近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

沖縄の歴史・文化 “琉球王国”の象徴・“首里城”の歴史とは!

2007年12月19日 | 歴史
首里城の創建年代は明らかでないが、最古の遺構は14世紀末のものと推定され、三山時代に“中山の城”として使われていたことが確認されている。

“尚巴志”が三山を統一して琉球王朝を立ち上げると、首里城は王家の居城として用いられると共に、国王統治の行政機関“首里王府”の本部でもあった。

叉各地に配置された神女たちを通じて、王国祭祀を運営する宗教上のネットワークの拠点でもあった。首里城は琉球有数の聖城でもあり、当初は鬱蒼とした大木の森や岩があるだけの場所であったらしいが、この森こそが首里城発祥の地であったと云う。

更に首里城とその周辺では芸能・音楽が盛んに演じられ、美術・工芸の専門家が数多く活躍するなど文化芸術の中心でもあった。





写真は、那覇市“首里城公園”から望む、東シナ海・海岸線及び同公園内で復元された石垣。

首里城は小高い丘の上に立地し、曲線を描く城壁で取り囲まれ、その中で多くの施設が建てられている。叉いくつもの広場を持ち、信仰上の聖地でもある。
首里城は内郭と外郭に分けられ、内郭は15世紀初期、外郭は16世紀中期に完成している。











写真は上から、那覇市の現在の首里城正殿と玉座、南殿、北殿及び奉神門。
正殿の前庭には広場が設けられ、それを取り囲むように行政施設である北殿、儀礼などに用いられた南殿、前庭への入口となる奉神門が建てられている。

正殿をはじめとする城内の各施設は、東西の軸線に沿って配置され、中国や日本本土との長い交流の歴史があったため、首里城の随所に中国・日本の建築文化の影響を受けているそうで、正殿・南殿・北殿はその代表的な例とされる。

正殿は“唐破風”と呼ばれ、一階と二階には、写真のような玉座が設けられている。

首里城はその役割から、3つの空間に分けられ、政治・外交が行われた“行政空間”、信仰上の聖域が点在する、城内でも最も神聖な聖地として崇められた“祭祀空間”、更に国王とその家族が住む“御内原”と呼ばれた、“居住空間”であった。
“御内原”については、現在復元・整備が進められており、完成後随時追加開園される予定と云う。

首里城は数度にわたり焼失しており、その度に再建されてきたが、現在再現されている建築は、18世紀以降のモデルに基づいていると云う。

首里城は本土の城と異なり、中国の影響を大きく受けており、門をはじめ各種建築物は漆で朱塗りされ、屋根瓦には初期は高麗瓦、後には赤瓦が使われ、各部の装飾は国王の象徴である“龍”が多用された。

平和な琉球王朝時代に再建されたこともあり、軍事目的よりも政治の中心としての役割を重視して設計されている。



写真は、1945年沖縄戦で廃墟と化した首里城跡。

1879年首里城から国王が追われ、沖縄県となった後、首里城は日本軍の駐屯地、各種学校等に使われた。戦前は正殿などが国宝であったが、1945年の沖縄戦と戦後の琉球大学建設により完全に破壊され、僅かに城壁や建物の基礎などの一部が残っている。

戦後琉球大学のキャンパスとなったが、大学移転後の1980年末から、発掘調査された遺構や昭和初期の改修工事図面などを元に、工芸家・職人を総動員して、本格的な復元事業が推進され、現在も復元工事が継続されている。

2000年には“琉球王国のグスク及び関連遺産群”として世界遺産に登録されたが、復元された建物・城壁などは世界遺産の対象ではない。


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