近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

奈良県桜井市纏向遺跡の大発見とは!そのⅡ

2009年11月30日 | 歴史
桜井市纒向遺跡の最新発掘情報から、当地は人工的な政治・宗教都市であったことが窺い知れる。





写真は、現在の桜井市纏向遺跡の地理及び当地の古墳時代前期マッピングで、斜線部分が纒向遺跡領域。

太田北微高地に所在する纒向遺跡は、古代からご神体として信仰を集めてきた三輪山の優美な姿を南東に望み、南に“卑弥呼の墓”との説がある箸墓古墳が横たわる。

西に目を転じると、勝山古墳・矢塚古墳・石塚古墳など3世紀に築かれた、最初期の古墳群が点在する、さしずめ前方後円墳銀座の感がある。





写真は、JR桜井線沿いで進められている、線路右側向うの本遺跡発掘調査現場及び今回の建物跡南側の畑地。こちらも今後発掘調査が見込まれる。

JR線は、今回の調査区域の東端で、今後線路を挟んで、本遺跡東側(線路を挟んで左側方面)に向けてどこまで発掘調査ができるか?

纒向遺跡中心部の全体像を探るため、21年9月以降、約390㎡の発掘調査を進めてきたが、これまでの調査面積は、遺跡全体の約5%にすぎず、今後の調査によって、JR線路を挟んで、さらに東側に建物などが確認される可能性が期待されている。

3世紀後半までの大型建物跡としては、吉野ケ里遺跡の高床式建物跡(2世紀、約156㎡)や、樽味四反地遺跡(松山市)の掘立柱建物跡(3世紀後半、約162㎡)などがある。



写真は、邪馬台国集落と宮殿のイメージ図。

邪馬台国は、3世紀末の中国・三国時代の史書「魏志倭人伝」に記載されている。宮殿や物見櫓、城柵があったと記されているが、纒向遺跡ではこれまで大型建物跡が出土しておらず、畿内説の「弱点」とされてきた。

しかし今回の国内最大規模の大王の宮級建物跡は、王宮の原型と見られ、日本国家形成過程を探る上で貴重な発見であり、ここが邪馬台国の中心で、大型建物は、“魏志倭人伝”にある“卑弥呼の宮殿”であった可能性があると云える。

一方で、今回の発見は、有力な傍証であっても、邪馬台国や卑弥呼と結びつく、直接証拠でないだけに決め手に欠け、当然反論もある。

論争に終止符を打つためには、決定的な証拠が見つかるかどうか、例えば中国・魏から授けられた“親魏倭王”の金印のような文字資料の出土が大きな鍵となりうるが・・・・・。

桜井市は、今後とも周辺の調査を継続的に進める計画で、その財源を確保するために、昨年度から寄付金を募集しているほど。

周辺地域の一連の調査は、我が国の国家の形成過程を探る上で極めて重要な意義を持つもの云える。

今後研究所を設けるなど調査・研究を進めて証拠を増やすことで、中枢部の様相が更に明らかになる可能性がある。

飛鳥時代より前の古代の宮殿については、実態が分かっていないだけに、居館内の構造や個々の遺構の性格など、全体像の解明を期待したい。

奈良県桜井市纒向遺跡の大発見とは!そのⅠ

2009年11月28日 | 歴史
次に纏向遺跡の大型建物跡発見から、卑弥呼とのかかわりを想わせる結び付きをを考えてみたい。



写真最奥の住宅地区に注目していただきたい。出土した、写真手前の柱穴群の西側半分は6世紀に造られた溝で削られていたが、見つかった柱穴の形や並び方から見て、削られた部分にも同様の柱列があったと見られている。

また、今回発見の大型建物跡Dの西側では、前述の通り、1978年と2009年3月の2回にわたる調査で、3世紀前半の小中規模の建物跡3棟が見つかっている。

今回の大型建物跡も同じ方位を向き、4棟連続して構築され、しかも中軸線は東西の同一直線上に並んでいた。

方位は建物・柱列など全ての構造物が真北に対して5°西に振れた方位に揃えて建てられていると云う。

周囲からは総延長40m以上の柵列も出ており、東側3棟の大型建物跡は全て柵内に区画され、一方最西端の建物は柵外に置かれ、その規模には明確な違いが認められていることから、柵を境に建物の重要度に違いがあったことが分かる。

と云うことで、現場の纒向遺跡は、小高い台地を大規模に造成しており、中軸線を揃えて一直線並べるなど綿密な計画性と強い規格性持って構築されたことが窺える。

地形からの推測では、“太田北微高地”上に東西約150m×南北約100mの居館区画が存在していたものと考えられ、柵を境に内郭と外郭に整然と区画されていたものと見られる。

計画的に配列された建物群は、飛鳥時代の宮殿や寺では一般化するが、今回は最古の例という。



写真のように、大型建物跡の一部は、方形周溝墓とみられるL字形の溝で壊されていた。

この溝から3世紀中頃の“庄内3式期”の土器片が出土したことから、大型建物の時期は3世紀前半と判断された。

纏向遺跡は、3~4世紀では国内最大の集落遺跡で、関東から九州まで各地の土器が出土しているほか、“卑弥呼の墓”との説がある箸墓古墳など前方後円墳が初めて造られ、大和王権誕生の地とされている。

と云うことで、本遺跡の規模もさることながら、各地の土器が出土していることから、他の地域には見られない、人工的な政治・宗教都市だったとされている。




奈良県桜井市纒向遺跡の大型建物とは!

2009年11月26日 | 歴史
先ずは、今回の一大大発見である、纒向遺跡の大型建物跡について、概観する。



写真は、1978年発見の建物跡と柵列跡、2009年3月発見の柵列内建物跡と追加柵列跡。

1978年最初の発掘調査では、脇殿を備えた神殿状建物と見られる、約5m四方の建物跡や柵列遺構の一部が出土したと云う。

そして2009年3月の発掘調査では、神殿状建物の東約5mで新たに三つの柱穴(直径約15cm)が見つかった。

これら柵列内の柱穴は、南北6m以上の建物跡だったらしい。周囲からは柵列の延長(約25m)も出土した。

周囲の柵列は、計約40mにも及び、写真の通り、柵列は建物跡の部分だけ凸状に突き出ており、付近は整地のため、広い範囲で盛り土されていたらしい。

また、78年に見つかっていた別の柱穴は柵の外にあったことが判明。柵を挟んで少なくとも3棟が東西1列に並んでいたことが分かったと云う。

市教委によると、これほど計画的に造られた同時期の建物跡の確認例はなく、専門家は「宮殿など極めて重要な場所の西端だった可能性がある」と当時指摘していた。



今回2009年9月~11月に発見された、写真右側の建物跡CとD。

特に建物跡Dは、南北19.2m、東西12.4m、床面積は約238㎡と推定されているが、3世紀中頃までの建物遺構としては国内最大の規模を誇る。

この規模から居館城における中心的な役割を果たしていた建物と考えられる。

柱穴13個(直径32~38cm)を確認しているが、柱材は全て抜き取られ、残された柱の痕跡からその太さは平均32cm前後と推定されている。









写真は上から、太細の仮柱が交互に整列した建物跡Dの北方面を望む南北19.2mの奥行き、逆に南方面を望む大型建物跡の長さと向かって右半分が溝で埋められた状態、建物跡D越しに溝を挟んで西方向の建物跡C方向を望む光景及び建物跡Dの西半分が埋められた状態の溝跡。

30cm余りの柱穴13個の間には、写真の通り、一回り小さい柱穴9個(直径23~25cm)が出土した。

南北の柱間(約4.8m)を支える束柱(つかばしら)だったとしている。東西の柱間(約3.1m)にはなかった。

飛鳥時代の宮殿に匹敵する大型建物跡は、この時代、当地一帯に政治・宗教の中心となる強大な権力が存在し、後の大和王権に続く可能性を示している。

古代日本に王権が誕生したとされる地で、宮殿と見られる建物跡が初めて確認できた意義は極めて大きい。


奈良県桜井市の纏向遺跡で3世紀最大建物跡発見とは!

2009年11月24日 | 歴史
平成21年11月11日、「魏志倭人伝の宮室発見!」報道は全国の考古ファンを震撼させた。

女王卑弥呼と同時代・3世紀前半の大型建物跡が見つかった、桜井市辻の纒向遺跡では、11月14日に現地説明会が開かれ、全国から約3,600人の見学者が訪れたとされるが、15日も含めると計10,000人以上の来訪者が見込まれていた。

そこで、“邪馬台国畿内説”を勢いづかせる新発見について、4つの切口から緊急特集を贈る。

今回発掘の大発見・纏向遺跡に大型建物跡が出土した件、政治的・宗教的色彩を帯びた、計画的宮殿造りの件、卑弥呼とのかかわりを想わせる大発見とは、今後の更なる発掘調査方針・財源問題等について考えてみる。





写真は、発掘調査中の手前・纒向遺跡と上方の箸墓古墳との位置関係及び11月14日の現地説明会光景。

調査地は、標高75m前後の東側から派生する扇状地上の微高地で、“太田北微高地”と呼ばれ、微高地沿いの南北には旧河道が流れていたことが判明。

本遺跡見学者の一人として、今世紀の考古学上一大発見と思われる、纏向遺跡の新展開を追ってみたい。




滋賀県高島市の鴨稲荷山古墳とは!

2009年11月22日 | 歴史
鴨稲荷山古墳は、JR近江高島駅の北約3kmの鴨川右岸に広がる沖積地に位置する古墳。

出土した須恵器類・装飾品・馬具類などから、6世紀前半の古墳時代後期の三尾氏族長の墓と云われており、湖西地方では平野部に立地する唯一の前方後円墳。







写真は上から、鴨稲荷山古墳、本古墳の石碑と案内板及び本古墳入口付近の様子。

現在は前方部の墳丘はないが、周辺の地形などから、全長60m以上・後円部の直径25m以上・高さ5mほどで、周濠をめぐらせた前方後円墳であったと考えられている。

本古墳は、鴨川堤防近くにある、田園の中のちょっとした丘が鴨稲荷山古墳で、現在は整備されて、公園になっているが、もともとは全長約60m以上にもなる前方後円墳で、墳丘に埴輪が立ち並ぶ壮大なものだったと推察されている。

明治35年、県道拡幅工事に伴い発見され、後円部から横穴式石室と刳抜式家形石棺が掘り出された。

発見当時は、長さ約9m・幅と高さ共に1.8mほどの石室があったとされ、又石棺内からは、金銅冠・沓・魚佩(腰に下げる魚形の装飾品)・金製耳飾り・鏡・玉類・環頭大刀・鹿装大刀・刀子・鉄斧などの豪華絢爛な副葬品が発見されたと云う。

これらの副葬品は、朝鮮半島の新羅王陵の出土品とよく似ていることが分かり、この古墳の被葬者や場所と大陸との交流関連について、様々な興味と話題を呼んだらしい。



写真は、鴨稲荷山古墳の刳抜式家型石棺。

全長約3.3m・幅1.2m・高さ1.1mほどを測り、石棺の石材は、二上山の凝灰岩。

石材はかたまりのままこの地に運ばれてきて、石棺に加工されたと云う。

墳丘は見るかげもなく破壊されているが、石棺は現地に残されている。



写真は、高島市三尾里の継体天皇生誕地として、奉られている胞衣塚(へその緒を納めたところ)。

このあたりは、古代の三尾郷と想定され、石棺や副葬品の状況から、継体天皇に二人の妃を嫁がした、三尾氏に関係する古墳である可能性が高いと云う。

と云うこともあり、鴨稲荷山古墳のある琵琶湖西側の豪族は、継体天皇の父・彦主人王(ひこうしおう)と考えられている。

二上山の凝灰岩をわざわざこの地に運んだということは、継体天皇が大王位についたのと、何らかの関係があるかもしれない。

『日本書紀』によると、「父・彦主人王は母・振媛の顔がきらきらして、大変美しい人であることを聞いて、三国の坂中井(福井県坂井市)へ使いを送り、近江国高島郡三尾(現在の滋賀県高島市)の別業(別荘)に召し入れてお妃とした。」と書かれていることから、2人は高島市三尾で結婚し、その後に生まれたのが男大迹王(おほどのおう)(後の継体大王)とされる。

と云うことで、三尾は継体天皇ゆかりの地であり、当地に引続き足跡を残したのが継体天皇ファミリーであったと推測される。

その後母・振媛は「私は今遠く故郷を離れてしまいました。ここには親類縁者もなく、私一人では養育することができません。越前国高向(現在の坂井市丸岡町高田)に帰って親の面倒を見ながらお育てしたい。」と言い、幼い男大迹王を連れて高向に帰ったと云われていることから、父を早くに失った継体天皇は、母・振媛の故郷の越前三国で育てられたと云う。

継体天皇は、越前三国から中央へ出てきたというのが定説になっているが、最近の研究者の中には、近江の三尾から直接出てきたという説もある。


滋賀県栗東市の地山古墳と下戸山古墳とは!そのⅡ

2009年11月20日 | 歴史
次に同一丘陵上に立地する、下戸山古墳について概観する。







写真は上から、下戸山古墳墳丘、及説明看板脇から望む古墳及び本古墳調査中の葺石の光景。

下戸山古墳は、直径約50m・高さ約7.5mの円墳で、葺石・埴輪などが出土し、墳丘南には丘陵尾根をカットする形で幅4mほどの周濠がある。

濠からは、壺形埴輪・朝顔形埴輪や須恵器などが出土し、主体部は未発掘だが、4世紀末~5世紀初頭の築造と推定されている。

前方部を失ったこともあり、70~80mの前方後円墳とする説もあるらしいが・・・・。

更に南方向には、小槻大社境内に小槻古墳群が所在する。

安養寺丘陵を含め、金勝川沿いには、佐世川・毛刈・山の上・新開・下味・地山・下戸山などの古墳が造られた。

この地域に住んでいた有力氏族として、小槻山君氏(おづきのやまのきみ)で知られているは、古事記によると皇別の氏とされる名族らしい。





小槻大社山門と1519年建立の本殿は、檜皮葺きで、国の重要文化財。

小槻山君氏は、奈良朝以降明治に至るまで、朝廷の官務に当たったとされ、小槻大社は、この小槻山君の祖神を祀ったとされている。





小槻大社古墳群登り口と案内石碑及び古墳群墳丘。

小槻山君一族を被葬者とする、古墳時代後期群集墓と考えられ、横穴式石室を持つとされている。

後期古墳時代には古墳を築造できる階層が大きく拡大し、各地域には有力者が台頭し、栗東地域の首長権にも変化が生じていることがうかがえる。

小槻大社古墳群周辺には、新開・下見・北谷・下戸山・地山などの古墳群が点在し、この地に繁栄した小槻山君一族との関係が窺える。

このような古墳群には、どのような首長豪族が埋葬されたのか、そして栗東の歴史は日本の国づくりにどう係わってきたのか、大変興味ぶかいものがある。



滋賀県栗東市の地山古墳と下戸山古墳とは!そのⅠ

2009年11月18日 | 歴史
地山古墳は、金勝(こんぜ)山地から延びる丘陵先端部に位置している。また、同一丘陵上には、下戸山古墳も立地している。

栗東市のウオーキングコースの岡平地中央部の小山に、地山古墳名の石碑や、その南側に下戸山古墳と小槻大社古墳群が続き、更に東方向には和田古墳群が所在する。









写真は上から、岡平地中央部小山の地山古墳脇に広がる田畑、地山古墳の墳丘遠景、説明看板が見える近景及び発掘調査当時の現場。

本古墳は、全長約90m・高さ約6m・後円部径約68m・前方部長さ約32m・幅37mほどの規模の帆立貝形の前方後円墳で、墳丘に沿う形で周濠が巡っており、墳丘裾部には、角礫状の石材を用いた葺石が残っていたと云う。

地山古墳は、出土した埴輪から、5世紀前半の築造時期と考えられているが、まだ未調査のため、主体部の内容等は不明。

北東約1.5kmに所在する、滋賀県下最大の帆立貝形の前方後円墳である、椿山古墳と墳丘規模・形態・主軸方位等の類似点が多いことから、野洲川左岸地域における首長墓の系列に位置づけられる古墳と見られている。

葺石や円筒・家型などの形象埴輪から、5世紀前半の築造と推定されているが、
墳丘部は未発掘で、当初は径約56mの円墳と考えられていたが、1990年の墳裾部発掘調査により、帆立貝形前方後円墳であることが分かった。

以前は地山古墳の周囲には、いくつかの古墳があったらしいが、現在は、地山古墳だけが田圃の中に取り残されている。

平地に立地する墳丘で、灌木が茂っているため、墳丘は見えない。

栗東市の安養寺椿山古墳群とは!

2009年11月16日 | 歴史
安養寺椿山古墳群は、栗東市のほぼ中央、古墳時代の集落が集中する野洲川左岸の平野部を一望する、標高234mほどの安養寺山に立地する、5世紀前半から6世紀前半にかけて営まれた古墳群で、10基ほどの古墳により構成される。







写真は上から、栗東市田園地帯から望む安養寺山、安養寺山麓に立地する安養寺本堂と11月初旬の紅葉風景及び安養寺の池泉鑑賞式庭園。

安養寺山の山裾を築山として巧みに利用した、安養寺の池泉鑑賞式庭園は、滋賀県指定の名勝とされている。

叉安養寺は、聖武天皇の勅願によって創建された“真言宗泉涌派”の寺院で、室町9代将軍足利義尚の陣所でもあったらしい。





安養寺椿山古墳の後円部墳丘及び本古墳外柵工事中の近景。

総長約135m・墳長約99m・後円部径約75m・高さ約7.5m・墳頂径約28m・前方部幅約43mで、標高約105mの尾根先端に立地している、葺石を伴う帆立貝形の前方後円墳で、前方後円墳では滋賀県下最大規模。

周濠を持っており、栗東市内最大の古墳で、出土品は5世紀前半~中頃の首長墓で、未調査だが、短甲・鉄剣・鉄鏃などの武具がみつかっている。

また、安養寺地区の古墳のなかで、現在でもその姿がはっきり確認できる唯一の古墳で、市役所駐車場のすぐ南側に、写真の通り、その墳丘を確認することができる。

本古墳のほかにも、短甲や鏡が出土した、前方後円墳の大塚越古墳、大型の埴輪や木製の祭具が出土した狐塚古墳群、鏡・武器のほか9領もの甲冑と馬具が副葬されていた新開古墳など、絵図にはいくつかの古墳が描かれている。

大和王権が成立すると、栗東の首長たちも次々とその傘下に入っていった。こうした首長たちの墓は一般に墳丘墓であり、市内には現在80基ほど確認されているが、なかでも椿山・新開両古墳は、大和王権下の代表的な古墳。

新開古墳からの出土品は、この地域の首長の勢力と位置づけを知る上で貴重なものとなっているが、1960年名神高速道路建設時に調査後、消滅してしまった。

新開古墳群では、新開1号墳が径約36mの円墳で埴輪を伴い、金銅製の馬具や多量の武具が出土したことで知られている。

新開2号墳は一辺20mほどの方墳の可能性があり、鉄挺等が出土している。





写真は、新開4号墳から出土した舟形埴輪2点。

新開4号墳は一辺15mほどの方墳と考えられ、船形埴輪等が出土したことで注目を浴びた。

安養寺山麓の古墳群として、まず大塚越古墳は、全長約75mの前方後円墳であったと見られ、多数の装身具等が出土したが、消滅してしまった。

古墳群の中で、大塚越古墳が5世紀前葉の築造で最も古く、椿山古墳とともにこの地域の首長墓と考えられている。

近接の狐塚古墳群にも首長墓があることから、この地域は県下を代表する首長墓を中心とした中期古墳群と看做されているが、以前から墳丘はない。



写真は、新開1号墳から出土した馬具一式。

これは古墳時代に出土した馬具としては初期のもので、その多くは、朝鮮半島あるいは、大陸からの移入品と考えられている。

このことは、新開2号墳からの移入品と考えられる鉄挺が出土していること、前述の新開4号墳から舟形埴輪が出土していることと合わせて、この古墳群の被葬者たちが、交易を通して、広く海外まで繋がっていた豪族達であった可能性を示している。








滋賀県東近江市の木村古墳群とは!そのⅡ

2009年11月14日 | 歴史
本日は、木村古墳群の中でも、代表的な古墳である久保田古墳及び天乞山古墳を紹介する。

☆久保田山古墳
久保田山古墳は、墳丘の規模は直径約57m・最大墳長約76m・高さ約6mの円墳で、二方向の造り出しを伴っている。







写真は上から、久保田山古墳の復元墳丘、墳丘北側には幅約13.5m、南側に幅約19mの造り出し部を再現。

又周濠があり埴輪も出土。

本古墳の墳丘は、二段の葺石が巡っているが、石材は湖東流紋岩で、近くの雪野山・布施山から切り出して、約2,000㎡の斜面に貼りこんだ労力は計り知れない。
発掘調査の結果、基底部の葺石はほぼ完全な形で残っていたと云う。

周濠は、幅約14mで墳丘を巡らせ、造り出し部分で、膨らむ卵形をしている。お濠は、水をたたえない空濠だったらしい。

☆天乞山古墳
天乞山古墳は、一辺が約65m・最大長約77m・高さ10mほどの墳丘を持ち、周濠の幅は、約22mの5世紀前葉の方墳で、円筒埴輪を持ち、割石積みの石室が主体部。

方墳の規模は、滋賀県では最大であり、全国的にもベスト5に入るもので、2つの造り出しをもつ類例は、極めて少ないと云う。







写真は上から、地上から見上げる、高さ10mほどの墳丘、葺石に浮かぶ墳丘状態及び墳頂から見下ろす造り出し部。

墳丘は二段に分かれ、上段裾部は一辺が約45mあり、作り出しの幅は、写真の小さい方でも、約9m・長さ約7mもある。

周濠は、幅20~24m・深さ1mほどで周囲を巡らされ、墳丘の裾部には、写真の通り、葺石が貼られているが、石材は雪野山などから運ばれたと云う。



写真は、天乞山古墳から出土した、割石積の石室で、墳頂に再現されている。

天井石は、幅1m・長さ2mほどもあり、3個が落ち込んでいたと云う。

埋葬施設は壊されていたが、発掘調査で墓坑が確認され、東西方向に長袖を持つ竪穴式石室は、長さが6~8mあったと推測されている。

盗掘されたためか、副葬品は全く見つかっていない。

埴輪は造り出し部付近から、円筒型・朝顔型埴輪が出土しており、出土した埴輪から5世紀前半の築造と見られ、当地古墳の中では、最初に造られたと考えられている。

尚、木村古墳群と雪野山古墳は同じ氏族の墓と推定されている。



滋賀県東近江市の木村古墳群とは!そのⅠ

2009年11月12日 | 歴史
東近江市は、歴史的に古代から政治・文化の中心地として登場し、古墳時代の雪野山古墳・木村古墳群をはじめ数多くの古墳や遺跡も多く発見されていることから、縄文時代の早くから開けていたことが窺える。

木村古墳群は、9基以上からなり、現在概要の確認できるものは5基。正規の前方後円墳はないが、大形円墳・方墳で構成され、蒲生郡内の地方豪族・蒲生稲寸氏(いなぎ、地方官・屯倉の長官)の墓群の可能性が高く、県内でも最大級の古墳時代中期古墳群で、県の指定史跡。

当時、当地では現在の郡単位ほどの小地域を基盤とする中小豪族が盤踞し、近江全体を束ねる大豪族は存在しなかったらしい。中小豪族はそれぞれの支配地域で墓所として古墳群を残している。







写真は上から、あかね古墳公園に復元された、天乞山古墳から望む、田畑に囲まれた久保田山古墳と背景に映える雪野山、天乞山古墳の造り出し部と周辺の田畑風景及び久保田山古墳から望む天乞山古墳と田園光景。

現在、写真のように、川合町に残されている天乞山古墳と久保田山古墳が、“悠久の丘あかね古墳公園”として整備され、当時の歴史を伝えている。

平成4~5年かけて、5世紀頃に築かれた木村古墳群の保護を目的として整備された史跡公園。

約1500年という長い年月の間に古墳の様子は様変わりし、現在は林や田畑に変わってしまった。

以前は七つ塚と呼ばれて9基以上の古墳があったと云うが、現在は久保田山古墳・天乞山古墳しか残っていない。

滋賀県東近江市の八幡社古墳群とは!

2009年11月09日 | 歴史
滋賀県内最古級の雪野山古墳を山頂にいただく雪野山には、200基以上もの古墳が造られている。“八幡社古墳”もその一つで、雪野山中腹付近に所在し、17基の古墳からなる群集墓で、昭和58年に滋賀県史跡に指定された。

いずれの古墳群も横穴式石室を主体部とする古墳時代後期のもので、八幡社46号墳が前方後円墳であるほかは、全て直径6~15m程度の円墳。

八幡社古墳群を活用して、雪野山山麓に歴史公園として古墳公園が整備され、古代ロマンと自然に親しむことができる。

雪野山麓には、県下最大級の中期古墳群である木村古墳群が、中腹付近には八幡社古墳群をはじめとする多数の後期古墳が築造されている。









写真は上から、八幡社古墳群で唯一の前方後円墳である、3つの石室が見える八幡社46号墳、雪野山山頂を見上げる八幡社古墳群、46号墳の一つの石室内部及び八幡神社を背景にした八幡社41号墳。

八幡社古墳群は、山の中腹から山裾にかけての谷あいに位置し、山裾の12基が県指定史跡で、6世紀後半から7世紀前半の築造と推定されている。

神社やそのほかの構造物の建築・造成に伴い、壊された古墳が数基あるらしい。

写真の八幡社46号墳は、全長約21m・後円部11m・高さ3.5mの前方後円墳で、一墳丘に横穴式石室を3つ持つという、極めて珍しい古墳。

写真の石室は、後円部の石室開口部で、最初に築造されたらしい。

前方部にある石室は、全長約6.0mで、玄室がL字形で副室を持つ特異な構造になっていると云う。

もう一つの八幡社41号墳は、平成2年の発掘調査の結果、両袖式の横穴式石室を持つ直径約11mの円墳。

玄室の長さ2.9m・羨道の長さ2.3mほどの円墳で、玄室内部の床面から、須恵器の杯身・杯蓋・短頸壺・土師器の小型壺・鉄製品など副葬品が出土し、7世紀前半の築造と判明。





写真は、八幡社41号墳から出土した、須恵器の杯身・杯蓋・壷などのほか、鉄剣も見つかっている。

本古墳の規模は小さいとは云え、地元地方豪族の権威が感じ取れる。


滋賀県東近江市の雪野山古墳とは!

2009年11月07日 | 歴史
これからは、静岡県沼津市から関西地方に戻って、滋賀県内の特筆すべき古墳を巡ってみたい。

先ず、琵琶湖の南東部に広がる湖東平野の独立丘陵である雪野山は、標高309mほどあり、旧八日市市と蒲生郡竜王町の境の頂上に、“雪野山古墳”が築造されている。

合併により現在の東近江市と周辺地域にまたがる雪野山山頂にある、4世紀前葉から中頃の前方後円墳が、平成元年に全国でも珍しい未盗掘の状態で発見され、話題を呼んだ。

県内最古級の雪野山古墳を山頂にいただく雪野山には、200基以上もの古墳が造られている。





写真は、天乞山古墳から望む雪野山及び雪野山古墳公園。

雪野山古墳は、上羽田町にあり、全長は約70m・後円部径約40m・高さ約4.5m・前方部長さ約30m・高さ約2.5mの規模。

突出した地形は削り、逆に窪んだ部分には土を盛って墳丘を形作っている。
墳丘の斜面には葺石を貼り付けているが、埴輪は検出されていない。

後円部は二段築成で、埋葬主体部が2ヶ所確認され、この内、第1主体部は、南北約10.6m・東西約7.0mの二段掘りした大きな墓坑の中に、湖東流紋岩の割石で造られた竪穴式石室。

第2主体部はその一部分のみが確認されているが、詳細は不明。

邪馬台国の王女卑弥呼が中国から賜ったといわれている、三角縁神獣鏡などの銅鏡や石製品、鉄製刀剣・鉄鏃などの武具類、農耕具・土器など副葬品も多く出土したと云う。

これら出土品218点は、平成13年に国の重要文化財に指定された。









写真は上から、竪穴式石室内部の発掘状況及び出土した三角縁四神四獣鏡、三角縁唐草文帯四神四獣鏡及び三角縁波文帯盤龍鏡。

写真の竪穴式石室の壁は、小さい石を小口積風に積上げているが、不揃いで、下半分はやや内傾気味に積上げている。壁面には一面に赤色顔料が塗られている。

雪野山古墳の後円部の墳頂部に南北方位で堅穴式石室1基があり、邪馬台国の王女卑弥呼が中国から賜ったといわれている、写真のような直径約25cm前後の三角縁神獣鏡3面が出土したと云う。

特に三角縁神獣鏡には、59文字の銘文が刻まれており、当時を知る上で貴重な資料。

竪穴式石室の基軸は南北方位で、材質は壁面・天井石ともに湖東流紋岩で、床面に粘土床を設置してあり、その上に木棺の痕跡があったと云う。

埋葬主体部は、竪穴式石室の中に粘土を敷き、この上に長さが5m程度の高野槙の巨木を半裁した木棺を置き、中に遺体と共に多量の副葬品が納めていたらしい。





写真は、棺内に置かれた“靫”の出土状況及び鍬形石・琴柱形石製品・紡錘車形石製品などの石製品。

長さ約70cmの靫は、黒漆塗され、副葬時にはその上に朱色が塗布され、内部には矢を入れており、銅鏃・矢柄が残っていたと云う。

この古墳の被葬者は、古墳の立地・規模・副葬品の内容から、大和との密接な繋がりを持った人物と考えられる。また、刀剣類と銅鏃の量が著しく多く、被葬者の軍事的な性格も窺うことができる。

現在古墳は埋め戻されているが、山頂まではハイキングコースが整備されている。



沼津市の井田松江古墳群とは!

2009年11月04日 | 歴史
井田松江(スンゴウ)古墳群は、沼津市井田松江にあり、横穴式石室のある円墳で、昭和29年以降、松江山で29基、丸塚で4基の円墳が検出された。

井田の地形は、急な山に囲まれた狭い土地だが、気候温暖の地で淡水にも恵まれ、叉駿河湾の海の幸にも恵まれて早くから豊かな生活をしていたらしい。

本古墳群は、西伊豆の切り立った岬の狭い尾根上に位置する群集墳墓で、見晴らしの良い場所に造られ、駿河湾の向こうには富士山や清水方面の海岸線が望める。

古墳を造った当時としては、重労働を伴う作業であったと思われる。





沼津市井田集落の海岸線から望む富士山と“煌きの丘”から見上げる富士山の夜景。

本古墳の場所は、伊豆半島の西側、戸田から大瀬崎に向かって、県道17号線を北上すると井田の手前の小さい岬に“煌きの丘”という景観施設があり、そこの見晴台から階段でさがった場所に古墳群が所在する。

ここ戸田村の「井田地区」は、写真の通り、美しい日本の代表的景観として、全国的に認められていると云う。





写真は、駿河湾に面した井田松江古墳群及び18号墳の石室内部。

古墳時代後期(1300~1400年前)のものと推定され、今までに7号墳・9号墳・18号墳・21号墳が発掘調査された。

7号墳からは、金環・丸玉・管玉・ナツメ玉・切子玉・ガラス小玉・鉄鏃・馬具・須恵器・人骨などが出土した。

18号墳は、大きな横穴式石室で、奥行約8m・幅約1.5mあり、また奥には大小2つの石棺が置かれてあった。出土品は装身具・金環・玉類・武器(直刀・刀子・鉄鏃)などであったが、特記すべき点は銅釧(腕輪)が4個も出土したこと。

21号墳は、組み合わせ式箱形石棺が露出しており、石棺の中から玉類が出土した。出土品の大部分は造船郷土資料博物館に収蔵されているそうで、18号墳は発掘同時の状態で見学できる。

本古墳は静岡県指定史跡で、井田集落から県道を南に少し登ったところにあり、県道沿いにある前述の、“煌めきの丘公園”から見学コースが整備されている。

現状で23基の古墳が見つかっており、うち17基が保存されている。
ほとんどが横穴式石室をもつ円墳で、18号墳のみ石室が公開されている。

沼津市井田は、山間の静かな海岸で、毎年行われる水質調査では常に上位をキープ。砂浜はないが、透明度が高いためダイビングやシュノーケルには最適なポイントらしい。

本古墳群からの副葬品については、別途カバーする。


静岡県沼津市の清水柳北1号墳とは!

2009年11月02日 | 歴史
沼津市内の古墳巡りを続けます。

清水柳北遺跡は、沼津市足高の工業団地一帯に所在していた、旧石器から古墳時代にかけての大規模な遺跡で、北から南に延びる2つの尾根に広がり、東側の尾根に3基・西側の尾根に1基の墳墓群が分布している。

古墳時代には、狩野川流域や浮島沼周辺では農業中心の生活をしていたらしい。
内浦湾沿岸の住民は漁撈を営んでおり、多くの土錘の発見から、地曳網も使われていたものと推測される。

古墳時代当時、自然を崇拝する原始的な信仰が、豊作・豊漁・一族の安全を願うなど生活と深く結びついて盛んになったと思われる。

沼津市は、眼下に駿河湾、南東に伊豆半島が延びる風光明媚な地で、在地豪族が墳墓を築造しそうな立地条件を備えている。

古墳時代末期には、“清水柳北1号墳”が東側の尾根上に築かれ、現在は愛鷹山の山腹、沼津市足高尾の沼津工業団地内の遺跡公園に移築保存されている。









写真は上から、清水柳北1号墳の近景、遠景、周濠跡及び本古墳東側で進められている、第二東名建設工事の光景。

本古墳は、東名沼津インター北側の沼津工業団地内にあり、昭和61年の工業団地の造成に伴いほとんどが消滅したが、1号墳のみが復元されている。

写真の通り、本古墳周囲を方形の溝に囲まれた、一辺12m・高さ1mほどの方形下段の上に、直径約9mの円形の上段が乗った“上円下方墳”と判明。

沼津市でも、円墳が主流の時期に上円下方墳が造られていた。

上円下方墳は、全国でも5例しかないほど希少価値があり、当時あまり注目されていなかった、8世紀初めの奈良時代のものと推定され、凝灰岩製の石櫃が埋葬されていたことから、被葬者は火葬されたと考えられているが、蔵骨器はなかったと云う。





写真は、復元された、本古墳の上円下方墳の姿と出土した石櫃。

写真から、方墳の上に円墳が乗っているのが良く分かる。

この当時、火葬して石櫃に納骨した埋葬形態は、冠位を授かったような身分の高い人が対象とされ、例えば天武天皇皇后の持統天皇のご遺体は、火葬され銀の骨壷に収められたと云われている。

このことは、西暦645年の“大化の改新”から間もなく、“大化の薄葬令”が出され、大規模墳墓築造が禁止されてからも、地方では権力者が、権威を示すために依然として墳丘を持った、上円下方墳のような墳墓を築造していたことになる。

最近発見された、沼津市東熊堂の辻畑古墳が最古級の古墳に対して、本古墳は「最も新しい時代の古墳」と云うことができ、古墳の最終の形態を示している。

出土品の須恵器から、この古墳は8世紀初めに造られたとされているが、その被葬者は郡司クラスと見られ、“大岡荘”にあった牧場・“大野牧”の責任者である地方役人か、或いは在地授階位豪族と考えられており、沼津で造られた最後の古墳であり、全国的にも「最も新しい時代の古墳」として注目された。

上円下方墳は、ほかに石のカラト古墳(京都府木津町、7世紀末あるいは8世紀初頭と推定)などがあり、近代以降では、明治天皇・大正天皇・昭和天皇の陵がこの形式と云う。

清水柳北1号墳の周囲を眺めると、東側には桃沢川が流れている。南の海岸近くは、近世に名付けられた“大岡”地区があり、西の少し離れたところには、旧石器遺跡の休場遺跡がある。

又南西の東原近在にも古墳があり、本古墳のすぐ西の地形は谷戸(谷が狭まって山の斜面に突き当たる地)になって、放牧の馬を追い込んで捕獲するのに適した土地に見える。

と云うことから、本古墳の被葬者が“牧”の長官であったと想像されている。

上円下方墳は、「天円地方思想」(天は円、地上は東西南北の四方と考えるインド・中国の思想)に基づいて“神那霊山”の山上に方形の墳丘を築き、そこで王の霊を天に送り、次王が天王の霊を受け継ぐ「霊継ぎ」の王位継承の儀式が行われたと云われている。

方墳→前方後方墳→前方後円墳の順に発展してきたが、その延長上に位置づけられるのが、“上円下方墳”であると考えられている。