近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

徳川慶喜物語 “清水次郎長”とは

2007年06月06日 | 歴史
任侠ヤクザ映画で、一世を風靡した「食いねえ・食いねえ・寿司食いねえ・・・・・」のセリフでお馴染みの、“清水次郎長”(以下次郎長)親分は、実は“江戸無血開城”に一役果たした人物。
そこで次郎長とはどういう人物なのか、特に慶喜とのかかわりについて、振り返ってみたい。





写真は上から、次郎長生家の表玄関で、筑後200年ほどの建物は現存、下は一般公開されている屋内のリアルな様子・仏壇が見える。

次郎長は、幕末・明治の侠客で、駿河国清水湊の船頭の三男に生まれ、米穀商の養子となり、やがて米穀商の主人となった次郎長は、人を斬り清水を出奔、無宿渡世の門をくぐった。



写真は、当時次郎長が使った装身具・調度品。
そして諸国を旅して修行を積み、清水湊に一家を構えた。

前述した通り、“東征大総督”が、1868年3月15日の“江戸総攻撃”を目指していた途上、次郎長が街道警護役と山岡鉄舟の護衛役に任じられ、駿府で西郷隆盛・山岡鉄舟会談を成就させ、“江戸無血開城”に導いた陰の功労者であった。

その次郎長は幕末には、東海道一のやくざの大親分として名を馳せたが、明治に入る頃からは、富士山麓開墾や清水港の整備、英語塾開設など、「世のため人のため」の事業に熱心であったと云う。

そして慶喜公が、駿府在住中は、かなり頻繁に清水港に遊びに来ていたという記録が残されている。
慶喜公は、早朝人力車で清水港に出向き、趣味の“投げ網漁”(投網)を楽しんでいたらしい。その際、次郎長は慶喜公の警護役を担っていたらしい。



写真は、現存する、かつて次郎長経営の船宿「末広」で、現在は次郎長ゆかりの品々の展示場として活躍中。

慶喜と次郎長とは確かに顔なじみであったようで、慶喜の息子と遊ぶ光景が記録に残っており、又慶喜が撮影したという、次郎長経営の船宿「末広」の写真も伝えられている。







写真は上から、清水港の隠れた銘菓・“追分羊羹”は、現在も健在で清水名物として300年の歴史を持つ。
写真は、上から銘菓・店頭光景、元禄8年創業と記された包装紙、及び竹の皮に包まれた、手作りの蒸し焼き羊羹。

もっちりした食感とあっさりとした甘味が特徴で、試食してみたが、なかなか美味で飽きが来ない。素材や控えめな甘味は当時のまま引継がれていると云う。
甘党でもある慶喜公が、駿府清水銘菓・“追分羊羹”の店にしばしば顔を出していたそうで、次郎長が案内したのではないかと云われている。

次に逸話の例では、榎本武揚率いる旧幕府軍艦隊・咸臨丸が暴風雨により破船し、清水港で修理中に新政府軍により発見され、襲撃された結果、多数の死者が駿河湾に投げ出され、浮遊していた。
次郎長は放置された遺体を子舟で収容し、向島の砂浜に埋葬したと云う。

静岡藩責任の大参事であったが、旧幕臣の山岡鉄舟は、次郎長に深く感謝し、これが機縁となってお互いの交際が深まったという。





写真は、次郎長の墓所がある、清水町の梅蔭禅寺及び次郎長墓所。

そのほかにも、清水港の発展のために、輸出用お茶の販路拡大に寄与したり、静岡の刑務所にいた囚人を督励して農地開墾に従事させるなど、博打を止めた後の次郎長の変身振りが、記録に残されている。



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1 コメント

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清水次郎長 (証誠寺のたぬき)
2021-08-28 20:12:56
清水次郎長、幕末から明治にかけての民衆のヒーローですね。私も大変興味を持っている一人です。コロナ禍が収束したらぜひ一度訪れてみたい「清水港」次郎長さんのお墓参りと次郎長記念館、次郎長生家、末廣などを回ってみたいと思っています。色々と情報ありがとうごさいます。

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