今回マスコミで話題となった、長尾山古墳に関連した、宝塚市の代表的な古墳巡りを続けます。
宝塚市は、西は六甲山系、北は長尾山系に囲まれており、市の中心部に武庫川が流れ、中山を中心とする長尾連山に二分されている。
宝塚の「塚」は、「盛り土をした墓(古墳)」を意味するらしい。
ということで、宝塚は文字通り古墳の名称であるが、宝塚には古墳が多くあり、4世紀から7世紀ごろの古墳は200以上にも上り、中でも中山荘園古墳は国の指定史跡。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hamster_4.gif)
中山荘園古墳は、7世紀中頃の飛鳥時代に築造されたと推定され、当時の天皇陵と共通する八角形の墳丘を持つ古墳。
天皇陵以外の数少ない八角墳のなかでも、全体像が明確で遺存状況も良好であり、飛鳥時代の墓制を考える上で重要な遺跡。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hamster_2.gif)
本古墳は、長尾山丘陵の西部に位置し、南に伸びた尾根の突端部に位置し、中山寺白鳥塚古墳の西約400m地点の標高75m付近の丘陵南斜面に築かれている。
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写真は上から、マンションの一角に造園された、中山荘園古墳入口、本古墳の全体像、古墳裏側から望む宝塚市内光景、及び発掘調査当時の出土状況。
本古墳は、マンション建設に先立つ発掘調査により、1982年に発見されたが、古墳のまわりを石列が八角形にめぐり、南側にはお祀りをしたと思われる施設があることが分かった。
当時の天皇陵とも共通する八角形の墳丘で、全体の形が明らかな数少ないものとして、古墳の変化を研究する上で重要であり、国の史跡に指定されている。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hamster_1.gif)
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写真は、2列に巡る列石及び葺石状の張石が崩れ落ちた残礫。
発掘により外護列石が多角形を示すことが判明したため注目を集め、1984年未発掘部分の西側約200㎡の学術調査を実施し、古墳の全容が明らかになった。
本古墳の規模は径約13m・高さ約2.6mで墳丘は円墳状を呈し、周囲の外護列石が八角墳を意図した多角形。
列石は北から南へ傾斜し、墳丘裾に6面に巡っており、一部で2~4列検出されたが、基本的には2列。
また南面する前庭部にはテラス状の張り出し部があり、その裾部にも葺石状にこぶし大の石を張り付けている。
これらの遺構は古墳の前庭部における墓前祭祀の場と考えられる。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hamster_3.gif)
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写真は、本古墳の横穴式石室。
主体部は全長約4.5mの横穴式石室で、極めて特異な形をした羨道部を作っており、玄室部はやや持ち送りにより、アーチ状の天井になって、幅約1.3m・奥行き約3.4m・高さ約1.3m。
石室内の床には全面に板石が敷かれ、この中央部にベンガラによる赤色顔料が見られ、この場所に木棺があったと考えられている。
羨道部は幅約70cm・長さ約1.2mで玄室部に挿入されたような形で構築され、この幅では羨道の本来持つ機能は果たされておらず、痕跡的で、類例のない特殊な構造をしており、終末期古墳の特徴かもしれない。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hamster_4.gif)
石室内からは備前焼のすり鉢片などが出土しただけで、盗掘されたらしい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/30/6ed91b07ec2371eb2e22072fd56e1a6e.jpg)
写真は、奈良県明日香村の天武・持統合葬陵。
八角墳は、天智天皇陵・中尾山古墳(文武天皇陵)・段ノ塚古墳(舒明天皇陵)・天武持統合葬陵等、天皇陵クラスの古墳が多く、築造時期も7世紀の第3四半期ごろに出現すると考えられてきたが、近年群馬県・広島県・東京都などで八角墳と見られる古墳が見つかっている。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hamster_2.gif)
天皇陵など律令国家成立期の八角墳化については、中央集権国家の成立過程で作られたとする論拠が主流だが、その他の地方豪族が多角墳を作ることの意味は明確ではなく、今後の研究に待つべき点が多いが、被葬者は地元の有力豪族と考えられている。
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写真は、宝塚市の売布神社境内入口及び本神社神殿。
中山荘園古墳の西南200m余りの所にある、売布神社は西暦610年頃の創建で、天照主神の娘・下照姫神と夫君の天稚彦神(アメノワカヒコノカミ)を祀っている。
下照姫神は、当地の里人が飢えと寒さで困窮しているのを愁い、稲を植え、麻を績ぎ、布を織ることを教え、その後豊かになった里人が下照姫神を祀ったという伝承が残る。
現在でも、衣・食・財の神様として繊維・食品や金融業界の信仰が厚いと云う。
又売布神社の東方には聖徳太子の創建と伝えられる中山寺、西側には平安時代初期の宇多天皇の創意とされる清荒神清澄寺が所在する。
中山寺は、「安産の観音様」として各地からの参拝者で賑わう格式の高い寺で、清荒神清澄寺は、「かまどの神様」「火の神様」として厚い信仰を集めている。
と云うように、当地は古代から信仰深い里人の存在を想い知らされる。
売布神社は、元々古代・川辺郡に住んでいた物部氏の一族・若湯坐連(わかゆえのむらじ)の祖・物部意富売布連(もののべおおめふのむらじ)を祀っていたとの説がある。
本古墳辺り一帯は物部氏一族が拠点としていた地で、物部氏の祖神は、天皇家に服属していた。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hamster_4.gif)
その後、物部氏は蘇我氏との宗教戦争に敗れるまで、朝廷の軍事・警察を担当し、「物部軍団」を率いて天皇家において最も重要な豪族として活躍することになる。
大化改新後、天皇中心の政治制度が確立されると、天皇家の司祭としての物部氏の存在が改めて見直されたと云う。
このような背景から、中山荘園古墳の八角墳化は、物部氏一族を通じて当時の天皇家の影響を受けた産物ではないか?![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hamster_7.gif)
宝塚市は、西は六甲山系、北は長尾山系に囲まれており、市の中心部に武庫川が流れ、中山を中心とする長尾連山に二分されている。
宝塚の「塚」は、「盛り土をした墓(古墳)」を意味するらしい。
ということで、宝塚は文字通り古墳の名称であるが、宝塚には古墳が多くあり、4世紀から7世紀ごろの古墳は200以上にも上り、中でも中山荘園古墳は国の指定史跡。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hamster_4.gif)
中山荘園古墳は、7世紀中頃の飛鳥時代に築造されたと推定され、当時の天皇陵と共通する八角形の墳丘を持つ古墳。
天皇陵以外の数少ない八角墳のなかでも、全体像が明確で遺存状況も良好であり、飛鳥時代の墓制を考える上で重要な遺跡。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hamster_2.gif)
本古墳は、長尾山丘陵の西部に位置し、南に伸びた尾根の突端部に位置し、中山寺白鳥塚古墳の西約400m地点の標高75m付近の丘陵南斜面に築かれている。
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写真は上から、マンションの一角に造園された、中山荘園古墳入口、本古墳の全体像、古墳裏側から望む宝塚市内光景、及び発掘調査当時の出土状況。
本古墳は、マンション建設に先立つ発掘調査により、1982年に発見されたが、古墳のまわりを石列が八角形にめぐり、南側にはお祀りをしたと思われる施設があることが分かった。
当時の天皇陵とも共通する八角形の墳丘で、全体の形が明らかな数少ないものとして、古墳の変化を研究する上で重要であり、国の史跡に指定されている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hamster_1.gif)
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写真は、2列に巡る列石及び葺石状の張石が崩れ落ちた残礫。
発掘により外護列石が多角形を示すことが判明したため注目を集め、1984年未発掘部分の西側約200㎡の学術調査を実施し、古墳の全容が明らかになった。
本古墳の規模は径約13m・高さ約2.6mで墳丘は円墳状を呈し、周囲の外護列石が八角墳を意図した多角形。
列石は北から南へ傾斜し、墳丘裾に6面に巡っており、一部で2~4列検出されたが、基本的には2列。
また南面する前庭部にはテラス状の張り出し部があり、その裾部にも葺石状にこぶし大の石を張り付けている。
これらの遺構は古墳の前庭部における墓前祭祀の場と考えられる。
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写真は、本古墳の横穴式石室。
主体部は全長約4.5mの横穴式石室で、極めて特異な形をした羨道部を作っており、玄室部はやや持ち送りにより、アーチ状の天井になって、幅約1.3m・奥行き約3.4m・高さ約1.3m。
石室内の床には全面に板石が敷かれ、この中央部にベンガラによる赤色顔料が見られ、この場所に木棺があったと考えられている。
羨道部は幅約70cm・長さ約1.2mで玄室部に挿入されたような形で構築され、この幅では羨道の本来持つ機能は果たされておらず、痕跡的で、類例のない特殊な構造をしており、終末期古墳の特徴かもしれない。
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石室内からは備前焼のすり鉢片などが出土しただけで、盗掘されたらしい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/30/6ed91b07ec2371eb2e22072fd56e1a6e.jpg)
写真は、奈良県明日香村の天武・持統合葬陵。
八角墳は、天智天皇陵・中尾山古墳(文武天皇陵)・段ノ塚古墳(舒明天皇陵)・天武持統合葬陵等、天皇陵クラスの古墳が多く、築造時期も7世紀の第3四半期ごろに出現すると考えられてきたが、近年群馬県・広島県・東京都などで八角墳と見られる古墳が見つかっている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hamster_2.gif)
天皇陵など律令国家成立期の八角墳化については、中央集権国家の成立過程で作られたとする論拠が主流だが、その他の地方豪族が多角墳を作ることの意味は明確ではなく、今後の研究に待つべき点が多いが、被葬者は地元の有力豪族と考えられている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/20/857268a8c60d16352984490deef61a4d.jpg)
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写真は、宝塚市の売布神社境内入口及び本神社神殿。
中山荘園古墳の西南200m余りの所にある、売布神社は西暦610年頃の創建で、天照主神の娘・下照姫神と夫君の天稚彦神(アメノワカヒコノカミ)を祀っている。
下照姫神は、当地の里人が飢えと寒さで困窮しているのを愁い、稲を植え、麻を績ぎ、布を織ることを教え、その後豊かになった里人が下照姫神を祀ったという伝承が残る。
現在でも、衣・食・財の神様として繊維・食品や金融業界の信仰が厚いと云う。
又売布神社の東方には聖徳太子の創建と伝えられる中山寺、西側には平安時代初期の宇多天皇の創意とされる清荒神清澄寺が所在する。
中山寺は、「安産の観音様」として各地からの参拝者で賑わう格式の高い寺で、清荒神清澄寺は、「かまどの神様」「火の神様」として厚い信仰を集めている。
と云うように、当地は古代から信仰深い里人の存在を想い知らされる。
売布神社は、元々古代・川辺郡に住んでいた物部氏の一族・若湯坐連(わかゆえのむらじ)の祖・物部意富売布連(もののべおおめふのむらじ)を祀っていたとの説がある。
本古墳辺り一帯は物部氏一族が拠点としていた地で、物部氏の祖神は、天皇家に服属していた。
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その後、物部氏は蘇我氏との宗教戦争に敗れるまで、朝廷の軍事・警察を担当し、「物部軍団」を率いて天皇家において最も重要な豪族として活躍することになる。
大化改新後、天皇中心の政治制度が確立されると、天皇家の司祭としての物部氏の存在が改めて見直されたと云う。
このような背景から、中山荘園古墳の八角墳化は、物部氏一族を通じて当時の天皇家の影響を受けた産物ではないか?
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