近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

徳川慶喜物語 “おわりに”

2007年06月30日 | 歴史
徳川慶喜は、幕末・明治維新の敗者ではあったが、堂々とした敗者と云うより、結果的には勝者であったと云える。
徳川家の存続に成功した以上、必要最小限の遺産を残こしたことからも、慶喜にとって、余り不満はなかったはず。

結局慶喜を追い遣った、薩摩藩の島津久光は、逆に追われて、志と違った結果となり、家臣の西郷隆盛・大久保利通を恨み、又他藩の大名たちも家臣と領地を失ってしまった。
天皇も又、独自の皇居を持てず、慶喜の城・江戸城を引継ぎ、本拠としている。

一方慶喜は、内心どう思っていたにせよ、個人的には優雅で閑静な長い余生を送ることができ、社会的には、幕末から維新にかけて多くの生命が奪われたものの、結果的には最小限の犠牲で明治維新をもたらし、近代日本の端緒を切り開いた功績は、今日では高い評価を受けている。



写真は、晩年の徳川慶喜の普段着姿。

史実の真の評価は、時代の経過と共に、真価が再評価されるという教訓を、本稿“徳川慶喜物語”が語っていることを願う。

慶喜は自身の生涯で、隠居・謹慎生活を3回体験している。
最初は1859年、井伊直弼による“安政の大獄”に連座した時で、開国か攘夷かの問題が政治の争点となり、水戸斉昭・松平慶永ら一橋派が一斉に処罰され、慶喜も何故処罰されたか解らぬまま、隠居・謹慎処罰に伏した。
この時は家臣さえも外部との接触は禁止され、ご機嫌伺いや行事の祝い事なども御法度であったと云う。

2度目は1868年、江戸城開城の日、勅命により水戸“弘道館至善堂”にて謹慎し、更に徳川宗家の家督を家達に譲り、隠居させられた。



写真は、徳川慶喜の公爵としての正装姿。
しかし宗家の隠居家族でしかなかった身分が、1902年公爵となり、徳川慶喜家として分家が許され、再度当主となった。

そして1911年、死亡する2年前であったが、慶喜公爵家を7男・“慶久”に譲り、今度こそは本当の隠居であった。
やっと訪れた、安泰・安堵な幕引きであったと云える。

「慶喜の死は、江戸を一挙に遠い過去のものにした。この日以来、慶喜は江戸を懐かしむ人々の感傷の中に生き始めた。」とは、司馬遼太郎の「最後の将軍」に述べられた名言で、慶喜に送る“最大級の賛辞”と云える。

以上心残りはあるが、本日をもって、“徳川慶喜物語”の幕を引きます。
2ヶ月半の長い間、お付き合い頂き、誠に有難うございました。

暫くはお休みを頂き、リフレッシュしてから、次のテーマに取組みたいと考えておりますので、その節は、引続きご愛顧のほどを宜しくお願い申し上げます。
では又の機会を願って・・・・・・・。


徳川慶喜物語 私事の紹介とお願い そのⅢ

2007年06月29日 | 歴史
明治初頭の各種名簿には旧幕臣本人のみが記載され、移住に帯同してきた彼等の家族構成員の名前は何処にも見当たらない。
家族名簿情報は明治19年に公開・導入された“戸籍制度”に基づく戸籍謄本上の資料に頼るしか方法がない。

前述の通り、この“戸籍謄本”から推察すると、明治6年当時、穠成は既に他界していたと見られ、家督となった穠直(当時16歳)・弟甲子次郎(当時13歳)の二人は生活拠点・職を求めて、現在の静岡市内に移住したと考えられる。

穠直が16歳にして家督を相続したことは、明治初頭旧幕臣としての家禄受給資格を維持するためであり、当時戸主の若返りを図り、隠居・家督相続・養子願などが多かったと云う。

しかし穠直は本格的な学問を身につけた経歴はなく、又特殊な技能を持ち合わせていた痕跡もなく、本戸籍謄本によると、明治13年23歳の若さで隠居し、生涯独身であったことを考え合わせると、自力で生計を立てていたかどうか疑問が残る。

本戸籍謄本によると、明治19年当時甲子次郎が“指物職”(大工職)として生計を支えていたことが分かっている。甲子次郎は明治6年当時13歳で、義務教育制度のない当時、苦しい家計事情から私学に通っていたとは考えにくく、指物職人方へ丁稚奉公に出て行き、家計を助けていたと推測できる。

と云うことで穠直は、甲子次郎の金銭的支援を受け細々と暮らしていたか、“お泊りさん”として友人・知人宅を転々と渡り歩いていたかなどは定かではない。

江戸を無禄で離れた、静岡移住者にとって親戚縁者が数少ない当時、日常茶飯事として隣人・知人・友人或いは彼等の紹介者を頼りに、お互いにもたれ合って生きていた慣行が文献などで窺えるが・・・・・。



写真は、現在の“静岡市八千代町通り”

明治18年当時の“安西一丁目南裏”の“見取図”には、“指物職・水野甲子次郎”の名前が見える。
水野家が所在した“安西一丁目南裏”は、現在の“八千代町通り”と云われるが、第二次大戦中の戦災により、町通りの区画は大きく変り、当時の面影を残していない。

そこで徳川家旧幕臣には、曹洞宗派が多かったことから、八千代通り周辺を含め、静岡市内の曹洞宗寺院を探し歩いたが、今日までそれらしき水野家先祖の墓所は見つかっていない。





写真は上から、八千代町通りの延長にある“瑞光寺”と“然正寺”。
八千代通り沿いの、禅寺である“瑞光寺”と“然正寺”を訪ね、“水野姓”を探してみたが、各々水野姓2件及び1件とも静岡市内在住の地元の方々で、我が水野家に関する過去帳記録並びに記憶はないという住職の説明であった。

と云うことで、静岡市内での水野家墓所探索は、残念ながら諦めざるを得ない?

徳川慶喜物語 私事の紹介とお願い そのⅡ

2007年06月28日 | 歴史
私事の紹介を更に進めると、若輩穠直・甲子次郎の男兄弟二人の面倒を看てくれていた近所の方、或いは穠成の知人・友人か誰か第三者が存在していたとも考えられる。

本戸籍謄本によると、明治19年当時甲子次郎が、現在の静岡市内で“指物職”(大工職)として生計を支えていたことが分かっている。

又本謄本によると、穠直は大正10年(享年64歳)に死亡しているが、大正7年の沼津転宅の際に、年齢からしても甲子次郎家族と同行・同居したと思われる。
しかし穠直の埋葬記録が、水野家菩提寺・霊山寺にはないことから、穠成と同じ禅寺に葬られていると考えられるが????



写真は、現在の東京中野区上高田の“曹洞宗・保善寺”。

水野家代々の足跡を“水野家過去帳”で辿ると、三代目水野三右衛門穠孝は1756(宝暦6)年10月没し、江戸・“牛込”の“曹洞宗・保善寺”に葬られ、以降代々“保善寺を墓地とした”との記録がある。

保善寺は、現在東京都中野区上高田に所在しているが、水野家代々の埋葬記録を遡及することはできなかった。

徳川家幕臣には、曹洞宗派が多いこともあり、静岡市内のみならず、清水区小島とその周辺の曹洞宗寺院を中心に、探し歩いたが、今日までそれらしき先祖の墓所は見つかっていない。









写真は上から、静岡市清水区興津本町の“宗徳院”、残りは静岡市清水区小島の“竜津寺”無名仏の墓石の数々。

いずれも創建400~500年の曹洞宗名刹として、当地ではよく知られている。

竜津寺墓域は、判読不可の古い墓石におおわれ、住職の説明によると、過去の地震・崖崩れなどで地下に埋もれている墓石も数多いと云う。

いずれの寺院も、個人情報の保護とかで、過去帳は見せてもらえなかったが、檀家名には“水野”という姓名は住職の記憶にないという説明であった。

それにしても、写真の通り、これだけ不詳の墓石が散乱しいている状況を見つめるにつけ、これらの墓石の中に、ひょっとして紛れ込んでいるのでは?と思いたくなる。

清水区域周辺は戦災に遭わなかったことが幸いし、西久保の竜雲寺・庵原の一乗寺など他にも曹洞宗古寺院が点在していることから、今後とも引続き古寺巡りを通じて、“水野正之助穠成”と“水野源四郎”(穠直を改名)が眠る禅寺を探し当てたいと切に願っている。

今後とも、更に墓所めぐりが続く・・・・・。


徳川慶喜物語 私事の紹介とお願い そのⅠ

2007年06月27日 | 歴史
今日から数日は、極めてプライベートな記述になるが、私自身が、今日までかなりの時間をかけて、資料探索・現場検証・聞取り調査などを繰返したにも拘らず、行き詰まってしまった現状を紹介し、若しかしてどなたか、心当たりのある方の情報を期待しつつ、以下敢えて私事の情報を公開する次第です。
どんな情報でも結構ですので、お寄せ頂きますようお願い申し上げます。

大政奉還と共に駿府に移封された、第15代将軍徳川慶喜を追って現在の静岡県内に移住した旧幕臣約14,000名(家族を含めると約80,000人)の中に、旗本・“八代目水野正之助穠成”(以下穠成)の名前が見える。

明治元年10月頃から、お役ご免となった旧徳川家臣の移住集団が続々と駿府にやって来た。
移住者を清水湊まで乗せた船中には、平均2,500~2,600人が乗り込み、想像を絶するほど混雑を極めたと云う。





写真は、幕末の清水湊挿絵及び日本平から望む清水湊と富士山の絶景。

外国籍の大型チャーター船で品川を出て二昼夜かけて清水湊に到着し、ひとまず清水湊近郊の民家・農家に腰を落ち着けたと見られている。
清水地元民は、難民同然の移住者を暖かく向い入れ、炊き出しや宿泊先の手配に当ったと云われている。

明治2年2月現在、小島地域(現在の静岡市清水区小島)の“移住者分配性名簿”によると、穠成を含む合計396名の旧幕臣が当地に仮住居を割り付けられたらしい。

又当時の“静岡士族名簿”には“水野穠直”(以下穠直)の名前が記載されている。穠成と共に移住したと見られる穠成の孫、穠直と甲子次郎を含む3人こそ、私の先祖であり、うち甲子次郎は、私の祖父として明治の“新戸籍制度”(明治19年に戸籍制度が施行され、一般公開された)に登録されているが、明治19年までの空白期間は、消息不明のまま今日に至っている。



写真は、静岡市清水区小島町の代表的禅寺・竜津寺の紅葉風景。
後日詳細を申し上げるが、この禅寺・竜津寺が我が先祖の墓所ではないかと未練が残る。

穠成(明治元年当時57歳)は現在の静岡市清水区小島町に仮住まい後、厳しい生活・衛生環境の中で数年して死亡したと見られ、取り残された穠直(当時10歳)・甲子次郎(当時7歳)の少年二人が、どのようにしてこの一大受難期を乗り越え生き残ったか、実情は全く分からない。

明治19年当時の戸籍謄本によると、戸主の“穠直”(後に源四郎に改名)、弟の“甲子次郎”、父“水野三八郎”の名前が明らかであるが、三八郎は両兄弟の父として記載されているに過ぎず、江戸から静岡へ移住した痕跡は見当たらない。

明治6年当時、穠成は既に他界していたと見られ、家督となった穠直(当時16歳)・弟甲子次郎(当時13歳)の二人は生活拠点・職を求めて、現在の静岡市内に移住していたと考えられる。
穠成は、前述の小島地区への仮住居の割付記録や実父の伝承から、清水区周辺に埋葬されていると見られる。

明治4年頃に、当地で痢病(コレラ)が蔓延し、近代医療技術以前の伝染病治療には手の施しようがなかったと伝えられている。
穠成は痢病死したか、或いは当時の衛生・医療実情から何らかの病死であったと考えられる。

いずれにしても、“武家制度”の終焉と共に大名・旗本の公的記録が途絶え、“水野家過去帳”記録も寸断され、静岡市内・清水区小島周辺の移住先埋葬寺院を探し回ったが、墓所は未だ分からず仕舞い。

徳川慶喜物語 慶喜・親戚のその後

2007年06月26日 | 歴史
先ず徳川宗家は、第15代将軍慶喜が退位した後、“家達”が養子として第16代目を相続し、その子・“家正”が第17代目を引継ぐと共に、貴族院議長を勤めた。

現在第18代目の“恒孝”は、“徳川記念財団”を設立し、理事長として現在に至っている。
この財団は、徳川家の江戸初期から明治以降の公爵家時代に至る、約370年の貴重な歴史資料を保存している。



写真は、少年期・徳川昭武の正装姿。
チョット遡って、1866年末当時、慶喜が第15代将軍となって、弟・“昭武”に清水家を相続させた段階では、将軍宗家・水戸家・尾張家・一橋家・清水家を水戸系で固めることになった。即ち御三家・御三郷のうち、紀州家を除く、三分の二を水戸系で押さえていたことになる。

この頃の水戸家は、有能な人材を擁し、適所に配置して、時代を謳歌していた。
清水家を相続した昭武は、水戸家第11代藩主となった後、晩年は千葉・松戸に隠居して、「松戸さん」と親しく呼ばれていたらしい。



写真は、徳川昭武の別邸・“戸定邸”で、その一部が現在の“松戸市戸定歴史館”。
昭武が晩年居住していた屋敷の一部が、現在「松戸市戸定歴史館」として、慶喜ゆかりの遺品を、常設展示している。

慶喜の水戸家及び一橋徳川家との交流・交際は、極めて慎重で、政局を見通しながら、ある時は親しく、ある時は距離を置いていたようだ。
慶喜が一橋家相続直後は、近しく水戸家と交流しており、特に兄弟姉妹たちの誕生日など節目には、使いを送ったり、自ら出向いたり親密な関係を維持していたらしい。

しかし幕政のトップに就くようになると、微妙な立場から、距離を置くようになったと云う。
時流・時局を考え、独自の判断で行動していたのは、慶喜らしいと云える。

有栖川宮家については、第6代織仁親王の王女楽宮喬子が、12代将軍家慶の夫人であり、その妹・登美宮吉子は水戸斉昭の夫人であり、喬子と吉子は実の姉妹であった。





写真は、有栖川宮熾仁親王の肖像及び東京港区有栖川宮記念公園の熾仁親王銅像。

斉昭・吉子の7男・慶喜が幕末・江戸無血開城した時期、第9代有栖川宮熾仁親王は、かつて皇女和宮の許嫁であったが、“東征大総督”として、3月15日の“江戸総攻撃”を目指していた。後に陸軍大将を務めた。

公爵・慶喜家の子孫たちは、「戦前の学習院は、どなたもみんなどこかでご親戚」との文にあるとおり、慶喜のDNAが及ぶ、上流階級の血縁による紐帯の深さを思い起こさせるのに十分であった。


徳川慶喜物語 慶喜・渋沢栄一との出会い

2007年06月25日 | 歴史
慶喜の功績の一つに、“渋沢栄一”と云う人材の発掘が挙げられる。

裕福な農家に生まれた渋沢は、尊皇攘夷運動を起こそうとして江戸に出た。
渋沢は、時の人・一橋慶喜の知遇を得ようと一橋邸を訪れたことが契機となり、慶喜の謀臣・“平岡円四郎”に推挙され、慶喜に仕えることになった。



写真は、当時の渋沢栄一の肖像。
慶喜に召し抱えられ勘定組頭となった渋沢は、米の流通に関わったり、特産の白木綿の販路開拓に乗り出したり、硝石の本格的生産工場を創設したり、藩札を流通させるなど、実業の世界で才能を実証して見せた。

慶喜が将軍となり、弟・昭武をパリ万博に派遣することが決まると、渋沢はその随行員の一人として渡欧することになった。



写真は、東京駅近くの日銀本店脇の渋沢栄一銅像。
パリ留学の体験が、渋沢が後に日本の“実業界の父”と呼ばれるほど、数多くの会社を設立し、今でも多くの会社が大企業として存続している。
特に第一国立銀行の創設は、日本の殖産振興の原動力となった。

慶喜は、間接的に今日の代表的日本企業の発展に貢献したことになる。

後年の渋沢は、大隈重信に説得されて政府役人となり、国の経済力向上のために力を尽すことになるが、その影では、終生にわたり慶喜へ様々な支援の手を差し伸べていた。

そして長年の疑問、大政奉還の真実を解き明かすことが、残された渋沢の任務として、慶喜の死後相当の時期に発表する約束で、慶喜自身の口から幕末の史実を聞きだしていた。







写真は上から、渋沢栄一著“徳川慶喜公伝”と“昔夢会筆記”の表紙、及び渋沢栄一の屋敷一部が開放された、東京北区の“渋沢史料館”。

慶喜の口実は“徳川慶喜公伝”・“昔夢会筆記”としてまとめられ、慶喜研究の一級資料となっている。

「王政維新の偉業は、近因を慶喜公の政権返上に発した!」と、現実的経済人・渋沢栄一の言である。

徳川慶喜物語 “プロ級の多趣味”とは!

2007年06月24日 | 歴史
慶喜は一橋家の養子となってからは、徹底した英才教育を受け、馬術・弓術・槍術・剣術については、免許皆伝の腕前、他にも砲術・兵学・絵画・音楽なども師匠の直接指導を受けていた。

一橋家を相続してからの慶喜は、もっぱら学問・術・稽古ごとなど文武両道の分野で研鑽を積んでいた。

と云うように10代の超過密な文武両道の研鑽が、隠居後の生活姿勢・嗜好に大きく影響したことは云うまでもない。

駿府移住・隠居後は、表舞台に一切出ることなく、元々多方面にタレント性が強かった慶喜の進むべき道は、自ずと定められていたと云える。

慶喜は合理主義者で、長い人生を慨嘆するのではなく、まさしく悠々自適の生活・退屈のない生き方を志向し、ともかく毎日のように外出したと云う。





写真は上から、慶喜が弓道を嗜んでいた姿及び狩猟に出かけた時の出で立ち。
弓道は毎日欠かすことなく、晩年まで続けたと云う。

昨日は鷹狩り、今日は鉄砲、明日は乗馬・投網等々極めて多忙な毎日であった。
10代の頃に培った君子の嗜みに加え、何をやっても生来凝り性・並々ならぬ好奇心及び洋癖が仕向けた嗜好の分野は、留まることなく広がって行った。

特に趣味の世界は、アウトドアー・インドアーとも多岐にわたり、馬術・弓術・狩猟・放鷹・打毬・投網・自転車・カメラ撮影などのアウトドアー、絵画・囲碁・将棋・書道・謡曲・作陶・和歌・刺繍・お菓子作りなどのインドアー等々多岐・多様にわたった。

カメラ撮影は、将軍現役時代から関心が高く、静岡に移住してからは、本格的に写真研究に取組み、現在静岡市内の“久能山東照宮博物館”には、当時慶喜が使ったドイツ・ゴルツ社のカメラ3台が陳列されている。

撮ることも・撮られることも好きで、和洋様々な服装の肖像写真が残されている。一族が集まると“カメラマン”よろしく黒衣を被って“暗箱”を覗いていたらしい。

将軍現役時代から撮り続けた写真は、今では幕末から明治期の貴重な文化的資料となっている。千葉県“松戸市戸定歴史館”には、約500枚のアルバムが所蔵されていると云う。





写真は、徳川慶喜作の数あるプロ級芸術品の中から、油絵風景画2点。

そのほか、風景油絵・西洋風景画・日本画・習字等々多数の作品が、文化財として、茨城県立歴史館・久能山東照宮博物館・福井市立郷土歴史博物館・松戸市戸定歴史館などに所蔵されている。



徳川慶喜物語 慶喜の私生活

2007年06月23日 | 歴史
静岡居住時代30年間、慶喜は子宝に恵まれ、美賀子夫人との間には子供はなかったが、同居していた側室の“中根幸・新村信”との間に、10男・11女をもうけた。
歴代将軍では、家斉の55人・家慶の29人に次いで、子宝3番目と云う。

21人の子供たちのうち、成人したのは14人で、初めの頃は夭折が多かったと云う。夭折は過保護が原因で、ある時期から町の健康な庶民の家庭に預ける、いわゆる里子に出したと云う。





写真は上から、側室の中根幸及び新村信。
側室のお二人は顔立ちがそっくりで、どっちが母親かなど子供たちは、普段余り意識しなかったらしい。

側室のお二人は非常に仲が良く、慶喜への世話、即ちお湯殿当番と夜のお伽は、一晩おきに交代で勤めたと云う。

皆同じ屋根の下で暮らしていたが、子供たちは生母を“幸”とか、“信”とか呼び捨てにしていたらしく、生みの親に対するような、呼び言葉をかけることはなかった。“幸”と“信”は“側女中”とも呼ばれ、使用人扱いであったと云う。

当時発刊されていた「徳川慶喜家子女 略系図」には、6男・8女の子女全員が、美賀子の子として紹介されており、“幸”や“信”について全く触れられていなかった。産まれた子の貴賎は、父親の素性によると云われた、古い習慣の名残と見られる。

徳川慶喜家当主は、2代目が“信”系譜の公爵・“慶久”で貴族院議員、三代目が慶久の嫡男で公爵・“慶光”で、同じく貴族院議員を勤め、大日本史の研究でも知られている。



写真は、4代目現当主の徳川慶朝氏で、慶喜が好んだという珈琲を再現している光景。静岡名産茶ではなく、コーヒーとは何とも皮肉?
“慶朝”は、コーヒー研究家・写真家として、現在も活躍中。

慶久の次女・“喜久子”は、高松宮妃殿下として知られている。

慶喜公の10男・“信”系譜の“精”は、勝海舟の婿養子に迎えられていた。
“精”は、実業の世界に入り、浅野セメント・石川島飛行機などの重役を勤めた。

慶喜公の娘・“幸”系譜の“糸子”は、貴族院議員で陸軍軍人の“四条隆愛”に嫁いでいる。

徳川慶喜家が“公爵”を与えられただけに、慶喜の子供たち・子孫とも、貴族或いは貴族らしい地位を継承していると云える。


徳川慶喜物語 “駿府居住時代”の日常生活振り

2007年06月22日 | 歴史
駿府居住時代の慶喜は、極力他界との縁を断ち切っていた。どんなに幕末時代に慶喜の下で働いた人物が、慶喜に会いに行っても、面会を断られている。

と云うのも、当時反政府運動が盛んであったので、そこに慶喜は御旗として担ぎ出されることを嫌い、又旧幕府の人物に、うっかり当時の恨みなどを口走り、問題となることを恐れていたと見られる。

「慶喜が言った」といわれるエピソードの一つに、「長州藩は初めから幕府に反抗していたので許すが、薩摩藩は途中まで幕府に協力していたのに、裏切ったので許せない!」が例に出されるが、極力他界との接触を避けた理由が分かる。



写真は、現在の静岡市内の街並。
日常生活サイクルの一つに、当時は珍しかった自転車で静岡市内を楽しそうに走り回っていたため、生活に苦しめられていた旧幕臣からは恨まれてしまったようだ。
好奇心が優先したのか、貴族意識から抜けきらなかったのか、相手の心を思い遣る配慮に欠けていたのは間違いない。



写真は、慶喜がこよなく愛した弓道。
慶喜と云えば、とにかくほとんどがプロ級技能の多趣味で、例えば“弓道”は毎日欠かすことなく、晩年まで続けたと云う。詳しくは後述する。

日課の一つに読書を欠かさず、政治の世界から一切身を引いたが、新聞は毎日読み、更に次第に幕末に関する書物が発売されるようになると、これらも読み、幕末当時の裏側の真相を知るようになった。
例えば“大政奉還”が坂本竜馬の発案であったことも、この当時ようやく知ったらしい。

幼少時代から、父・烈公の教育方針であった“質素礼節”は、食生活にも及んでいた。三度の食膳は、一汁一菜の玄米食で、魚肉は月三日と、禅寺住職のような食生活であったと云う。

鰹節に醤油をかけたものなど、淡白な和食が中心で、好物は鯛・鰹・ヒラメなどの刺身、ウニ・ナマコ・半熟卵などで、たまに洋食も食べたらしい。
“アルコール”は強かったが、晩年は養命酒・白ワイン・桑酒などを晩酌程度に留めていたと云う。



写真は、今は懐かしくなりつつある、“きざみたばこ”。
煙草は薩摩の“きざみたばこ”を少々と、77歳の長命は、健康的な食生活・日常生活の結果であったと見られる。

健康には人一倍気を使ったといい、外出するときは必ず医者が検査した水を持参し、お供が沸かした湯茶以外は決して口にしなかったと云う。
幕末から遠ざかりつつあったとは云え、旧幕臣に対する、警戒心・保身には細心の注意を払っていたのでは????

又招待の席でも、料理には一切手をつけないという徹底振りで、疫病を心配していた節があるが、お供が招待主への言い訳に大変だったようだ。



写真は、“静座法”の作法サンプル。
“静座法”にも凝っていたらしく、複式呼吸によって横隔膜を動かして呼吸を整え、精神修養と健康増進に役立つという静座法を採り入れていたそうだ。

又毎日一時間程度姿勢を正し、両手を腰にあて、屋敷の長い廊下を往復していたと云う。何とも聖人のような生活振りには、本当に驚かされる!

ところで、上述したような慶喜の生活レベルを維持していた、“収入源”はどこから貰っていたのであろうか?

徳川宗家から定期的に“御定金”が送られていたようで、例えば明治13年の“旧公債証書額面拾三円下賜”という証書が、茨城県立歴史館に残されており、又明治30年の“手形1,300円”送金とある証書なども残されている。


徳川慶喜物語 “秩禄処分”

2007年06月21日 | 歴史
明治新政府は、旧幕臣との間で繰広げられていた、戊辰戦争の戦費負担や維新功労者に対する“賞典禄”の支給負担など、発足当初から極度の財政難に陥っていた。

又軍事的にも諸藩に対抗する兵力を確保できなかったため、旧大名による諸藩の統治は、そのまま維持されるという、極めて中途半端な治世を余儀なくされていた。

従って諸藩の家臣は、藩主が家臣に対して世襲で与えていた“俸禄制度”を基本に編成・維持されていたが、明治維新後も“俸禄”は家禄として引継がれ、士族に対して支給されていた。

新政府の目指す中央集権化など財政改革を行うには、禄制改革が最大の課題であり、士農工商の身分制解体・武士階級の身分的特権廃止は不可欠であり、軍制改革の障害となっていた。

そして1869年の“版籍奉還”に伴う禄制改革により、家禄は新政府から直接支給されることになり、禄制は大蔵省が管轄することになった。

1871年には“廃藩置県”が実行され、幕藩体制は解消、全国の士族は政府が掌握すると共に、多元的であった家禄の支給体系が、全国一律化された。

1873(明治5)年には“徴兵制”の施行により、家禄支給の根拠が消失した。



写真は、落合弘樹著の“秩禄処分”についての書籍。
秩禄処分により、華族・士族の“家禄”を廃止しようとした、明治新政府の改革は、学制・徴兵令・地租改正などの改革に匹敵する一大改革で、これによって武士という特権的身分は完全に消滅することになった。

翌年には、禄制改革により、家禄に対する“家禄税”の創設や、“家禄奉還制”が布告された。
家禄税は、家禄のランクに応じて課税し、軍事資金として利用することで士族の理解を得ようとした。又家禄奉還制は、任意で家禄を返上したものに対して事業や帰農など就業資金を与えるもので、士族を事業に就かせる経済効果を意図した。

しかし地域格差がある中での一律施行に対する不満や、就業の失敗による混乱など政情不安を引起した。

又地租改正により農民の納税が金納化され、家禄支給を金禄で支給する府県も出現した。

1875年には、家禄を整理するために“秩禄奉還制”が定められ、秩禄を奉還するものに対して、禄高に対して“金禄公債”を付与する政策を行い、秩禄は段階的に廃止された。

と云うような地租改正・秩禄処分に対して、農民一揆や士族反乱が各地で勃発した。又米価の高騰による混乱や不満が一揆に拍車をかけた。
明治初期の農民一揆の背景は、豊年にもかかわらず、米商人の中には利得稼ぎのため、領外へ出荷していたことで、米価高騰を招いたことが直接の原因。

そもそも明治初頭には、“士農工商”と云う身分階層の解体・”兵農分離”の原則崩壊など、社会不安から地域社会に悪党が徘徊し、強盗事件を引起すなど、治安の悪化が深刻であったことも一揆・反乱の背景にあった。



写真は、西日本各地の不平士族の反乱状況を物語る書状。

西南戦争・神風連の乱など九州地方の士族反乱は、その代表的事例であり、士族反乱を契機に、救済措置として“士族授産”(士族に対する産業振興奨励策)が行われるようになった。


徳川慶喜物語 旧幕臣の転職

2007年06月20日 | 歴史
徳川時代崩壊は、いわば一大企業の倒産に等しく、失職した旧幕臣の身の振り方は一大事であった。

家達・慶喜と共に、駿府藩に移住した旧家臣のほかに、江戸に残留した旧幕臣たちは、一体全体どうような身の振り方をしたのであろうか?
慶喜の旧幕臣に対する思い入れは、記録もなくハッキリしないが、余り強いものではかなったと見られる。

慶喜は元々水戸家出身で、幕府内の保守派からは敬遠されていたし、朝廷の圧力で将軍後見職になったことからも、慶喜自身は、幕府閣老をはじめ幕臣からは常に疑念の眼で見られていたらしい。

将軍後見職に就いてから、大政奉還まで僅か5年ほどと短かったことからも、旧幕臣との関わり合いは、一部を除き、ビジネスライクであったと見られる。
慶喜が自ら率先して、旧幕臣の転職先の世話をすることはなかったようだ。

幕末当時、幕府から給料を得ていた旗本・御家人はサラリーマンであり、いわば江戸中のサラリーマンが失業に追い込まれたことになる。
幕府が勧めた転職先の中には、新政府に出仕する身の振り方もあったが・・・。





写真は、勝海舟及び榎本武揚の肖像。
現に、勝海舟・杉浦譲・前島密・渋沢栄一や箱館戦争の降伏者である榎本武揚・大島圭介など、新政府の高官を勤めた要人もいた反面、新政府に仕えることを潔よしとしない幕臣も多かったと見られる。

朝臣を目指す者、帰農・帰商を選ぶ者、女房の裁縫などの稼ぎに頼る者、知人・友人を頼って居候する者、家宝を換金する者など千差万別であったと云う。
特に武家の意地も・しがらみもかなぐり捨てて、“農工商”の道に進んだ幕臣も数多くいたようだ。



写真は、士族の転職先光景。
代々の家宝を売り払うために骨董品屋を始めたり、茶店・焼き芋屋など、とりあえず手っ取り早い収入源を求めた苦悩は、計り知れない。

士族たちの新規商売は、江戸山の手では、麹町・牛込神楽坂・小石川小日向など、下町では神田・下谷・本所・深川などに多かったと云う。

不慣れな上に、武士の情けが仇となって廃業に追い込まれる幕臣も、後を絶たなかったらしい。食糧源・仕事を求めて転々と流転の旅をせざるを得なかったようだ。

武士階級制度の崩壊に伴う時代の激動期に一遇千載のチャンスを活かした一部の下級武士を除き、多くの下級旗本たちは敗者にあまんじ、帰農・帰商・転職などの道にも失敗し、敗者の惨めさを味わったことは想像に難くない。

いずれにしても、かつての幕臣たちは、士族と云う肩書きだけを子孫に残し、新しい時代に生き残りをかけて、体当たりでチャレンジするよう強いられた。

◎徳川慶喜物語 “松下村塾と高杉晋作”

2007年06月19日 | 歴史
“徳川慶喜物語”の時系列が前後するが、この度、“高杉晋作”について学ぶ機会があったので、松下村塾・高杉晋作・長州藩のチェーン効果、明治維新に導いた長州藩のパワー・影響力について、振り返ってみたい。



写真は、高杉晋作の肖像写真。
高杉晋作は、“上士”の長男という恵まれた環境も幸いし、漢学塾・藩校の明倫館に学び、又吉田松陰が主宰していた松下村塾に入る機会にも巡り会った。

藩命で江戸へ遊学し、東北に遊学して佐久間象山・横井小楠と出会い、藩命で中国・上海へ渡航し、中国“清”が欧米の植民地となりつつある実情や民衆反乱を目の当たりに見聞する等々、実践教育・“実学”の機会にも恵まれた。

特に明倫館・松下村塾での“共育・響育”(教育ではなく)の影響を強く受け、“尊皇攘夷”運動に加わり、京都市内でのテロ行動・イギリス公使館の焼き討ち・関門海峡における外国船砲撃など、過激的な尊攘急進派のリーダーとして、時代を動かした。

松下村塾では、高杉晋作のほか、久坂玄瑞・木戸孝允・伊藤博文・山県有朋などの明治維新の中心となる人材を輩出した。





写真は、吉田松陰の肖像画及び萩市内の松陰銅像。
松下村塾長の中心的な思想は、「天皇を中心とした、強力で偉大なる神聖日本は、民族の独自性を持ち、且つ有機的に統一された国民的国家である」という所謂“尊皇攘夷”の思想であった。

松下村塾は、全国を行脚した“松陰”の旅行談を聞き、人生を語り、詩を詠みあう「青年宿」であり、その自由闊達な空気に惹かれ、誘い合って集まってきた若者たちの情熱的な「学び舎」であった。

塾生の一人一人を観察し、その者の資質を見抜き、それに沿って指導した“松陰”は、“educate”(教育する)というよりも、“educe”(資質を引き出す)を本旨としていた。師に敬愛の念を抱いたのも“松陰”が温厚で、慈愛深かったためであり、塾生たちは、松陰の人間的な魅力に惹かれ、影響を受けると共に、大きく育てられ・引き出された。今日の教育現場とは隔世の感がある。

そして松下村塾の塾生たちは、やがて明治維新を担う政治家として、大きく羽ばたいていった。
長州藩士のパワー・影響力と松下村塾の存在とは無縁ではないと思う。

そして長州藩・松下村塾の伝統・DNAが、その後も引継がれ、山口県出身の歴代総理大臣8名をも輩出していることは、偶然ではないと思う。
第二次大戦後では、現役の“安倍晋三”のほか、“佐藤栄作”・“岸信介”各氏は記憶に新しい。

長州藩士の代表的存在である晋作が、尊攘派の主導権を回復したのは、諸外国と対等な立場で条約を結び直させようと決意したもので、藩論を“尊攘”に結集した同志たちと死ぬ覚悟を決めた。それは上海で見聞した植民地の実情を知った上での強い決意でもあった。



写真は、高杉晋作の墓所・下関市の東行庵。

1863年、京都で藩主に10年の暇を貰った晋作は、剃髪して自らを「東行」と号した。東へ行く、「東行」の号とは、討幕の決意を積極的に公表したと見られる。

その間、長州藩脱藩・謹慎・挙兵などを繰返し、遂には奇兵隊を結成し、挙兵し、長州俗論派を排斥して藩論を統一、幕府の第二次長州征伐では、海軍総督として大活躍し、幕府軍を敗北に導いた。



写真は、高杉晋作率いる奇兵隊。
奇兵隊は、山の猟師、海の漁師、農村の百姓らに「飯より喧嘩の好きな奴は侍にしてやる」と募集したもので、当時の日本では最も強い兵力となっていた。

晋作は、怒りのエネルギーを保存して、自分たちの将来のために注ぎ込むことを提案していたが、この意気込みが明治陸軍の精神に繫がっていると思われる。



写真は、高杉晋作による、愛妾“おうの”を描いた書画。
1865年、長府藩士により暗殺を企てられていた晋作は、愛妾“おうの”を伴い、四国に亡命したことがあったが、その“おうの”を描いた絵の方も、写真の通り、なかなかの腕自慢であったようだ。
寸暇を惜しみ、ささやかな夢を託して描いたのではないか?



写真は、京都東山霊山墓所に眠る、高杉晋作他長州藩士たち。
しかし第二次長州征伐では、晋作は病気(結核)をおして、小倉口の戦を指揮し、長州藩は勝利を収めたが、病気には勝てず、ついに短い一生を終えた。享年、27歳。

若し、晋作が病没していなければ、明治新政府でどのような役割を演じていたであろうか?想像するだけでも、彼の供養になるのではないか!

徳川慶喜物語 “河川架橋事業”

2007年06月18日 | 歴史
江戸時代、幕府は多くの川で架橋を禁じ、川越人足の「徒渡」や「渡舟」で川を渡らせた。

幕末、有栖川宮親王率いる官軍は、安倍川の川瀬に仮橋を架けたが、橋を渡ったのは親王だけであったし、又明治天皇が東幸された際にも天皇だけが、仮橋を渡ったと云う。当時としては川越人足・船頭重視のポリシーで、架橋はタブーであった。

しかし明治4年、明治新政府は、「渡舟」の他に、「架橋」の許可を与える太政官布告を出した。これを受けて安倍川架橋を発案したのが、元駿府藩士・相原安次郎であった。相原はこの事業を、安倍川の近くの弥勒の村長に譲った。

と云うのも、架橋に伴い失業する400人ほどの川越人足の失業対策は、地元の有力者に頼らざるを得ない事情があったためと思われる。







写真は上から、安倍川沿いの弥勒公演内に建てられた架橋記念石碑、江戸時代の安倍川人足渡しの風景及び現在の安倍川光景。

地元有力者である弥勒の宮崎村長は、架橋の大事業には官費の補助を受けず、工期半年をかけ、自費・独力で成し遂げたと云う。

長さ約500m・幅3.6mの木橋は、1873年に完成したが、夜間通行便のためにガス灯が設けられるほど、当時としてはモダンな造りであったらしい。
この安倍川架橋を契機に、大井川・天竜川・富士川など相次いで架橋事業が始まった。

中でも大井川は流れが速く、不慣れな旅人が渡るには、大変危険なところ。
川庄屋を頭にして、その日その日の水深をはかり川越運賃、渡渉順番、荷物の配分などを取り決めていたらしい。これが“川越制度”の始まりと云う。

幕末の頃には大井川の川越人足は両岸に夫々650人ほどもいたと云う。
それだけに架橋に伴う、川越人足の失業対策は深刻であったと思われる。

徳川慶喜物語 “沼津兵学校”

2007年06月17日 | 歴史
1868(明治元)年、徳川家の駿府70万石への移封が決定されると、江戸幕府が残した厖大な書籍・器機や優れた人材の活用を図るため、上述“江原素六”の協力により、旧幕府陸軍幹部を中心に沼津兵学校が設立された。
沼津兵学校は陸軍の士官を養成することを主たる目的としていた。







写真は上から、JR沼津駅南口から直ぐの所にある城岡神社、明治27年に建てられた、本神社境内にある沼津兵学校跡記念碑、及び実際は城岡神社筋向いにあった、沼津兵学校跡地で、現在は駐車場。

沼津兵学校の初代頭取には、当代第一の啓蒙学者であり、オランダ留学の経験もあり、慶喜の政治顧問でもあった“西周”が招聘され、欧米の近代的学問・文化を採り入れ、その水準は、当時国内最高のレベルを示すもので、全国から優秀な人材が留学したと云う。



写真は、西周の肖像。
当時の幕府研究・教育機関や長崎海軍伝習所に所属していた多くの学者・職員が、そのまま静岡藩に移住してきたことで、豊富な人材と技術力が確保された。

教授陣は、20歳から30歳台の若々しい、幕府に仕えていた学者・軍人で、西洋の学問・技術を身につけていた者が就任したと云う。

兵学校設立の速さといい、充実した教授陣の就任といい、静岡藩の兵学校教育に対する並々ならぬ意気込みが窺える。
又同校の予備教育機関として設けられた、付属小学校は近代的小学校の先駆と云われた。

と云うように、短い期間ながら、沼津が日本の教育の中心であったことと、そこから巣立った多くの技術者が日本の近代化を支えたと云える。

兵学校の生徒は、14歳から18歳までの静岡藩士とその子弟及び他藩からの留学生から、学識の程度により選抜された秀才たちであったと云う。
高度な教育内容、広範な人材輩出などの記録が、現在も残されている。
個人的なこととは云え、沼津生まれ・育ちの同郷人にとって、真に誇りに思う。

と云うことで、教授陣も生徒も新しい組織で、一心不乱に学術の道を目指したと思われる当時は、一方で戊辰戦争・箱舘五稜郭の戦いが続いていた時期でもあり、筋道を通して薩長と戦うべきか、これからの日本のために学ぶべきか、複雑な心境であったと推察する。

そして沼津兵学校は明治5年には、東京本校に合併・吸収され、廃校となった。


徳川慶喜物語 静岡藩士の功績事業家・“江原素六”とは!

2007年06月16日 | 歴史
静岡移住藩士にとって、忘れてはならない人物に“江原素六”が挙げられる。
幕臣であった素六は、明治維新により、沼津の地に移住し、沼津兵学校の設立や“士族授産事業”振興などに貢献した。





写真は上から、江原素六の肖像画及び沼津市明治史料館前に建てられた江原素六の銅像。
沼津を中心とした静岡県東部の教育・産業の基礎を築いた功績により、地元民には未だに忘れることができないほど、素六より偉大な恩恵に与った。

教育面では、沼津兵学校以外にも、沼津の小中学校・高等学校などの創設者であり、又東京では“麻布中学校”を創設し、自ら校長を長らく務めるなど、教育者としても名を馳せた。



写真は、江原素六の史蹟が残る沼津市明治史料館・江原素六記念館。

又産業振興面では、沼津・愛鷹山で牛や羊を飼い、西洋式の牧畜を始め、牛乳・バター・チーズ・羊毛などを生産し、又茶を栽培し、アメリカへ輸出するなど新規産業振興に貢献した。

それまで誰もやらなかった産業振興にチャレンジし、国有地として没収された愛鷹山麓の土地を地元農民に取りもどすなど、産業人としても大活躍した人物。

更に政治家としても、地方自治体の長からスタートし、中央の政界にも大きな足跡を残した。衆議院議員・貴族院議員・政友会長老など、亡くなるまで議員の職を勤め上げた。

そして素六は、熱心なキリスト教信者として、沼津教会を創設し、キリスト教の伝道師として、静岡県東部地方の布教に奔走した。
明治時代後期からは、東京キリスト教青年会(YMCA)の理事長を務めるなど、キリスト教布教者として名を残した。


更に女性・子ども・病人など社会の弱者や、中国人留学生などアジア人のためにも、救護活動をするなど社会事業家でもあり、進歩的国際人でもあった。

と云うように、素六は産業人・教育者・政治家・社会事業家・国際人・クリスチャンであり、私的なことながら、沼津生まれ育ちの一市民として、大いに誇れる偉大な人物であった。



写真は、沼津市江原公園内の江原素六墓所。

私生活面では、質素で慎ましく、控えめで、誰とでも気安く話し、皆から慕われた一平民であったと云う。
素六は、1922(大正11)年、80歳の生涯を閉じた。