近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

縄文人の謎・ロマン 北海道縄文人のルーツは!

2007年07月31日 | 歴史
本日は、北海道縄文人のカルチャーについて紹介する。
紀元前20,000年頃の晩氷期は海水面が現在より85mほど低く、宗谷海峡が陸橋当時、サハリン経由で北部旧石器人が南下し、道内に住み始めたと考えられる。

その後紀元前10,000年頃までには宗谷海峡・津軽海峡ができて北海道は陸の孤島になると共に、それ以降独自の文化・生活習慣を築き上げて行ったと考えられる。

縄文時代の出土遺物に見られる、“個性豊かな独創性・本土とは異質の表現方法”は、激しい自然環境が育んだと考えられる。

日本海を流れる対馬海流の変動・海水面の変化・気温の温暖化に伴い、特に紀元前約4,000年の縄文前期以降、貝塚が大型化し分布が拡がって行った。

津軽海峡沿岸・北海道南西の日本海沿岸・噴火湾を含む太平洋沿岸などの段丘・砂丘上に貝塚集落が増加・敷衍すると共に道内はもとより、東北北部との物的・人的交流が活発化したことは、当時の出土遺物が物語っている。

所謂“円筒式土器文化圏”として知られている。
しかし東北北部との交易を通じて、物づくり文化や生活習慣に多少の影響を受けたものの、北海道縄文人の独自性高い固有文化を維持発展させた。

北海道には貝塚が約200ヶ所あると云われているが、縄文海進最盛期(紀元前約4,000)・縄文後期の温暖期(紀元前約2,000~1,500年)に貝塚が多く形成され、貝塚のお陰で当時の北海道固有の異質な文化遺産に巡り合うことができ、その豊かな独創性には唯々驚嘆させられる。

以下北海道縄文人の生活文化遺産・カルチャーの一端を紹介する。
先ずは祭祀・儀式などに使われたと見られる、呪術品・セレモニー用具などを紹介する。
いずれの作品も“精緻・繊細・独創”などの美的表現が当てはまる。



上の写真は、千歳市美々4遺跡の動物形土製品、海獣の姿を変える不思議な力は?



写真は、千歳市ママチ遺跡の土製仮面、顔に装着したか? お墓の柱に取り付けられたのか?



写真は、千歳市ウサクマイ遺跡群の男性土偶、全国的にも極めて珍しい発見。



写真は、南茅部町著保内野遺跡の中空土偶、高さ41cm・幅20cmと日本最大。



写真は、南茅部町八木A遺跡の異形香炉型土器。



写真は、千歳市内縄文遺跡出土の朱塗り櫛。



写真は、千歳市内縄文遺跡出土のヒスイ製首飾り。

次に北海道内縄文遺跡固有の実用石器類の一端を紹介する。



写真は、北海道伊達市北黄金貝塚出土のナイフ型石器。



写真は、北海道伊達市北黄金貝塚出土の北海道式石冠。

上から伊達市北黄金貝塚のツマミ付ナイフ形石器と北海道式石冠。
いずれも使い易さを探求した結果辿り着いた、極めて実利的な“生活の知恵”溢れる作品と云える。



写真は、北海道八雲町栄浜遺跡出土の魚型石器。



写真は、北海道余市町大谷地貝塚出土の魚形石錘。

いずれの魚形石器も、網差し漁労の石錘として使われたと見られる。
“大陸的おおらかさ・遊び心”が感じ取れる。

以上のように北海道ならではの縄文時代の作品からは、親しみと愛着を禁じえない。

縄文人の謎・ロマン 南九州縄文人のルーツは!

2007年07月30日 | 歴史
これからは、縄文時代のユニークな遺跡を紹介する。
先ずは、鹿児島県国分市の“上野原遺跡”を取上げる。







写真は上から、鹿児島県国分市の上野原遺跡復元現場、同遺跡出土の連穴土壙及び復元された、連穴土坑。

大小2つの穴をトンネルでつなぎ、大きな穴の方で火を焚いて、小さな穴の上にイノシシ・シカ等の肉を吊るし、煙で燻して薫製を作る施設と考えられている。

縄文草創期の“栫の原遺跡”からも発掘され、南九州独特の定住食文化の象徴。
年間を通じて四季の気象変化を乗り切るためには、保存食の維持・確保が不可欠。

氷河期には、日本列島はアジア大陸と陸続きであったことを考えると、アジア大陸の人々が陸伝いに動物を追って南九州に移り定住したと考えられている。
アジア大陸文化が食生活にも影響を及ぼし、南九州独特の、文化度の高い生活様式が全国に先駆けて定着したのではないか?



写真は、上野原遺跡から出土した集石遺構。
集めた石を火で焼き、その中に魚・肉類を入れて蒸し焼きにした、いわば調理場であり、連穴土坑と共に定住食生活を支えたと考えられる。



写真は、上野原遺跡の磨製石器・打製石器・石皿等。
これらの石器類は、ドングリやクリを調理する道具として南九州地方でいち早く導入され、生活用具として普及していたと考えられる。
木の実をすりつぶす為の石皿・磨石、木を切るためのノミ形石斧等の石器類から生活文化の高さが窺がえる。



写真は、上野原遺跡から完全な形で出土した壷。

鹿児島の上野原には、約9,500年前には定住したムラがつくられ、縄文時代の早い段階から多彩な文化が開花し,個性豊かな縄文土器文化が築かれた。
土器の口縁部を貝殻文で装飾した上、縦方向にも貝殻で文様を付した手法は、南九州固有のモノと言われる。

 ”前平式土器”と呼ばれる、円筒・角筒の2種類が、鹿児島県から宮崎県にかけて出土。ドングリ等のあく抜きには欠かせない土器であり、土器の発明が縄文時代の幕開けと言われるが、土器の起源は南九州地方の貝殻文であったと言える。

以上の点から要約すると、南九州縄文文化は定住生活を支える高度な食生活文化を持ち、そのルーツは、ローカル人培養の独自文化ではなく、アジア大陸にあったと考えられる?


縄文人の謎・ロマン 縄文人は弥生人によって征服された!

2007年07月29日 | 歴史
新方遺跡は、神戸市の明石川と伊川の合流する地点、標高8~10mの沖積地に位置し、旧石器から鎌倉時代にかけての遺構・遺物が確認されている。
新方遺跡は、東西約1.5km、南北約1.0kmの広範囲に及ぶ。



写真は、神戸市の新方遺跡発掘現場。
昭和45年に山陽新幹線建設に伴う調査で発見されたが、これまでの調査で、木製品、管玉や玉砥石、周溝墓等が検出されている。
人骨では弥生時代が11体、古墳時代が15体という人骨が検出された。

特に弥生時代前期の溝状遺構からは3体の人骨が検出され、頑丈な顎骨・頭骨・手足の骨、著しく擦り減った歯等縄文人的な特徴を持っていたことが判明。



写真は、弥生時代前期遺構から出土した人骨3体の一つ。
同じ遺構からサヌカイト製石鏃が多く検出され、3人体とも石鏃が刺さっていることから、弥生時代に始まった集落間の戦闘犠牲者であると見られ、当地で激しい戦いが繰り広げられていたと考えられる。

このことは、縄文時代から弥生時代に移行する上での歴史学的な価値と共に、人類学的な史料価値があると云える。

弥生時代曙の時期、新しい農耕・金属文化・新しい価値観の移入に立ち向かった畿内の縄文戦士、弥生人によって征服された縄文人末路の姿が垣間見られる。


縄文人の謎・ロマン 縄文人vs.アイヌ人・琉球人

2007年07月28日 | 歴史
縄文文化を理解する上で欠かせないのが、琉球人とアイヌ人の民族を理解しなければならない。
琉球人とアイヌ人の方が、原日本人とも言うべき縄文人に近く、本土の日本人は原日本人と朝鮮半島からやって来た大陸系のモンゴロイドとの混血、即ち弥生人であることが遺伝子的分析によって実証された。

本土日本人における遺伝子グループの大部分は、弥生時代以降のアジア大陸からの渡来人に由来するものであったと云う。

しかし弥生人は主に西日本を中心とした本土に広がり、南西諸島や北海道まではやってこなかったので、混血の進んだ日本本土人とは違い、南西諸島の琉球人、東日本に住んでいたアイヌ人は、縄文時代の特徴を残すことになったと云える。

父系が縄文人の血統かどうかは、Y染色体上の遺伝子の有無によって調べることができるらしいが、この遺伝子の保有率は、本土人よりもアイヌ人の方が高いと云う。
ミトコンドリアDNAによる母系の血統調査でも、同様の結論が出ている。

しかしアイヌ人は、縄文人の血統を受継いではいるが、遺伝子分析によると、サハリンを含めた北東アジアの血統をも受継いでおり、純粋な縄文人とは云えない。
一方琉球人は文化的には、中国大陸から直接影響を受けている。

この点アイヌ人よりも琉球人の方が、遺伝子には縄文人に近いと云える。
しかしながらアイヌ文化も琉球文化も、縄文文化とは全く同じではない。



写真は、復元された沖縄港川人のイメージ。
元々の沖縄住民は、1万8千年ほど前にいた港川人で、その骨格は縄文人と共通する部分があり、縄文人の先祖となったが、港川人とその後に沖縄で発見された人骨とは1万年以上もの長い空白期間があり、現在の沖縄人の直接的な先祖かどうかは、現時点では明らかでない。

むしろ現在の沖縄住民の直接的な先祖は、“グスク時代”(12~15・16世紀の城を中心とした集落群の時代)の人々のようで、縄文人とは別の「南島人」とされ、形質的に中世本土日本人と変わらないのは、日本本土よりのヒトの流入があったからと云われている。

それでも南アジアからの遺伝子が、沖縄人に強く存在することから、本土日本人をベースに様々な地域の人々の特徴が見られると云う。



写真は、沖縄に残る、琉球文化伝統のローカルダンス。

沖縄人は、グスク時代以降ヤマトの影響を強く受けたが、琉球諸島に住む人々は“琉球”と云う自らの国家・文化を護り、鹿児島藩主・島津氏に征服されるまでは、外国からの実効支配を受入れたことはなかった。

現在の沖縄文化は、原住民が好むと好まざるとにかかわらず、歴史的・政治的な変動の中で形成された結果に過ぎないと云える。

縄文人の謎・ロマン 渡来系弥生人が持ち込んだ文化とは!

2007年07月27日 | 歴史
渡来系弥生人は、それまでの縄文人とは全く違う生活様式を持ち込んだ。
先ずは、彼らは日本列島に初めて現れた農耕民であった。

縄文人も主に焼畑によって細々とイネや雑穀などを栽培していたが、基本的には“狩猟採集民”であった。それに対して、渡来人は水田耕作を生活の基盤に据えた“農耕民”であった。

水田稲作は、天候に大きく左右され、労力が大きい割に不安定な食料確保のシステムで、むしろ単一の食物ばかりに頼らず、クリ・ヒエの栽培やカキの養殖など多種多様な食物を、柔軟・有効に利用してきた縄文人の方が余程健康的で、食料安定確保の道でもあった。

狩猟採集民と農耕民との違いは、単に食料の確保の仕方が違うだけでなく、自然に対する考え方が大きく違った。

縄文人は自然に対して畏敬の念をもって、自然のメカニズムを壊さないように維持しながら、食料を出来だけ長期間にわたり確保できるように、自然の恵みの範囲内で慎ましく暮らしていた。





写真は、静岡市の登呂遺跡から明らかになった水田耕作の想像図及び出土した水田跡に稲作復元。

一方渡来人・農耕民は畑や水田と云う人工的な空間を作り出すことで食料を生産・再生産し続けて、いわば自然を人間の意のままに作り変えて、人間の支配化におくという発想で、自然に対峙する生活文化を持ち込んだ。

第二に、弥生時代の渡来人は、日本列島に初めて“クニ”(特定地域の行政区分)を誕生させたという点で、縄文以前にやって来た渡来人と大きく違っていた。
クニの支配者と被支配者と云う支配関係が、縄文時代にも見られた素朴な上下関係とは違い、クニ運営のシステムとして公認されていた。

農耕とクニと云うそれまでに日本列島になかった文化を携えてやってきた渡来人は、弥生時代に入って急速に列島全体に広がり、縄文人と入れ替わって主人公となっていった。

その過程で陰惨な殺戮が、両者間で起こっていたことも、近年明らかになった。
縄文人が10,000年ほどにわたって謳歌していた日本列島は、僅か数百年で渡来人に乗っ取られたような様相を呈した????

縄文人の謎・ロマン 渡来系弥生人と本土日本人との類似性

2007年07月26日 | 歴史
ここで縄文人との比較を際立たせるために、弥生人の特徴を拾ってみる。
弥生時代前・中期の山口県“土井ヶ浜遺跡”は砂丘上にある共同墓地で、発掘調査の結果、約300体もの弥生人骨が見つかっているが、男性の平均身長は162.8cmで、縄文人よりは約3cm、次の古墳時代からも約1cm高い。









写真は上から、土井ヶ浜遺跡公園、出土した頭骨及び貝輪・管玉・勾玉などのアクセサリー類。

急激な骨格形態の変化には、大陸からの大規模な集団移住によって生じたと考えられるが、その後の調査結果、朝鮮半島・中国に住んでいた集団と酷似していることが判明。

これらの人骨の研究から、弥生時代の日本人のルーツと大陸・朝鮮半島との関係を知る手がかりとなった。

更に“土井ヶ浜遺跡人類学ミュージアム”の近代研究では、北九州・山口県に限定的と考えられていた大陸集団の移住の影響が、日本列島全体に及んでいたことも判明。

例えば頭骨の計測値を“多変量解析”と呼ばれる統計的手法で解析すると、現代日本人は、縄文人よりも弥生人に類似していることが分かり、以降日本人の起源に関する様々な実証的研究が進められて来た。

例えば頭骨の神経を通す孔の形状・歯の大きさ・形態などの調査結果、本土日本人と北部九州・山口地域の弥生人との間、及び縄文人とアイヌ人との間にそれぞれ強い類似性があるとの結論が得られたとしている。

近年新たな発掘人骨の調査により、九州西北部・南部では、縄文人と類似した弥生人骨が多く見つかっている。
北部九州・山口地域の「渡来系弥生人」に対して、「在来系弥生人」と呼ばれるこれら人骨が、千葉県・群馬県の遺跡でも発見されているが、むしろ全体的には渡来系弥生人の影響は、早い時期より西日本から東日本にまで及んでいたことが指摘されている。

古墳時代以降では、渡来系と在来系の集団間の混血は、渡来系が数で優勢な状態のもとに進行したことによって、歴史的に本土日本人が渡来系色を維持しつつ、形成されていったとする説が大勢を占めている。

と云うことで、日本人としてのアイデンティティは、縄文人の血が少しは混じっているが、渡来系弥生人ほどの権利は無いことは確実で、朝鮮半島・中国に渡って先祖崇拝をやる方が適切である?と云える。



写真は、頭骨からイメージした、典型的渡来系弥生人の顔。

西日本と東日本のほぼ中心の近畿地方の混血が本格化したのは、弥生時代後期から古墳時代にかけて、西日本から近畿地方に向かう人々が増えてきてからで、結果として近畿地方の平均的な顔の骨格が、日本列島でも特にユニークなほど、面長でのっぺりした、“渡来系”の顔形が目立つようになったと云う。

一説によると、古墳時代の末期・7世紀初頭の人口構成は、縄文系が約56万人に対して、渡来系約480万人(全体のほぼ90%)と云うように、渡来系の優位は動かなかった。

近年のミトコンドリアDNA遺伝子分析によると、現在の本土日本人の約50%が、中国・朝鮮半島など大陸系の特性を持っていると云う。

縄文人の謎・ロマン 人類学の遺伝子研究 縄文人vs.弥生人

2007年07月23日 | 歴史
人類学の研究から、現代日本人には縄文人の遺伝子が3割程度残されているというデータが出されている。残りの7割の遺伝子は渡来人に由来するので、縄文人は多数派の渡来人に追い落とされたとも考えられる。

異質な文化を持つ人々の間の対立は、人類の歴史のかなで幾度と無く繰返されてきた。地球上の人類は未だにその課題を克服していない。

縄文人と渡来人、二つの集団の間に一体何が起こったのか?2千年余り前と云う意外に近い過去に日本列島で起きた出来事は、どこかで現代の日本人の行動様式や価値観を植えつける「無意識の記憶」となって、我々の精神の奥底に刻み込まれているに違いない。

渡来系弥生人の遺伝子データによると、シベリアの北方民族に似ていることが分かり、彼らの祖先は北方アジアから来たのではないかと推測されていた。



写真は、今から5,500年ほど前に形成されたと見られる、福井県鳥浜貝塚から出土した丸木舟。
朝鮮半島の沖には対馬海流が流れていることから、当時の丸木舟は北九州に行くよりも、その海流に乗って山陰・北陸の方が辿り着きやすかったと思われる。

そういう人たちが南下して、最後に北九州の筑紫平野に集まったかもしれない。
縄文人は狩猟・採集・漁労が中心なのに比べて、渡来人は稲作・鉄文化など衣食住全てにわたる文化が違っており、日本の「二重構造」が始まったと推察できる。

紀元後3~6世紀の古墳時代になると、当時の遺跡からは縄文系と渡来系の中間と見られる遺伝子を持った人骨が発見され、混血が始まっていたことが裏付けられた。
特に西日本では渡来系、又東日本では縄文系の特徴が濃厚と云う状況になり、文化的にも二重構造が始まったと云える。

二重構造の背景には、縄文時代を通じて、両者間の交流はほとんど無く、両者は形質の違い以上に、遺伝子レベルでは、更に大きな違いがあったかもしれない。

と云うことで、縄文当時は通婚圏が狭く、遺伝子が拡散しにくかったのが、その後交通機関の発達などで、東日本にも大量の渡来系遺伝子が浸透してきたと見られ、血液型・身長などの類似性がこのことを裏付けている。

縄文人の謎・ロマン 日本人種の身体的特徴

2007年07月22日 | 歴史
日本人種とは、人間を生物学的・身体的特徴によって分類したときのグループで、日本人はモンゴロイド・黄色人種に属し、黄色い肌、黒色の直毛、薄い体毛、短頭、内眼角ひだ、小児斑など、一般的なモンゴロイドの特徴を示している。

血液型では、全体にA型が最も多いが、A型遺伝子の確率は、東北地方から西日本に向ってしだいに高くなっていると云う。

しかしモンゴロイド人種が主に住む、東アジア地域の中でも、日本人を他のモンゴロイドと明確に分ける身体的特徴をあげることは不可能であり、モンゴロイド人種内の一グループとして“日本人種”と云う集団が存在するわけではないと云う。

日本列島全体でこれまで数千体の縄文人骨が見つかっているが、多くは中期~晩期の貝塚・洞窟遺跡から出土したもので、平均身長は男性で158~160cm、女性147~150cmと比較的低い。



写真は、左から縄文人・弥生人・現代人のイメージ比較。
現代人のイメージが、何となく縄文人と弥生人が混血したように見えるが、上手に復元できている。

一般的な縄文人のイメージは、丸顔で鼻が高く鼻筋がとおり、筋肉もよく発達しており、又歯は丈夫だが、奥歯は硬い食物により磨耗している。

弥生時代に入り、大陸系種族が渡来し、縄文人と大規模に混血したが、現代日本人の根幹の一端が縄文人であることには間違いない。

と云うことで、縄文人は、3~2万年前頃からアジア各地からやって来た人々が、混じりあって生まれた日本列島の“先住民”である。

縄文人はアジアの北・南からやって来た人々の末裔であるが、弥生時代に入ってからの渡来は、それ以前の渡来とは量的にも持続期間でも比べ物にならないくらいほど大規模なものであった。

日本列島の歴史の中でも、最大の変化を生んだ渡来の波が押し寄せたと云ってよい。そしてそれまでとは全く違う生活様式・ものの考え方を持つ異質な人々でもあった。

縄文人の謎・ロマン 縄文人の本土内移動・分散

2007年07月21日 | 歴史
縄文人の典型的なムラ単位は、円形や楕円形の土地の外周に竪穴住居が7・8戸建てられ、その中央に広場が広がる配置が最小単位のムラで、そのような小さなムラが7・8戸集まって、標準的な大きなムラ社会を構成していた。

従って1家族が5・6人として、標準的なムラの人口は、300から400人ほどで構成されていた。それらムラの集積である日本全土の総人口の推移は、一説によると、縄文草創期(紀元前10,000年~7,000年)が約1万人、早期(同7,000年~5,000年)が3万人、前期(同5,000年~3,000年)が5万人、中期(同3,000年~2,000年)で7万人、後期(同2,000年~1,000年)で7万人、晩期(同1,000年~300年)が5万人と推測されている。

縄文前期・中期には昨今心配されている、「地球温暖化現象」により、平均気温が現在より2度ほど高い状態にまで上昇し、札幌の気候が東京並みになったことで、青森市の「三内丸山遺跡」に代表される一大集落が誕生している。



写真は、現在も発掘調査が進んでいる、青森市内“三内丸山遺跡”現場。
海面が5mほども高くなった、「縄文海進」現象が植生にも影響して、ナラなどの温暖帯落葉樹林が西日本から東日本にまで拡大し、“三内丸山遺跡”からは、大量のクリの残滓が出土している。



写真は、世界自然遺産に登録された、和歌山県那智勝浦町の常緑広葉樹林に覆われた那智山の光景。当時の東北地方も照葉樹林に囲まれた温暖地帯であったと見られる。

地球温暖化現象により、食住環境に恵まれた、東日本に人口が集中して、東北地方が当時の日本の一大中心地であったと云う。
縄文早期には2万人程度であった本土総人口が、縄文中期には26万人ほどまでに膨れ上がったという説もある由縁。

と云うように、縄文中期の本土総人口予測値には、大きな落差がある。

その間、縄文人は狩猟・採集・漁労を中心に、いくぶんの植物の栽培・動物の飼育などで、原始共産社会を創っていた。

縄文時代を通じて日本全土の総人口は、転変地変などにより余り増えていないが、地球規模の寒冷化により、暖かい地方への人口移動が活発になり、全国に分散していった。



写真は、現在の長野県八ヶ岳高原ののどかな風景。
海面は陸地から遠のき、海の恵みと山の幸とを併せ享受した、“東北中心時代”は終わり、縄文人は東北地方より南下して、森がもたらす資源豊かだった、八ヶ岳地方に集まっていた。



写真は、関西地方の代表的農場・大阪河内長野地方の風景。

又縄文後期以前までは中部地方以北に多くの人口が集まり、近畿以西は過疎地帯であったのが、弥生時代から古墳時代にかけて、再度の寒冷化現象と共に、寒い山中から暖かい平地に下りて来た人々による農耕生活が始まったことで、近畿地方をはじめ四国でも人口が爆発的に増えた。

弥生後期の近畿地方の人口は、縄文後期から20倍以上増え、ある試算によれば、4,500人から11万人に急増したが、増加分の8割は、東日本から寒冷気候に追われてやってきた人たちで、単なる自然増ではなかったと云う。

縄文人の謎・ロマン 縄文人の渡来ルート

2007年07月20日 | 歴史
日本列島には、旧石器時代、今から3万~4万年ほど前から人類が生活していたことが分かっているが、出土した人骨の分析から、時代と共に身体的特徴が変化していると云う。

旧石器時代から縄文時代の人骨には、大陸南部との繫がりを示唆する身体的特徴が顕著であるが、一方北方アジア人と類似した特徴も見られると云うように、人種的な日本人の起源は、複数のルートが考えられている。

日本の伝統的文化には、北アジアと共通する要素と、中国南部・東南アジアと共通する要素が見られることも、複数の渡来ルートを示唆している。



写真は、地球の地形が北上する様子を描いた想像地図。
5万年ほど前に、氷河期の巨大な南大陸・スンダランドから北上した人類が東アジアに達するのは、今から2.5万年くらい前で、更にシベリアに達するのは2~1万年ほど前であったと云う。

このことから、縄文時代以前から日本本土にいた日本原人は、スンダランドから北上した南方民族であり、北上途上にどこからか日本本土にやってきたと見られる。そして縄文時代に入ってからは、シベリアから樺太・北海道を地続き沿いに南下して津軽海峡を渡って青森に辿り着くという、北方ルートでも渡来してきたと考えられている。

旧石器時代から縄文草創期の氷河期には海面が現在より100mほども下がり、東南アジア周辺とは陸続きになっており、日本人の先祖の一部は、現在の台湾・南西諸島や朝鮮半島を経由して、歩いて移住してきたと考えられている。

又沖縄の那覇市近くにある“港川遺跡”から、旧石器時代後期・約1万8千年前の人骨が数体発見されたが、頬骨が張り、目玉が入る眼窩が横に長く、顔の輪郭に四角っぽい特徴があった。



写真は、港川人の人骨分析から復元した、港川人の顔立ちイメージ。
“港川人”の人骨をアジア各地で見つかった人骨と精密な比較分析すると、中国の広西省で発見された“柳江人”の人骨やボルネオ人骨と非常に近いことが判明した。

又港川人と日本本土で発掘された縄文人骨を比較すると、眼窩・顔の輪郭など特徴が一致する点が多く、縄文人の一部は東南アジアから移住してきたと云われている。

縄文人の謎・ロマン “はじめに”

2007年07月19日 | 歴史
暫く空白期間が開いたが、本日からシリーズ第6話は、“縄文人”を取上げる。
全国の縄文時代遺跡を巡り始めてから10年余り経つが、そろそろ行き詰ってしまうほど、全国津々浦々をクレイジーに巡り歩いてきた。



写真は、出土した縄文人骨から割り出した、縄文人の顔立ちイメージ。

そもそも縄文時代・縄文人に興味を抱いた背景には、未知の部分が余りにも多く、中でも縄文文化は、これまでの発掘調査により、掘出された遺物・遺品からは、現在の価値観とは全く違った、繊細な美意識を持っていることが分かったこと。

発掘された遺物は、今日の文化とは相容れないほど異質であり、文化的断絶を感じざるを得ないほど異例尽くめであり、興味・ロマンを禁じえなかった。

これまでの発掘調査・考古学・文化人類学・民族学・民俗学などから、従来の野蛮人のイメージとは全く違った、新しい縄文人の姿が浮彫りにされている。
縄文人の世界観・宗教観・美意識・感性等々、何とも不思議な世界に誘う縄文人とは?????縄文文化とは?????

約10,000年も続いた縄文時代は、弥生時代の約600年、武家政治時代の約670年に比較して余りにも長く、余りにも多くの謎に満ち溢れている。

縄文時代が始まった紀元前1万年前頃には、世界各地で高度な文明が、エジプト・地中海・メソポタミア・インド・中国などでいち早く興り、目覚しい発展を遂げていた。その当時縄文文化も地味ではあったが、充実度合いを深め、主体性を確立しながら、独自の道を歩んでいた。

しかしその間、大規模な火山噴火などで一時的に人口が急減したが、縄文人の文化力は、都度そのような逆境を撥ね返しながら、1万年ほどの長い歴史を歩んだ。

と云うことで、日本人の起源・源流を遡って探ってみるのも、若しかして何か新しい発見があるかも知れない期待を込めて、又改めて縄文人の謎に迫ってみたい郷愁的思慕に駆られ、縄文人が残した、魅惑的で、何とも不可思議な、数多くの芸術味溢れる遺物・遺品を眺めながら、当時を振り返ってみたい。

尚冒頭に触れた“縄文時代の遺跡巡り”については、下記の弊ホームページをご参照あれ。「http://www.hi-ho.ne.jp/mizuno/」