月14日 | 歴史
平成22年12月、越塚御門古墳発見に伴う現地説明会が行なわれたが、多くの考古ファンで賑わった。

奈良県明日香村の牽牛子塚古墳に隣接して、日本書紀の記述通り越塚御門古墳が発見され、考古学的には両古墳が斉明天皇陵と孫の大田皇女の墓であるとほぼ確定した。





写真は、現在宮内庁管轄の斉明天皇陵概観及び斉明天皇陵近景。

しかし宮内庁は、同県高取町の“車木ケンノウ古墳”を斉明陵に、その南約80mの墳土を大田皇女墓と指定しており、今回の発見でも変更しない方針だ。

宮内庁の陵墓の指定や管理を巡り、見直しや国民的議論を求める声が学界から上がっている。

牽牛子塚古墳から西に約2kmに所在する、宮内庁が斉明天皇陵に指定する車木ケンノウ古墳は、小高い山の上にある。

木立の中の急な石段を10分ほど登ると、神社と同じ石柱列「玉垣」に囲まれた墳丘が姿を現す。

高さ約3mの鳥居と2基の灯籠が置かれた拝所の前に鉄の門扉があり、立ち入ることはできない。





写真は、大田皇女墓の概観と近景。

「大田皇女」の墓はこの石段の途中にある。小さな鳥居と生け垣、名前を刻んだ石碑の奥に高さ約6mの墳丘らしきものがある。

陵墓指定は、幕末の文久年間(1861~64年)に朝廷、幕府が集中的に行った。

根拠は奈良時代の古事記・日本書紀、平安時代の延喜式などの古記録や、地名・伝承などによる。

斉明陵は江戸時代、別の古墳とする説もあったが、「天皇山」という地名などを根拠に車木ケンノウ古墳とする説が文久年間に採用され、明治以降も踏襲された。発掘調査もなく、学界では学問的根拠がないとされている。

牽牛子塚を真の斉明陵とする考古学的な根拠は、日本書紀の記述通り2室の埋葬施設を持ち、今年の発掘調査で当時の天皇陵の特徴とされる八角形墳と判明したこと。

越塚御門古墳がそばで見つかったことで補強された。

しかし宮内庁は「八角形の巨大な古墳が必ずしも天皇陵とは言えない」「日本書紀に、中大兄皇子が石槨を造る労役を民に課さなかったとあるのと合わない」として、指定を変更しない考えだ。



奈良県高取町の束明神古墳とは!そのⅡ

2011年01月12日 | 歴史
草壁皇子・大津皇子の運命を巡って言い伝えられてきた、謎のストーリーを追ってみたい。

近鉄吉野線の壷阪山駅から1キロほどの所に、岡宮天皇陵と隣接して束明神古墳が所在する。どちらも草壁皇子の墳墓として奉られているが、はたして真相は如何?

岡宮天皇陵は、格別に小振りの墳墓で階段を登って陵墓内に進むと、陵柵の奥に墳丘が見える。宮内庁管轄の陵墓なのに、これほどまでに内部侵入できるとは?





写真は、岡宮天皇陵の遠景及び同天皇陵の石垣と柵の奥には墓の中心と思われる墳丘が見える。

宮内庁管轄の陵墓で、これほどまでに近づけるとは!恐らく墳丘内部は既に荒らされているのでは?

岡宮天皇陵とは呼ばれているものの、実際は天皇陵ではなく、草壁皇子の墓であることから、これほどまでに近づけるのか?

しかも墳丘まで近距離で確認できるとは驚きである!

発掘調査をしたことがあるのであろうか?恐らく既に盗掘に遭遇したのではないか?

草壁皇子は、天武天皇と持統天皇のあいだに生まれた子で、天武天皇の子・大津皇子(母は天智天皇の長女・大田皇女で、持統天皇の同母姉)とはライバル関係にあった。持統天皇にとって大津皇子は、草壁皇子を上回る人望があり、目障りな存在。

結局天武天皇の死後、最大の権力を手中にした持統天皇が、有力な皇位継承者候補だった大津皇子に謀反の濡れ衣を着せ、自害に追い込んだと云う。

そして、持統天皇は、自分の息子である草壁皇子を即位させようとしたが、彼は直ぐに病死してしまった。

悲惨な歴史的ハプニングが、草壁皇子の陵墓造営に当たり、どのように評価され、影響しているであろうか?多くの疑問が涌いてくる。

束明神古墳は、岡宮天皇陵から目と鼻の先ある。

束明神古墳は、1984年に発掘調査が実施され、7世紀後半から末頃の古墳時代終末期古墳として、直径約60m・中央部に墳丘を造り、石槨はこれまでの終末期古墳には見られなかったほど大規模なモノであることが確認された。

石槨からは被葬者の人骨が発見されたが、男女の性別は不明。年齢は青年期から壮年期と推定され、これまでの発掘調査結果から草壁皇子の墓である可能性が高いとのこと。



写真は、束明神古墳の正面入口から撮ったもの。

墳墓内は荒らされ放題といった印象だが、はたして誰が保守管理をしているのであろうか?



写真手前左の森が岡宮天皇陵で、真横の遠方の竹薮が草壁皇子の真の墳墓とされる束明神古墳。

これほど近距離にあろうとは、いずれかが本物か、はたして真相は?

束明神古墳は、佐田の集落の一番奥にある春日神社の境内にある。近鉄飛鳥駅から南西へ2km歩かなければならない。

佐田の集落に入り、岡宮天皇陵をすぎて更に100mほど集落の道を上ったところに円浄寺という民家か寺院か判別しかねるような寺がある。

その寺の墓地の横から竹藪の間を春日神社の石段が続いている。百段ほど登ると拝殿があり、拝殿に接して小さな塚あるが、それが束明神古墳。

大津皇子の自害が、持統帝の謀略によるものだったからこそ、真相を知る人々が大津皇子を“悲劇の皇子”として物語化・伝説化してきたらしい。

天武天皇には、10人の皇子のうち王位継承の最有力候補が、草壁皇子と大田皇女を母とする大津皇子の二人であった。

共に天武の子だが、草壁の母である持統天皇は、天武を助けて政治をとっていたのに比べて、大津皇子は5~6歳の時に後ろ盾となる母を亡くしてしまったという悲劇が背景にある。

大津皇子の墓所は、現在二上山雄岳の山頂に所在する。






奈良県高取町の束明神古墳とは!そのⅠ

2011年01月09日 | 歴史
束明神古墳は、高取町大字佐田に所在する春日神社の境内にあり、丘陵の尾根の南斜面に築造された7世紀代の終末期後半の古墳。

現状では墳丘がわずか直径10m程に見えるが、これは中近世の神社境内の整備のためであり、発掘の結果、対角長36mの八角形墳であったことが判明した。





写真は、春日神社境内及び神社境内に所在する束明神古墳墳丘。

埋葬施設は特殊な横口式石槨で、約厚さ30cm・幅50cm・奥行50cm大の凝灰岩の切石を積み上げ、南北約3m・東西2m・高さは1.3mほどの所から内側に傾斜させ家型となっている。ただし、盗掘により天井部が破壊されているため推定であるが、高さ約2.5mあるらしい。

この石室は構築にあたっては極めて精巧な設計がなされていたと云う。

盗掘されているため、出土した遺物は少ないが、漆塗木棺破片や鉄釘や須恵器・土師器及び人歯・骨などが出土している。

飛鳥時代の古墳は、多くが丘陵の尾根の南斜面に築かれており、それ以前の古墳が平坦地や尾根の稜線上に築かれているのと異なっている。

これは、中国の風水思想が朝鮮半島からもたらされ、都市・住居・墓地などの場所を選ぶ場合「四神相応の地」として、北の玄武は小山があること、東の青龍は川が流れていること、南の朱雀は高山があること、西の白虎は大道があることなどを中心に墓地を造ることが吉であるとされる。

本古墳は、過去に3度も盗掘にあい、副葬品はまったく残っていなかったが、漆塗木棺に使用された漆膜片と鉄釘や金銅製棺飾り金具が残っており、高松塚古墳の木棺に似た棺があったと考えられている。

束明神古墳東側の田んぼの中で掘っ立て柱が出土したが、墓守の役所跡の可能性もあるとのこと。

草壁皇子を祀ってきた村人が、天皇陵指定による立ち退きを恐れて石室上板を隠し、鉄の棒による探査を免れた事も、その後の発掘で事実として検証された。

加えて、この古墳が八角墳であることも見逃せない。斉明天皇陵説がある牽牛子塚古墳、京都山科の天智天皇陵、天武・持統天皇陵、そして文武天皇陵説がある中尾山古墳はいずれも八角形の形をしている。

草壁皇子は天武・持統天皇の子であると同時に、文武天皇の父であり、彼を葬る陵墓も当然八角墓として築造されたと考えるほうが自然。

草壁皇子は天武天皇の第2皇子で、母は菟野皇女(とののひめみこ)、後の持統天皇。天武天皇の死後皇位を約束されながら、28歳の若さで薨じたが、発見された歯牙から推定される年齢にぴったりと合う。

即ち束明神古墳から青年期~壮年期の人の歯が見つかったこと、古墳築造が7世紀後半らしいこと等から、この古墳の被葬者は、「天武・持統の息子の草壁皇子」という説が信憑性を帯びてきた。

発掘調査では歯牙6本が検出され、青年期から壮年期の男性と推定されている。

石槨や棺などの特徴と古墳の周辺から出土した須恵器片などから築造時期が7世紀後半の終わりに近いと考えられること、佐田の地元では束明神古墳が草壁皇子の墓であると伝承されていること等々が、この古墳が草壁皇子の陵墓であるという説を裏付けている。

奈良県高取町の市尾墓山古墳とは!そのⅡ

2011年01月07日 | 歴史
市尾墓山古墳巡りを続けますが、ここからは本古墳石室内部を中心にご覧いただきます。







写真は、市尾墓山古墳後円部の横穴式石室登口、石室内部の光景及び遺物出土状況。

玄室は、長さ5.9m・幅2.6m・高さ3mほどの片袖式で、羨道は、長さ3.6m・幅1.8mほど。

玄室には人頭大の角の丸い小型の石を8~10段積んで側面を造り、大型の平らの石を天井に架けている。

玄室内には、二上山から運ばれた凝灰岩製の刳貫式家形石棺が安置されているが、石棺は最大の長さ2.7m・幅1.3m・高さ1.4mほどで、棺内は朱が塗られていたことなどから、昭和56年に国史跡に指定された。

平成16から18年の発掘調査では、古墳築造に使われた多くの粘土の固まり、石室を造るときに地下に埋め込まれた基礎石、墳丘一段と二段目のテラス部分に立て並べられた埴輪列、周濠からは鳥・笠などの木製品が出土したと云う。

中でも平成17年11月、本古墳の周濠から鳥形など木製品十数点が見つかったのは、日本最大の2mを超える木製の鳥形埴輪の胴体部分で、この木製品が見つかった周辺からは、棒も3本出土したと云う。

鳥形木製品は、いわゆる「木の埴輪」で、古墳の周濠の近くに、支柱に載っている状態で立っていたが、全体の形から猛禽類と考えられているらしい。

翼の木片と組み合わせ、棒を支柱にして、古墳の周囲に突き立てたと見られる。





写真は、市尾墓山古墳の木製鳥形埴輪出土状況及木製鳥形埴輪の輪郭。

出土した木製品は、コウヤマキ製で上下が欠けていたが、頭・胴体・尾羽を表現しており、全長約110cm・胴の幅約27cm・尾羽の幅約40cmなどで、翼の部分は見つからなかったらしい。

しかし木製品の下面には翼をはめ込むための、約30cm幅のくぼみがあると云う。

墳丘の高さが10mほどのため、2mを超える鳥のような形の木製品が魔除けとして、周濠に置かれていたと考えられる。


奈良県高取町の市尾墓山古墳とは!そのⅠ

2011年01月05日 | 歴史
奈良県高市郡高取町は大和盆地にあって、美しい自然環境の多くが残された土地。

高取町は、全国的に有名な“明日香村”の隣村にあり、この飛鳥の里に隠れてあまり目立たないが、この地も古代には重要な地域だったらしい。

古墳時代から飛鳥時代にかけての遺跡が多く残り、古代史のふるさとと言ってもいい。









写真は、市尾墓山古墳前方部から望む後円部光景と近郊の山々、当古墳後円部から望む前方部と霞む葛城山光景、墳頂から望む葛城山と二上山及び田圃に浮かぶ市尾墓山古墳の墳丘遠景。

当地は、大和地方の中でも特に渡来人たちが多く住み着いた所で、彼らが大陸からもたらした新しい文化は、大和朝廷に多大の技術革新をもたらした。

当地は紀ノ川河口に達する、「紀路」と称され沿道にあり、天皇陵などが万葉集に詠われている。紀ノ川河口は6世紀末まで大和朝廷の外港として重要な機能を果たし、異国の文物や渡来した人々は、紀路を経由して大和に入ってきたと云う。

当地市尾に所在する、市尾墓山古墳は、6世紀初頭から前半に造られたとされる、墳長約66mの前方後円墳で、後円部の石室は盗掘にあっていたものの、玉類・馬具・刀などが出土した。大型古墳の石室では県下最古の部類に属すると云う。

墳丘は二段に築かれ、周濠と外堤を合わせると全長100mほどの規模になる。

古墳時代後期を代表する貴重な古墳で、当時この地域に権力を持った、外交に長けた豪族が葬られていたと考えられる。









写真は、市尾墓山古墳全景、当古墳後円部をバックにした正面入口石碑、墳丘と周濠跡の光景及び後円部と周濠跡の近景。

現在は、墳丘から外堤まできれいに整備されているが、埋葬施設は全長約9.5mの大和における初期の横穴式石室で、かつ奥壁側にも羨道が有る珍しい造りになっている。

奈良県高取町の市尾宮塚古墳とは!そのⅡ

2011年01月03日 | 歴史
市尾宮塚古墳巡りを続けます。

本古墳石室内に0.5~1mも堆積した土を除去した結果、石室の床面は盗掘などによってほとんどが破壊されていたが、石棺と奥壁の間には挂甲・大刀・鉄鏃・弓金具・などの武具や武器、金銅装の鞍の縁金具・杏葉・辻金具などの馬具、金銅製の鈴・金銀の歩揺・水晶の切子玉などの装身具と須恵器片がまとまって出土したと云う。

石室中央から奥壁側に長軸を、羨道の軸と合わせて刳抜式家型石棺が安置されている。



写真は、市尾宮塚古墳の石棺。

石棺の身は、外法の長さ1.9m・幅1.2m・高さ0.65mを測り、二上山産の白色凝灰岩製で、蓋石の長辺には各2個の縄掛突起が付けられているが、角張っており、市尾墓山古墳のものよりすすんだ形式らしい。

石棺外面には鮮やかな赤色顔料が塗られ、またノミの痕跡も残っていると云う。

石棺の前面に木棺に使われたと考えられる鉄釘が検出されたが、遺物の出土状況などからも、一棺以上の木棺による追葬があったと思われる。







写真は、市尾宮塚古墳出土の環頭太刀柄頭と金具、刀身部及び切子玉など。

石棺の前面からは金銅製の環頭大刀、金銅製耳環・ガラス製の紺・切子玉・黄色のトンボ玉などの装身具と須恵器片が多量に出土しが、石棺内からの遺物の出土はなかったらしい。

朝鮮半島色豊かな副葬品はそのまま被葬者の性格を表していると思われるが、被葬者は継体政権下で主に朝鮮外交に携わった巨勢氏一族であることは動かし難いと云う。

出土遺物は、ほとんどを盗掘で失いながらも、種類・質・量ともまれにみる豊富さで、それらの中に特出すべきものとしては鐘形杏葉がある。





写真は、市尾宮塚古墳の金銅製鈴及び水晶製三輪玉など。

金銅鈴の出土は、奈良県では珍しく2例目で、全長2.6cmの小鈴で金色が美しい。

その他大刀を飾った全長3cmの水晶製三輪玉や冠の一部と考えられる銀製の魚形歩揺が数点出土していると云う。

金銅製の鈴は、天理市のタキハラ1号墳に続く出土例で、いずれも盗掘の際に取り残されたとみられ、金銅製や銀製の馬具や太刀の装飾品など国際色豊かな副葬品が多数あり、遺物の豊富さは藤ノ木古墳を上回る内容であったことをうかがわせる。

大型の石室とこれらのすばらしい出土品は、6世紀中期の古墳ではトップクラスの内容であり、国際的な交流が感じられる。

平成10年、高取町教育委員会は、横穴式石室から金色に輝く鈴や馬飾りなどが出土したことから、又飛鳥から紀州にあった古代の外港「紀伊水門」を結ぶ古代の道「紀路」沿いにあることから、「外交に従事していた豪族の首長の墓」であると発表していたが、巨勢氏一族の墓であることは間違いないらしい。


奈良県高取町の市尾宮塚古墳とは!そのⅠ

2011年01月01日 | 歴史
市尾宮塚古墳は、方部正面が東向きの前方後円墳で、全長約44m・後円部の径約23m・高さ約7m・前方部の幅約24m・高さ約4.5mほどで、近郊に所在する市尾墓山古墳墳丘の二段目とほぼ等しい。

本古墳は、市尾墓山古墳の西方で、天満神社の裏に位置する前方後円墳。

本古墳の築造時期は6世紀中頃とされているが、昭和56年に国史跡に指定された。

本宮塚古墳は、石室や石棺、遺物とりわけ須恵器の年代などから6世紀中期の築造と考えられる。











写真は上から、市尾宮塚古墳一角の天満神社、後円部墳丘と石室入口、石室開口部光景、後円部墳丘の様子及び前方部墳頂光景。

埋葬施設は、後円部の中央を北方向に開口した全長11.6mの両袖型横穴式石室で、玄室は長さ6.2m・幅2.5m・高さ3mほど、羨道は長さ5.4m・幅1.5m・高さ1.8mの規模を測る。

石室の構築は、側面は中型の四角い石材を持ち送って奥壁側から積み上げ、天井は平らな巨大な石材をおく。

床面の形態は、細長い長方形で壁面に沿ってY字型の排水溝を設置し、玄室上面には小礫を敷いている。







写真は、市尾宮塚古墳の横穴式石室開口部、手前石室羨道に積まれた石段、及び玄室内部の石積みの様子。

石室壁面は、写真のように赤色顔料が塗られ、羨道には四角い石を積んで段を設置し、その上面に閉塞石を積んでいた。