近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

東京都多摩市の稲荷塚古墳とは!そのⅠ

2012年04月30日 | 歴史
稲荷塚古墳は、東京都多摩市百草にある、古墳時代後期の古墳。

本古墳は、昭和27年に発掘調査が行われ、当時、石室の天井石は露出していたが、墳丘や石室が残っている事や石室が“胴張複室構造”である事が判明したため、翌28年に東京都指定文化財となった。

明治初年、石室が盗掘され、天井石がほとんど取り去られ、遺物なども持ち去られたと伝えられている。









写真は上から、稲荷塚古墳全景、同古墳現場2点及び同古墳公園サイドよりのビュー。

当初、本古墳の形は円墳とされていたが、昭和55年~65年に発掘調査が行われた結果、東日本では初の八角墳であることが判明。

しかし地上からは八角形古墳の形や大きさを知ることができない。

墳丘上に鎮座する恋路稲荷神社の社殿建立の際に墳丘上部を削り取ったことにより、石室が露出したと伝えられている。

本古墳の全長は約38mで周囲には幅2mほどの周溝があり、周溝内側に沿って幅6mほどで巡るテラス状の1段目と、人工的に盛り土して造られた2段目から成る。現在地上から目にすることができるのは、径22mほどの墳丘2段目。

本来の墳丘の全長は約34m・高さは約4mで2段構造になっており、東京都内の7世紀古墳としては、最大級のもの。

古墳時代後期7世紀頃の八角墳は、大化の改新で有名な京都山科の天智天皇陵・御廟野古墳が有名らしい。

八角墳は15例ほどしかないが、稲荷塚古墳は、関西の八角形天皇陵よりも古い。


東京都港区の芝丸山古墳とは!

2012年04月27日 | 歴史
これからは、関東地方の古墳巡りを始めますが、ヤマト王朝とのかかわりあいに注目してください。

先ずは東京都内に照準を合わせます、港区の芝丸山古墳に当たる。

芝丸山古墳は東京都港区芝公園内にある古墳で、築造は5世紀中頃過ぎとみられ、墳丘長約125m・前方部前端幅約40m・後円部直径約64m・くびれ部幅約22mの前方後円墳で、1979年3月に都史跡「芝丸山古墳」として登録された。







写真は上から、芝公園内の芝丸山古墳正面、古墳巡りの散策道及び現在の古墳頂の平坦広場。

主体部の埋葬施設は失われており、遺体・副葬品などは不明。



写真は、本古墳の全景。

芝公園内の小丘陵上に築かれている。自然の丘陵・台地の先端部を利用して築かれ、向かって左側が前方部、右が後円部。

くびれ部に円山稲荷があり、丘陵の東斜面には丸山貝塚がある。

5世紀当時、付近低地の水田地帯に生産基盤を持ち、南北の交通要衝を抑えていた、南武蔵地区の首長の墳墓と考えられている。

都内には、100m級の前方後円墳が少なくとも3基あったらしく、一般的な見方に従えば、これらの前方後円墳は中央政権の権威とつながりを持った、有力首長クラスの墳墓ということになるが・・・・・。



写真は、芝公園内の小丘陵上に所在する、増上寺内の徳川家霊廟。

増上寺西域の台地は、武蔵野台地の先端部のため、海に近いほど低まっているが、本霊廟に隣接する丸山古墳群あたりは、元々の標高が16mくらいであったと云う。

本古墳は、徳川家霊廟を造成する過程で、幸運にも消滅を免れたらしい。

西側に残っていた台地を削平された丸山古墳の乗っている丘陵は、東側を除いた裾をコンクリートで固めた、芝公園の一部と云う。





墓制の変遷と古墳時代の墓制について

2012年04月25日 | 歴史
関東地方の古墳巡りに先立って、墓制の変遷と古墳時代の墓制について辿ってみたい。

縄文時代は、住居のそばに埋葬することが一般的であり、共同墓地としてはストーンサークルが知られるが、弥生時代になると集落の近隣に共同墓地を営むことが一般的となった。

また、縄文期には地面に穴を掘り遺体を埋葬する土壙墓が中心だったが、弥生期は甕棺・石棺・木棺など埋葬用の棺の使用が中心となっていく。





写真は埼玉県松山市丹反町から出土した弥生時代の方形周溝墓及び福岡前原市三雲の南小路遺跡出土の甕棺。

弥生期の墓制は、地域ごと、時期ごとに墓の形態が大きく異なる点に特徴があった。社会階層の分化に伴い、階層による墓制の差異も生じた。

以上のように墓の形態によって分類することもできるが、以下のようにも考えることができる。

それは、弥生時代の墓制は大きく三つの段階に分けられる。第一段階は集団墓・共同墓地であり、第二段階は集団墓の中に不均等が出てくるという段階であり、第三の段階は集団内の特定の人物あるいは特定なグループの墓地あるいは墓域が区画されるという段階である。その場合、墓域は普通、方形に区画されることが行われる。

所謂方形周溝墓は弥生~古墳時代にかけてのポピュラーな墓。

弥生時代前期、近畿地方で木棺埋葬地の周囲を一辺6~25mほどの方形に区画するように幅1~2mの溝を掘り、さらに土盛りして墳丘を築くもの。近畿地方からはじまり、東北地方南部から九州まで各地に広がった。

畿内における弥生時代の方形周溝墓は原則的に1基に集団で埋葬する型で、それ以外の地方ではほとんどが1基に単独埋葬する型で畿内と好対照。

とにかくいろんなところにたくさんある墓!というイメージ。

古墳は地方の権力者レベルの墓と云えるが、方形周溝墓に埋葬される人々は最下層ではないにしても、古墳をつくるほどの高い地位にまで入っていないと云える。

日本の墓制史のうえで、7・8世紀は、もっとも大きな転換期で、6世紀末に前方後円墳が消滅し、円墳や方墳が主となるとともに大規模な墳丘は造られなくなる。そして、7世紀になると古墳は、急速に終末を迎える。

約400年にわたって盛んに築造された古墳は、なぜ姿を消すのでしょうか

そして巨大な古墳にとってかわる「墓」とはどのようなものなのでしょうか

紀元3~7世紀頃には、権力者の墓・古墳が出来たが、一般人は路傍に捨てられたり、河川等に造られた墓もあったと云う。

そして仏教文化が輸入され、奈良時代以降、火葬するものもあった。

古墳時代以降天皇制が布かれてからは、一般庶民は風葬・鳥葬が一般的だったらしい。

土葬ならまだ良い方で、インドでも日本でも、昔は、貧しい一般庶民は、遺体を野原や死体捨て場のようなところに捨てて、獣が食べるにまかせていたと云う。

一般人の埋葬については、魏志倭人伝に「その死するや棺有れども槨(木の囲い)無く、土を封じてツカを作る。始めて死するや、停喪(喪に服す)すること十余日なり。時に当たりて肉を食わず。喪主哭泣し、他人就いて歌舞し飲酒す。已に葬るや、家をあげて水中にいたりてソウ浴し、以て練沐の如くす。」と書かれている。(死ぬと棺に納めるが、槨(棺を覆う施設)は作らず、土を盛り上げて塚をつくる。死んだとき、さしあたって十余日は喪に服し、その間は肉を食べず、喪主は声をあげて泣き、他人はその周りで歌舞・飲食する。埋葬すると、一家をあげて、水中でみそぎをし、中国で一周忌に練絹(ネリギヌ)を着て沐浴するのとおなじようにする。)

今でも田舎に行けば、葬式には三日間は飲み食い自由というところがある。

一昔前まではそれが当たり前だった。こういう習慣は、廃れず続くものだと感心させられる。

関東地方の古墳巡りに先立って~関東地方の古墳時代とは!

2012年04月22日 | 歴史
関東地方の古墳巡りに先だって、関東地方の古墳時代を考えてみたい。

西関東の古墳は、群馬県南部から埼玉県、東京都、神奈川県にかけて分布し、密度が非常に高く、毛野(けぬ国は現在の栃木県・群馬県)、埼玉、武相(東京都の西北部に位置する町田市と、禅奈川県中央部に位置する相模原市、大和市、座間市、綾瀬市、海老名市、厚木市の7市)の古墳群として知られている。

しかし古墳がほとんど分布しないか、きわめて少ない平地が広く存在する。例えば、渡良瀬川の隆起扇状地、武蔵野台地、大宮台地等の中心部には、古墳はほとんど存在しない。

これらの台地には、水がないため水田が造れないばかりでなく、生活に必要な水もえられないためである。

また古利根川、中川沿いは著しい湖沼・沼沢地帯で、当時まだ水田開発の対象になりえなかったのであろう。

西関東の古墳分布は、地質地形と密接な関係をもち、武相の古墳群を除き、平野の開発を中心とする古墳文化である点で東関東と著しく異なっている。

関東地方で最大の古墳分布は群馬県である。少し古い資料であるが、昭和10年の調査によると、群馬県の古墳は8,423基に及んでいる。いわゆる毛野の古墳密集地帯で、なかでも太田市周辺、伊勢崎市北部、前橋市東南部、高崎市東南部、藤岡市西部の古墳群がよく知られている。

当時関東のもっとも有力な首長が大和政権と結んで、これらの地域で権勢をふるったのであろう。

大和政権が東北日本の攻略をすすめるための一つの進路が東山道であったとされる。

美濃路から神坂(みさか)峠を越えて伊那盆地にはいり、天竜川に沿って北上、塩尻峠から松本盆地を経て保福寺峠を越え、小県(ちいさがた)、佐久から碓氷峠を経て上野(上毛野:こうづけ)に至る進路である。

きびしい山坂を越えて、関東平野の西北隅にたどりついた西方文化の担い手たちは、上野の野から関東を見下ろしながら、大和文化をここに移植したと考えられている。


関東地方の古墳巡りに先立って!

2012年04月19日 | 歴史
ここからしばらくは、関西地方の古墳巡りから離れて、関東地方の古墳巡りにご案内する。

関東地方の古墳群は、群馬県南部から埼玉県、東京都、神奈川県にかけて広く分布し、且つ密度が非常に高い。

しかし一方で古墳がほとんど分布しないか、きわめて少ない平地も広く存在する。例えば、武蔵野台地、大宮台地等の中心部には、古墳はほとんど存在しない。これらの台地には、水がないため水田が造れないばかりでなく、生活に必要な水もえられないためと見られる。

叉古利根川や中川沿いは著しい湖沼、沼沢地帯で、当時まだ水田開発の対象になりえなかったため、集落地として適さなかったと見られる。

ということで、関東の古墳分布の有無は、地質地形と密接な関係をもつ。

ここでは、関東地方の中でも、常陸国(現在の茨城県)と武蔵国(埼玉県・東京都・川崎市・横浜市東部)の古墳群について、特にヤマト中央王権との繋がり・関係を中心に巡ってみたい。

はじめに、古墳時代の成立・東征過程について、考えてみたい。

日本は弥生時代に、大陸や朝鮮半島からわたってきた稲作や鉄製・青銅製の武器や鏡などをつくる金属工芸の技術などによって、大きく発達した。

しかしその技術移転のため、経済や文化の面で優位に立つための戦いも、起こるようになった。

3世紀中頃から4世紀初頭にかけて、こうした地域的な戦いを統合してゆく過程を経てヤマト朝廷が成立し、古代国家への段階的な発展が始まった。すなわち古墳時代の始まりであった。

初期農耕社会として弥生時代共同体の特色は、「稲作」という生産手段を共通する経済による結びつきであったが、ヤマト王朝成立以降は、国家が武力による中央集権的な支配を背景とした、生産物を独占的に徴収する体制となった。この象徴が、各地につくられた前方後円墳などの古墳。

ヤマトタケルの父、第12代・景行天皇(71~130年)は各地に自ら征討軍を率いて乗り込んだ記述が、記紀・九州の風土記・播磨風土記・常陸風土記などにもその足跡を刻んでいる。

そして古墳時代と呼ばれる3世紀中頃から7世紀にかけての日本は、国家が成立してゆく過程にあたるが、古事記にあらわれる“ヤマトタケル”は、「熊襲タケル(九州の勇者)」、「出雲タケル(出雲の勇者)」などと、同じ「大和の勇者」の名をもった神話のなかの英雄たち。

ヤマトタケル時代には、ヤマト政権の東国伸張にしたがって東へ東へと、勢力圏は推移して行ったと考えられる。

この神話は、ちょうど国家的な中央集権的な支配を成立させたばかりの畿内の政治勢力が、全国に進出し、武力によって地方を征圧しようとする場面を描いている。

ヤマトタケルたちの古墳は、ヤマト王朝の付託の象徴として、金銅装の武器・武具などの副葬品を伴い、或いは風光明媚な山上・河川や海岸線沿いなどにヤマトタケルたちの姿を見ることができると云う。







それら古墳の代表例として、写真上より、京都府綾部市の私市円山古墳、福井県敦賀市の向井出山1号墳、大阪府岬町の鴻の巣山古墳から望む大阪湾。

これらは、地域有力者の墳墓で、圧倒的な勢力を象徴している。

墳丘規模・形態では地方豪族に抑えられていても、ヤマトタケルたちの埋葬遺物では、鉄製甲冑・刀剣・鉄鏃など圧倒的権威を象徴している古墳も見られる。

地方のユニークな古墳群からも分かるように、ヤマト王権に結びついた地方豪族或いはヤマト王権の付託を受けたヤマトタケルたちが、地域的な首長連合を形成し、南武蔵・霞ヶ浦沿岸など各地に出現したことを裏付けている。

墳丘・墳長の規模では、地方豪族に従属的な形であっても、副葬された遺物に金銅装の武器・武具・帯金具などにより、圧倒的な格差をつけることで、中央の権威を象徴しているケースも見られる。

ヤマト王朝の付託の象徴として、金銅装の武器・武具などの副葬品を伴い、或いは風光明媚な山上・河川や海岸線沿いなどにヤマトタケルたちの姿を見ることができる。

ヤマト王権の付託を受けた、関東のヤマトタケルたちは、やがて東北蝦夷征伐の足がかりとする。


神戸市舞子の五色塚古墳とは!そのⅡ

2012年04月12日 | 歴史
神戸市舞子の五色塚古墳の最新情報を、今回もお届けします。

五色塚古墳のみならず、周囲およそ16km以内に所在する、小壷古墳・歌敷山古墳・舞子浜遺跡・幣塚古墳・念仏山古墳などが、同一規格の埴輪であることからも、本古墳被葬者の影響力や古墳造営者との深い関わりあいが想像される。







写真は上から、五色塚古墳の平地から望む3段墳丘、本古墳前方部から望む後円部光景及び本古墳段丘に残されたオリジナル葺石。

五色塚古墳は3段丘の築造で、埴輪も3重に配置され、10年かけて原形通り復元された。平地から墳頂を望んだところ、芝の下には葺石が隠れている。

膨大な量の葺石は、古墳築造当時、古墳中段と上段の葺石とも、潮流の早い明石海峡を船で運搬したことが日本書記にも記されているが、調査結果からも立証されたと云う。どれほどの期間を要したのか想像すらできないと云われる。

五色塚古墳の西隣横に、芝生の丘が円墳の小壷古墳があるが、双方とも古墳時代前期(4世紀末~5世紀始)の築造とされている。



写真奥の円墳が小壷古墳。

小壷古墳は、巨大な五色塚から比較すれば陪冢らしい。

五色塚古墳の周濠は、後円部に沿って、幅3~5m以上・深さ0.5m以上の存在が確認されているが、周濠は小壷古墳付近で大きく北方へ屈曲し、小壷古墳周濠に接続していると云う。

埴輪生産は五色塚古墳を契機に行なわれ、小壷古墳にも供給されていることから、両古墳は同時期に築造されたと考えられている。

明石大橋が、遺跡群の直ぐ海側に開通し、大歳山遺跡・五色塚古墳も観光名所として見直され、活況を呈している様子が窺え、先人の賢明な識眼に敬意を表したい心境である。

本古墳築造年代である4世紀第4半期は、ちょうど鉄の大量需要時代前夜であり、朝鮮半島との対外交渉の重要な時に当たる。

鉄資源を渇望する畿内のヤマト政権に対し、水運の交通路を握る地勢は、この古墳を造った集団にとって格好の立場を与えたと思われる。

この立地は、明石海峡を意識したものであり、海陸交通の要衝として西方から畿内への入口で、畿内ヤマトへの関所として築造されたと云える。

この地域で200mに迫る規模を有する前方後円墳は、後先にない。

叉16km以内の同時期の古墳群に配置された埴輪は、五色塚古墳築造を契機として、同一規格で製作され、更に葺石は淡路島東海岸産であり、墳丘各所から出土した結晶片岩は、吉野川流域産と見られるなど、広域にわたる影響力からも、被葬者のパワーが窺い知れる。

畿内ヤマト政権の入口を管轄する人物で、これら周辺古墳群の被葬者を配下に持つ在地豪族か、或いはヤマトから派遣された人物か、興味深い。








神戸市舞子の五色塚古墳とは!そのⅠ

2012年04月12日 | 歴史
神戸市舞子の五色塚古墳の最新情報をお届けします。

大歳山遺跡・五色塚古墳は、平成10年開通した明石大橋と淡路島を望む、風光明媚な場所に所在しているが、旧石器時代・縄文前期~後期・弥生前期から後期・古墳時代にまでずっと生活拠点として或いは墓域として活用し、先人はこのような絶好な場所を見逃さなかったと云える。

本遺跡・古墳は、須磨から明石にかけて海岸線がもっとも突出した台地突端に築かれ、瀬戸内海が極端に狭くなった最重要地点にある。

本古墳は、地域の人々にとっては守るべきものとして長年取り扱われてきたが、戦後の食糧難によって墳丘が開墾され、畑として利用されたことが荒廃に拍車をかけたため、昭和37年から地元住民が中心となり、保存整備を求めた。

昭和40年から本格的な発掘調査が実施された結果、墳丘が良好に遺存していることが判明し、叉葺石や埴輪が大量に発見された。



写真は、明石大橋と淡路島が一望にふせる、本遺跡・古墳現場。

明石原人の化石発見で有名な“直良”博士が縄文時代前期の土器を発見した大歳山遺跡は、旧石器・縄文・弥生・古墳と各時代にわたる複合遺跡であることが判明。

大歳山遺跡は、2万年前の旧石器や、弥生時代前期から後期にも集落があったことが確認され、古墳時代には円墳や前方後円墳が築造されていたことが判明、各時代にわたる複合遺跡であった。





写真は、五色塚古墳から望む明石大橋と淡路島先端及び本古墳の広大な墳頂光景。

五色塚古墳は、全長約194m、高さ18mほどの県下最大の前方後円墳で、4世紀末から5世紀初めにかけてのモノ、埴輪2,200個・葺石223万個等を検出したが、原形通り復元されたという。

埴輪大多数の突帯間隔が17.5cm前後であることから、埴輪製作にかかわった工人集団に、徹底した規格があったと考えられる。





馬見古墳群の被葬者とは?

2012年04月09日 | 歴史
関西地方の代表的古墳の話題を提供します。

馬見古墳群の域内にある宮山古墳の被葬者は、第12代景行天皇(在位:71~130年)から第16代仁徳天皇(在位:313~399年)まで5朝に仕え、偉功があった「武内宿禰」そして川合大塚山古墳は新羅遠征で活躍した武内宿禰の子「葛城襲津彦」と推定されている。

古墳の位置は南北の両端になるが、古墳の規模や年代などを総合的に考えると可能性はあると思われる。

五條駅から五條バスセンター行のバスに乗り、宮戸橋バス停で下車すると左手約300m小山のような森が見えるのが「宮山古墳」で、室の大墓ともいわれている。







写真は、御所市の宮山古墳全景、竪穴式石室入口及び奈良県広陵町の田園と化した川合大塚山古墳前方部光景。

宮山古墳は、全長約240mで墳丘が三段築造の巨大な前方後円墳であり、全国第17位にランキングされている5世紀中期(造り出し付)の古墳。

埋葬構造は竪穴式石室で凝灰岩(竜山石)組合式長持ち石棺を墓壙にすえた後、石棺の側壁の中程まで土を埋め、その上に緑泥片岩の割石を小口積みにして石室を構築している。

讃岐神社が将に葛城氏の奥津城である馬見古墳群の中心にあり、讃岐神社は馬見古墳群最大の巣山古墳の傍らに位置する。





写真は、巣山古墳周濠の修復工事現場及び馬見丘陵公園の光景。

讃岐神社の祭神であり、巣山古墳の被葬者が“讃”と呼ばれた葛城氏の王であるという仮説を裏付ける。

馬見古墳群は、奈良県北葛城郡河合町、広陵町から大和高田市にかけて広がる馬見丘陵とその周辺に築かれ、北群、中群、南群の三群からなる県下でも有数の古墳群。4世紀末から6世紀にかけて造営されたと見られる。

古代豪族・葛城氏の墓域とみる説がある。この葛城地域には、古墳時代前期の中頃から有力な古墳の造営が始まり、前期中葉から中期には、墳丘長200mを超える規模の古墳が造営されている。

倭王讃を第15代応神天皇(在位:270~310年)とし、倭王武を第21代雄略天皇とすると、倭の5王についての闇は消えていく。

5世紀の舞台は、照明のなかにあり、主人公である5王たちの動きは、観客の眼の前にある。

そして、倭王讃を応神天皇とするとき、その母の神功皇后(170~269年)の名によって伝えられる日本の新羅進出は、西暦400年前後の史実にもとづく可能性があらわれてくる。

400年前後の日本の新羅進出については、朝鮮の歴史書『三国史記』『三国遺事』も明記し、高句麗の広開土王の碑文も、また、記している。

『古事記』『日本書紀』『風土記』など、日本の歴史書の記載と、中国、朝鮮の歴史書の記載とが、個々の事件においても、全体的な状況においても、年代論的に一致を見る。




古代の神聖な色「赤」とは!

2012年04月06日 | 歴史
関西地方の古墳をはじめ、史跡トピックスを続けます。

赤い色は神聖な色として、旧石器時代・縄文時代から土器や木製品の表面に塗られたり、人を墓に埋葬するときに上から振りかけたりして使われてきた。

これらの赤色顔料にはベンガラと辰砂(水銀朱)の二種類があり、鉛丹(えんたん)は奈良時代になるまで使われなかった。

西日本では弥生時代の終わり頃から、赤色の顔料として辰砂が多く使われるようになり、古墳時代はじめには、辰砂が古墳の石室に多く振りまかれるようになった。





写真は、天理市の大和天神山古墳発掘当初の朱塗りされた石室内部光景と出土した銅鏡及び水銀朱塗りされた木櫃。

大和天神山古墳の竪穴式石室の中には41kgの辰砂が使われていたと云う。古墳の石室には人骨が残ることが少ないので、赤く染まった人骨は甕棺などから出土した弥生時代のものが多く知られているが、徳島市の鶴島山2号墳からは辰砂で顔面が朱に染まった人骨が出土した。

辰砂の採掘は縄文時代から行われており、なかでも伊勢水銀として古くから知られている三重県勢和(せいわ)村丹生(にう)付近では、縄文時代後期の度会(わたらい)町森添(もりぞえ)、嬉野町天白(てんぱく)の両遺跡から、辰砂の付着した石皿・磨石や朱容器と考えられる土器が数多く出土しており、このころから辰砂の精製が行われていたことがわかる。

徳島市国府町の矢野遺跡においても縄文時代後期から辰砂の精製が行われていたらしい。

弥生時代以降の辰砂の採掘では徳島県阿南市の若杉山遺跡が有名で、弥生時代終末期~古墳時代初頭の一大産地であったと思われる。

弥生・古墳時代の辰砂を精製するための石臼・石杵は、採掘遺跡、住居跡、古墳から発見されている。

辰砂採掘の遺跡がなかなか発見されず、最初は古墳の副葬品としての石臼・石杵が注目されていた。

武器用鉄器の多量埋納古墳の実例!そのⅣ

2012年04月01日 | 歴史
武器用鉄器の多量埋納古墳の実例について、更に続けます。

黒姫山古墳以外にも大阪藤井寺市にある古市古墳群の中小古墳で、鉄器埋納施設を持った古墳の発掘調査結果を以下紹介する。

アリ山古墳では、鉄器埋納施設が3層に分かれ、上層に鉄鏃1,542本、中層に剣が85本のほか槍や鉾など、下層には農耕具などが置かれていた。

墓山古墳では、東西二列の鉄器埋納施設のうち、東列施設には刀剣・槍・鉾・鉄鏃などの武器が179本、西列施設には鉄剣や農工具が多量に検出されている。

野中古墳では、見つかった5列のうち、第1列は短甲・冑・刀剣、第2列は短甲・冑・鉄鏃・刀子・ヤリガンナなど、第4列からは250点以上の鉄鋌、第5列からは錐・ヤリガンナ・鎌・鋤・鍬先などの農耕具が多量に見つかっている。

更に堺市の百舌鳥古墳群に一角にある七観古墳では、3基の粘土槨から短甲・冑・馬具のほか、刀剣180本・鉄鏃100本・斧やヤリガンナなどが出土した。

いずれも5世紀前葉から後葉にかけての古墳で、埋納された武器や甲冑は個人に使用する量を遥かに超えている。

百舌鳥・古市古墳群の地理的圏外ではあるが、京都長岡京市の恵解山古墳についても、墳丘が百舌鳥古墳群の大仙古墳と同規格で、前方部鉄器埋納施設の存在と合わせて、大王権力に連なる古墳との共通性が指摘されている。

長岡京市は、古くから東海・滋賀地方と畿内を結ぶ交通の要所として、縄文・弥生遺跡をはじめ多くの古墳が点在している。

最も古い古墳としては、4世紀後半の前方後円墳である、長法寺南原古墳をはじめ、5世紀前半の今里車塚古墳は全長約75mの前方後円墳であり、又乙訓(おとくに)地方(現在の向日市と長岡京市)最大の前方後円墳である、5世紀中頃の恵解山古墳等が点在している。

これらの他にも井ノ内車塚古墳・稲荷塚古墳・長法寺七ツ塚古墳群等、6世紀豪族の墓と見られる古墳群が見つかっている。ここでは、中でも代表的な恵解山古墳を紹介する。



写真は、恵解山古墳現場。

この古墳は5世紀中頃に築造されたもので、全長約120m・前方部の幅約76m・高さ約6.5m・後円部の径約60m・高さ約8m。幅約55mで濠を加えると全長約180mの前方後円墳。

3段に築かれた古墳で、国史跡に指定されている。





写真は、当古墳から出土した鉄刀・鉄剣など鉄製武器類。

昭和55年の発掘調査では、鉄鏃472点、鉄刀146点、短剣52点など、前方部から700点にのぼる鉄製武器類が発見され、全国的に注目されたらしい。

これまで前方部の鉄器埋納施設より出土した総数920点以上の鉄器は、刀剣340本・鉄鋌570本・鉄鏃570本・ヤス状鉄製品・蕨手刀子などから成っている。

この古墳に葬られた人は乙訓地域を支配した首長であったと見られている。

これらの古墳は史跡散策コースとして、現在も近郊市民に親しまれていると云う。

恵解山古墳は、大阪府堺市大仙町に存在する、全長約486mの日本最大の前方後円墳である大仙古墳・仁徳天皇陵と同一企画でデザインされている。

即ち恵解山古墳は、大仙古墳の縮小版と云うことになるが、鉄器文化のつながりがあると見られる。

前方部鉄器埋納施設の存在と合わせて、河内王朝権力に連なる古墳と共通性から密接な関係が推測される。

このように武器用鉄器埋納は、被葬者のステータスシンボルであるとともに、百舌鳥・古市古墳群全体の威厳をデモンストレーションするもので、現在の河内平野と大阪平野に河内王朝が存在感を誇示していたと考えられる。

武器・武具のほか、農耕具も多量に発見され、更に実用品とは云えないミニチュア品が含まれるなど、農耕具の用途の問題、武器・武具の実用・非実用の見分け方、葬送儀礼のあり方など更なる調査・研究が待たれる。

葬送儀礼の場で富の大量消費を見せつけることで、首長が社会的な威信を高める行為が大規模化・複雑化した現れかもしれない。

一般的には、鉄製武器・鉄製農耕具副葬は、古墳時代中期「百舌鳥・古市古墳群の時代」を象徴しているイメージが強いが、中期にはまさに鉄製武器・武具などの大量副葬の時代であり、このような副葬品から武人的な性格の古墳被葬者像が語られる時代であることは間違いない。