近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

堺市百舌鳥古墳群の履中天皇陵に纏わる謎とは!そのⅠ

2011年08月30日 | 歴史
履中天皇陵は、百舌鳥古墳群の南部に位置し、大きさは全長約365m・後円部径約205m・高さ約25m・前方部幅約237m・高さ約23mで、全国古墳長3番目の大きさ。

本陵後円部が北側に配置されている。現在の周濠は一重だが、二重目の濠が確認されている。









写真は上から、履中天皇陵空撮及び履中天皇陵全景、同天皇陵前方部のサイドビュー、同天皇陵の後円部光景及び前方部に密集する生活道路と民家の光景。

本天皇陵の別名・上石津ミサンザイ古墳は、履中天皇の陵墓に比定され、「百舌鳥耳原南陵」として、宮内庁によって管理されている。

ただし、実際の被葬者は不明。5世紀前半の築造と考えられ、大山古墳の南西に位置している。

墳丘は3段築成で、西側のくびれ部には造出しがあり、主体部の構造や副葬品などはわかっていないが、葺石と埴輪があったとされる。









写真は上から、住宅に挟まれた、履中天皇陵の正面拝所入口の光景、拝所に差し迫った民家の様子、同天皇陵周濠を巡る“大仙風致”環境の様子及び同天皇陵の瑞々しい周濠光景。

本古墳は、本当に住宅地のど真ん中にあり、民家の真裏に古墳の周濠があったのにはびっくりです。

裏庭から「マイビーチ」、ならぬ、『マイ古墳』が堪能できるようで、羨ましい限りです。

倭の五王(讃、珍、済、興、武)に関して、「宋書」に「讃死して弟珍立つ」と書かれてあり、讃と珍が兄弟天皇であることが分かる。

この当時の天皇で、兄弟天皇は、「履中と反正」、そして「安康と雄略」の二組だが、雄略=武であることがほぼ確定しているとすれば、仁徳の息子である履中と反正が「讃と珍」になる。





堺市の土師ニサンザイ古墳に纏わる謎とは!そのⅡ

2011年08月28日 | 歴史
土師ニサンザイ古墳に纏わる謎について、更に続けます。

現在は一重の楯形周濠を巡らしているが、堺市教育委員会が昭和51年から翌年にかけて行なった発掘調査の報告によれば、この古墳はかって二重周濠をもち、内堤の幅は約30m・外堤の幅は約21mだったことが分かった。

また、葺石と埴輪のあることも確認されているが、主体部の構造や副葬品はわかっていない。





写真は、土師ニサンザイ古墳周囲に残された倍塚及び同古墳倍塚墳頂から望む土師ニサンザイ古墳上部の様子。

本古墳周囲には、聖塚古墳・舞台塚古墳など倍塚と考えられる小古墳が点在している。

土師ニサンザイ古墳は、以前は長谷山(はせやま)と呼ばれていたらしい。その発音が、江戸時代の史料にあった反正山(はせやま)に類似しているため、反正天皇の空陵であったとする説がある。

履中天皇の殯(もがりと読み、本葬するまでの間、遺体を仮に納めて置いたこと)の場所の跡とする説もある。

また、江戸時代、ニサンザイ古墳は「反正陵」とする伝承が、地元では伝わっていたと云う。

現在、宮内庁はこの古墳を、天皇陵の可能性あるとして、陵墓参考地に指定して管理しているが、主体部の構造や副葬品を確認できないため。

現在反正天皇陵に治定されているのは、田出井山古墳だが、ニサンザイ古墳は田出井山古墳に比べて4倍近い面積を占め、大王陵としてふさわしい。





写真は、土師ニサンザイ古墳前方部から北側後円部を望む巨大古墳の光景及び同南西部から後円部を望む巨大古墳の光景。

特に5世紀後半に限れば、日本最大の古墳であることから、当時の大王陵に間違いないと云われているが・・・。

ちなみに墳丘長290mを持つこの前方後円墳は、仁徳天皇陵に治定されている大仙古墳や履中天皇陵に治定されている上石津ミサンザイ古墳に続いて、百舌鳥古墳群では3番目、全国でも8番目の大きさを誇る。





写真は、土師ニサンザイ古墳南側沿いの土師町道路標識及び同古墳南側に面した土師町沿道の風景。

この古墳は現在堺市西之町に属しているが、古墳の濠に接するように土師町(はぜちょう)がある。

土師町は古代の土師郷であり、集落内には奈良時代の土師寺跡がある。

土師氏(はじし)は埴輪制作集団であるとともに、古墳造営の指揮や大王の葬送儀礼に従事する集団でもあった。

俗に「土師氏の四腹」と称されるように、土師氏には4系統あったとされている。奈良盆地の西北部にあたる秋篠と菅原両地域にそれぞれ住んだ土師氏、河内の古市古墳群の周囲に住んだ土師氏、そして百舌鳥古墳群に居住した土師氏である。

ニサンザイ古墳付近に居住した土師氏の集団は「モズ腹」と呼ばれていたらしい。

百舌鳥古墳群の巨大古墳の造営は4世紀末ごろ開始されたと言われている。当時は多くの人々が造営工事のために長期間、一定の地に居住する状態が続いていたはずである。





堺市の土師ニサンザイ古墳に纏わる謎とは!そのⅠ

2011年08月25日 | 歴史
土師ニサンザイ古墳(略称=ニサンザイ古墳)は、堺市北区百舌鳥西之町、百舌鳥古墳群の南東端にあり、仁徳陵・履中陵共前方部が南西向きに対して、前方部を西に向けた大型前方後円墳で、全長約290mの雄大な墳丘を周濠に浮かべた姿は、さながら巨大戦艦。

百舌鳥古墳群の大型前方後円墳の中では最も新しく、5世紀後半に築造されたと見られている。







写真は上から、百舌鳥古墳群の位置関係、土師ニサンザイ古墳の上空写真、及び同古墳前方部北西コーナーから望む古墳全体像。

前方部の向きの違いの意義はハッキリしないが、百舌鳥古墳群で西向きは土師ニサンザイ古墳のほか、長塚古墳・大塚山古墳・いたすけ古墳・御廟山古墳・尼塚古墳などがあるが、南西向きの大仙古墳や上石津ミサンザイ古墳などの被葬者が天皇に対して、西向きは天皇陵ではないグループかもしれないと云うが???

土師ニサンザイ古墳は、全長約290mの巨艦のような大型前方後円墳にもかかわらず、宮内庁による大王墓に比定されないまま、陵墓参考地扱いのため、拝所も設けられず、民家や市民公園が隣接したままの情況。





写真は、土師ニサンザイ古墳前方部沿いに巡らされた市民公園及び同古墳前方部沿いの散策道。

周濠沿いに巡らされた散策道は、市民の散歩・ランニングコースとして利用されている。

陵墓参考地のお陰で、古墳へのアクセス自由度が高い反面、同古墳の格式・イメージが損なわれている面が代償として残こってしまう。







写真は上から、土師ニサンザイ古墳後円部と前方部間に出っ張りがある、くびれ部光景、古墳南側前方部の墳丘光景及び墓地越えに覗く同古墳後円部の様子。

三段に築成された墳丘は、後円部が径約156m・高さ約24m・前方部が幅約226m・高さ22.5mを測り、写真のように、くびれ部の両側に造出しをもつ。





写真は、土師ニサンザイ古墳南側前方部から後円部を望む周濠の様子及び同古墳南側から前方部を望む周濠光景。

外堤に立って眺める墳丘は、広い周濠に緑の影を落として美しい。







堺市の田出井山古墳・反正天皇陵に纏わる謎とは!

2011年08月23日 | 歴史
田出井山古墳・反正天皇陵は、堺市堺区北三国ヶ丘町にある前方部を南に向けた前方後円墳で、百舌鳥古墳群の中では北端にあり、仁徳天皇陵とその南側の履中天皇陵と合わせて百舌鳥三陵と呼ばれているが、現在は宮内庁が管理している。









写真は上から、田出井山古墳・反正天皇陵の上空写真、前方部御拝所光景、同後円部東西サイド周濠の様子。

墳丘の規模は全長約148m・後円部径約76m・高さ約14m・前方部幅約110m・高さ約15mで、百舌鳥古墳群では7番目の大きさ。

陪塚とされる古墳2基を伴い、墳丘は3段に築かれ、その墳丘や出土した埴輪から、5世紀後半頃に造られたと考えられている。

現在、一重の盾型周濠がめぐっているが、前方部外周で行われた発掘調査で、かつて二重濠があったことが確認されている。前方部の外側には、幅約11.5mの外濠が巡っていた。もしかしたら多重の周壕を持った古墳だったのかもしれないと云う。

本古墳は、陪塚と推定される古墳の存在や多重濠など、大型前方後円墳として不足のない姿の古墳だが、大仙古墳・仁徳陵や石津ヶ丘古墳・履中陵或いは土師ニサンザイ古墳に比べ、その規模がかなり小さいことから反正天皇陵とすることに疑問が残る。

何故だろう?

第18代反正天皇は、履中天皇の実(同母)弟で、「倭の五王」のうち「珍」にあたるとされているが、同天皇の事跡は記紀にはほとんどないらしい。



写真は、松原市の紫籬神社。

日本書紀・古事記(記紀)は、反正天皇が丹比柴籬(たじひしばがき)宮で即位したと伝えているが、大阪府松原市上田にある柴籬(しばがき)神社周辺には、丹比柴籬宮があったという伝承が残っているらしい。

柴籬神社は反正天皇を祭神としており、柴籬神社の南門に「反正天皇柴籬宮址 昭和十九年一月 大阪府建立」の石碑があり、西鳥居前にも「丹比柴籬宮址 大正八年 大阪府」の石碑が建てられている。

この伝承が事実であれば、大和王権の宮城が河内におかれた初源となるが、考古学的には現在の所、宮の存在を確かめる遺構や遺物は発見されていないと云う。

地元には宮号を引き継いだ神社名や、神社西方に反正山(はじやま)の地名が残っている事などから、宮跡の有力な候補地であると主張している。

ところで、田出井山古墳の形から、土師ニサンザイ古墳と同時期と考えられており、土師ニサンザイ古墳を反正天皇陵と考える学者がいる。

反正天皇=倭の五王の中の珍にふさわしい古墳として、規模から見るとこちらの方が確からしいが、土師ニサンザイ古墳も被葬者不明の陵墓参考地として宮内庁が管理してきたので発掘もされず確証はない。







写真は上から、反正天皇陵の鉄製柵門で仕切られた民家との境界線、同天皇陵の民家に隣接した様子及び同天皇陵の民家に囲まれた墳丘木々の様子。

田出井山古墳は、写真のように、南海本線・堺東駅の東側の住宅地にあり、写真のように、墳丘は修復整備されているわけではないが、風雪を耐えて良好な状態で保護されている。

仁徳天皇陵の1/3ほどの大きさで、天皇陵では小さいほうだが、理由はよくわかっていない。

本古墳は、その形や出土した埴輪から、仁徳天皇陵より少し新しい、5世紀後半頃に造られたと考えられている。

内部施設や出土品などは一切知られていない。

反正天皇の本名・“多遅比瑞歯別尊”(たじひのみずはわけのみこと)の“瑞歯”という名前は、生まれたときから歯並びがきれいだったという所からきているらしく、しかも2mを越す長身で、容姿美麗の男性であったと書記は記録しているらしい。

反正天皇の治世は安定しており、日本書紀にも「五穀実りて人民賑わい天下太平」とある。

この天皇の事跡は、記紀にはほとんどないが、以下のような記述は注目に値する。

先代の履中天皇紀に、履中即位に関しての逸話が残されているくらいで、兄のために住吉仲皇子(すみのえなかのおうじと読み、仁徳天皇の皇子)を討ったその功績により、履中天皇の実子をさしおいて、履中天皇在位中に皇太子に立てられたとある。

古事記の反正天皇の段には、「水歯別命(みずはわけのみこと)(反正天皇)、多治比(たじひ)の柴垣宮に坐(いま)しまして、天(あめ)の下治めたまひき。此の天皇、御身の長、九尺二寸半。御歯の長さ一寸、広さ二分、上下等しく斉(ととの)ひて、既に珠(たま)を貫(ぬ)けるが如くなりき。天皇の御年、陸拾歳(むそちとは60歳)ぞ。御陵は毛受野(もずの)に在り」とある。

叉日本書紀の反正天皇元年条には、「冬十月に、河内の丹比に都つくる。是を柴籬宮と謂す。是の時に當りて、風雨時に順ひて、五穀成熟(みの)れり。人民富み饒(にぎわ)ひ天下太平なり」とある。

堺市の仁徳天皇陵の謎とは!

2011年08月21日 | 歴史
米ボストン美術館が所蔵する、世界最大級の墳墓・仁徳天皇陵の出土品と伝わる獣帯鏡や環頭大刀など5点の考古遺物が、6世紀第1四半期のものとみられることが、宮内庁書陵部の調査で分かった。



写真は、世界最大の墳長約486mを誇る仁徳天皇陵の上空写真。

百舌鳥古墳群の一つ・本天皇陵の周囲には、写真の通り、数十基の陪塚が点在している。

現在、他の百舌鳥古墳群・古市古郡群と合わせて、世界遺産登録を申請中。





写真は、仁徳天皇陵に伝わる、ボストン美術館所蔵の獣帯鏡及び環頭太刀。

尚、仁徳天皇の時代と5世紀中頃とされる大山古墳の築造時期とにずれがあり、大山古墳の出土品である可能性は低くなった!

調査成果は、同庁の「書陵部紀要」に発表された。

それによると、同庁研究官がボストン美術館の考古遺物を実見し、国内外の同類の遺物と比較して、その実年代を検討した結果、同一古墳からの出土品であることを前提とすると、いずれも「6世紀の第1四半期を中心とした時期であるとすることが最も妥当」と判断した。

大山古墳が5世紀中頃の築造とされていることから、仁徳天皇と時期が合わない。

またこれらの遺物は、同美術館に勤務していた美術家・岡倉天心が1906年6月に、京都で購入した可能性が高いことも分かった。



桜井市の茶臼山古墳とメスリ山古墳の謎とは!

2011年08月18日 | 歴史
茶臼山古墳とメスリ山古墳の北に、纒向・柳本・大和と命名された古墳群が南からこの順で続いている。

これらの古墳群の中心には、盟主的な巨大前方後円墳がそれぞれ中小の前方後円墳を従えている。

例えば、纒向古墳群には全長278mの箸墓古墳がある。柳本古墳群には、全長300mほどの渋谷向山古墳(景行天皇陵)と全長約240mの行燈山古墳(崇神天皇陵)が存在する。さらに大和古墳群には、全長約220mの西殿塚古墳がある等々。

これらの巨大前方後円墳は、初期のヤマト王権を築き挙げた大王墓と考えられている。

しかし、桜井茶臼山古墳にしてもメスリ山古墳にしても、これらの古墳群とは少し距離をおいて、それぞれ単独墳として築かれている。

茶臼山古墳の竪穴式石室内は真っ赤な水銀朱で彩られ、81面分以上の銅鏡片が見つかっている。6基のうち桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳以外は宮内庁から陵墓指定されているため、調査はできないのは誠に残念。

メスリ山古墳には、古墳時代の一つの特徴である自然石を徐々に内側に持ち送り、天井部を持つ合掌式の竪穴式石室を持ち、内部には遺骸がないが、武器ばかりが埋納された、格納庫・遺品庫であったと考えられている。

以上のように、宮内庁の陵墓指定がされていないために実行された、貴重な発掘成果を以ってしても、両古墳を大王墓の系列に含めるかどうかで、研究者の解釈は必ずしも統一されていない。

以下にいくつかの説を紹介しよう。

まず、奈良盆地東南部の前期大型古墳の立地・墳形・周濠形態・副葬品などの組み合わせなどから総合的に判断して、両古墳も初期ヤマト政権の盟主墓と見なし、大王墓の系列に含める説がある。

国立歴史民俗博物館の研究者などは、箸墓→西殿塚→茶臼山→メスリ山→行燈山→渋谷向山の順に大王墓が築かれたと想定している。この説を支持する研究者は多い。

その一方で、大型古墳の系列が一系列でない可能性を指摘する説もある。

土師器壺や特殊埴輪の存在に注目して、箸墓→西殿塚・茶臼山→渋谷向山・メスリ山→行燈山という流れを想定し、茶臼山・メスリ山古墳の被葬者が大王と同時に存在し、大王としての機能を分担した可能性を想定している。









写真は上から、桜井茶臼山古墳の上空写真、同古墳の全体像、メスリ山古墳空撮及び同古墳の平面図。

双方とも、写真の通り、柄鏡形の墳形を持ち、大王墓とは異なるとも云われているが。

柄鏡式前方後円墳は、前方後円墳の形が定まる以前の古墳時代前期に造られたものと想定されている。

古墳時代前期に築造され、前方部が細長く、高さが低くかつ幅が狭い特徴を持つ、九州日向独特の築造形式の前方後円墳で、日向地方以外では、茶臼山やメスリ山古墳など景行天皇の巡幸経路に存在するのみで、全国的には極めて少ない。

茶臼山・メスリ山古墳双方とも大王墓から除外する研究者がいるが、その理由として、両古墳の前方部が撥形でなく柄鏡形であること、周濠を巡らさないこと、古墳群を構成しないで独立していること、などを上げている。

茶臼山・メスリ山古墳の被葬者として、安倍氏の祖先との伝承がある“オホヒコ”と“タケヌナカハワケ”が候補としてあげられている。

この地域に天皇陵造営の伝承が伝わっていないことがその理由で、むしろ桜井市を本拠地とした安倍氏との関連を重視した上での想定と見られる。

今から1700年前に生まれ、波乱に満ちた人生を生き、そしてこの地を奥津城として永久の眠りについた人物は、はたしてどのような男だっただろうか。

ヤマト王権の系譜を継いだ大王だったのか、それとも磐余の地(飛鳥に隣接する奈良県桜井市の南部地域)を根拠とした大豪族の首長だったのか?

現在のところ、両古墳からの出土品は、まだ具体的なことを何も語ってくれない!




天理市の西殿塚古墳に纏わる謎とは!

2011年08月14日 | 歴史
西殿塚古墳は竜王山西麓の幅広い尾根の上に、南北方向を主軸にして築かれた前方後円墳で、前方部を南に向けている。

前方部の先端は箸墓古墳ほどではないが、三味線のバチ状に開いている。













写真は上から、西殿古墳の正面光景、同古墳全景、同古墳後円部からの光景及び周濠が柿畑と化した同古墳光景、同古墳脇の柿畑越しに望む二上山と奈良市街地及び同古墳前方部がバチ型に開いた墳形の上空写真。

墳丘の全長は約230m・後円部の径約145m・前方部の幅130mほどの、天理市南部の萱生町から中山町に所在する古墳群の大和古墳群の中では最大の規模をもち、柳本古墳群を含むこの地域では、渋谷向山古墳(伝景行陵)、行燈山古墳(伝崇神陵)に次いで大きい。

1992~1994年にかけて天理市教育委員会が発掘調査を行なった。

調査では、東側のくびれ部から前方部に向かって徐々に深くなる周濠の存在が確認されたが、後円部や前方部前面へはつながっていないようである。

段築は認められるが、前方部の段築がくびれ部付近で解消してしまい、後円部にはつながっていない。

後円部墳頂は広大な正円形の広場になっており、その中央に正方形の壇が設けられていたと云う。

後円部の方形壇は、一辺35m・高さ2.6mの正方形に造られ、前方部にも墳頂に同じ形で、一辺22m・高さ2.2mでやや小さい壇が営まれており、墳丘頂上で古墳祭祀が行われたことを物語っている。

後円部と前方部の方形壇の下にそれぞれ別人の埋葬施設が存在したという見方があり、方形壇は死者を埋葬してから、その上に祭祀用に広大な壇を造ったものとみられ、箸墓古墳の段階ではまだ造られておらず、壇の設営としては初期の頃のものと考えられる。

発掘調査では、古墳の周囲から葺石が見つかり、大型の円筒埴輪が大量に出土した。

一方、1998年の宮内庁の報告によれば、特殊器台や特殊壺が発掘調査以前に出土していることが明らかになっている。

これらの特殊器台や特殊壺は埴輪の起源となるもので、この古墳は埴輪出現以前に築造されたものであり、その築造時期は円筒埴輪だけを出土する渋谷向山古墳・行燈山古墳より古いとされている。

築造時期は、箸墓古墳に近い4世紀前半に遡るとの意見が多い。

天理市南部に広がる大和古墳群の中でも最大の大きさであり、延喜式で山辺郡にあったとされる“手白香皇女衾田陵”の位置にあたるため、明治9年、宮内庁により西殿塚古墳が、第26代継体天皇の皇后・手白香皇女(たしらかのひめみこ)の衾田陵に治定された。

その根拠は不明であるが、宮内庁は、現在この古墳を手白香皇女衾田陵として管理している。

男大迹(おおど)王が北陸三国の地から迎えられて継体天皇として即位し、第24代仁賢天皇の娘・手白香皇女を皇后としたのは、西暦507年のこと。

手白香皇女の死亡時期は不明だが、6世紀前半に生きた女性であることは間違いない。

したがって、考古学的知見では4世紀前半とされるこの古墳の被葬者であることは絶対にないと云う。

こうした明々白々な事実を前にしても、宮内庁は頑なに治定の見直しをしようとしない。

そのため、手白香皇女は天皇家の祭祀を受けず、衾田陵の被葬者は人違いされて祀られている。

死せる両人にとってははなはだ迷惑な話であり、手白香皇女陵は天理市柳本町中山集落の東方丘陵上にある高槻古墳とすべきとの意見もあるが・・・。

しかし、高槻古墳は全長110m・後円部径65m・前方部幅60mの前方後円墳だが、出土した須恵器から、古墳時代前期の築造と推定されているため、手白香皇女陵墓とは時代が合わない。

西殿塚古墳は、箸墓古墳と同様の吉備様式の特殊器台が後円部に並び、埴輪や墳丘の形態等からも箸墓古墳に続く時期の大王墓という見方がある。

こうして築造時期は3世紀後半から4世紀初めごろと想定されている。

一方衾田陵は、延喜式でいう山辺郡でも推定築造時期が6世紀と考えられていることから、周辺唯一の古墳である西山塚古墳と考えられている。

箸墓古墳に続く大王墓と見る立場から、被葬者を推定する試みもある。

まずは箸墓古墳の被葬者を卑弥呼と考え、台与らその次世代の王を西殿塚古墳の被葬者と考える。

また崇神陵の陵守が衾田陵を合わせて守っていたという記録から、西殿塚古墳こそが崇神天皇陵であったという解釈もあるが???

現在、本古墳は宮内庁が管理しており、研究者や市民の立ち入りは禁じられている。

一方で宮内庁管轄の陵墓なのに、古墳の前に出られる整備された公道はない。

奈良県御所市の秋津遺跡最新情報とは!

2011年08月10日 | 歴史
縄文時代晩期後半(2500~2800年前)のノコギリクワガタが、奈良県御所市の秋津遺跡でほぼ完全な形で見つかった。

橿原市の県立橿原考古学研究所が平成23年5月に発表した。

大あごなど一部だけ見つかった例はあるが、完形に近い縄文時代のクワガタは全国初という。





写真は、秋津遺跡全景及び同遺跡から出土したクワガタ。

大きく湾曲した大あごを持つ体長約6.4cm・幅約1.5cmのクワガタオス。

地中約2mの同時代の木の根の下で見つかった。左前脚以外はほぼ残っており、体毛や爪の先も判別できた。

水や土で密閉されて酸素が絶たれ、細菌が活動できず分解されなかったらしい。

同じ地層からは同時代の土器や土偶の破片約1千点も見つかった。

同市昆虫館は「外観は現代のクワガタと全く同じ。遺伝子レベルで違いがわかればおもしろい」と話す。

昆虫は死後、関節が外れてバラバラになってしまうことが多いが、泥に密閉されて外気に触れなかったため残ったらしい。この時代の生き物が生きていた時の姿のまま見つかるのは極めて珍しいという。

橿原市昆虫館は「今にも動き出しそうな姿に驚いた。豊かな生態系があった縄文時代の里山が復元できる」と話している。

御所市の秋津遺跡出土の古墳時代前期の板塀跡とは!

2011年08月07日 | 歴史
秋津遺跡は、葛城山と金剛山の東麓に広がる扇状地帯の平地に所在する。

本遺跡は、葛城氏の始祖・葛城襲津彦(そつひこ)が被葬者とされる前方後円墳で、宮山古墳(5世紀初めごろ、238m)から北東約1キロと近く、詳細が不明だった4世紀の葛城地域(御所~葛城市)を知る重要な資料になりそう。









写真は上から、葛城山と金剛山を背景にした秋津遺跡現場、板塀に囲まれた掘立柱建物跡、板塀跡及び本遺跡遺構の配置図。

奈良県御所市の秋津遺跡で、両側に柱穴がある溝を方形に巡らせた古墳時代前期の遺構が見つかった。県立橿原考古学研究所が平成22年1月20日発表した。

こうした形状の遺構の出土は初めてで、建物跡を囲んでいることから板塀の跡と見られている。

5世紀の古墳を中心に見つかる囲形埴輪の原型となった可能性があるという。

昨年5月から調査し、4世紀前半~中ごろの三つの方形区画を確認した。いずれも溝(幅約20cm)を挟んで直径約20cmの柱穴が2~3m間隔で並んでいた。

区画は最大で東西40m・南北18mに及ぶ。同時にあったかどうかは不明で、短期間で造り替えられた可能性もある。

区画の内部には、目隠し塀を伴う、掘立柱建物(東西6m・南北7m)が存在する点で、中心的な施設と考えられる。

2本の柱と横木で板を挟んで塀にしたとみられ、柱の深さから塀の高さは2m以上と推測している。

方形区画施設・掘立柱建物・溝は全てこの付近の地形に合わせた方向で計画的な配置となっている。

3区画のうち、一つは塀の一部が約4mずれた状態で出土し、その部分に入り口があった可能性がある。大阪府八尾市の5世紀初めの心合寺山(しおんじやま)古墳で出土した囲形埴輪も同じ構造をしていたと云う。

遺構の特異な形や板材の使用・施設の規模から強大な勢力が建設にかかわったとみられる。叉この施設は集落にとって重要な儀式を行なった場所と見られる。

溝や流路からは、韓式系・東海・北陸・山陰・瀬戸内地域などの土器が多量に捨てられていたと云う。これは各地との交流の広さを示している。

ということから、この地域は5世紀以降、有力豪族・葛城氏の拠点になったとみられ、南西約1kmには葛城氏の祖・襲津彦の墓との説が有力な宮山古墳がある。

宮山古墳は大和西南部平野に築造された、5世紀前半から中頃の西面の前方後円墳で、“室の大墓”とも呼ばれている。

丘尾切断による墳丘は整然とした三段築成で、北側のクビレ部に方形の造り出し及び南側に自然地形を利用した周濠の存在が確認されている。





上の写真は、室の宮山古墳全景及び宮山古墳現場。

主軸全長238m・後円部径105m・高さ25m・前方部幅110m・高さ22mの規模を誇り、古墳時代中期の奈良盆地を代表する前方後円墳。

葺石と共に後円部主体部上には、円筒埴輪と形象埴輪で構成される二重の方形埴輪列が存在したと云う。

前方部からは木棺と共に三角縁神獣鏡など鏡11面、碧玉製勾玉・ヒスイ製勾玉・滑石製勾玉や各種管玉など玉類が多数出土し、大正10年に国史跡に指定された。

というような葛城氏の拠点と思われる当地において、今回の発見の意義は、「外から見えないように遮蔽された祭祀空間だろう。巨大で手が込んでいる。これまで知られていなかった葛城氏の初期の拠点と考えられる。4世紀前半の大和盆地に、“東の纒向、西の葛城”の二大勢力があったことがはっきりした。葛城氏が王権と対等な力をつけていく背景を知る手がかりになる」としている。

葛城氏・葛城襲津彦(4世紀後半~5世紀初めごろ)の娘・磐之媛(いわのひめ)は仁徳天皇の皇后で、履中、反正、允恭という3代の天皇の母。

葛城氏は、大阪・河内地方に巨大な前方後円墳を造営した古墳時代中期(5世紀)の王権を支え、絶大な権力を持った。

対朝鮮外交で力を蓄えたといわれるが、実態は謎に包まれている。




桜井市の巻野内石塚古墳とは!

2011年08月05日 | 歴史
「ホケノ山古墳」から更に北へ約300m離れた西側の小高い丘にあるのが、巻野内石塚古墳。

北の桜井市巻野内地区から、南の箸中・茅原地区にかけては、国指定史跡クラスの珠城山古墳群、箸墓古墳や茅原大墓古墳があるが、その他に20数基の中・小規模の古墳が散在し、数基の方墳もあるものの、多くは古墳時代後期の円墳。

中には前方後円形を呈するものもあるが、巻野内石塚古墳もこれらの古墳群中にあり、まだ本格的な調査が行われていないため詳細不明だが、後円部径約40mの北面する、帆立貝式前方後円墳。





写真は、巻野内石塚古墳全景と後円部墳丘の様子。

本古墳は、全長約60m・後円部径約40m・前方部長さ約20mの纒向型前方後円墳だが、現状は径40mの円墳状に見え、前方部を北東に向けている。

巻向駅~珠城山古墳の方からホケノ山古墳にぬける道筋の畑の中にあり、この辺りは、こんもりした小山が点在しているが、それらが古墳の場合が多い。

あぜ道に古墳の痕跡らしきものを今も見ることが出来るが、本古墳墳丘はもともと円墳と思われていたのが、北東側のあぜ道に前方部が確認され、全長およそ60mの前方後円墳であったことが分かったと云う。

また、周辺で石垣に転用された石材は、近くにあるホケノ山古墳と同じもの。

帆立貝式という墳形からも3世紀の築造とされる、ホケノ山古墳を3分の2の大きさで真似たものと見られ、同じ時期に作られた可能性が高いと見られている。

従来、纒向遺跡の東端のホケノ山古墳周辺の小古墳の多くは、6世紀の円墳と見られていが、近年の測量調査や研究成果で纒向型の前方後円墳の可能性が高い事が判明。

本古墳の他にも周辺の6基(南飛塚古墳、ツゾロ塚古墳、堂ノ後古墳、北口塚古墳、平塚古墳、小川塚東古墳)が前方後円墳の可能性があると云う。

道路沿いの、写真のような本古墳後円部の石垣は、この古墳の葺石が転用された可能性が高いようで、発掘調査は行われていないが、位置や規模からもホケノ山に次ぐ同時代の重要な古墳かも知れない。


奈良県天理市の崇神天皇陵vs.景行天皇陵どっちがどっち?

2011年08月03日 | 歴史
天理市の崇神天皇陵と、そこから徒歩で僅か15分の所にある景行天皇陵との取扱いに、何故これだけの差別を付けるのであろうかと不思議でならない。

双方とも同じ天理市にあり、当然宮内庁の管理管轄下、それぞれが良くメンテされてはいるが。

☆行燈山古墳・第10代崇神天皇陵は、山の辺の道に沿った代表的な観光スポットで、全長約240mに亘る堂々とした、古墳時代前期・4世紀後半築造の前方後円墳であり、深い緑の水をたたえた濠が美しく静まる。

この小高い丘陵から眺める大和平野と金剛山、大和三山(耳成山、天香久山、畝傍山)、二上山、生駒山等の山々、誠に悠然たる気分になる。

169号線こそ走っているものの農地に囲まれ、墳丘墓の環境は抜群と言える。

169号線沿道の広告用看板等は、風致規制の対象で禁止され、環境保全に対する入念な気遣いが感じ取れる。









写真は上から、崇神天皇陵の宮内庁管理柵の様子、同柵越えに望む崇神天皇陵光景、水濠に巡まれた同天皇陵遠景及び同天皇陵脇の陪塚光景。

崇神天皇陵は、長岳寺から徒歩10分、黒塚古墳からも徒歩10分、直ぐ後ろには櫛山古墳があり、山辺の道散策コース・スポットの一つ。



写真は、崇神天皇陵の周濠光景。

同天皇陵は、大和の山々を背景に、水鳥が舞う瑞々しい外濠池の環境保全だけでも大変だと思われる。

見事に管理・維持されている代表的天皇陵の一つと云える。

☆渋谷向山古墳・第12代景行天皇陵は、日本武尊父の陵とされる。

3段に築かれた前方後円墳で、全長約310m、古墳時代前期では最も大きい。

景行天皇陵は、箸墓古墳に次ぐ、大和古墳群第2位の大きさを持ち、三輪王朝の最盛期に築かれたと考えられているが、一体葬られているのは何者か?

謎は深まるばかりだが、景行天皇はその存在が疑われている。実在しなかった可能性があり、ここが崇神天皇陵である可能性も残っていると云う。

県道の向こうには二上山が美しく聳え、崇神天皇陵から徒歩15分の近距離に寄り添っている。





写真は、景行天皇陵の正面拝所及び同古墳遠景。

景行天皇陵は169号線沿いの入口から入った正面の所。

本天皇陵のメンテ状態は、崇神天皇陵並みに行き届いているが・・・・



写真は、景行天皇陵周濠の様子。

写真の左側に見える白っぽい建物がパチンコ屋とその看板は、景行陵墓の真正面入口に位置している。

国道沿いにあるとは言え、余りにもミスマッチの光景で残念。

崇神天皇陵と同一区域内にあるにもかかわらず、こちらの方は環境面の配慮が不十分であり、どうしたことか本天皇陵の真正面にパチンコ屋があるとは?

崇神天皇陵から歩いて来て景行天皇陵に至る直前で、環境風致規制から外されているのはどうしたことであろうか?

同じ天理市域にあることからも不思議でならない。経済政争の具になっているとは思いたくないが・・・・・・・。

残念ながら、ここにも経済優先の今日の社会情勢が読み取れる。







奈良県桜井市のホケノ山古墳(続報)そのⅡ

2011年08月01日 | 歴史
ホケノ山古墳巡りの続報をお届けします。

前日のような時代経過・推移を追っていくと、纒向政権(纒向遺跡群は2世紀末~3世紀前半と云われる)がヤマト政権の起源であり、纒向政権首長の墓が、ホケノ山古墳の被葬者と考えられる。



写真は、三輪山麓に鎮座する大神神社。

本古墳の被葬者は、7代孝霊天皇(120~190年)の墓との説もあるが、当古墳の南東に標高467mの三輪山がそびえ、この山そのものをご神体とする大神神社には「ホケノ山古墳の被葬者が豊鍬入姫(トヨスキイリヒメ)である」という伝承が残っているらしい。

大神神社は当時の大王家が尊崇した神社であり、豊鍬入姫は『日本書紀』によると第10代崇神天皇の皇女。

豊鍬入姫の“豊”は台与(トヨ)に通じる。『魏志倭人伝』によると「卑弥呼(239年に魏に遣使)の死後に、男王を立てたが国中が服せず、卑弥呼の宗女(一族の女)の台与を立てて国が定まった。台与は266年に西晋に遣いを送った」とある。

日本書紀によると、倭迹迹日百襲姫は崇神天皇の姑(おば)であり、豊鍬入姫は崇神天皇の娘であることから、ともに一族の女。

ということで、豊鍬入姫を台与に比定する見解もある。

ところで三輪山に隣接する、桜井市金星にある磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)は、第10代・崇神天皇の皇居跡と伝えられている。









写真は上から、崇神天皇の磯城瑞籬宮址標識、磯城瑞籬宮址記念碑、志貴御県坐(しきみあがたにます)神社の鳥居と拝殿。

磯城瑞籬宮は、六国史(六国史とは日本書紀はじめ、日本三代実録まで、奈良・平安時代に編修された六つの官撰国史の総称)の日本書紀に記載されている崇神天皇王朝の都。

ホケノ山古墳の発掘調査を遡及してみると、第1次が平成7年、2次が平成8年、3次が平成10年であり、更に4次が平成11年であった。





写真は、ホケノ山古墳完成後に造られたと見られる埋葬施設。ホケノ山古墳から出土した、大型複合口縁を伴う庄内式土師器。

ここに復元しているのは、第2次調査において確認された埋葬施設で、墓壙の規模は全長4.2m・幅1.2m、残存する深さは30~50cmほど。

墓壙内には南端に大型複合口縁壷が、中央底部には広口壷が共伴し、これに挟まれるように全長2.15m・幅45cm・現存する深さ15cmの組み合わせ式木棺の痕跡が確認できたと云う。

更に木棺内部の南側からは、薄く撒かれた水銀朱も検出され、これらの状況からこの墓壙は埋葬に木棺を用い、複合口縁を有する大型壷・底部にある広口壷を供献した埋葬施設である事が確認された。

この写真のお墓は要するに後円部中心に埋葬された方よりも後世に亡くなられた人の埋葬施設で、葺石を取り外して前方部に埋めたことで、近い親戚とか肉親だったと考えられる。

ホケノ山がこれからも重要な遺跡として考えられるのは、箸墓よりも古いことや、後円部中心から発掘された埋葬施設は独特の丁寧な造りで、ご遺骸は高野槇製の木棺におさめられ、木棺は木と板で囲った木槨で覆われ、葺石は墳丘側の総ての調査区において確認された。

葺石の構造は、地山を削り出しによって整形した後、2層の裏込め土を盛った上に、付近から採取できる河原石を小型・中型・大型の順で葺いている。

いずれにしても、纒向政権を引継いだのが卑弥呼であり、卑弥呼とホケノ山古墳の被葬者は一部同時代を過ごしたと考えられる。

ということから、更に「箸墓古墳が卑弥呼の墓ではないか!」と推論する。

邪馬台国は、ヤマトに存在したことはもはや確定的になったと云える!