桜井市纒向遺跡の最新発掘情報から、当地は人工的な政治・宗教都市であったことが窺い知れる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/9b/938f04a4334b8ffaa9e6b32d79b1b6df.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/6b/c4575558a9720b4aa05bcbfce0a79e12.jpg)
写真は、現在の桜井市纏向遺跡の地理及び当地の古墳時代前期マッピングで、斜線部分が纒向遺跡領域。
太田北微高地に所在する纒向遺跡は、古代からご神体として信仰を集めてきた三輪山の優美な姿を南東に望み、南に“卑弥呼の墓”との説がある箸墓古墳が横たわる。
西に目を転じると、勝山古墳・矢塚古墳・石塚古墳など3世紀に築かれた、最初期の古墳群が点在する、さしずめ前方後円墳銀座の感がある。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cat_8.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/8a/79783355539b74081346ae5bc2c9fd99.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/31/fed89b666d0f45351042753c6ed68026.jpg)
写真は、JR桜井線沿いで進められている、線路右側向うの本遺跡発掘調査現場及び今回の建物跡南側の畑地。こちらも今後発掘調査が見込まれる。
JR線は、今回の調査区域の東端で、今後線路を挟んで、本遺跡東側(線路を挟んで左側方面)に向けてどこまで発掘調査ができるか?![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cat_3.gif)
纒向遺跡中心部の全体像を探るため、21年9月以降、約390㎡の発掘調査を進めてきたが、これまでの調査面積は、遺跡全体の約5%にすぎず、今後の調査によって、JR線路を挟んで、さらに東側に建物などが確認される可能性が期待されている。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cat_6.gif)
3世紀後半までの大型建物跡としては、吉野ケ里遺跡の高床式建物跡(2世紀、約156㎡)や、樽味四反地遺跡(松山市)の掘立柱建物跡(3世紀後半、約162㎡)などがある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/14/553f9c00001ffa5c405cf5e37df68960.jpg)
写真は、邪馬台国集落と宮殿のイメージ図。
邪馬台国は、3世紀末の中国・三国時代の史書「魏志倭人伝」に記載されている。宮殿や物見櫓、城柵があったと記されているが、纒向遺跡ではこれまで大型建物跡が出土しておらず、畿内説の「弱点」とされてきた。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cat_7.gif)
しかし今回の国内最大規模の大王の宮級建物跡は、王宮の原型と見られ、日本国家形成過程を探る上で貴重な発見であり、ここが邪馬台国の中心で、大型建物は、“魏志倭人伝”にある“卑弥呼の宮殿”であった可能性があると云える。
一方で、今回の発見は、有力な傍証であっても、邪馬台国や卑弥呼と結びつく、直接証拠でないだけに決め手に欠け、当然反論もある。
論争に終止符を打つためには、決定的な証拠が見つかるかどうか、例えば中国・魏から授けられた“親魏倭王”の金印のような文字資料の出土が大きな鍵となりうるが・・・・・。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cat_8.gif)
桜井市は、今後とも周辺の調査を継続的に進める計画で、その財源を確保するために、昨年度から寄付金を募集しているほど。
周辺地域の一連の調査は、我が国の国家の形成過程を探る上で極めて重要な意義を持つもの云える。
今後研究所を設けるなど調査・研究を進めて証拠を増やすことで、中枢部の様相が更に明らかになる可能性がある。
飛鳥時代より前の古代の宮殿については、実態が分かっていないだけに、居館内の構造や個々の遺構の性格など、全体像の解明を期待したい。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cat_2.gif)
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写真は、現在の桜井市纏向遺跡の地理及び当地の古墳時代前期マッピングで、斜線部分が纒向遺跡領域。
太田北微高地に所在する纒向遺跡は、古代からご神体として信仰を集めてきた三輪山の優美な姿を南東に望み、南に“卑弥呼の墓”との説がある箸墓古墳が横たわる。
西に目を転じると、勝山古墳・矢塚古墳・石塚古墳など3世紀に築かれた、最初期の古墳群が点在する、さしずめ前方後円墳銀座の感がある。
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写真は、JR桜井線沿いで進められている、線路右側向うの本遺跡発掘調査現場及び今回の建物跡南側の畑地。こちらも今後発掘調査が見込まれる。
JR線は、今回の調査区域の東端で、今後線路を挟んで、本遺跡東側(線路を挟んで左側方面)に向けてどこまで発掘調査ができるか?
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纒向遺跡中心部の全体像を探るため、21年9月以降、約390㎡の発掘調査を進めてきたが、これまでの調査面積は、遺跡全体の約5%にすぎず、今後の調査によって、JR線路を挟んで、さらに東側に建物などが確認される可能性が期待されている。
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3世紀後半までの大型建物跡としては、吉野ケ里遺跡の高床式建物跡(2世紀、約156㎡)や、樽味四反地遺跡(松山市)の掘立柱建物跡(3世紀後半、約162㎡)などがある。
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写真は、邪馬台国集落と宮殿のイメージ図。
邪馬台国は、3世紀末の中国・三国時代の史書「魏志倭人伝」に記載されている。宮殿や物見櫓、城柵があったと記されているが、纒向遺跡ではこれまで大型建物跡が出土しておらず、畿内説の「弱点」とされてきた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cat_7.gif)
しかし今回の国内最大規模の大王の宮級建物跡は、王宮の原型と見られ、日本国家形成過程を探る上で貴重な発見であり、ここが邪馬台国の中心で、大型建物は、“魏志倭人伝”にある“卑弥呼の宮殿”であった可能性があると云える。
一方で、今回の発見は、有力な傍証であっても、邪馬台国や卑弥呼と結びつく、直接証拠でないだけに決め手に欠け、当然反論もある。
論争に終止符を打つためには、決定的な証拠が見つかるかどうか、例えば中国・魏から授けられた“親魏倭王”の金印のような文字資料の出土が大きな鍵となりうるが・・・・・。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cat_8.gif)
桜井市は、今後とも周辺の調査を継続的に進める計画で、その財源を確保するために、昨年度から寄付金を募集しているほど。
周辺地域の一連の調査は、我が国の国家の形成過程を探る上で極めて重要な意義を持つもの云える。
今後研究所を設けるなど調査・研究を進めて証拠を増やすことで、中枢部の様相が更に明らかになる可能性がある。
飛鳥時代より前の古代の宮殿については、実態が分かっていないだけに、居館内の構造や個々の遺構の性格など、全体像の解明を期待したい。
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