徳川慶喜は、幕末・明治維新の敗者ではあったが、堂々とした敗者と云うより、結果的には勝者であったと云える。
徳川家の存続に成功した以上、必要最小限の遺産を残こしたことからも、慶喜にとって、余り不満はなかったはず。
結局慶喜を追い遣った、薩摩藩の島津久光は、逆に追われて、志と違った結果となり、家臣の西郷隆盛・大久保利通を恨み、又他藩の大名たちも家臣と領地を失ってしまった。
天皇も又、独自の皇居を持てず、慶喜の城・江戸城を引継ぎ、本拠としている。
一方慶喜は、内心どう思っていたにせよ、個人的には優雅で閑静な長い余生を送ることができ、社会的には、幕末から維新にかけて多くの生命が奪われたものの、結果的には最小限の犠牲で明治維新をもたらし、近代日本の端緒を切り開いた功績は、今日では高い評価を受けている。
写真は、晩年の徳川慶喜の普段着姿。
史実の真の評価は、時代の経過と共に、真価が再評価されるという教訓を、本稿“徳川慶喜物語”が語っていることを願う。
慶喜は自身の生涯で、隠居・謹慎生活を3回体験している。
最初は1859年、井伊直弼による“安政の大獄”に連座した時で、開国か攘夷かの問題が政治の争点となり、水戸斉昭・松平慶永ら一橋派が一斉に処罰され、慶喜も何故処罰されたか解らぬまま、隠居・謹慎処罰に伏した。
この時は家臣さえも外部との接触は禁止され、ご機嫌伺いや行事の祝い事なども御法度であったと云う。
2度目は1868年、江戸城開城の日、勅命により水戸“弘道館至善堂”にて謹慎し、更に徳川宗家の家督を家達に譲り、隠居させられた。
写真は、徳川慶喜の公爵としての正装姿。
しかし宗家の隠居家族でしかなかった身分が、1902年公爵となり、徳川慶喜家として分家が許され、再度当主となった。
そして1911年、死亡する2年前であったが、慶喜公爵家を7男・“慶久”に譲り、今度こそは本当の隠居であった。
やっと訪れた、安泰・安堵な幕引きであったと云える。
「慶喜の死は、江戸を一挙に遠い過去のものにした。この日以来、慶喜は江戸を懐かしむ人々の感傷の中に生き始めた。」とは、司馬遼太郎の「最後の将軍」に述べられた名言で、慶喜に送る“最大級の賛辞”と云える。
以上心残りはあるが、本日をもって、“徳川慶喜物語”の幕を引きます。
2ヶ月半の長い間、お付き合い頂き、誠に有難うございました。
暫くはお休みを頂き、リフレッシュしてから、次のテーマに取組みたいと考えておりますので、その節は、引続きご愛顧のほどを宜しくお願い申し上げます。
では又の機会を願って・・・・・・・。
徳川家の存続に成功した以上、必要最小限の遺産を残こしたことからも、慶喜にとって、余り不満はなかったはず。
結局慶喜を追い遣った、薩摩藩の島津久光は、逆に追われて、志と違った結果となり、家臣の西郷隆盛・大久保利通を恨み、又他藩の大名たちも家臣と領地を失ってしまった。
天皇も又、独自の皇居を持てず、慶喜の城・江戸城を引継ぎ、本拠としている。
一方慶喜は、内心どう思っていたにせよ、個人的には優雅で閑静な長い余生を送ることができ、社会的には、幕末から維新にかけて多くの生命が奪われたものの、結果的には最小限の犠牲で明治維新をもたらし、近代日本の端緒を切り開いた功績は、今日では高い評価を受けている。
写真は、晩年の徳川慶喜の普段着姿。
史実の真の評価は、時代の経過と共に、真価が再評価されるという教訓を、本稿“徳川慶喜物語”が語っていることを願う。
慶喜は自身の生涯で、隠居・謹慎生活を3回体験している。
最初は1859年、井伊直弼による“安政の大獄”に連座した時で、開国か攘夷かの問題が政治の争点となり、水戸斉昭・松平慶永ら一橋派が一斉に処罰され、慶喜も何故処罰されたか解らぬまま、隠居・謹慎処罰に伏した。
この時は家臣さえも外部との接触は禁止され、ご機嫌伺いや行事の祝い事なども御法度であったと云う。
2度目は1868年、江戸城開城の日、勅命により水戸“弘道館至善堂”にて謹慎し、更に徳川宗家の家督を家達に譲り、隠居させられた。
写真は、徳川慶喜の公爵としての正装姿。
しかし宗家の隠居家族でしかなかった身分が、1902年公爵となり、徳川慶喜家として分家が許され、再度当主となった。
そして1911年、死亡する2年前であったが、慶喜公爵家を7男・“慶久”に譲り、今度こそは本当の隠居であった。
やっと訪れた、安泰・安堵な幕引きであったと云える。
「慶喜の死は、江戸を一挙に遠い過去のものにした。この日以来、慶喜は江戸を懐かしむ人々の感傷の中に生き始めた。」とは、司馬遼太郎の「最後の将軍」に述べられた名言で、慶喜に送る“最大級の賛辞”と云える。
以上心残りはあるが、本日をもって、“徳川慶喜物語”の幕を引きます。
2ヶ月半の長い間、お付き合い頂き、誠に有難うございました。
暫くはお休みを頂き、リフレッシュしてから、次のテーマに取組みたいと考えておりますので、その節は、引続きご愛顧のほどを宜しくお願い申し上げます。
では又の機会を願って・・・・・・・。