近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

交野市の塚穴古墳とは!

2010年03月30日 | 歴史
塚穴古墳は寺古墳群に属し、交野市で現存する古墳の一つで、横穴式古墳を完全に残す古墳。

寺古墳群は寺集落の東南、竜王山の山麓に群集する、6~7世紀初頭の古墳時代後期の古墳群で、14基の古墳から成る。





写真は、寺古墳群が群集する竹薮・雑木林と古墳群から覗く市街地光景。

当古墳群は、いくつかの尾根に2~3基ずつ点在し、広い範囲にわたり寺古墳群と呼ばれている。





写真は、塚穴古墳全景及び横穴式石室入口の様子。

横穴式石室を完全に残す、交野では稀な古墳で、東西12m・南北11mほどの方墳で、入り口は西を向いている。周りは竹薮と雑木で鬱蒼としている。





写真は、塚穴古墳石室の片袖部分の石組及び横穴式石室の石組状況。

6世紀に入り、朝鮮半島から新しい古墳の造り方が伝わり、従来の埋め立て形竪穴式古墳から、石室に何回でもお棺を入れることができる、小型の横穴式石室が一般的となった。

羨道は短く片袖式、石室の長さは3.3mほどで、石室に入るのは腰をかがめるが、中は天井が高く人一人十分立てるほどで、195cmもあるという。

今までのところ、出土品は見つかっていないらしい。

写真の通り、石組はしっかりしており、大きい岩石と隙間に入れる小さい石が左右にバランス良くシッカリ組まれている。

1,400年の時間を経過してもなお、石室はびくともしないほど強固で、遺物を残した先人の知恵と財力に驚く。




交野市の大畑古墳とは!

2010年03月28日 | 歴史
大畑古墳は、JR学研都市線の東側に、全長約85mの前方後円墳が位置しているのが、一般には大畑古墳と呼ばれている古墳。

本古墳は、該当地の弥生時代の遺跡発掘に伴い発見され、当初は後期古墳とみられていたが、その後の調査で出土した埴輪片などから、築造時期が古墳時代中期古墳(400年中頃)と判明した。

そのため、車塚古墳群の流れにのった古墳として、現在は車塚古墳群の中の第6号古墳として分類されていると云う。

本古墳は、最近の発掘調査で、墳長90~95m、後円径約50m・高さ3mほど、前方部約50m・高さ4mほどであることが確認された。











写真は左上から、分かりにくい大畑古墳の全体像で、手前道路を挟んで右側は前方部・左側が後円部の輪郭、本古墳の削り残された前方部の一部、同前方部の近景、本古墳の削り残された後円部の一部及び本古墳の削り取られた後円部北側ビュー。

交野市内で一番新しい前方後円墳で6世紀頃の築造とみられている。

現在副葬品などは住宅の下にあるが、古墳概観は宅地開発ですっかり壊れてしまった状況。

しかし、後円部を取り囲むようにして道が巡っており、前方部突端の「落ち」もハッキリ残っているし、円形に道が造られていて、なんとなく違和感を覚える。

本古墳は、“寺”古墳群にも属し、弥生時代の遺跡検出に伴って発見された。

JRの高架をくぐり“寺”村に入るところに、弥生時代後期の遺物が出土したことから、更に発掘調査を続けた結果、現在の住宅地が、元前方後円墳であることが確認された。


交野市の清水谷古墳とは!

2010年03月26日 | 歴史
清水谷古墳は、交野市東倉治にある横穴式石室を具えた古墳で、東倉治の大阪府警察学校の南・北両脇の道が山裾で交差する辺りに位置している。

本古墳は、標高約70mに所在し、西への眺望が開け東には交野山系がある。

この古墳は、昭和42年、当時この土地の所有者が蜜柑の苗木を植えようとして、地面を50cmほど掘り下げた際、横穴式石室の天井石が偶然見つかり、存在が確認された古墳と云われている。





写真は、清水谷古墳覆屋と本古墳の横穴式石室内部。

本古墳墳丘は9mほど、墳径は12m前後あり、主体部は、南北に長い楕円形の墳丘の中央に、南に開口する横穴式石室が設けられている。叉周濠が確認されている。

現在、横穴式石室の上は、覆屋が造られ石室を保護しているが、この横穴式石室は全長約4.6mあり、「無袖式の横穴式石室」。

この石室からは、9歳未満の小児のものと見られる歯が見つかっている。叉土器・金環なども検出された。

このような石室は、「秦氏」など朝鮮半島南部からの渡来系氏族に見られる構造の石室で、6世紀後葉に郡津・倉治の地に置かれていた、交野地域を統括し、天野川の水運や大和への陸路をも管掌する行政機構にあって、その中核となった秦氏の墓地であったと考えられている。

この山麓地方は、古代の機織業を主とした渡来人の居住地が、南から北へと、はたやま(交野市寺)、はたもの(交野市倉治の山寄り)、はただ(枚方市津田)の3機織業集落が、それぞれ山麓扇状地上に繁栄していたと云う。

それぞれその集落の附近に、横穴式古墳群を築造している。

それは、はたやま集落では竜王山古墳群、はたもの集落では関西電力枚方変電所敷地内の横穴式古墳群であり、はただ集落では清水谷古墳が発見されたのみであるが、附近にも古墳らしきものがあるようで、はただ古墳群中の一部と見られている。

また山麓3集落とも、7世紀の築造と推察されている。



交野市の車塚古墳群とは!そのⅡ

2010年03月24日 | 歴史
交野市の車塚古墳群巡りを続けます。

6基の古墳群のうち、円墳の第3号墳(東車塚南古墳)は、墳丘部は円形だが、周溝部が正方形という珍しい墳形をしているため、「日の丸古墳」と呼ばれた。



写真は、車塚古墳群の一つ、日の丸形の美しい東車塚南古墳出土風景。

東車塚南古墳は、北辺27.5m・南辺26.5m・東辺27.4m・西辺28.8mほどで、その中央に直径22.4mの円墳が設けられている。

















写真は上から、東車塚古墳の第1主体部、同主体部の副葬品出土状況、同主体部から出土した外国製四獣鏡、同日本製盤龍鏡、同襟付三角板革短甲、同鉄剣と鉄刀、同石釧及び東車塚古墳から出土した円筒埴輪と家型埴輪。

交野市ではユニークな古墳時代中期の東車塚前方後方墳には、埋葬設備として、長さが8.1m・幅0.8mほどの、巨大な割竹形木棺があり、その上に箱式木棺2棺が並列しておかれていたと云う。

これらの棺の中から玉製品のほか、写真の通り、青銅製の鏡・筒形銅器・巴形銅器・鉄製の甲冑・剣・刀などの副葬品が見つかった。

これら貴重な資料の検出から、本古墳は平成3年に大阪府の史跡に指定された。

東車塚古墳から見つかった筒形銅器・巴形銅器は、韓国の釜山付近の古墳でも多数出土しているため、被葬者は生前に朝鮮半島東南部と深い関わりを持っていたと思われる。

そのため車塚古墳群は、朝鮮半島および吉備との関わりを持った肩野物部氏の奥津城として最もふさわしいとされている。





交野市の車塚古墳群とは!そのⅠ

2010年03月21日 | 歴史
車塚古墳郡は交野市寺南野、交野山の山麓に立地している、府立交野高校の建設に先立って行なわれた発掘調査で、見つかった6基の古墳群。





写真は、交野高校脇の道路から見上げる交野山と交野山を背景にした府立交野高校の光景。

車塚古墳群は、全長85mほどの前方後円墳から、全長58mほどの前方後方墳までいろいろで、4世紀末から6世紀初頭の約100年間に築造された古墳群。









写真は上から、前川に接する交野高校フェンス内に所在する車塚古墳群、東車塚古墳の前方後方墳を象った墳頂、同後方墳の仕切り状況及び東車塚古墳墳丘。

本古墳は、昭和48年に発掘調査により発見されたが、その場所はJR学研都市線西側の二つの丘上にあり、昔から東の丘を東車塚、西の丘を西車塚と呼んでいたと云う。

昭和63年から翌年にかけて、縁道整備に伴って第二次発掘調査が、東車塚古墳で行われた結果、全長約58m・前方部25m以上・後方部33mほどの前方後方墳で、2段のテラス面が検出され、3段築成であったことが推定された。

2段目のテラスには10cm間隔で円筒埴輪が並べられていた跡があったと云う。

丘の北を流れる前川の南側一帯が、交野高校の建設用地とされたため、全面的に発掘調査が実施された。

その結果、前方後方墳1基、前方後円墳1基、円墳3基、方墳1基の合計6基が発見され、車塚古墳群と名付けられた。

交野市の倉治古墳群とは!そのⅡ

2010年03月19日 | 歴史
倉治古墳群を続けます。
先ずは、珍しい竪穴系横穴式石室から出土した埋葬品を紹介すると、









写真は上から、本古墳群から出土した金環、勾玉、土玉及び切子玉など装身具。

約5ヶ月におよぶ発掘調査の結果、石室内からは被葬者の遺骨や、金環・勾玉・切子玉などの装身具、刀剣、農機具などの鉄製品、瓶・壺などの土器類が副葬品として出土した。

これらの出土品は、関西電力枚方変電所から市に返還されたのを機に、交野市の歴史民俗資料展示室で、一般に公開されている。





写真は、交野市倉治ゆかりの機物神社及び本古墳群から出土した土師器。

交野は、朝鮮半島から渡来人が伝えたと云われる機織が盛んであったと伝えられている。

当地交野が原が、日本における七夕伝説発祥の地とされており、織り姫(天棚機比売:あまのたなばたひめ)を祀る機物神社がその中心であった。紡錘車も見つかっている。

叉交野では、土器作りに良質な粘土が取れたと云われ、窯跡では窯を何回も修理して址が残っていたらしい。土器作りも交野にやってきた渡来人が始めたと考えられている。


交野市の倉治古墳群とは!そのⅠ

2010年03月16日 | 歴史
倉治古墳群は、昭和26年、関西電力枚方変電所建設時に、整地作業で見つかった古墳群。

本古墳群は、竪穴系横穴式石室を持つ直径8m未満の円墳8基で、6世紀中葉から後葉に築造されたと見られる。





写真は、倉治古墳群の案内板とフェンス内の古墳現場。

いずれも直径8mに満たない小規模な円墳で、石室には明確な道がないという特徴があり、「竪穴系横穴式石室」あるいは「玄室・羨道間に段をもつ横口式石室」と呼ばれるもの。

在来の堅穴式石室や石棺系石室の小口部に横ロを取り付けたもので、このタイプの石室は、4世紀末に出現し、少なくとも6世紀前期までは築造されているが、全国的にもその分布は限られていると云う。

横穴式石室は、石室の部屋に何回でも棺を入れることを可能にした。

今から約1,400年前、この付近は、機織りを専業とする渡来系氏族の集落が栄えていたらしい。はたやま(現交野市寺)、はたもの(同市倉治)、はただ(枚方市津田)などと呼ばれていた地域。

これら集落の村長の墳墓として造られた一つが倉治古墳群で、渡来系秦(はた)氏の族長を埋葬した奥津城(柵・囲を持つ神道式墓)だったと考えられている。





写真は、関電枚方変電所内に祀られた、倉治古墳墓と同関電内の石室石材を心字形に配した塚の拡大像。

発掘調査の際に見つかった各古墳の遺骨を集め、その霊を慰めるために、損壊した石室の石材を「心」字形に配置した塚を、当変電所の東側に新しく設けて、これを「古墳墓」として祀っている。

叉毎秋には、土中に眠る霊を慰めるため、古墳祭を挙行しているらしい。

6世紀後葉、郡津・倉治の地に置かれていた交野地域を統括し天野川の水運や大和への陸路をも管掌する行政機構にあって、その中の中核となった秦氏の墓域が、この墓地であったと考えられている。





交野市の妙見山古墳とは!

2010年03月14日 | 歴史
先ずはじめに、妙見山古墳は天野川と妙見川に挟まれた、交野市の南方・星田妙見宮の東方尾根・標高162mの妙見山に所在していた古墳。

今から40年余り前の昭和43年頃この付近は、大々的な宅地造成工事が推し進められていた。

妙見山の東部は削り取られ、当時は標高162mもあった山形が大きく崩され、現在は143.7mの姿に変形したと云う。









写真は上から、妙見山古墳が宅地開発の犠牲となった、妙見山東部地区遠景、妙見東住宅地に囲まれた妙見山古墳現場、住宅地に佇む本古墳及び妙見山を背景にした本古墳の様子。

妙見東地区宅地造成の現場で、四条畷高校生が古墳の存在を見つけたのが、古墳時代前期に築かれた妙見山古墳であったと云う。

宅地造成の土砂採取のため、古墳の北側半分は削り取られため、山頂部分を利用して築かれた古墳の墳形が円墳だったか、それとも前方後円墳だったか判断できなかったという。当時の開発優先の姿が見て取れる。

土砂採取で古墳の墳形そのものがすでに破壊されていただけでなく、埋葬設備もすでに盗掘され完全に破壊されていたと云う。

それでも、工事で掘り下げられた場所を平らにならしてみて、幅4mの墓坑があったことが分かったらしい。

墓坑の底には、約30cm幅で掘り下げた排水溝が築かれ、栗石が一面に敷き詰められていたという。墓坑の縦軸方向に幅約2mの平坦面が穿たれ、そこに木棺と副葬品が埋葬されていたらしい。

妙見山古墳とされる現場は、現在では写真の通り、妙見東中央公園として利用されており、古墳のように一応復元されてはいるが、それらしき説明看板もなく、住民も知らない・知らされていない状況。



写真は、本古墳から出土したヒスイ製勾玉とガラス小玉。

粘土槨から出土した遺物は少なく、ヒスイの勾玉1個・ガラス製小玉6個・管玉15個・鉄鏃3点・刀子3点・ヤリガンナ5点程度だった。

さらに古墳の周囲から円筒埴輪の破片が4点ほど見つかったと云う。

こうした発掘調査の結果、消滅寸前だった古墳は、粘土槨を備えた古墳時代前期の古墳だったことが判明した。

妙見東住宅地は展望抜群の所に位置していることから、妙見山古墳の被葬者として肩野物部氏の関係者が想定される。




交野市の古墳群とは!

2010年03月12日 | 歴史
生駒山系の北の端に竜王山、交野山、津田山の三山が連なっている。その中心をなす交野山(こうのさん)は、交野市のシンボルとされ、交野山の西側は、山麓から淀川、天野川の流域にかけて次第に低くなる、台地が広がっている。

古代には、その台地に2系統の古墳が築かれてきた。





写真は、交野市シンボルの交野山遠望及び京阪交野線に並行して流れる天野川。

2系統の古墳のうち、一つは天野川流域の低湿地の周辺に、村落を営んだ農耕氏族が築いてきた4世紀型の古墳。

この地域は、北河内でも前期古墳が多く分布している。上流から交野市の森古墳群、妙見山古墳のほか、枚方市の藤田山(とうだやま)古墳(既に消滅)、禁野車塚古墳、万年寺古墳などがある。

もう一つは、稲作に適さない山麓地帯に分布して、養蚕や機織技術をもった渡来系氏族が、6世紀から7世紀後期にかけて築いた古墳で、倉治丸山古墳(4世紀型古墳)、倉治関電変電所付近の群集墳(横穴式古墳)、清水谷古墳(7世紀型古墳)、寺村群集墳(片袖式小型墳)などが知られている。

天野川流域に点在する古墳は、肩野(かたの)物部氏に関わる人物たちの奥津城だった可能性が高い。

交野市私市の哮峯(いかるがのみね)は、物部氏の始祖とされる“ニヒハヤヒノミコト”が、肩野物部氏など一群を引き連れて天降った場所とされている。

物部氏の遠い祖先は、西からやってきて大阪湾から当時の河内湖にはいり、さらに淀川からその支流の天野川をさかのぼって大和に入ったと見られる。

その際に、天野川流域に住み着いたのが物部の一氏族が“肩野物部”と呼ばれたと見られる。

天野川付近に築かれ続けた古墳は、587年に物部本宗家が滅亡した後は築かれなくなり、物部氏勢力の消長と古墳の築造は大いに関係があったと推察できる。

以下、交野市2系統の古墳を巡ってみたい。


寝屋川市の太秦高塚古墳とは!そのⅡ

2010年03月10日 | 歴史
寝屋川市の太秦高塚古墳巡りを続けます。







写真は、本古墳北西部から出土した円筒埴輪列、復元されたテラス上の埴輪列及び復元された周濠跡。

1段目の平坦部・テラスには、円筒埴輪列が巡っていることが確認され、また、古墳の周りには、幅約7.5m・深さ2mほどの濠が残っていたと云う。









写真は、本古墳造り出し部の出土状況、造り出し部から検出しつつある水鳥埴輪、本古墳墳頂から見下ろす、復元造り出し部及び本古墳の埴輪に囲まれた、復元造り出し部。

本古墳北西側には、祀りを行なってとされる、造り出し部の区画が墳丘に付いていることが分かり、ここから人物・水鳥・鶏・家・盾・衣蓋などの形をした埴輪や土器が集中して見つかったと云う。

本古墳からは、葺石となるような石は出土しておらず、斜面の部分には葺石が施されていなかったと見られる。

本古墳の頂上は盛土が流出して、大きく変化していたが、東側で主体部の一部が残っており、南側より短甲・鉄鏃・鉄斧・鐙(あぶみ:馬具で足をかける道具)などの副葬品がまとまって出土したらしい。

本古墳墳頂部の大きさから西側にも主体部があったと見られている。

出土した埴輪や土器などから、古墳時代中期後半の5世紀後半に造られたと考えられている。

平成13年度に市制施行50周年記念事業として復元整備を行い、発掘調査の成果をもとに、本古墳の築造当時の状態に復元し、一段目には復元した埴輪を並べている。

平成14年4月に「太秦高塚古墳公園」として開園した。




寝屋川市の太秦高塚古墳とは!そのⅠ

2010年03月08日 | 歴史
太秦高塚古墳は、太秦高塚町に所在し、秦・太秦の丘陵上に所在する太秦古墳群で、唯一現存する古墳。

弥生時代には、太秦の丘陵上には高地性集落の太秦遺跡が存在していた。次の古墳時代には、太秦から秦の地域にかけては小古墳で構成された太秦古墳群が形成されていたが、ほとんどは開墾や宅地造成、浄水場建設のため消滅してしまった。

太秦の秦氏は、朝鮮半島の新羅からの渡来民で、農耕・土木・養蚕・機織りなどの技術を伝え、淀川沿いに京都市右京区から寝屋川市・交野市にかけて、新しい文化をもたらし、秦氏ゆかりの古墳や遺跡が伝えられている。





写真は、太秦高塚古墳墳頂から浄水場越しに覗く生駒山系山並及び浄水場ビルを見上げる本古墳墳頂石室の跡。

本古墳周辺は、生駒山地から派生した標高40~50mの丘陵が延びており、付近には「塚」などの地名や発掘調査によって多数の古墳が存在したことが分かり、“太秦古墳群”と呼ばれている。

太秦の丘の頂上付近にあることから、太秦古墳群の盟主墳と推察されている。

またこの古墳には二つの伝承があり、一つは「スクネの墓」と伝えられ「野見宿禰の墓」といわれて、もう一つは神武天皇の東征軍将軍のひとりの墓であるというものですが、真偽のほどは不明。

「野見宿禰の墓」は、他にも高槻市にある上宮天満宮の境内社の「野身神社」が鎮座する古墳も「野見宿禰の墓」と伝えられており、全国的も同じような箇所が何カ所もあるらしいが、野見宿禰そのものが伝説上の人物であることからも、伝承の域を出ない。





写真は、太秦公園内に復元された、太秦高塚古墳の全体像及び墳頂への登り口階段。

本古墳は、平成9年に市指定史跡第1号に指定されたが、平成13年の発掘調査によって、古墳の形状や保存状況が分かった。

すなわち、本古墳の全長39m・円丘部の直径37m・高さ7mほどの円墳で、2段に築かれている。






寝屋川市の寝屋古墳とは!

2010年03月06日 | 歴史
寝屋古墳は、大阪府営寝屋川公園内にある、横穴式石室をもつ古墳。

打上川右岸の南東に傾斜する斜面に立地し、南向きに開口する横穴式石室を主体部としている。

本古墳は平成3年と4年の公園整備に伴って行われた発掘調査で見つかった、直径約22m・高さ約5mの円墳で、幅約3mの浅い濠が古墳の周りを巡っていることがわかった。平成5年には大阪府の史跡指定を受けている。









写真は上から、寝屋古墳墳頂への登り口階段、本古墳の案内板、本古墳脇から覗く生駒山系山並及び本古墳北側から望む、円墳の全景。

寝屋川公園内の北側、JR学研都市線沿いに立地している。

墳頂部はかなりの土砂流出が見られ、南側の墳丘裾部は逆に人為的な土砂の堆積で埋没しているらしい。墳丘上で埴輪や葺石は確認されていない。







写真は上から、本古墳石室羨道の土砂流失、落込み状態、大量の土砂が流入して、石室の高さが圧迫された当石室内部の巨石石組状況及び石室屋根の巨石積。

本古墳主体部は巨石を使用した横穴式石室で、現状長さ5.5m・奥壁幅2.5mほどの規模があり、間口の広い横穴石室を直接見ることができるが、幅広い石室を造るには、高度の造成技術が必要らしく、考古学的価値の大きい古墳らしい。

確認調査ではこの石室の前面に、写真の通り、羨道または墓道になる落ち込みが見つかっており、残っているのが玄室部分で、羨道部分は破壊されていることが分かったと云う。

以上のことから横穴式石室を復元すると、羨道部分を含めて、全長10m前後と推定され、全長10mを超える横穴式石室は府内でも数少なく、北河内では最大規模。

石室奥壁部分の現在の高さは約1.5mだが、石室内に大量の土砂が流入していることから、本来の床面からの高さは2m以上あったと推測される。

石室の屋根石や三方の壁石も、大きな自然石を積んで造られている。

しかし主体部の発掘調査が行われておらず、副葬品などが不明のため、古墳の時期や被葬者の性格などについては不明。

巨石を利用した横穴式石室の構造から、6世紀末から7世紀初めに築造されたと考えられるが、巨大な横穴式石室をもつ本古墳の被葬者は、広範な地域を治めた有力な豪族と推測されている。



枚方市の万年寺山古墳とは!

2010年03月03日 | 歴史
万年寺山古墳は、標高37.7mの丘陵先端部、眼下に淀川を望む河川交通要衝の地に築造された古墳。

京阪電車の枚方市駅から南西方向に直線距離で700mほどの所に、標高38m足らずの丘陵があるが、淀川に沿って細長くのびる、旧枚方の町並みを東西に分けるように、こんもりと緑に包まれた万年寺山と呼ばれる。











写真は、日本書紀にも記述がある万年寺山遠景と近景、万年寺山の中腹にある樹齢700年ほどの天然記念物ムクノキ、万年寺山古墳が所在する意賀美神社境内及び当神社内一帯に広がる本古墳の墳丘光景。

式内意賀美神社は、淀川の鎮守として、通航安全と水害排除の祈願のため、創建されたと伝えられている。

本古墳は、枚方市上之町に所在する前方後円墳で、墳丘長約100m・後円部径約68m・前方部長さ約34m・高さ約6mで、築造時期は4世紀中頃。

明治37年、枚方小学校の運動場拡張工事の最中に、丘陵の先端部で古墳が見つかったが、すでに全壊されていた。埴輪や葺石は碓認されていない。

この古墳の主体部は粘土槨で、埋葬施設は割竹形木棺だったと見られ、長さ3m以上・幅0.3m以上の棺の断片が採取されている。

叉この古墳からは8面の青銅鏡や鉄刀などが出土したが、青銅鏡8面のうち6面は、三角縁神獣鏡だったと云う。

これらの出土品から、古墳の築造時期は、4世紀中頃と推定されている。

8枚の青銅鏡と共に埋葬された被葬者がどのような人物だったのだろうか?

淀川に臨む交通の要衝の丘陵上に、己の奥津城を築かせたからには、水上交通と軍事的要所を支配する有力な豪族だったことは間違いないと云える。