近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

宝塚市の中山荘園古墳とは!

2010年10月31日 | 歴史
今回マスコミで話題となった、長尾山古墳に関連した、宝塚市の代表的な古墳巡りを続けます。

宝塚市は、西は六甲山系、北は長尾山系に囲まれており、市の中心部に武庫川が流れ、中山を中心とする長尾連山に二分されている。

宝塚の「塚」は、「盛り土をした墓(古墳)」を意味するらしい。

ということで、宝塚は文字通り古墳の名称であるが、宝塚には古墳が多くあり、4世紀から7世紀ごろの古墳は200以上にも上り、中でも中山荘園古墳は国の指定史跡。

中山荘園古墳は、7世紀中頃の飛鳥時代に築造されたと推定され、当時の天皇陵と共通する八角形の墳丘を持つ古墳。

天皇陵以外の数少ない八角墳のなかでも、全体像が明確で遺存状況も良好であり、飛鳥時代の墓制を考える上で重要な遺跡。

本古墳は、長尾山丘陵の西部に位置し、南に伸びた尾根の突端部に位置し、中山寺白鳥塚古墳の西約400m地点の標高75m付近の丘陵南斜面に築かれている。









写真は上から、マンションの一角に造園された、中山荘園古墳入口、本古墳の全体像、古墳裏側から望む宝塚市内光景、及び発掘調査当時の出土状況。

本古墳は、マンション建設に先立つ発掘調査により、1982年に発見されたが、古墳のまわりを石列が八角形にめぐり、南側にはお祀りをしたと思われる施設があることが分かった。

当時の天皇陵とも共通する八角形の墳丘で、全体の形が明らかな数少ないものとして、古墳の変化を研究する上で重要であり、国の史跡に指定されている。





写真は、2列に巡る列石及び葺石状の張石が崩れ落ちた残礫。

発掘により外護列石が多角形を示すことが判明したため注目を集め、1984年未発掘部分の西側約200㎡の学術調査を実施し、古墳の全容が明らかになった。

本古墳の規模は径約13m・高さ約2.6mで墳丘は円墳状を呈し、周囲の外護列石が八角墳を意図した多角形。

列石は北から南へ傾斜し、墳丘裾に6面に巡っており、一部で2~4列検出されたが、基本的には2列。

また南面する前庭部にはテラス状の張り出し部があり、その裾部にも葺石状にこぶし大の石を張り付けている。

これらの遺構は古墳の前庭部における墓前祭祀の場と考えられる。



写真は、本古墳の横穴式石室。

主体部は全長約4.5mの横穴式石室で、極めて特異な形をした羨道部を作っており、玄室部はやや持ち送りにより、アーチ状の天井になって、幅約1.3m・奥行き約3.4m・高さ約1.3m。

石室内の床には全面に板石が敷かれ、この中央部にベンガラによる赤色顔料が見られ、この場所に木棺があったと考えられている。

羨道部は幅約70cm・長さ約1.2mで玄室部に挿入されたような形で構築され、この幅では羨道の本来持つ機能は果たされておらず、痕跡的で、類例のない特殊な構造をしており、終末期古墳の特徴かもしれない。

石室内からは備前焼のすり鉢片などが出土しただけで、盗掘されたらしい。



写真は、奈良県明日香村の天武・持統合葬陵。

八角墳は、天智天皇陵・中尾山古墳(文武天皇陵)・段ノ塚古墳(舒明天皇陵)・天武持統合葬陵等、天皇陵クラスの古墳が多く、築造時期も7世紀の第3四半期ごろに出現すると考えられてきたが、近年群馬県・広島県・東京都などで八角墳と見られる古墳が見つかっている。

天皇陵など律令国家成立期の八角墳化については、中央集権国家の成立過程で作られたとする論拠が主流だが、その他の地方豪族が多角墳を作ることの意味は明確ではなく、今後の研究に待つべき点が多いが、被葬者は地元の有力豪族と考えられている。





写真は、宝塚市の売布神社境内入口及び本神社神殿。

中山荘園古墳の西南200m余りの所にある、売布神社は西暦610年頃の創建で、天照主神の娘・下照姫神と夫君の天稚彦神(アメノワカヒコノカミ)を祀っている。

下照姫神は、当地の里人が飢えと寒さで困窮しているのを愁い、稲を植え、麻を績ぎ、布を織ることを教え、その後豊かになった里人が下照姫神を祀ったという伝承が残る。

現在でも、衣・食・財の神様として繊維・食品や金融業界の信仰が厚いと云う。

又売布神社の東方には聖徳太子の創建と伝えられる中山寺、西側には平安時代初期の宇多天皇の創意とされる清荒神清澄寺が所在する。

中山寺は、「安産の観音様」として各地からの参拝者で賑わう格式の高い寺で、清荒神清澄寺は、「かまどの神様」「火の神様」として厚い信仰を集めている。

と云うように、当地は古代から信仰深い里人の存在を想い知らされる。

売布神社は、元々古代・川辺郡に住んでいた物部氏の一族・若湯坐連(わかゆえのむらじ)の祖・物部意富売布連(もののべおおめふのむらじ)を祀っていたとの説がある。

本古墳辺り一帯は物部氏一族が拠点としていた地で、物部氏の祖神は、天皇家に服属していた。

その後、物部氏は蘇我氏との宗教戦争に敗れるまで、朝廷の軍事・警察を担当し、「物部軍団」を率いて天皇家において最も重要な豪族として活躍することになる。

大化改新後、天皇中心の政治制度が確立されると、天皇家の司祭としての物部氏の存在が改めて見直されたと云う。

このような背景から、中山荘園古墳の八角墳化は、物部氏一族を通じて当時の天皇家の影響を受けた産物ではないか?






宝塚市の万籟山古墳とは!

2010年10月29日 | 歴史
万籟山古墳(ぱんらいさん)は、長尾山丘陵の東にある、4世紀の終り頃・古墳時代前期に築かれた前方後円墳。

本古墳は、宝塚市切畑字長尾山にあり、長尾山系の八州嶺から南にのびる標高200m付近の南北方向の尾根上に築造された前方後円墳で、雲雀丘ゴルフ場の西側一角の尾根上にあり、昭和45年に市の史跡に指定されている。

前方部を南に向け、全長54m・後円部の直径37m・高さ5m・前方部の高さ2mほどで、自然地形を利用し一部に盛土を施していると云う。

本古墳は、平成22年10月、巨大な粘土槨が出土したことで話題となり、現地説明会が行なわれた、“長尾山古墳”と同じ前期古墳として、主体部に竪穴式石室を持つ。



写真は、万籟山古墳丘陵の様子。

宝塚市の古墳は大きく分けて、武庫川と猪名川の間に挟まれた長尾山丘陵と、武庫川の南西部の段丘上に築かれた古墳、北部西谷地区の大原野周辺の古墳に分かれる。

単独墳としては、長尾山丘陵に見られる万籟山古墳、長尾山古墳、中山寺白鳥塚古墳、中山荘園古墳などがあるが、これらの古墳はこの地域の豪族の中でも有力な豪族の墳墓と考えられている。

万籟山古墳の立地は、南にのびる尾根の頂部の標高200m地点に築かれ、西摂津平野を一望できる、見晴らしの良い場所に造られている。



写真は、万籟山古墳の竪穴式石室。

本古墳墳丘は、山の尾根を整形して築かれており、北側の円丘部分に、長大な竪穴式石室を築いている。

墳丘面には葺石・埴輪があるが、埋葬施設として、ほぼ完存する南北方向の竪穴式石室は花崗岩で造られ、全長6.8m・床幅0.9m・天井幅0.5m・高さは95~105cmを測る。

この石室は、石材を周辺の石切山や猪名川河床の扁平な石材を用いて築いたらしく、総量ではトラック数台分の石材を運んだものと考えられ、一人の個人を葬るために莫大な人力を要していたことが窺われる。

天井石は地表より60cmほどの深さに12枚現存するが、元は13枚以上あったらしい。石室側面は割石を小口積みし、南と北の壁はほぼ垂直に、東と西の壁は上へむかって持ち送りにしている。

本古墳は、数少ない竪穴武石室の好例として全国的に著名で、各地域にヤマト政権と密接に結びついた有力豪族が、その偉容を示すステータス・シンボルとして築いたものと考えられている。

遺体を納めた木棺は、割竹形木棺とよばれ、高野槙の長大な木を縦に割り、中を刳りぬいて作ったもので、その中には遺体と共に生前、被葬者が使っていた銅鏡・玉類・剣等を納めている。この木棺は腐敗し残っていないが、その棺を支えた∪字形の棺台の跡が残っていると云う。

木棺の幅は約90cm・高さ約1mで、基礎部分を造った後、納棺をして、上方の石室を築き、天井石を載せ、更にその上を土で覆うという手の込んだ手法で葬られている。

U字形の粘土床には、木棺全体を粘土で包みこんだ、粘土槨を持っていたらしく、塗付された赤色のベンガラも粘土内から検出されている。



写真は、万籟山古墳から出土した石釧など石製品。

本古墳から出土したと伝えられる遺物には、倭製四獣鏡、碧玉製管玉、ガラス製小玉、石釧、円形車輪石、琴柱形、鍬先、棒状鉄片などがあり、叉円筒埴輪、朝顔形埴輪、壺形埴輪なども採取され、墳丘には埴輪の配列がなされていたと云う。





宝塚市の白鳥塚古墳とは!

2010年10月27日 | 歴史
平成22年10月に、巨大な粘土槨出土から話題になった、長尾山古墳のある長尾山丘陵には、6世紀から7世紀初頭にわたる古墳時代後期の群集墓が造られている。

それら群集墓のうち、中山寺境内には、“白鳥古墳”と呼ばれる大型の横穴式石室を持つ古墳がある。

全長約15mに及ぶ石室の奥には、家形石棺が安置してあり、7世紀初頭の築造と考えられている。

本古墳は、中山寺境内にあることから、「中山寺古墳」とも呼ばれているが、中山寺は、真言宗中山寺派の大本山。

本古墳は、巨石で築造された横穴式石室と家形石棺を持つことから、昭和35年に兵庫県の史跡に指定されている。







真は、中山寺の山門光景、本寺本堂への登階段及び白鳥古墳墳丘の様子。

本堂への登階段直前を左折すると、直ぐに本古墳に出合う。

本古墳は、長尾山系の山麓段丘上、中山寺境内に立地するが、墳丘の形状は不明で、最大径30m以上の大型円墳か叉は方墳と考えられている。

本古墳は、大仲姫(仲哀天皇の先皇后)の墓と伝えられている一方、大仲姫の子・忍熊皇子(おしくまのおうじ)もこの地に葬られたと伝えられている。

忍熊皇子は瀬田川で亡くなっていること及び忍熊皇子と家形石棺の年代に大きなずれがあることから、聖徳太子が大仲姫と忍熊皇子の霊を中山寺に祀ったと言う伝承により、大仲姫の墓とされたのではないかと想像できる。

本古墳石室や羨道・玄室・家形石棺の造り・石材・規模など、中山寺伝承に相応しい墳墓。
しかし実態は7世紀初め頃に、この地区に勢力を持っていた豪族の墳墓と考えられている。









写真は上から、白鳥塚古墳横穴式石室の遠景及び同古墳の横穴式石室羨道、石室壁面の巨大石材及び石室内の巨大天井石。

羨道部は長さ9.2m・幅2m・高さ2.4mほど大規模で、南向きに開口しており、床には敷石を敷き、5枚以上の天井石を載せてある。



写真は、本古墳の横穴式石室内部と家形石棺。

横穴式石室の玄室は、長さ6m・幅2.5m・高さ3mほどで、玄室の中央奥寄りに、長さ1.9m・幅1.2m・高さ0.5mほどの家形石棺が安置されている。

当石棺はくりぬき式で、蓋には6個の縄掛突起がある。材質は凝灰岩で、播磨龍山の岩を用いたと推定されている。

家形石棺の形態から見ると、7世紀初頭の造営と考えられ、古くから白鳥古墳の名物として保存・公開されているが、石棺に埋葬されているはずの副葬品等の有無は不明。





宝塚市の安倉高塚古墳とは!

2010年10月25日 | 歴史
今回、巨大粘土槨出土で、大いに話題になった、長尾山古墳に関連する古墳群について更に探索する。

先ず安倉高塚古墳は、宝塚市安倉南二丁目の、県道42号線安倉交差点から東50mの市道沿いにある、古墳時代前期の円墳。

本古墳、武庫川東岸にあたる洪積台地面の西端に立地する4世紀代の円墳で、直径16.5m・高さ2.5mを測り、宝塚市史跡に指定されている。

1937年に、道路工事で墳丘の南半分を削られた際、竪穴式石室が発見され、中から赤烏〔せきう〕7年鏡・内行花文鏡などが出土したらしい。

本古墳は、平成22年10月に、巨大な粘土槨が出土したことで話題となり、現地説明会も行なわれた、“長尾山古墳”と同じ前期古墳として、竪穴式石室を持つ。









写真は上から、断面模型のように残された、安倉高塚古墳の残存状況、同古墳正面の石積み断面、同古墳のシートで覆われた墳頂光景、取り残された巨大石材。

昭和12年に、道路工事で墳丘が破壊され、断面模型のような姿のまま今日に至っている。

同古墳主体部には、竪穴式石室内に割竹形木棺が納められ、 ?烏7年銘神獣鏡1面・内行花文鏡1面・碧玉製管玉3個・ガラス小玉2個などが出土した。



写真は、安倉高塚古墳から出土した、赤烏7年銘神獣鏡。

この四神四獣鏡は、白銅製の鋳造の、平縁の銅鏡で、径17.5cm・紐径3.4cm・紐高1.3cmを測り、呉の赤烏7年のものと見られる。

年号の最初の字は不明であるが、中国の年号で「烏」のつくものは呉の「赤烏(せきう)」のみであることから、当鏡は呉の紀年銘鏡と考えられている。

なお、赤烏7年は西暦244年に当たり、赤烏の年号を持つ呉の紀年銘鏡の出土例は、安倉高塚古墳出土鏡のほかに、山梨県西八代郡三珠町に所在する“鳥居原狐塚古墳”から出土した“対置式神獣鏡”(赤烏元年銘 238年)が知られるのみ。

これらの銅鏡は、卑弥呼が魏へ使いを送ったとされる、景初3年(239年)の時代に近く、3世紀代の中国で製作されたと見られる銅鏡の出土から、その入手経路や副葬された事情などを知る上で、叉古代史を解明する上で、欠くことができない貴重な資料。



写真は、安倉高塚古墳から出土した内行花文鏡。

内行花文鏡は日本で真似して作った、ほう製鏡で、径10.9cmだが、写真のように一部は欠損。
墳丘からも、鉄製の刀・矛・鍬などの破片と葺石・円筒埴輪などが出土しているらしい。

河原石積みされた、竪穴式石室は、全長6.3m・高さ60cm・幅75cmほどで、粘土床が残っていたと云い、朱も残っていたらしい。埋葬施設は、割竹形木棺を使っていたと推察されている。

竪穴式石室は、主軸を北東から南西の方向とし、壁に河原石を用いている。

出土した四神四獣鏡の銘文を復元すると「赤烏七年太歳在丙午、昭如日中、造作明竟、百幽 、服者富貴、長楽未央、子孫番昌、可以昭明、…」となるらしい。




宝塚市の長尾山古墳(続)とは!そのⅡ

2010年10月23日 | 歴史
最大・最古級の未盗掘「粘土槨」の発見が話題となった、長尾山古墳の特徴について更に続けます。













写真は上から、長尾山古墳の墓坑に浮く出る粘土槨、同古墳粘土槨に覆いかぶさる陥没坑の様子、墓坑と粘土槨の位置関係、粘土槨に敷かれた礫出土状況、粘土槨内部のイメージ図及び同古墳から出土した円筒埴輪片。

本古墳で、木棺を包んで保護する国内最大で最古級の「粘土槨」が見つかり、同市教育委員会と大阪大考古学研究室が平成22年10月12日に発表した。

周辺から出土した埴輪の形から、古墳時代前期前半の4世紀初めの墳墓とみられている。

粘土槨の中には木棺のほか、貴重な副葬品が入っている可能性が高いという。

粘土槨は、長さ6.7m・幅2.7m・高さ1mほどのかまぼこ状で、規模を総合的に評価すると、国内で10指に入ると云う。良好な粘土を用いて築かれており、粘土の表面は凹凸もなく平滑に仕上げられている。

粘土槨は後円部の墳頂に、長さ8.9m・幅5.0m・深さ2mほどの竪穴を掘り、礫を敷いた上に築かれていたが、墓坑は2段に掘られていた。

造られた当時の形をほぼ保っており、この時代の粘土槨がほぼ完全な状態で確認されたのは初めてとされる。

墓坑底に礫を敷き、墓坑南東隅を開削して北クビレ方向に延びる排水溝を設けるなど入念な構造で、平成20年に発掘された南クビレ部と合わせ、南北両クビレの位置が確定され、正確な墳形が明らかになったと云う。





写真は、本古墳の左クビレ部出土状況及び左クビレ部の埴輪配置状況。

叉北クビレ調査区からは、5本の円筒埴輪がほぼ樹立したままの位置で検出され、そのうちの1本は、底部から突帯の高さまで良好な状態で残存していた。

粘土槨は国内で500例近く確認されているが、大半が盗掘を受け、完全な状態で残るのは極めて珍しい。木棺もほとんど腐敗していないとみられ、内部には銅鏡など多彩な副葬品が残されているとみられる。

長尾山古墳は全長約40mという規模から、大和王権と同盟関係にあった地域首長の墓とみられている。

盗掘しようとした跡はあるが、穴は木棺まで達せず、棺内には鏡や刀剣、甲冑、勾玉などが残っている可能性が高いと云う。

木棺内部の細部調査については、多額の費用がかかるほか、開封すると内部の腐食が進む恐れもあり、方針は決まっていないが、とりあえずいったん埋め戻すことになった。

しかし副葬品の配置を調べることで、当時の思想などを解明する手がかりになるだけに、更なる調査に期待したい。

粘土槨がある同時代の古墳としては、大阪府富田林市の真名井(まない)古墳(前方後円墳、全長60m)、奈良県御所市の鴨都波(かもつば)1号墳(方墳、一辺19m)などにもみられ、被葬者は大和朝廷とのつながりが深い地元の有力者とみられている。

特に、鴨都波1号墳からは古代中国の王朝・魏から邪馬台国の女王・卑弥呼に贈られたとの説がある「三角縁神獣鏡」などが見つかっている。

粘土槨とは、墓穴内に納められた木棺を覆い、保護するための粘土の層で、棺の大きさによって規模が変わる。

古墳時代前期(3~4世紀)に特徴的な埋葬方法で、築造するのに労力のかかる石室の方が、より権力のある人物の墓とされている。

長尾山古墳のある、長尾山丘陵には、他に6~7世紀の古墳時代後期の群集墓が造られ、200基以上の横穴式石室や箱式石棺を持つ古墳が築造された。

叉阪急売布神社駅近くには、7世紀半ばの中山荘園古墳があり、外護列石が八角形を示すことで、天皇陵との関係が取りざたされている。

本古墳は、平成11年に、国の史跡に指定され、現在公園として整備されている。



宝塚市の長尾山古墳(続)とは!そのⅠ

2010年10月21日 | 歴史
ここからは、先週末に現地説明会のあった、長尾山古墳の特徴について紹介したい。

特に今回話題となった、最大・最古級の未盗掘「粘土槨」の発見について触れたい。

長尾山古墳は、猪名川流域に残された数少ない前方後円墳で、何よりも山手台南公園に隣接した、誰もが気軽に立ち寄る場所に立地している。

標高100mほどの長尾山丘陵地の山手台ニュータウンは、1986年以降、阪急電鉄グループなどが開発を進めてきた。









写真は上から、長尾山古墳周辺に広がる山手台ニュータウン、同古墳墳頂から望む大阪市街地方面、地上から見上げる長尾山古墳の森及び同古墳墳丘の様子。

本古墳からは眼下に大阪国際空港、そして梅田や難波のビル街という21世紀の街並みとともに、生駒山から二上山に続く山並み、そして大阪湾と、淡路島という1700年前と変わらない景観が共存している。

本古墳は、1960年代までは前方後円墳と考えられていたが、1969〜70年に行われた測量調査の結果、前方後方墳の可能性も指摘されていた。この時の調査では、墳丘の規模が長さ約36mと推定され、また古墳の頂上部分に埋葬施設の一部が見えていたらしい。

しかしその後、調査らしい調査はなされておらず、正確な墳形・墳丘規模・時期など、その全容は謎に包まれたまま。

そして平成19年に続き20・21年と、長尾山古墳の発掘調査が続けられた結果、墳長約40mの前方後円墳で、出土した埴輪片などから4世紀初頭に遡る猪名川流域では最古の古墳であることが判明。

叉後円部墳頂には墓坑の存在を確信したが、後円部の段築成の構造・墳丘北側のクビレ部の位置・埋葬施設の詳細などは不明であった。

そこで、平成22年8月以降これまでの発掘調査の結果、以下のような新発見が明るみに出た。







写真は、平成22年10月、長尾山古墳の現地説明会光景、今回最大発見の本古墳粘土槨全景及び墓坑に埋められた粘土槨の様子。

長尾山古墳の規模は、墳丘長さ約40m・後円部径約25m・前方部長15mほどで、前方部・後円部とも2段築成の前方後円墳であることが判明。

粘土槨は、古墳前期前半の4世紀初頭頃に畿内で成立した新しい埋葬施設で、竪穴式石室と併存しながら、竪穴式石室の被葬者に次ぐ階層の埋葬施設として用いられたらしい。

本古墳が、最新の埋葬施設をいち早く取り入れている点から、被葬者は大和政権との間に密接な政治関係を結んでいた猪名川流域最初の有力豪族と見られる。

長尾山古墳の存在は、猪名川流域の歴史を探るうえで重要なポイントとなる。

宝塚市の長尾山古墳とは!

2010年10月19日 | 歴史
ここで、奈良県内の古墳巡りから離れて、10月16日に現地説明会があった、宝塚市の長尾山古墳について、飛び込みで取上げたいが、その前に昨年9月に同古墳を巡り歩いたので、当時の様子から紹介したい。

宝塚市は、兵庫県南東部に位置し、国から“特例市”に指定されている。

宝塚市の「塚」は、正式には点のついた「」を用い、宝塚の「塚」はお墓の意味。
この古墳にまつわる伝承から「たからづか」という言葉が生まれたと云う。

宝塚市の古墳は大きく分けて、武庫川と猪名川の間に挟まれた長尾山丘陵と、武庫川の南西部の段丘上に築かれた古墳群、北部西谷地区の大原野周辺の古墳群にわかれる。







写真は上から、宝塚市山手台の長尾山全景、長尾山古墳の墳頂から望む市街地光景及び墳頂に広がる住宅街。

宝塚市の古墳の90パーセント以上を占めるのは群集墳。

群集墳が最も多いのは長尾山丘陵で、雲雀丘から山本にかけて分布が密になっており、300近い古墳があったと考えられている。

しかし風光明媚な住環境・交通の利便性などから、昭和初頭以降の宅地開発によって、数多くの古墳が破壊されてしまったと云う。







写真は、長尾山古墳内の散策道及び同古墳に散乱している葺石片。

長尾山古墳は1960年代までは前方後円墳と考えられてきたが、1969〜70年に行われた測量調査により、前方後方墳である可能性が指摘された。

この時の調査では、墳丘の規模が長さ36m程度・後方部の長さ約25m・高さ4mほど・前方部の高さ約1.5m。葺石と埴輪も検出されている。

埋葬施設は、主軸をほぼ南北方向に設定された粘土槨と想定され、長さ4.5m・幅1mほどの範囲で黄白色粘土が認められている。

埴輪から5世紀前半の築造と考えられ、長尾山に多数分布する古墳群の中で唯一の中期古墳である。

その後、発掘調査は一切なされておらず、正確な墳形・墳丘規模や造築時期など、詳しい全容は謎に包まれたまま。

前述の発掘調査では、各調査区で葺石の基底石が検出され、西クビレ部や前方部の調査結果から長尾山古墳が少なくとも2段以上の築成であることが明らかになった。

長尾山古墳では2段の葺石が確認され、一段目の葺石斜面と二段目の葺石斜面の間にはテラス面が設けられていた。
このテラス面には埴輪が配置されていたことも確かめられた。

使用されている石材は最大で40cmほどで、基底石には大きな石材が使用されていたと云う。





写真は、長尾山古墳から出土した朝顔形埴輪出土状況及び奈良市杉山古墳出土の5世紀後半の朝顔形埴輪。

埴輪のうち、写真の朝顔形埴輪(朝顔の花が咲いているような形状をもつ埴輪)とみられる頸部(けいぶ)の破片もみつかった。

このような特徴をもつ朝顔形埴輪は非常に少なく、わずかに奈良県天理市の東殿塚古墳、奈良市の杉山古墳や大阪府柏原市の玉手山3号墳などでみつかっているにすぎず、これらはいずれも4世紀初頭~5世紀後半に築造された古墳であることから、この長尾山古墳も同時期に築造された古墳である可能性が高いと考えられる。





奈良県明日香村の斉明天皇陵の真相とは!そのⅡ

2010年10月16日 | 歴史
斉明天皇陵の真相について更に続けます。

斉明天皇は、巨石による土木工事を好んだとされ、被葬者が同天皇であることがほぼ確実になったと云う。





写真は、牽午子塚古墳墳丘の様子及び八角形の輪郭が残る土盛。

明日香村教委は、飛鳥地方の古墳群と藤原宮跡の世界遺産登録に向け、牽牛子塚古墳を平成21年9月から調査。高さ約4.5mの墳丘の裾は、上からみると八角形状に削られており、北西の裾から3m辺分の石敷き(長さは約14m)が見つかった。

縦40~60cm・横30~40cmの凝灰岩の切り石が石畳のように、幅約1mで3列にすき間なく並べられており、八角形になるように途中で約135度の角度で折れ曲がっていたと云う。

写真のように、墳丘は対辺の長さが、約22mで3段構成だったと推定され、石敷きの外側に敷かれた砂利部分を含めると約32mに及ぶという。

三角柱状に削った白い切り石やその破片が数百個以上出土し、村教委は、これらの石約7,200個をピラミッド状に積み上げて斜面を飾っていたとみている。





写真は、牽午子塚古墳の石槨入口及び石槨内部の構造。

また、墳丘内の石室(幅5m・奥行き3.5m・高さ2.5mほど)の側面が柱状の巨大な16の安山岩の切り石(高さ約2.8m・幅1.2m・厚さ70cmほど)で囲まれていたことも確認された。

過去の調査では、写真の通り、石室が二つの空間に仕切られていたことが判明している。

斉明天皇と娘の間人皇女(はしひとのひめみこ)が合葬されたとみられる横口式石槨の入り口から、約80トンの凝灰岩の巨石を刳り抜いて造られた内部を覗き見ることができた。

「石槨に使われている石が非常に巨大で迫力があった」とのコメントも聞かれたが、「どのように運んできたのかを考えると不思議で、葬られた人の力の大きさを感じる」との話も聞かれた。

斉明天皇と娘の間人皇女(はしひとのひめみこ)を合葬したと記された日本書紀の記述と合致するほか、漆と麻布を交互に塗り固めて作る、最高級の夾紵棺(きょうちょかん)の破片や間人皇女と同年代の女性とみられる歯などが出土していた。

これまでの発掘成果と合わせ、「一般の豪族を超越した、天皇家の権威を確立するという意思を感じる。斉明天皇陵と考えるほかない」など、専門家らの意見はほぼ一致している。





写真は、高取町の車木ケンノウ古墳・斉明天皇陵及び地図上、その東北に位置する牽午子塚古墳。

宮内庁は牽午子塚古墳の南西、約2.5km離れた、直径約45mの円墳・“車木(くるまぎ)ケンノウ古墳”を、文献や伝承などから斉明天皇陵に指定。

今回の新発見に対して、宮内庁は「墓誌など明らかな証拠が出ない限り、指定は変えない」としている。

出土遺物については、夾紵棺片や七宝亀甲形座金具、ガラス玉等があり、夾紵棺の一部や閉塞石の内扉は、明日香村埋蔵文化財展示室で常設展示されている。

築造年代については出土遺物等から7世紀後半頃と考えられている。




奈良県明日香村の斉明天皇陵の真相とは!そのⅠ

2010年10月14日 | 歴史
明日香村は歴史ロマンの郷、日本の原風景と言われ、“飛鳥の棚田”などは多くの来訪者を迎えてきた。

明日香村については、わが国の律令国家が形成された時代における政治・文化の中心的な地域であり、往時の歴史的、文化的資産が村の全域にわたって数多く存在し、周囲の環境と一体となって、他に類を見ない貴重な歴史的風土を形成している。





写真は、牽午子塚古墳辺りから望む、手前葛城山と後方の金剛山及び本古墳周辺の収穫直前の田園風景。

こうした明日香村の貴重な歴史的風土は、農林業等の産業をはじめとする明日香村住民の日常的な生活の中で保存され育まれてきた。

それだけに明日香村における歴史的風土を将来にわたって良好に保存していくためには、住民生活の安定や産業の振興との調和が不可欠であると云える。

今回話題となった国指定史跡の“牽午子塚古墳”は、645年の大化改新で知られる、中大兄皇子=天智天皇の母、斉明天皇(594~661)の墓との説があるのは、当時の天皇家に特有の八角形墳であることが確認されたため。









写真は上から、牽午子塚古墳現場の厳重に囲まれた、現地説明会後の発掘現場光景、本古墳墳丘の様子、田圃から見上げる本古墳の遠景。本古墳脇から望む金剛山と葛城山光景。





写真は、明日香村の牽午子塚古墳の発掘現場と現地説明会の行列。

平成22年9月11日の現地説会には、朝から2,000人以上が行列をつくり、考古ファンの関心の深さを物語る。





写真は、墳丘の周囲に敷かれた切り石の並んだ形状から、八角形墳とわかった牽牛子塚古墳とその復元想像図。

墳丘全面が白い切り石で飾られ、内部の石室も巨大な柱状の切り石で囲われた例のない構造だったことも判明。




奈良県明日香村の岩屋山古墳とは!

2010年10月12日 | 歴史
岩屋山古墳は、近鉄飛鳥駅のすぐ西方に位置し、7世紀前半の築造で、国の史跡に指定されている。

終末期古墳である、牽牛子塚古墳やマルコ山古墳などが点在する真弓丘の東端にあたる。

本古墳は、石舞台古墳などと同程度の規模で、石室は表面を磨いた、整美な切石造の横穴式石室であり、ほぼ南面して開口している。

残念ながら、封土の西側半分ほどは、削り取られている。









写真は上から、岩屋山古墳入口の案内石碑、民家に挟まれた岩屋山古墳遠景、本古墳から望む明日香村落の光景及び本古墳の削り取られた西側墳丘斜面の様子。

昭和53年には史跡環境整備事業に伴う発掘調査が実施され、調査の結果、墳丘は1辺約40m・高さ約12mの2段築成の方墳で、墳丘は土壁や建築の基礎部分を堅固に構築するために、古代から用いられてきた工法で築かれており、下段テラス面には礫敷が施されていることが明らかとなった。

写真のように、削り取られた西側封土を含めると、全長54mほどあったと見られている。





写真は、岩屋山古墳の両袖式横穴式石室入口及び横穴式石室の13m羨道。

切石積の間隙は漆喰で埋められているが、このような切石造の横穴式石室は、飛鳥地方から桜井地方にかけて多く分布し、岩屋山式古墳とも呼ばれる。

被葬者については、吉備姫王(きびひめのみこ)・巨勢雄柄宿禰(“こせのをからのすくね”と読み、孝元天皇の子孫・武内宿禰を祖としている)・第37代の斉明天皇(天智天皇の母)等々の名があげられるが不明である。

明治時代には、イギリス人のウイリアム・ゴーランドが来村し、岩屋山古墳の石室を調査して「舌を巻くほど見事な仕上げと石を完璧に組み合わせてある点で日本中のどれ一つとして及ばない」と絶賛している。







写真は上から、岩屋山古墳横穴式石室の玄室の巨大石組み、本玄室壁面の石組み及び本玄室の天井石。

埋葬施設は、石英閃緑岩(通称、飛鳥石)の切石を用いた南に開口する、両袖式の横穴式石室で、規模は全長17.78m・玄室長4.86m・幅約1.8m・高さ約3mで、羨道長約13m・幅約2m・高さ約2mを測る。

壁面構成については、写真の通り、玄室が2石積みで奥壁上下各1石、側石上段各2石、下段各3石で、羨道部分は玄門側が1石積みで、羨門側が2石積みとなっている。

天井石については玄室1石、羨道5石で構成されている。

このような構造をした石室は岩屋山式と呼ばれており、奈良県内では橿原市の小谷古墳や天理市の峯塚古墳等でも確認されている。

天井石は、巨大な一枚石で、側壁の1段目は垂直に、2段目は内側に傾斜されている。

石室の際立った特徴は、写真を見ながら吟味すると、以下の通り

①石室内の石材は、全て切石加工された、日本でも最も精美な石室のひとつであり「岩屋山式石室」の標識となっている。

②石室入口の天井部分に幅8cm・深さ5cmの窪んだ溝があり、雨の日の実験で「雨水が石室内に入り込まないようにする水切りの為」との説を提起されている。

③羨道の奥の部分の天井石が一段低くなっている。これは羨道を長く見せようとする遠近法を利用したという説と、羨道を前後に仕切る施設があったのではとの説がある。

④岩屋山式とされる古墳に使用されている棺については、小谷古墳で刳り貫き式家形石棺が使用されており、岩屋山古墳でも凝灰岩製の家形石棺が安置されていたと推定されている。

⑤排水施設については玄室内の礫敷と羨道の暗渠(水はけを良くするための地下水路)がある。

これは玄室内の水が、床面に敷き詰められた礫を伝わって下層にある集水穴に集まり、そこからあふれ出た水が羨道の暗渠排水溝を通って石室外に排水される構造となっていると云う。

更に羨門部の天井石には一条の溝が彫られており、外から天井石に伝わった水が石室内に入ることなくこの溝の部分で遮るように工夫がこなされている。

石室内からは土師器・須恵器・瓦器・陶磁器・古銭等が出土しており、築造年代については7世紀前半頃と考えられている。




奈良県生駒市の竹林寺古墳とは!

2010年10月09日 | 歴史
生駒市は、東大阪市と奈良県生駒市に跨る、海抜642mの生駒山麓に位置し、山中心の地形のため市域は狭く、傾斜地にも住宅が林立し、生駒山ですらかなり上の方まで住宅地化している。





写真は、紅葉に彩られた生駒山及び生駒山から望む生駒市街地を照らす夕日。

生駒山は、大阪平野と奈良盆地を隔てる生駒山地の主峰。

現在の生駒市は、狭い宅地ながら、大阪近郊のベッドタウンとして、特に1960年代から80年代にかけて人口が急増したと言う。

遡って、旧石器時代には“松原人”が住んでいたらしいが、縄文時代前半には、地球の温暖化が進み、海面の上昇がピークに達し、生駒山麓まで“河内湾”と呼ばれる内湾ができていた。

縄文時代には、東北・北陸・信州など東日本が集落の中心地域で、大坂には集落遺跡は存在せず、当時の“大坂”の人口は、わずか20人程度であったと推定されている。

その後時代は進み、古墳時代には、豪族の一つ“平群氏”(へぐり)の領地となったが、古代から中世と時を経るごとに平群氏の勢力は衰退し、現在は“平群”という地名だけが残っている。

平郡氏は、古代豪族の氏族で、祖は武内宿禰の子・木菟(つく)宿禰と伝えられ、本拠は大和国西北部の平群郡にあり、5世紀後半の大和朝廷で国政を左右するような大臣を出したとされる。その後遣唐使節にも任命されたと云う。





写真は、竹林寺本堂及び境内に安置された行基の墓所。

竹林寺は、生駒市有里町にある律宗の寺院で、本尊は“文殊菩薩騎獅像”。

生駒山の東麓の山中に位置し、奈良時代に架橋、治水などの社会事業に奔走し、東大寺大仏の造立にも力のあった僧・行基の墓所がある寺。

行基は、749年に平城京・菅原寺(現在の喜光寺)において82歳で生涯を終えたが、遺命により生駒山の東陵で火葬され、竹林寺に埋葬されたと云われる。

行基は文殊菩薩の化身と信じられていると云う。

叉竹林寺境内には、行基の墓と共に前方後円墳もある。











写真は上より、竹林寺古墳が所在する竹林寺丘陵、本古墳の標識看板、本古墳後円部、前方部光景及び竹林寺から望む生駒市南部市街地。

竹林寺古墳は、竹林寺に続く石の階段下・竹林寺の参道東側の山門前にあり、古墳時代前期後半(4世紀後半)の前方後円墳で、生駒山から東に派生する尾根上に築かれている。

前方部が宅地で一部削られているが、推定全長約60m・高さ約8m・後円部径約45mを測り、生駒谷を支配した豪族・平郡氏の族長の墳墓と考えられている。

埋葬施設は、礫床の上に舟形の粘土床を設け、その上を粘土・礫石で覆い、さらにその上に板石を並べ、それを覆うように割石を積むという重厚なもので、 特異な構造の竪穴式石室として注目されている。

出土遺物として、内行花文鏡・石釧・鉄剣・鉄釘や大型の家形埴輪・円筒埴輪などが出土している。

しかしこれら埋葬物は、発掘調査を担当した、県立橿原考古学研究所が保存していることから、見学することは不可。

いずれ故郷に帰還できることを願う。





奈良県桜井市の纏向遺跡で今回の新発見とは!

2010年10月07日 | 歴史
今回のトピックは、邪馬台国の最有力候補地・纒向遺跡でモモの種が大量に出土!

邪馬台国の有力候補地とされる、奈良県桜井市纒向遺跡で、3世紀中頃の土坑から桃の種約2000個や竹製のかご6点が出土したと、市教委が平成22年9月17日発表した。

桃の種が1か所でこれほど大量に見つかった例はないという。

桃は、古代の中国や日本で不老長寿などの効果があると信じられ、祭祀に使われたらしい。

ところで、写真のように、奈良県桜井市の南東部にそびえる、三輪山は標高約467mのなだらかな円錐形の山で、縄文時代から、自然物崇拝をする原始信仰の対象であったとされ、古墳時代に入ると、山麓地帯には次々と大きな古墳が造られた。

卑弥呼の墓ではないかとされる“箸墓古墳”もその一つで、そのことから、この一帯を中心にして日本列島を代表する政治的勢力である、ヤマト政権の初期の三輪政権が存在したと考えられている。

ということで、三輪山は、神の鎮座する山とされ、邪馬台国の女王卑弥呼とヤマト政権の行く末も見守られていたのではないか・・・・。







写真は上から、纏向遺跡の今回第168次の発掘現場、第166次発掘現場の現在の光景及び平成21年11月の発掘調査で出土した、大型建物が溝で埋められた現地説明会の光景。

桃の種は、平成21年11月に出土し、邪馬台国の宮殿の可能性もあるとされた、大型建物跡から約5m南の穴で見つかった。

大型建物を区画する柵跡を壊しており、建物の廃絶後に掘られたらしい。







写真は上から、纏向遺跡の発掘現場から望む三輪山光景、ブルーシーツに覆われた真中の土坑で桃の種検出の現場及び今回の発掘調査で検出された、大量のモモの種と奥には土器類。土器には、御供え物用の台付土器が見える。

土坑は南北4.3m・東西2.2m・深さ80cmほどの楕円形で、モモの種がまとまって見つかり、一度に埋めたとみられる。

当時の桃はピンポン球ほどで、果肉が残ったものや未成熟のものもあることから、食用ではなく、かごなどに入れて供えたとみられる。

桜井市教委文化財の担当者が「穴は上部が壊されており、桃の種は倍以上あったのでは?」と説明しているが・・・・。

モモは古代祭祀で供物に使われ、1カ所で出土した種の数では国内最多。

卑弥呼(248年ごろ没)の晩年から死後の時期に、モモを大量に使った国家祭祀が行われたことを示す成果と言える。

9月17日発表した市教委によると、発掘調査は平成21年11月に確認された、写真の通り、3世紀前半の大型建物跡の南側465㎡で実施。

建物を囲む柵列が、さらに28m東に長く続くことが確認され、土坑も見つかったと云う。



写真は、纒向遺跡から出土したモモの種と竹製のかご。

モモと一緒に祭祀用具とみられる土器や竹で編んだかごなども発見され、果肉が残った種もあり、市教委は食べたものではなく、モモを竹かごに盛って祭祀に使った後、土坑に埋めたと見ている。

モモは中国の道教(中国民衆の世俗的信仰を支えてきた、宗教体系の一つ)で、不老長寿や秩序を象徴する神、西王母(中国の神話、伝説などに登場する女神)の食べ物で、日本には弥生時代に伝わり、食用以外に不老長寿や厄よけのため祭祀に使われた。

魏志倭人伝には、卑弥呼は戦乱の倭国を治めるため「鬼道(魔法・魔術などのシャーマニズムで、この技を使う卑弥呼がシャーマンと云われている所以)を行い、人々をひきつけた」とある。

専門家によると「鬼道は道教を反映したもので、モモを大量に使った祭祀で西王母を祀った可能性がある」としている。




奈良県桜井市纏向遺跡の新発見とは!そのⅡ

2010年10月05日 | 歴史
桜井市纏向遺跡で、3世紀最大の建物跡発見のビックニュースについて続けます。

纏向遺跡は、3~4世紀では国内最大の集落遺跡で、関東から九州まで各地の土器が出土しているほか、“卑弥呼の墓”との説がある箸墓古墳など前方後円墳が初めて造られ、大和王権誕生の地とされている。

と云うことで、本遺跡の規模もさることながら、各地の土器が出土していることから、他の地域には見られない、人工的な政治・宗教都市だったとされている。





写真は、現在の桜井市纏向遺跡の地理及び当地の古墳時代前期マッピングで、斜線部分が纒向遺跡領域。

太田北微高地に所在する纒向遺跡は、古代からご神体として信仰を集めてきた三輪山の優美な姿を南東に望み、南に“卑弥呼の墓”との説がある箸墓古墳が横たわる。

西に目を転じると、勝山古墳・矢塚古墳・石塚古墳など3世紀に築かれた、最初期の古墳群が点在する、さしずめ前方後円墳銀座の感がある。



写真は、JR桜井線沿いで進められている、線路右側向うの本遺跡発掘調査現場。

JR線は、今回の調査区域の東端で、今後線路を挟んで、本遺跡東側(線路を挟んで左側方面)に向けてどこまで発掘調査ができるか?

纒向遺跡中心部の全体像を探るため、21年9月以降、約390㎡の発掘調査を進めてきたが、これまでの調査面積は、遺跡全体の約5%にすぎず、今後の調査によって、JR線路を挟んで、さらに東側に建物などが確認される可能性が期待されている。

3世紀後半までの大型建物跡としては、吉野ケ里遺跡の高床式建物跡(2世紀、約156㎡)や、樽味四反地遺跡(松山市)の掘立柱建物跡(3世紀後半、約162㎡)などがある。



写真は、邪馬台国集落と宮殿のイメージ図。

邪馬台国は、3世紀末の中国・三国時代の史書「魏志倭人伝」に記載されている。

宮殿や物見櫓、城柵があったと記されているが、纒向遺跡ではこれまで大型建物跡が出土しておらず、畿内説の「弱点」とされてきた。

しかし今回の国内最大規模の大王の宮級建物跡は、王宮の原型と見られ、日本国家形成過程を探る上で貴重な発見であり、ここが邪馬台国の中心で、大型建物は、“魏志倭人伝”にある“卑弥呼の宮殿”であった可能性があると云える。

一方で、今回の発見は、有力な傍証であっても、邪馬台国や卑弥呼と結びつく、直接証拠でないだけに決め手に欠け、当然反論もある。

論争に終止符を打つためには、決定的な証拠が見つかるかどうか、例えば中国・魏から授けられた“親魏倭王”の金印のような文字資料の出土が大きな鍵となりうるが・・・・・。

桜井市は、今後とも周辺の調査を継続的に進める計画で、その財源を確保するために、昨年度から寄付金を募集しているほど。

周辺地域の一連の調査は、我が国の国家の形成過程を探る上で極めて重要な意義を持つもの云える。

今後研究所を設けるなど調査・研究を進めて証拠を増やすことで、中枢部の様相が更に明らかになる可能性がある。

飛鳥時代より前の古代の宮殿については、実態が分かっていないだけに、居館内の構造や個々の遺構の性格など、全体像の解明を期待したい。


奈良県桜井市纏向遺跡の新発見とは!そのⅠ

2010年10月03日 | 歴史
~纏向遺跡で3世紀最大の建物跡を発見した!

平成21年11月11日、「魏志倭人伝の宮室発見!」報道は全国の考古ファンを震撼させた。

女王卑弥呼と同時代・3世紀前半の大型建物跡が見つかった、桜井市辻の纒向遺跡では、11月14日に現地説明会が開かれ、全国から約3,600人の見学者が訪れたとされるが、15日も含めると計10,000人以上の来訪者が見込まれていた。

そこで、“邪馬台国畿内説”を勢いづかせる新発見について、4つの切口から緊急特集を贈る。

今回発掘の大発見・纏向遺跡に大型建物跡が出土した件、政治的・宗教的色彩を帯びた、計画的宮殿造りの件、卑弥呼とのかかわりを想わせる大発見とは、今後の更なる発掘調査方針・財源問題等について考えてみる。





写真は、発掘調査中の手前・纒向遺跡と上方の箸墓古墳との位置関係及び11月14日の現地説明会光景。

調査地は、標高75m前後の東側から派生する扇状地上の微高地で、“太田北微高地”と呼ばれ、微高地沿いの南北には旧河道が流れていたことが判明。

見学者の一人として、今世紀の考古学上一大発見と思われる、纏向遺跡の新展開を追ってみたい。



写真は、1978年発見の建物跡と柵列跡、2009年3月発見の柵列内建物跡と追加柵列跡。

1978年最初の発掘調査では、脇殿を備えた神殿状建物と見られる、約5m四方の建物跡や柵列遺構の一部が出土したと云う。

そして2009年3月の発掘調査では、神殿状建物の東約5mで新たに三つの柱穴(直径約15cm)が見つかった。

これら柵列内の柱穴は、南北6m以上の建物跡だったらしい。周囲からは柵列の延長(約25m)も出土した。

周囲の柵列は、計約40mにも及び、写真の通り、柵列は建物跡の部分だけ凸状に突き出ており、付近は整地のため、広い範囲で盛り土されていたらしい。

また、78年に見つかっていた別の柱穴は柵の外にあったことが判明。柵を挟んで少なくとも3棟が東西1列に並んでいたことが分かったと云う。

市教委によると、これほど計画的に造られた同時期の建物跡の確認例はなく、専門家は「宮殿など極めて重要な場所の西端だった可能性がある」と当時指摘していた。



今回2009年9月~11月に発見された、写真右側の建物跡CとD。

特に建物跡Dは、南北19.2m、東西12.4m、床面積は約238㎡と推定されているが、3世紀中頃までの建物遺構としては国内最大の規模を誇る。
この規模から居館城における中心的な役割を果たしていた建物と考えられる。

柱穴13個(直径32~38cm)を確認しているが、柱材は全て抜き取られ、残された柱の痕跡からその太さは平均32cm前後と推定されている。









写真は上から、太細の仮柱が交互に整列した建物跡Dの北方面を望む南北19.2mの奥行き、逆に南方面を望む大型建物跡の長さと向かって右半分が溝で埋められた状態、建物跡D越しに溝を挟んで西方向の建物跡C方向を望む光景及び建物跡Dの西半分が埋められた状態の溝跡。

30cm余りの柱穴13個の間には、写真の通り、一回り小さい柱穴9個(直径23~25cm)が出土した。南北の柱間(約4.8m)を支える束柱(つかばしら)だったとしている。東西の柱間(約3.1m)にはなかった。

飛鳥時代の宮殿に匹敵する大型建物跡は、この時代、当地一帯に政治・宗教の中心となる強大な権力が存在し、後の大和王権に続く可能性を示している。

古代日本に王権が誕生したとされる地で、宮殿と見られる建物跡が初めて確認できた意義は極めて大きい。

叉写真の通り、出土した柱穴群の西側半分は6世紀に造られた溝で削られていたが、見つかった柱穴の形や並び方から見て、削られた部分にも同様の柱列があったと見られている。

また、今回発見の大型建物跡Dの西側では、前述の通り、1978年と2009年3月の2回にわたる調査で、3世紀前半の小中規模の建物跡3棟が見つかっている。

今回の大型建物跡も同じ方位を向き、4棟連続して構築され、しかも中軸線は東西の同一直線上に並んでいた。

方位は建物・柱列など全ての構造物が真北に対して5°西に振れた方位に揃えて建てられていると云う。

周囲からは総延長40m以上の柵列も出ており、東側3棟の大型建物跡は全て柵内に区画され、一方最西端の建物は柵外に置かれ、その規模には明確な違いが認められていることから、柵を境に建物の重要度に違いがあったことが分かる。

と云うことで、現場の纒向遺跡は、小高い台地を大規模に造成しており、中軸線を揃えて一直線上に並べるなど綿密な計画性と強い規格性持って構築されたことが窺える。

地形からの推測では、“太田北微高地”上に東西約150m×南北約100mの居館区画が存在していたものと考えられ、柵を境に内郭と外郭に整然と区画されていたものと見られる。

計画的に配列された建物群は、飛鳥時代の宮殿や寺では一般化するが、今回は最古の例という。

大型建物跡の一部は、方形周溝墓とみられるL字形の溝で壊されていた。この溝から3世紀中頃の“庄内3式期”の土器片が出土したことから、大型建物の時期は3世紀前半と判断された。




奈良県桜井市の桜井茶臼山古墳とは!(続報)

2010年10月01日 | 歴史
今回のトピックは、桜井茶臼山古墳から銅鏡破片331点が出土したというホットニュース。

桜井茶臼山古墳(3世紀末~4世紀初め)で、石室を覆っていた土の中から銅鏡の破片331点が出土したことを、県立橿原考古学研究所が、平成22年1月に発表した。

復元すると少なくとも計13種81面の鏡になり、一つの古墳の副葬品として最多となると云う。







写真は上から、茶臼山古墳の全景及び銅鏡破片が、3次元計測でそれぞれ適切な銅鏡に嵌め込まれたことを示す証と種類が特定できなかった破片が180点もあったことを示す展示例。

銅鏡の破片331点が、最新の3次元計測によって分析されたことで、81面の銅鏡に上ることが分かり、邪馬台国と大和王権との関係をはじめ、古代日本の国家形成を解き明かす手がかりとなったことは画期的な成果と云える。

しかし、完全な形に復元できるものは皆無で、盗掘を受けた際に壊され、大部分は持ち去られたと見られる。

邪馬台国の女王・卑弥呼が中国・魏に送った使者が帰国した年であり、或いは卑弥呼が中国・魏から鏡をもらった年に当たる、魏の年号「正始(せいし)元年(西暦240年)」銘入りの三角縁神獣鏡と同じ型で製作された鏡も含まれていたことで、初期大和王権が邪馬台国と直接結びつく可能性を示唆していると云える。

大和王権と邪馬台国が一続きの政治勢力であった可能性が高まった。今回の正始元年銘鏡の検出は、奈良県内では初めてと云う。

今回の発見で、大和王権が地方豪族に授けたとされてきた鏡が、大王自身も所持していたことが明らかになったことは、王権が支配を広げるには、権力を示す大量の鏡などが必要で、国内でも鏡を製造して求心力を強めようとしたことが分かると云える。

叉銅鏡の種類は100面余りあったとされるが、被葬者の倭国王に相応しい突出した権力を示していると云える。

大王墓級の巨大古墳に収められた副葬品の豪華さが、今回の発掘で初めて明らかになり、邪馬台国と初期大和王権の関連を考えるうえで、重要な成果となる。

銅鏡は初期ヤマト政権の権威の象徴で、大王墓クラスの古墳の全容に迫る成果として注目される。

出土した破片は最大縦11.1cm・横6.3cmを測るが、同古墳は60年前にも発掘調査されており、その際の出土品なども合わせた計384点を調査した。

384点の文様などを他の古墳で出土した銅鏡と照合し、上述したとおり、種類と枚数をほぼ特定したと云う。

その結果、三角縁神獣鏡26面や、内行花文鏡19面などを確認したが、破片のうち180点は種類を特定できておらず、鏡の総数はさらに多くなる見通し。

日本製の大型内行花文鏡(直径約38cm)なども含まれていたと云う。



写真は、はっきり見えないが、3次元計測データで復元した、“正始元年”銘の三角縁神獣鏡の破片で、“是”と刻まれた文字が確認できた。

叉卑弥呼が魏からもらったとする説と国内製作説の両方がある、三角縁神獣鏡26枚のうち、破片の1点(縦1.7cm・横1.4cm)に刻まれていた「是」の文字の形が、過去に蟹沢古墳(群馬県高崎市)で出土した、「正始元年」銘鏡とぴたり一致し、同じ鋳型で作られたと分かった。

今回の発見について、“正始元年”鏡は、邪馬台国が初期大和王権に発展したことを示すと考えられるが、3~4世紀の古代国家の成立を更に解明するには、政治・文化・社会を反映した、200m超の巨大古墳の発掘調査が不可欠。

しかし現状は、畿内33基のうち27基は、陵墓で調査が進まず、実態は不明。





写真は、ガラス製管玉及び石室に使用されていた、水銀朱彩された石材。

国内最長の長さ8cmほどのガラス製管玉などの副葬品が見つかり、大王の強力な権力を窺わせる。

副葬品は、玉製品ほかに、鉄製と青銅製の武器類などが検出されたと云う。

竪穴式石室の内部は、水銀朱を塗布した石材に囲まれた南北に細長い長方形の空間で、南北の長さ6.75m・高さ1.60m・幅1.27mを測ったと云う。

石室は、後円部の中央に長方形の墓拡を掘って安置し、木棺を納めたらしい。

木棺は腐朽と盗掘による破壊で原形を失っていたらしい。

墓壙は、南北約11m・東西約4.8m・深さ約2.9mを測り、竪穴式石室や埋葬後に石室上に築かれた方形壇、更にはそれらを保護する丸太垣など、これまで知られていなかった埋葬施設の存在が確認できたと云う。

今回の成果によって、古墳の被葬者の実力差や階級差などを細かく分析する資料が得られたと云われている。