近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

黒塚古墳の発掘現場訪問記!

2008年11月28日 | 歴史
黒塚古墳は奈良県天理市にある、全長約130m・後円部径約72m、後円部高さ約11m・前方部高さ約6mの前方後円墳。3世紀後半から4世紀前半の古墳時代前期前半頃の築造と考えられている。

纏向遺跡に近い黒塚古墳からは34枚もの銅鏡が出土した。そのほとんどは卑弥呼が中国・魏の皇帝からもらった鏡との見方がある、三角縁神獣鏡であることから、邪馬台国ではないかという説がある。

それら34枚の銅鏡の分析結果が次々と発表されているが、最新の分析情報では、ラクダ・ゾウの絵とか「洛陽」の字などが発見され、中国産の可能性が強まってきたようだ。

仮に中国産でなく、渡来人による国産説であっても、中国との緊密な外交・政治関係が裏付けられたと云える。



平成10年2月、黒塚古墳の現地発掘説明会の様子。
ライトに照らされた現場は異様な雰囲気。2日間で17千人が全国から集まったほどの関心をひきつけた、一大ハプニングであった!



黒塚古墳石室の副葬品である、三角縁神獣鏡出土状況。
今回の大発見は、鏡と大和政権とが深く結びついていたことが証明されたと見て良い。

弥生時代後期の環濠集落→邪馬台国の首長、卑弥呼の墓に象徴されるような時代変遷の延長として、豪族の古墳時代→大和政権→王朝時代という時代の移り変りの中で、仮に纏向遺跡が邪馬台国であれば、邪馬台国が大和朝廷さらには天皇家に直結する可能性が出てくる。



写真は黒塚古墳全景。黒塚古墳の発見は、纏向遺跡が初期大和政権の母体であることは間違いないとの論拠になっている。

黒塚古墳の発見・発掘は日本国中を邪馬台国論争の渦に巻き込んだ。
黒塚古墳の被葬者は、卑弥呼政権の外交等を司る家臣ではなかったか?



展示館も備えた、現在の黒塚古墳光景。纒向遺跡中心からわずか3kmほど北側に位置しているが、纒向遺跡との深いかかわりが推測される。

→恐らく中国魏王の指示、即ちこれらの鏡を主従関係の証として家臣に配布するようにとの指示に従って、その勅を実行すべき役割を負っていたのではないかと報じられている。

いずれにしても、今後更なる分析結果からもっと驚くべき事実が明らかにされることを期待したい。







天理市の大和(おおやまと)古墳群とは!

2008年11月25日 | 歴史
東殿塚、西殿塚、波多子塚、下池山、中山大塚、馬口山、櫛山等全長100m以上の古墳群のうち、大規模クラスの古墳時代前期の前方後円墳が目白押し。

現状、多くの古墳がみかん・柿・野菜等の栽培に利用されている。
江戸時代から古墳の姿が崩れ始めたと言うが、元々の古墳所有者との売買が成立したのか、占有・先住権が功を奏したのか、先祖崇拝思想が薄れたのか、本来聖地のはずの古墳が、その風采を失い始めたようだ。

元々の葺石・板石が石垣等に改変され、当時の面影はない。ほとんどの古墳は埋蔵物が盗掘されたか、全てとはいかなくとも発掘済か、もしくは破壊された可能性が高いとのこと。

以下代表的な“おおやまと”古墳の事例を紹介する。



写真は、下池山古墳後円部のみかん畑風景。

下池山古墳は、全長約120m規模の前方後円墳で、全国8番目の大きさの花文鏡が出土。写真のように安山岩の板石を小口積みに改変した姿が見える。



写真は、下池山古墳前方部の柿畑風景。

下池山古墳全長120mほどの墳丘では、柿の栽培が盛んに行われている。
古墳としては、比較的清楚に管理・維持している方である。

→下池山古墳石室の木棺はこうやまき製であったが、中味はほとんど盗掘されていたとか。
→天理市では、5年前より正確な測量データの確保・保存等のため、大和古墳群の発掘調査をスタート。今回の僅か半日ほどの大和古墳巡りの間でも、櫛山・波多子塚両古墳の生々しい発掘現場に出会った。発掘調査に当たっては、土地オーナーの事前了解が必要であるとのこと。

特に西殿塚(全長220mの前方後円墳)のような大型古墳は、宮内庁方針により陵墓の発掘調査が許可されていないだけに、古代大和政権実態解明の鍵を握っていると思われる。



写真は、波多子塚古墳築成断面の様子。

天理市による第4次の発掘調査で、過去の改修・改変工事のためか、出土物には損傷跡がかなりあるとのこと。調査は1997年4月末まで続く。



写真は、櫛山古墳の発掘風景。

櫛山古墳は、全国でも珍しい双方中円墳、周濠工事に伴う事前発掘調査を実施中で、円筒埴輪の一部が覗いて見える。



写真は、櫛山古墳の発掘出土風景。

140m級の前方後円墳に一本のトレンチを入れ、今回は測量を主とした発掘調査とか。東殿塚古墳と酷似した埴輪が出土したと云われている。



写真は、東殿塚古墳の発掘調査跡。

本古墳は、紀元300年ほどの造築で、140mの前方後円墳。山麓を南北筋に横たわり、区画は他古墳同様長方形、発掘トレンチ跡と葺石が見える。
船画の埴輪が出土したことで有名。

→天理市による積極的な発掘調査に対し、一部学者から拙速を批判する向きもあるが、今後の更なる発掘調査結果に大いに期待したい。


箸墓古墳の卑弥呼説復活?

2008年11月24日 | 歴史
箸墓古墳は、戦前から卑弥呼の墓として本命視されてきた、全長272mの古墳前期・巨大前方後円墳で「箸中山古墳」とも呼ばれ、纏向遺跡から数百mの所にある。

桜井市の箸墓古墳は大和朝廷と関係する古墳で、日本書紀には“孝霊天皇皇女の墓”として登場したが、邪馬台国は弥生時代という通説から、卑弥呼とは関係しないとして否定されてきた。

しかし纏向遺跡古墳群から、石塚古墳に代表される前方後円墳の発見で、卑弥呼の時代が古墳時代にスライドし、箸墓古墳卑弥呼説が復活してきた。

石塚古墳出土の板材が、3世紀初頭と鑑定されたことからも、箸墓古墳卑弥呼説・邪馬台国近畿説を一気に浮上させた。

『日本書紀』により“倭迹迹日百襲媛命(やまと・ととひ・ももそ・ひめのみこと)”の墓として築造したと伝えられる箸墓古墳は、邪馬台国の都の有力候補地である纏向遺跡の中にある。

同時代の他の古墳に比較して規模が隔絶しており、また日本各地に類似した古墳が存在し、出土遺物として埴輪の祖形と考えられる吉備系の土器が見つかっている。

以後の古墳の標準になったと考えられる重要な古墳であり、当古墳の築造により古墳時代が開始されたとする向きが多い。
このような背景から桜井市がはっきりと「纏向」の地を邪馬台国に比定した。





写真は、桜井市の三輪山とその右側の箸墓古墳遠景及び箸墓古墳全景。

ダムが造営され景観を添える筈の池が干上がっている状態。箸墓古墳全体のイメージダウンにつながっていると云える。



写真は、箸墓古墳の周辺環境。

当古墳に民家がかくも近接し、車一台がやっと通れるほど。宮内庁・地方行政が、このような結果にどうかかわっていたのか?



写真は、箸墓古墳の荒廃した姿。

恐らくかつては外濠が巡らされていた周辺が、このように田畑と化し、当時の古墳のイメージを壊している。

→箸墓古墳が、宮内庁管轄とはいえ、第7代孝霊天皇の皇后墓として“陵墓参考地”扱いをされてきたことが、写真に見るように、ほかの天皇陵と比較し管理状態がかくもお粗末な結果になったのか?余りの違いは真に残念。

この際、天皇陵との“差別待遇”に便乗して、宮内庁が頑なに拒絶している発掘調査を、箸墓古墳に対してかけてみてはどうであろうかと言いたくなる。

卑弥呼論争・邪馬台国論争をはじめ、日本古代史の重要な部分が解明されるような気がしてならない。
いずれにしても、箸墓古墳が古代史解明のキーファクターの一つと云える。

桜井市の東田大塚古墳とは!

2008年11月22日 | 歴史
桜井市の纏向遺跡にある東田大塚古墳の墳丘北東側250mに亘る発掘調査が
実施され、3世紀後半の土器類が出土、全長96mの最古級前方後円墳であることが判明し、現地説明会も開催された。

今回の発掘結果は、3世紀に存在した邪馬台国畿内説を更に補強する材料となったと思われる。幅21mの周濠跡があることが分かり、その中と縁で3世紀後半と見られる甕やつぼ形の棺が見つかったと云う。





写真は、東田大塚古墳の発掘光景及び出土した壷棺

東田大塚古墳の発掘調査が終了し、埋め戻しているところ。全長96m・周濠21mほどの3世紀後半の最古級前方後円墳であることが判明。



写真は、東田大塚古墳の発掘現場。

東田大塚古墳の発掘現場、大型の甕棺が発掘されたところ。
3世紀後半の土器類が発掘されたことから、邪馬台国畿内説の可能性が更に強まったと言われる。

→纏向遺跡には、古墳時代初頭の古墳が6基あり、“卑弥呼の墓”説の箸墓古墳をはじめ、纏向石塚・矢塚・勝山・ホケノ山の各古墳が、東田大塚古墳同様、3世紀に造られたことが既に分かっている。

桜井市のホケノ山古墳(続報)その2

2008年11月20日 | 歴史
ホケノ山古墳の発掘調査は現在も継続中であるが、今日までに判明した事実関係は以下の通りである。

①「C14年代測定値」(木片の放射線炭素を測定することにより伐採の年代が分かる)によると、AD30~245年であることが実証された。

②画文帯神獣鏡は中国後漢(AD25~220年)時代のもので、中国製で輸入されたものであることは間違いないと云う。日本に輸入され・埋葬されるまでに20~30年かかったとしても、3世紀前半から中頃までの古墳であると云われる。

③今回出土した「庄内式土器」の土質は、東海系のものであると云う。
東海人が古墳築造に狩り出されたのではないかと云う。当時既に東海地方にまで権力が及んでいたと云われる。

④ホケノ山古墳は前期古墳の前兆であると云う。弥生的墳丘墓(多葬埋葬木槨使用等)と前期古墳の特徴(高野マキ製木棺・鏡等の副葬品・方形台等)を併せ持っている。前期古墳はヤマト政権の象徴であり、ヤマト政権の勢力拡大とともに前方後円墳も全国に展開されていった。

以上のような事実から、ホケノ山古墳は3世紀前半から中頃のものであることが判明するとともに、ヤマト朝廷の起源が100年ほど遡り、2世紀末には芽生えていたと云われる。



写真は、ホケノ山古墳・纏向古墳周辺簡略地図。

上記の時代経過・推移を追っていくと、纒向政権(纒向遺跡群は2世紀末~3世紀前半と云われる。)がヤマト政権の起源であり、纒向政権首長の墓がホケノ山古墳の被葬者と考えられる。

又纒向政権を引継いだのが卑弥呼であり、卑弥呼とホケノ山古墳の被葬者は一部同時代を過ごしたと考えられる。

ということから、更に「箸墓古墳が卑弥呼の墓ではないか!」と推論する。

邪馬台国はヤマトに存在したことはもはや確定的になったと云われている。

桜井市のホケノ山古墳 その1

2008年11月19日 | 歴史
ホケノ山古墳は全長約80m、纒向扇状地の南端にあたる小台地上に築かれた帆立貝式の前方後円墳で、埋葬施設の中から20個以上の「庄内式」と呼ばれる士師器が見つかったことから、3世紀中頃までの築造と断定したと云う。

これまでは約300m西にある箸墓古墳や同じ桜井市にある纒向石塚古墳と共に3世紀後半に造られたと見られていたが、数十年遡り日本最古の古墳に属する。

「魏志倭人伝」の邪馬台国が登場する時期の築造になることから、邪馬台国畿内説の傍証として卑弥呼論争に一石を投じている。





写真は、ホケノ山古墳及びホケノ山古墳の発掘調査現場。
平成12年4月に開催された現地説明会の風景。

今回の新発見に対して、当日一日だけで7,000人以上の考古ファンが集まるほど注目を集めている。

卑弥呼の時代に繋がる偉大な人物の墓ではないかと見られる根拠・理由には以下のような裏付けが挙げられる。

①埋葬施設が「石囲いの木槨」と呼ばれ、墳丘に掘った穴の内壁には人頭大の石を積み上げ、内部は木を天井まで組んで、更に天井の上に石を積む構造。

木槨は、古墳が登場する前の2~3世紀に築かれた弥生墳丘墓に見られ、石囲いにしたのは古墳に石室が造られるようになるまでの過渡的な形式と見られている。

「石囲い木槨」の内部には長さ約5mのコウヤマキ製の長大な刳り抜き式木棺が納められていたと云う。木棺の木片が見つかったらしい。

木の棺・木の部屋・石の部屋等幾重にも厳重に包み込まれた構造や大規模墳丘等は稀に見る偉大な人物の墓と考えられる。

②出土した二重口縁壷は、土器の編年上「庄内式」と呼ばれるモノ。



写真は、当古墳から出土した「庄内式士師器」。

二重の口縁のうち、上段の口縁には二重の突出したツブツブの文様が貼り付け巡らされ、将に「庄内式」として3世紀中頃築造を裏付ける物証に相応しいと云う。

③木棺の中からは中国後漢(紀元後25~220年)で造られたと見られる画文帯神獣鏡が見つかった。



写真は、当古墳から出土した画文帯神獣鏡。

直径約19cmあり、製作年代から中国の史書「魏志倭人伝」に登場する邪馬台国の時期に一部一致する。
この他にも内行花文鏡等の破片も見つかっていると云う。

④棺内には多量の水銀朱が見られると共に数多くの副葬品が納められていた。





写真は、当古墳から出土した銅鏃及び鉄鏃。

銅鏃60本以上・鉄鏃60本以上・鉄製刀剣類10口等々、被葬者の社会的・政治的地位を暗示する高貴な副葬品が出土している。

この地域が大和政権誕生と深いかかわりを持つだけに、今回の一連の貴重な発見は、邪馬台国畿内説を傍証するに足るに充分と思われる。

桜井市の纏向勝山古墳詳述!!

2008年11月17日 | 歴史
纏向勝山古墳は、後円部径65m・墳丘長110m強の規模を有する前方後円墳。

今回の溜池改修工事に伴う事前調査で、約200点にものぼる木材・木製品が出土した。

墳丘側から一括投棄された状態で土器片・木屑片などが出土し、中でも手斧による加工痕跡が残る建築部材、丸太状の柱材23点・板材26点などが検出されたと云う。

朱が塗られたモノや付着したモノが多く認められ、墳丘上で執行された何らかの祭祀で使用された後、一括廃棄されたものと考えられている。







写真は上から、纒向勝山古墳現場2点及び周濠から木材出土状況。

当古墳周辺には、卑弥呼の墓との説がある巨大な箸墓古墳、3世紀中頃築造されたホケノ山古墳や3世紀初頭の木製品が見つかった纒向石塚古墳など3世紀代の古墳が集中する。



写真は、本古墳出土のヒノキ材クローズアップ写真。

平成13年の調査で検出された歴史的ヒノキ材で、長さ41cm・幅26cm・厚さ2cmのヒノキ材は、年輪年代法により伐採年代を推定した結果、遅くとも211年までに伐採されたと測定された。

伐採年と古墳築造年代は近いと見られ、古墳時代の年代はぐっと遡って3世紀初め頃と見直され、従来の通説であった3世紀後半から大幅に前倒しされることになる。

今回の大発見で、邪馬台国の女王・卑弥呼の時代は弥生時代とする通説が見直され、“倭国大乱”は弥生時代から古墳時代への過渡期と見られる。

古墳の築造が始まった時期は、卑弥呼が活躍した3世紀前半まで遡ることにより、邪馬台国畿内説が更に有力になったと考えられる。

又100m前後の古墳が当地大和を中心とする地域で次々と造られていったことと合わせ、「邪馬台国は大和である」と云う結論に更に一歩近づいたと云える。

纏向遺跡に夢見るロマン!!その2

2008年11月13日 | 歴史
「纒向遺跡に夢見るロマン!!」を更に続ける。
2、纏向遺跡から出土する土器には、大和以外の地域で作られたものが多く見
られ、全体の15%がいわゆる「搬入土器」といわれ、搬入土器の出身地は南関東から北部九州までの広範囲に亘っているとのこと。

関東系・東海・北陸・近江・河内・播磨・吉備・山陰・瀬戸・北部九州等に大別できるそうだ。

搬入土器には煮炊き用の瓶の出土が多く見られ、各地から人々が纏向へ来た際、食生活慣習やローカルな生活文化を土器・道具等と共に搬入し、人間交流が盛んに行われていたことを物語っている。

又出土物の中には、朝鮮半島からのモノも見られ、これらの土器と共に大陸や朝鮮半島の高度な技術も、纏向に伝わってきたことを明らかにしていると云える。

以上のように、纏向地方の人的・物的・ノーハウ的国内外交流は、全国的なレベルに比較しても、かなり高度な文化レベルに達していたと想像できる。
文化・交易・技術等の面でも当時の日本をリードしていたと云える。



写真は、纒向古墳群から出土した土器類。

地域別に分別・展示されている土器類。南関東から北部九州までの広範囲に亘る土器が出土。又韓式系土器も発見され国内外交流・交易が盛んに行われていたことを物語る。

→ところで、大陸との交流の証として最も確かなものは文字の発見であるが、現在までのところ見つかっていない。文字を保存できる媒体が極めて限られているハンディーもあるが、今後の更なる発掘調査結果に期待したい。

3、古墳時代前期の当時、大和地方に環濠集落があったかどうか、現在までの調査結果では、環濠集落はなかったらしいとのこと。

当時の大和政権の広域強力パワーからして、近隣地域は既にコントロール下に治め、あえて環濠を張り巡らす必要はなかったのではないかと想像できる。

纏向遺跡に夢見るロマン!!その1

2008年11月12日 | 歴史
纒向遺跡群は桜井市の北部、天理市と境を接し、烏田川と巻向川に挟まれた扇状地上に広がり、東西2km・南北1.5kmにも及ぶ遺跡で、古墳時代前期を中心としている。

全国にある古墳時代前期の遺跡の中でも、ずば抜けてその規模が大きく、運河・大型墳墓・大型祭殿建物等の建設に見られる大規模な土木建築工事が行われており、又南関東から北部九州に至るまでの各地から持ち込まれた大量の搬入土器が発見されている。

一方纏向石塚古墳をはじめとする“纏向型前方後円墳”に見られる、定型化された発生期の古墳(後円部の長さ2:前方部1の割合)が全国に広がったとされる。

~平成8年の調査では、纏向石塚古墳の築造が3世紀前半(墳丘盛土内から発見された3,600点余りの土器が、全て3世紀前半のモノ)であり、日本最古の前方後円墳であることが確認されており、又導水施設や韓式系土器の発見があったという事実等々から総合判断すると、当時日本の中心地であったであろうと容易に想像できる。

1、平成6年の第80次調査で、古墳時代前期と思われる幅2m・深さ2mほどの大溝と土塁状の高まりを、現在渋谷向山古墳(景行天皇陵)がある近辺で検出し、この高まりの平坦面には、柱穴が1.6mの等間隔で3個並んでいる事実も確認。

これらのことから、この大溝と土塁状の高まりの東側には、豪族居館・倉庫群・工房群等の存在を推測できると言う。

又この地域が第11代垂仁天皇の纏向珠城宮跡の伝承地であることも興味深いし、更にはこの調査で、土塁と柵列を伴ったV字溝も検出されていることは単なる偶然であろうか?

以上のような事実と推測を積み重ねて推理を更に展開すると、現在の大和古墳群を含めた西側の古墳地域に対し、東側には、豪族居館を中心に据えた一大大和政権の行政区域及び大和民族の生活拠点が広がっていたのではないかと、夢とロマンは更に拡大する。

更には若しやこの一大大和政権が卑弥呼の邪馬台国であったかもとロマンは一層飛躍せざるを得ない。

~東側区域の発掘調査は未だ行われていないが、このような大溝と土塁状の高まりを持った施設の発見が、巻野地区内一帯の更なるビックな発見とロマンが多少なりとも現実味を帯びてくることに大いに期待したい。



写真は、纒向石塚古墳発掘現場。

纏向石塚古墳での発掘現場風景で、墳丘盛土内から発見された3,600余りの土器が全て3世紀前半のモノであることが、古墳造営が古墳時代前期と確証。

纏向古墳群の謎々??その2

2008年11月10日 | 歴史
前回に引続き、纒向古墳群の謎に焦点を当ててみる。
前方後円墳の発生が3世紀末といわれていた通説を覆し、邪馬台国は弥生時代という常識が崩れ落ちた。即ち卑弥呼の時代が古墳時代にスライドしてしまったわけである。纏向古墳が邪馬台国であれば、邪馬台国が大和朝廷さらに大王家に直結する可能性も出てきた。

以下そのわけについて、事例を挙げる。

次の写真は、纏向勝山古墳。


勝山古墳は、纏向古墳群の中の一つで、現在隣接地の護岸工事に伴い、工事が遺跡をダメージしないか調査中とのこと。

纏向矢塚古墳


矢塚古墳は纏向古墳群の一つ、全長100mほどの古墳。勝山古墳他と同様未発掘の状態。勝山古墳から僅か数十メートルの所。

纏向大塚古墳


大塚古墳は纏向古墳群の一つ、矢塚古墳から僅か数百メートルの隣接地にあり、周辺は一面農耕地。他古墳同様100mほどの前方後円墳。

巻向小学校と纏向古墳群



正面が石塚古墳に隣接している巻向小学校。この地下から運河跡が発掘、数百メートル先の公団マンション地には住居跡も発見等遺構の山。

→卑弥呼時代に重なる同時代の前方後円墳の数々、宮内庁の管轄外でもあり、又これだけ注目されている遺跡だけに、これらの古墳を一挙に発掘調査対象としてはどうかと思う。

同時代の古墳なのか?何故これだけ密集しているのか?同族系のものか?お互いにどういう関係にあるのか?名前に関連性が窺えないのは何故か?隣接の運河跡とはどういう関係にあるのか?

等々疑問が尽きないだけに、一層のこと全面発掘調査をして、真相解明に役立てて欲しいと思う。

4世紀初頭のものといわれる、京都山城町の椿井大塚山古墳も、箸墓・纏向古墳時代に急接近してきたように思える。



JR京都線架設工事中に発見、現在私有地とのこと。三角縁神獣鏡が32枚出土したことで有名、纏向遺跡の一角に編入されてもおかしくない。

→纒向古墳群は、古墳時代前期にはヤマト王権の支配拠点としての“王都”に当たると思われるが、本古墳が奈良盆地の集落・居館・古墳に与えた影響は大。

纒向古墳群の特徴は、初期の前方後円墳がある一方、一般層の墳墓が散在し、日常雑器や土木具などの遺物が多量に認められていることから、纒向地域が墳墓造営のための拠点として機能していたと見られる。

又大規模な人工水路を掘削して、2.6km以上に亘って縦断した運河が造られ、当該地域の開発拠点であったことが明らかになっている。

更には鍛治生産の痕跡が認められ、鉄鏃や工具などの生産活動が展開され、石製腕輪類・管玉などの生産も行われ、木製のチップが出土したことから、首長の象徴である木製威儀具が生産されたと推測されている。
首長による政治・祭祀が執行されたと見られる。

これらの墳墓造営・土地開発・生産活動などには、全国各地からの移住者を集め、作業に従事させたと見られ、渡来系技術者集団の活躍も見え隠れする。




纏向古墳群の謎謎??その1

2008年11月08日 | 歴史
纏向古墳群の内、石塚古墳の発掘調査が1996年に行われ、前方後円墳の条件である3段の盛り土が段築されていたことが分かり、又出土品の土器や板材から紀元後220年ころの造営とされ、前方後円墳の発生が3世紀末といわれていた通説を覆し、邪馬台国は弥生時代という常識が崩れ落ちた。

即ち卑弥呼の時代が古墳時代にスライドしてしまったわけである。
古墳前期の前方後円墳が大和朝廷につながる大王の古墳で、大和朝廷発生の重要なモニュメントとなっているだけに、箸墓古墳が石塚古墳から僅か数百mに控えていることと合わせ、卑弥呼邪馬台国・近畿説が一気に浮上してきた。

纏向古墳が邪馬台国であれば、邪馬台国が大和朝廷さらに大王家に直結する可能性も出てきたというわけ。



纏向古墳群の中で唯一発掘調査された石塚古墳。
全長93mの前方後円墳で、紀元3世紀前半の築造と判明し、大激震。

桜井市にある纏向遺跡内の古墳の一つで、前方後円墳であり、紀元220年ころの築造であるという、ビックな発見で今迄の通説が崩壊。
卑弥呼=邪馬台国=近畿説が急浮上した由縁。


大和と河内平野古墳群の違い

2008年11月06日 | 歴史
大和前期古墳は、最大の西殿塚古墳が墳丘長約219メートル、最小の火矢塚古墳が墳丘長約49メートルを測り、古墳の大きさには、ばらつきがあることが分かりる。つまり、大和古墳群の構成は、墳形や規模のバラエティに富む。

一方河内平野柏原市から羽曳野市に跨る、玉手山古墳群は墳丘長が100メートル以内にとどまっていて、大きな差のないことが注目される。





写真は、天理市の西殿塚古墳及び柏原市の玉手山古墳群のうち1号墳。

大和古墳群が西殿塚古墳のような大王墳を頂点にして、階層的な古墳群構成をとっていたのに対して、玉手山古墳群は、4~5系列の首長が政治的な同盟関係を基礎に玉手山丘陵を共同墓地として古墳造りを行なっていたと考えられる。

その首長相互には、古墳の墳形や規模を見るかぎり、力の優劣はあまりなかったと推測される。

奈良盆地の東南山麓に沿った大和古墳群が、大王を頂点とする階層的な構成の古墳群に対し、玉手山丘陵上の玉手山古墳群は均質的な構成による古墳群と評価することができる。

河内の代表的な前期古墳群の玉手山古墳群と、大和の代表的な前期古墳群の大和古墳群を比較すると、両者の量的・質的な差異は歴然としており、古市・百舌鳥古墳群の成立を河内勢力の台頭・交替に求めるのは難しい。

大和王権の出先として、河内進出が成り立っていると考える方が理屈にかなっているように思えるが????



河内平野の古墳時代概観

2008年11月04日 | 歴史
5世紀の日本は、中国・朝鮮などとの対外関係もひっ迫し、河内地域のローカル集落政権の30%は渡来人が占め、渡来人による文明開化が進んだ時代。

須恵器・馬具・武器・鉄・金属文化が飛躍的に発達し、現在の大阪の中心部を占めていた河内湖の開拓や大規模な治水工事も可能になった。
そのような技術革新が巨大古墳を生んだのかも知れない。

その技術革新を生んだ聖王として、応神天皇と仁徳天皇が登場するが、その実体についての確かな文献・文字資料はない。









写真は上から、河内平野古墳のマッピング、羽曳野市の応神天皇陵及び堺市の仁徳天皇陵と履中天皇陵。

河内平野には、全国古墳大きさランキングのトップ・仁徳陵の墳丘長486m、第二位の応神陵が425m、第三位の履中陵が360mと巨大王陵が立ち並んでいる。

“仁徳陵”古墳の被葬者が誰で、どの年代に造られたものかを知ることなしには、政権交替も並立も証明できないが、現状不明のまま。

世界有数の巨大墳墓が築造されるためには、背後に膨大な富の蓄積がないと不可能だが、今までの発掘調査結果では奈良盆地・河内平野とも当時の水田跡が少なすぎると云う。

鉄器・陶器・塩などの生産は河内・和泉地方で盛んだったので、河内を独立した王権と考えることも可能だが???

淀川と大和川の水をいったん溜め込んだこの巨大で浅い湖は、古墳時代の上町台地に排水溝を掘るような大工事によって急激に面積を縮小させたと云う。

その跡地の湿地は格好の水田になったはずで、これが河内平野の巨大墳墓を支える経済力だったのではないか?しかしこれまでに、大阪市東部の故河内湖周辺から水田跡は発見されていない。

巨大古墳造営を可能にした、急激な技術革新は、むしろ騎馬民族征服王朝が運んできたとする説もある。河内平野の百舌鳥・古市古墳群の巨大陵墓の有様は、これらの事情を説明する有力な手懸りとなり、6世紀以降の大和朝廷確立への鍵となるかも?

一方で百舌鳥と古市の巨大古墳群の立地は、対外政策の必要性を重視したのではないか?瀬戸内から大阪湾を航行または陸行してきた、朝鮮や中国からの旅行者は、まずは大阪湾の先の丘陵地に、葺き石で白く輝く巨大な人造物・百舌鳥古墳群を見つけて驚嘆したはず。

更に旅行者が東へ、奈良盆地に進もうとすると、その途上で石川・飛鳥川沿いの竹内街道からは古市古墳群に遭遇し、やはりピカピカと輝く巨大な墳墓を眺めながら進むことになった。これら巨大古墳群の宣伝効果は絶大なインパクトがあるはずで、意図的にこれら立地を選んだと考えられる。

「ここで生産力が高まったから王朝や墳墓を造った」というより、「ここが効果的だから造った」という意図からか?

又それまでの呪術的・農耕的な副葬品、玉・鏡・鉄製の武器や農具から、軍事的・騎馬民族的副葬品、甲冑・馬具・金銅製装身具へと劇的に変化。

死後の世界を飾る副葬品は、その被葬者のアイデンティティの証明になる。
“騎馬民族国家征服王朝説”を唱えた最大の根拠でもある。

何らかの“征服”事件が勃発し、王権の交替があったかもしれない。
その時期は4世紀の中盤以降、副葬品が変化し、古墳が巨大化する直前の時代。
中国では五胡十六国(304年の漢の興起から439年の北魏による統一まで)の時代であり、朝鮮では三韓(1-4世紀に朝鮮半島に分布していた部族の馬韓、辰韓、弁韓を合わせた時代)の時代で、東アジア激動の時代でもあった。

新羅系又は百済系の騎馬民族の移動・征服行動があったのでは?
その征服王の名は不明だが、後に仁徳・応神などと呼ばれるあたりの人々であれば、何かと整合するように思えるが・・・・・・。

いずれにしても、陵墓および陵墓参考地は宮内庁管轄で、明治以降は立入り・調査は許されず、もどかしさが残るのは残念。

奈良盆地から全国へ古墳時代概観

2008年11月03日 | 歴史
先ず古墳の各論に入る前に、古墳時代を概観してみる。

古墳時代とは、一般に3世紀前葉から7世紀中頃までの約400年間を指すが、中でも3世紀前葉から6世紀末まで前方後円墳が、北は東北地方から南は九州地方の南部まで造り続けられた時代であり、前方後円墳の世紀ともいわれる。

前方後円墳が造られなくなった7世紀には、方墳・円墳・八角墳などが造り続けられ、終末期と呼ばれている。

日本国家の成立過程から考察すれば、古墳時代前期・中期の古代国家の形成期を経て、後期から終末期にかけて日本の古代国家が成立したと考えられている。

纒向勝山古墳から出土したヒノキ材の伐採年代を年輪年代法で推定した結果、古墳時代の年代はぐっと遡って3世紀初め頃と見直され、従来の通説であった3世紀後半から大幅に前倒しされることになった。

このほか纒向石塚古墳などからの新発見も含め、邪馬台国の女王・卑弥呼の時代は弥生時代とする通説が見直され、「倭国大乱」は弥生時代から古墳時代への過渡期と見られる。





写真は、桜井市の纒向遺跡周辺地図及び桜井市の三輪山と箸墓古墳の遠景。

前方後円墳が大和朝廷につながる大王の古墳で、大和朝廷発生の重要なモニュメントとなっているだけに、箸墓古墳が纒向勝山・石塚古墳などから僅か数百mに控えていることと合わせ、卑弥呼邪馬台国・近畿説が一気に浮上してきた。

纏向古墳群が邪馬台国にあれば、邪馬台国が大和朝廷さらには大王家に直結する可能性も出てきたと云う。

3世紀初頭から中頃に三輪山麓(大和・柳本古墳群)に築かれた倭王国の陵墓は、4世紀の中頃に奈良盆地の北の佐紀古墳群に移り、4世紀の後半から5世紀に古市古墳群・百舌鳥古墳群など河内平野に移る。この事実を、どう考えるか?

河内王朝があったのか?大和との勢力交代があったのか?大和政権をくつがえしたのか?九州からの征服勢力があったのか?アジアからの騎馬民族の攻め込みか?大和王朝が河内に勢力を拡大したのか?等々壮大な疑問がたちはだかる謎々。

◎大和・河内平野の古墳巡り-はじめに

2008年11月02日 | 歴史
今後の準備もあり、1ヶ月ほど休みましたが、本日から再開します。

定年退職後10年余りになるが、その間旧石器・縄文・古墳時代を主体に、全国の遺跡・史跡巡りを楽しんできた。
北は北海道から南は沖縄まで全国制覇を達成したが、今でも新たな発掘・発見があれば、即座に再度出かけて行く。

これまでの旧石器・縄文遺跡巡りの体験・成果の一部は、弊ホームページに投稿しているが、今回は奈良盆地と河内平野の古墳を取上げてみたい。

20年間に及ぶ海外滞在の反動か、その間の離日ブランクを埋めようとしているわけではないが、もっぱら全国行脚が続き、お陰で現役時代のブランクを補って余りあるほど全国津々浦々まで足を延ばしている。

日本人の源流を探し求めるほどに興味は尽きない!

今年前半は、生涯初めての長期療養・リハビリの憂き目に遭遇したが、今後共、体力・足腰が許す限り、生涯をかけた“遺跡巡りの道楽”を続けていきたいという気力は健在である。