14世紀中頃になると、それまでの各々のグスクを拠点とした多くの按司によって支配されていた沖縄本島は、北山・中山・南山の三つの小国家に纏まっていった。
写真は、グスク並立時代の勢力図。
北山は“今帰仁城”を拠点とする今帰仁按司に、中山は“浦添城”や“伊祖城”を拠点とする浦添按司によって、叉南山は“大里城”を拠点とする大里按司によって、各々統治されていた。
写真は、現在の北山・今帰仁城址、中山・浦添城址、南山・大里城址。
これら三山の按司は、中国・明の皇帝から各々“王”の称号を与えられたが、絶対的な権力を持つ存在ではなかったと云う。
そのため三山とも、各々勢力城内での対立が絶えなかったらしい。
叉三山の王たちは、互いに勢力争いを行いながら、農業生産力を高めることや海外貿易に力を注いだ。
その背景には生産力の向上や“進貢貿易”を進めることによって、経済的な利益を得るだけでなく、新しい文物・技術も取り入れ、国王としての権威付けを行うと共に、勢力拡大に努めようとの意図があった。
三山の勢力争いの中で、1368年に成立した明朝は、周辺諸国に対して“朝貢”を促すことにより、明朝との貿易を許すことをオープンにした。
アジア有数の大国である明朝との関係を築き、貿易を行うために、アジアの多くの国々が朝貢関係を結ぼうとしていた。
1372年には入貢を勧めるため、明朝の使者を琉球に派遣し、これに応じて中山王が入貢を始めた。ここで明朝の対琉球“朝貢体制”が始まり、南山王・北山王も相次いで入貢をスタートした。
というように、朝貢体制に組込まれた三山は、進貢貿易・海外貿易によって勢力を充実させる中で、琉球の群雄割拠時代が暫く続いた。
琉球の朝貢品の主な品物は馬や硫黄で、中国からの見返り品には、陶磁器・銅銭・船・絹織物などであったと云う。
とりわけ大型船の無償支給は、活発な貿易活動を支える手段として、朝貢体制の中で大きな収穫であったらしい。
写真は、グスク並立時代の勢力図。
北山は“今帰仁城”を拠点とする今帰仁按司に、中山は“浦添城”や“伊祖城”を拠点とする浦添按司によって、叉南山は“大里城”を拠点とする大里按司によって、各々統治されていた。
写真は、現在の北山・今帰仁城址、中山・浦添城址、南山・大里城址。
これら三山の按司は、中国・明の皇帝から各々“王”の称号を与えられたが、絶対的な権力を持つ存在ではなかったと云う。
そのため三山とも、各々勢力城内での対立が絶えなかったらしい。
叉三山の王たちは、互いに勢力争いを行いながら、農業生産力を高めることや海外貿易に力を注いだ。
その背景には生産力の向上や“進貢貿易”を進めることによって、経済的な利益を得るだけでなく、新しい文物・技術も取り入れ、国王としての権威付けを行うと共に、勢力拡大に努めようとの意図があった。
三山の勢力争いの中で、1368年に成立した明朝は、周辺諸国に対して“朝貢”を促すことにより、明朝との貿易を許すことをオープンにした。
アジア有数の大国である明朝との関係を築き、貿易を行うために、アジアの多くの国々が朝貢関係を結ぼうとしていた。
1372年には入貢を勧めるため、明朝の使者を琉球に派遣し、これに応じて中山王が入貢を始めた。ここで明朝の対琉球“朝貢体制”が始まり、南山王・北山王も相次いで入貢をスタートした。
というように、朝貢体制に組込まれた三山は、進貢貿易・海外貿易によって勢力を充実させる中で、琉球の群雄割拠時代が暫く続いた。
琉球の朝貢品の主な品物は馬や硫黄で、中国からの見返り品には、陶磁器・銅銭・船・絹織物などであったと云う。
とりわけ大型船の無償支給は、活発な貿易活動を支える手段として、朝貢体制の中で大きな収穫であったらしい。