近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

京都府南丹市の園部垣内古墳とは!そのⅡ

2009年09月29日 | 歴史
更に南丹市の園部垣内古墳巡りを続けます。

首長クラスの多量の出土遺物から、代表的な出土品を以下紹介する。









写真は、垣内古墳から出土した三角縁神獣鏡、盤龍鏡などいろいろな銅鏡、勾玉・管玉などアクセサリー及び石釧・車輪石・石製鏃など。







写真は左上より、本古墳から出土した鉄製品で、鉄槍・鉄剣や短刀・短剣と鉄刀・短刀などの武器類。

特に三角縁神獣鏡は、京都府向日市の向日丘陵にある寺戸大塚古墳と共范関係が認められ、桂川を通じて丹波と山城で交流があったことが分かる。

園部垣内古墳は、前期の古墳として注目されているが、中世には墳丘を利用して製鉄が行われ、丹波の製鉄遺跡としても重要な遺跡。

口丹波ではこれまでに、同時期の垣内古墳と向山古墳(亀岡市篠町)で石釧が発見されている。

各古墳の規模や出土遺物などから、「垣内古墳を造った口丹波の最有力首長のもとで、向山古墳の首長が地域を治めていた」と考えられている。



京都府南丹市の園部垣内古墳とは!そのⅠ

2009年09月27日 | 歴史
南丹市は、京都府のほぼ中央に位置し、数多くの遺跡が発掘されているが、特に国の重要文化財に指定されている“垣内(かいち)古墳出土品”や京都府指定文化財の“黒田古墳出土遺物”は全国的にも注目されている。

園部垣内古墳は、園部町内林に所在する前方後円墳。自然丘陵と思われていた八幡神社が、鎮座する丘から大量の鉄滓が出土し、重要遺跡ではないかとのことから、昭和47年に道路拡幅工事に伴う発掘調査の結果、全長約84m(周濠を含めると107m)に及ぶ古墳時代前期のものとしては口丹波最大の前方後円墳であることが判明。

本古墳は、埴輪・葺石を持つ4世紀頃の古墳で、後円部からは、長さ約6.4mの割竹形木棺の周囲を粘土で包んだ“粘土槨”と呼ばれる埋葬施設が見つかり、その中からは、鏡・玉類をはじめ、武器・武具などの鉄製品が多数見つかった。







写真は、垣内古墳が所在する八幡神社と僅かに残された古墳塚と石碑及び埋葬施設の復元像。

長らく自然丘陵と思われていたためもあって、残念ながら現在墳丘は跡形もなく、古墳の痕跡は八幡神社の境内に小さな塚と石碑が残るのみ。

写真のように、石碑の大きさのせいか、置かれた場所のせいか、園部垣内古墳のお墓のように見える。

ちなみに八幡神社は、「内林の厄神さん」として園部町周辺では、最も知られた厄除けの神社だが、王の墓を畏れる記憶から、ここに祠が建てられたのが始まりかも知れない。

この地方を治めた王の墓と思われているが、埋葬施設から三角縁神獣鏡などの鏡や勾玉・武器などが大量に発見され、出土遺物は国の重要文化財に指定されている。

出土品の中でも特に注目されているのが銅鏡で、三角縁神獣鏡をはじめ、三角縁仏獣鏡・盤龍鏡・彷製四獣鏡など6面が出土、更に多量の玉類・車輪石・石釧・多量の刀剣類・農耕具なども発見された。これらの出土品から首長クラスの古墳であったことが分かる。




京都府南丹市の園部黒田古墳とは!そのⅡ

2009年09月25日 | 歴史
南丹市の園部久留田古墳巡りを続けます。

埋葬施設の第1主体部は階段状に、2段に掘り窪められた墓壙の底部に石を敷き詰め、南北約7m・東西約3.5mの広さの底に木棺が置かれた、竪穴式石室とも粘土槨ともいえない異例な埋葬施設であることが特徴。

木棺の下や周りには、石を並べた床があり、長さ約3.5m・幅約0.6mの木棺が残っていた。



写真は、園部川に近い湿地帯のお陰で、掘り出された、長さ約3.5mの割竹形木棺。この貴重な資料は、市内文化博物館に展示されている。





写真は、本古墳から出土した“双頭龍鳳文鏡”が木棺の上下と敷石の脇に割れた状態で出土した光景及び接ぎ充てられた双頭の龍と鳳(想像上のめでたい鳥)のような龍鳳文様。

この龍鳳文鏡は、意図的に割った状態で埋められており、当時の風習を考える上で、貴重は発見。

この鏡は後円部中央に埋葬施設で見つかり、中国大陸で作られた舶載鏡である“龍鳳文鏡”(中国の後漢(西暦25~220年)時代に作られたもので、日本での出土例は数が少ないとのこと。





写真は、本古墳から出土した鉄鏃と二重縁口壷。これら以外にも、塗漆土器・管玉などが出土した。

以上のような発掘成果を要約すると、
1.定型化されていない墳丘の形、2.特殊な埋葬施設、3.鏡・土器などの出土品から推測して、弥生時代末から古墳時代はじめに築かれた墳墓で、口丹波のみならず丹波地域最古級の古墳。

この一帯を支配した、地域の首長から「王」に変化していく歴史が窺い知れる。





京都府南丹市の園部黒田古墳とは!そのⅠ

2009年09月23日 | 歴史
園部黒田古墳は、園部町黒田と船阪の境界に所在し、北方より延びる、標高155mほどの丘陵の先端部に造られ、ここからは園部川畔や園部盆地の田園風景を一望することができる。

南丹市は、京都府中部にある自然に囲まれた田園都市で、京都市の北側にすっぽりとかぶさるように広がる地域。

南丹市は、大阪・兵庫・滋賀・福井と境界を接している広大な自治体で、渓谷や清流、点在する小盆地や谷間の村々にある里山、芦生原生林などの豊かな自然と歴史の古さでは、無数の史跡や村々の伝統として、自然豊かな風土と一体のものとして守り継がれている。

当地は陸路・水路の利便性が高く、四方を睨める交通の要衝として、発展したものと思われる。

黒田古墳は、邪馬台国が存在した3世紀前半~中頃に築造されたとされる、奈良県桜井市のホケノ山古墳を中心とする大和地方の古墳と瀬戸内地方東部などの古墳との間に強い結びつきがあったことが明らかになった。

強い結びつきを裏付けるポイントは、1、墳丘が前方後円形、2、木槨内に木棺を納めた二重構造の埋葬施設、3、画文帯神獣鏡など中国鏡の副葬――という三つの特徴にあった。

これらの特徴を併せ持っていた古墳としては、南丹市の黒田古墳のほか、徳島県鳴門市の萩原2号墓、兵庫県たつの市の綾部山39号墓と西条52号墳、岡山県総社市の宮山古墳などで、同じ信仰や価値観念を共有し、結びついていた証拠であり、その中心が邪馬台国であり、後の大和王権につながると云っても過言ではない。





写真は、本古墳から、手前の園部川越しに望む山林風景と園部盆地に広がる田園光景。

平成2年に、船阪・黒田工業団地の造成に伴って発見され、発掘調査の結果、全長約52m・南北約32m・東西約27.5mで南北に長い楕円形をした後円部に、長さ約20mの前方部をもつ墳墓の前方後円墳であることが分かった。







写真は、本古墳の前方部から後円部を見上げる墳丘景色、後円部の楕円形サイドビュー及び墳頂部の木棺出土状況絵図。

前方部をはっきり目で追えると言うのが、この古墳の良いところらしい。

本古墳の前方後円墳は、前方部が箸墓古墳と同じ、三味線のバチが開いたような撥形を呈しており、後円部は縦長の楕円形という少し変わった古墳で、弥生墳丘墓の名残を残しつつ前方後円墳への変化も見せているとも云える。

古墳は公園として整備されているとのことだが、園部黒田工業団地にある工場敷地内からでないと、本古墳に近づけないという、不便なアクセス状況。

古墳時代初期の最古級のもので、口丹波地域で確認される古墳としては、最古のものであることが判明し、京都府指定史跡になった。

同じく園部黒田・船阪工業団地の造成中に見つかった、口丹波最大の古墳である「垣内古墳(4世紀末~5世紀)」よりも約100年古い古墳であり、園部や口丹波の歴史を考える上での貴重な遺跡。

埋葬は2箇所でおこなわれており、第1主体部が墳丘の築造段階時のもので、第2主体部が追葬時のものだったらしい。

後円部の墳頂には、木棺出土当時の写真入解説版が埋め込まれている。




京都府綾部市の私市円山古墳とは!そのⅡ

2009年09月21日 | 歴史
綾部市の私市円山古墳巡りを続けます。

私市円山古墳の造り出しは、葺石で方形に区画され、その内側と外側に円筒埴輪を配列しているが、造り出部しでは、家形・短甲形等の形象埴輪や土師器が出土したと云う。



写真は、千葉市内に復元された、古墳時代中期の造り出し部分に、人物・馬形埴輪などを配列した様子。

このような造り出し部分で、亡くなった首長を偲ぶ葬送儀礼が行なわれたらしい。

本古墳は、墳丘規模の大きさに加え、外表施設に埴輪・葺石を有するなど、墳丘の築造にあたって、莫大な労力が費やされていることが分かり、被葬者の強大な政治的権力を如実にあらわすもの。



写真は、墳頂に復元された、2基の竪穴式石室。

墳頂部のほぼ中央に位置するこの主体部は、古墳の主ともいえる大首長の埋葬された部分で、東西方向に軸をもつ墓壙を2段に掘り込み、そこに組合式木棺を安置していたらしい。

棺内からは、鎧・冑・錣(しころ)・鉄刀・鉄鏃・農工具・鏡・玉類(勾玉・管玉・小玉・臼玉)・竪櫛等、豊富な副葬品が出土したと云う。







写真は上から、本古墳から検出された甲冑、鉄製刀剣及び鏡と勾玉。

甲冑以外の様々な武具や武器は、軍事力の強さを、鏡・玉や農工具は様々な祭祀を司る姿を、それぞれ現すもの。

本古墳の築造された時期は、出土した副葬品や埴輪から、古墳時代中期中頃(5世紀中頃)と考えられている。

3人の埋葬者のうち、中央に位置する主体部及び北側に造られた主体部の被葬者は、この地に君臨した大首長で、2人は親子か兄弟の関係だったと考えられる。

3人に副葬された豊富な品々は政治的・軍事的地位の高さを現している。



写真は、本古墳から出土した胡簶金具。

特に北側の埋葬施設・主体部から出土した胡簶(ころく)金具(矢を納めて携行する調度品)は、金箔を張った大変貴重なもので、埋葬された王の権力や他の王に対する強大な交渉力が想像される。

国内でも古墳時代初期段階の製品と考えられる貴重な家宝。

金銅装の金具を燦然と輝かせ、その視覚効果から、ヤマト王朝の付託した権威と霊力を見せ付けたのではないかと想像される。

本古墳の被葬者たちは、畿内政権と密接に結びつき、多くの品々を手に入れるとともに、その一員として忠誠を誓い、大いに威厳を誇示したと思われる。

そして由良川中流域では、かつてない強大な権力を築きあげるに至り、死後においてもその力を誇示するように大きな墓を造ったと考えられる。



京都府綾部市の私市円山古墳とは!そのⅠ

2009年09月19日 | 歴史
私市円山古墳は、1500年ほど前の由良川流域を治めた王の強大な権力を今に伝える、造り出しをもつ大型の円墳で、全長約81m・直径約70m・高さは約10mの府内最大の円墳で、由良川流域では前方後円墳を含めても、最大の規模を誇る。

本古墳は、昭和63年舞鶴自動車道建設に伴う事前発掘調査で発見された。





写真は、私市円山古墳墳頂から由良川越しに見下ろす福知山方面と舞鶴自動車道及び綾部市方面。

由良川沿いに立地する山上をいっぱい使い、眼下に広く由良川を眺める、この墳頂上からは、写真のように、西は福知山市街地・東は綾部市方向を一望に収める絶好の場所を選んでいる。

この眼下に由良川の流れを見下ろす、この丘に立つと、古代の記憶を蘇らせてくれる。









写真は上から、私市丸山古墳遠景、全体像、3段築成の完成度及び造りだし部。

本古墳の墳丘で、当時の姿に復元し史跡公園として整備されている。古代の遺産を活用し、葺石の寄付など市民の協力を得ながら、市民のシンボルとして、1993年に完成した。

写真の通り、高さ約10mの斜面には、葺石として由良川の河原石を約6万個敷きつめ、頂上から3列に約1,000基の埴輪で囲まれている。

由良川中流域には、1,000基を超える数の古墳があり、それらの大半は、小さな方墳または円墳で、当地には全長100mを超えるような大型の前方後円墳は見当たらないと云う。

しかし本古墳のように前方後円墳に匹敵する巨大な円墳が存在し、当地域独自の古墳文化を形成している。

当地の古墳時代の時系列変化をみると、前期にあっては、弥生時代の墓制を色濃く残して、副葬品等に充実がみられるものの、弥生時代の方形周溝墓の系統をひく小規模な方墳が主流。

古墳時代中期前半まで方墳優位の時代が続くが、古墳中期に入ると畿内の影響を強く受け、私市円山古墳のような円墳として定型化したものが登場し、ここに当地の古墳時代が花開いたと云う。

本古墳は、見晴らしのよい丘陵上に造られているため、葺石を古墳まで運ぶだけでも大変な作業であったと想像される。



京都府福知山市の注目すべき古墳群とは!

2009年09月16日 | 歴史
福知山市は、京都府を貫通する府内最大の河川、由良川が日本海へと北向きに流れを変える地点で、中流域の福知山盆地には、1,000基を超える古墳群が歴史の流れの中で、その姿を残している。

日本でも一番低いといわれる分水界から流れ出る、市内の竹田川は、由良川支流としては最大の土師川と合流し由良川に注ぐ。

若狭湾に流れる由良川-土師川-竹田川から、播磨灘に流れる加古川をたどるル-トは、瀬戸内海沿岸から日本海方面への文化の伝播の道として、弥生時代中ごろには活用されていたという。この流域には多くの古墳が残されている。

福知山市には3つの石室を持つ“牧正一古墳”、府内で初めて確認された、上円下方墳を含む数十基の古墳などで構成される“下山古墳群”、弥生期以来の方形周溝墓とつながりを持つと考えられる“妙見古墳群”、邪馬台国論争に一石を投じた、斜縁盤龍鏡が出土した“池の奥古墳群”、さらには由良川右岸にある三段池公園に整備保存された“稲葉山古墳”などが見つかっている。





写真は、下山古墳群の発掘調査状況及び出土した金環・銀環・鉄剣など。

1994年の発掘調査で、下山古墳群の北端に所在する古墳が、京都府内で初めて出土した“上円下方墳”であることが判明。

上円下方墳は、天皇など一部のみに築造が許された形態を持つ古墳であることや出土した金環・銀環・鉄剣などの副葬品から、被葬者がヤマト中央と関係の深い人物とみられ、この下山古墳群が有力な地方豪族の共同墓地であったとも考えられる。


又妙見古墳群1号墳は、一辺約43mの方墳であるが、埴輪・葺石を持った2段築成の整った古墳で、福知山盆地を代表する首長墓の一つとみられ、弥生後期以来の方形台状墓の伝統を引き継ぎながら、ヤマト王朝的な要素を取り入れた本格的な方墳と見られている。







写真は上から、稲葉山古墳の眼前に広がる三段池、本古墳を背景にした石碑及び本古墳墳頂から望む福知山市街地。

稲葉山古墳については、地元の高校生が発掘調査にあたり、保存整備されたらしく、石棺が墳丘のふもとに置かれ、この墳丘からは由良川の流れと福知山盆地を一望に治めることができる。

写真の通り、このあたりからは、福知山市中心部を一望することができ、稲葉山10号墳を中心とした地域は、“三段池公園”として整備され、市民に活用されている。

池の奥古墳群のうち、A支群に属する3.4号墳とB支群の6.7号墳は、発掘調査され、3.6.7号墳は埋葬施設を木棺直葬とするものであったが、4号墳は横穴式石室を内部主体とするもので、当地方における横穴式石室導入の状況を示す資料。

これら4基の古墳は、ともに6世紀中頃の築造と判断されている。





京都府福知山市の池の奥5号墳とは!

2009年09月14日 | 歴史
福知山市の池の奥5号墳は、市内字猪崎奥ノ池に所在する、直径約30m・高さ約5mの大型円墳で、京都府指定史跡。

本古墳群は、由良川と土師川の合流点北方、標高536mの烏ヶ岳からなだらかに下る台地上に位置する。





写真は、“三段池”越しに望む古墳群密集地及び池の奥古墳群所在地。

三段池付近一帯は古墳の密集地で、池の奥古墳群をはじめ、池の谷・牛坂・監物山・稲葉山・広所などの各古墳群が存在し、総数50基以上の古墳が確認されている。

古墳密集地周辺は、古墳公園として休憩所設置、植栽などが施されて整備されている。

池の奥古墳群は、先に列記した三段池周辺の古墳群中最も古墳数が多く、19基が確認され、A.B.Cの3支群に細分されている。







写真は上から、三段池公園内、池の奥古墳群の中の5号墳全景、同古墳墳丘及び墳丘内部の現状。

池の奥古墳群のうち、池の奥5号墳は、由良川流域でも最大級の規模。ただ発掘調査等が実施されておらず、内部主体等は不明のまま。

池の奥5号墳は、立地・規模から推定して、やや先行して築かれたものとも考えられるが、群内の他の古墳と異なり腰高の墳丘で、内部施設に横穴式石室の存在も予想されるので、ほかの4基の古墳に続いて築かれたものとも考えられている。

いずれにしても、古墳の規模や古墳群の内容からみて、由良川中流域の古墳時代を解明する上で欠くことのできない資料。




京都府福知山市の広峰15号墳とは!

2009年09月12日 | 歴史
ここからは、京都府南北のほぼ中央、福知山市・綾部市周辺の古墳群を巡ります。

先ず福知山市の広峰15号墳は、JR福知山駅南の丘陵上に立地していた、古墳時代前期の前方後円墳で、昭和61年、区画整理事業に伴い発掘調査された。

その結果、後円部の約半分と前方部の側面が道路により失われていたが、全長約40m・後円部径25mほどの前方後円墳と見られている。









写真は上から、広峰15号墳公園の後円部側入口、後円部正面ビュー、前方後円墳のサイドビュー及び前方部から後円部を望む墳頂ビュー。

墳丘は盛土をせずに、丘陵を削り出して造られ、段築・埴輪・葺石などの施設・装飾は造られていないと云う。



写真は、本15号墳墳頂から望む、福知山市街地。

本古墳からは、福知山市街地を一望でき、この地には古墳時代初頭から中期にかけて、30数基に及ぶ古墳群が造られ、広峰古墳群と呼ばれている。



写真は、本15号墳後円部に記された木棺配置図。

埋葬施設は、木棺を墓穴に直接納めたもので、長さ約10m・幅4mほどの墓穴に、長さ約3.6m・幅薬0.7mの棺が納められていたと云う。
棺は腐朽していたが、棺内面には朱が塗られていたらしい。

棺付近には、銅鏡一面が置かれ、その上方の副室には、碧玉製管玉・鉄剣・鉄斧・鉄鉾などが納められていたと云う。





写真は、本15号墳から出土した斜縁盤龍鏡及び碧玉製管玉などアクセサリー。

広峰15号墳が、謎の魏鏡として大きく報道されたのは、景初4年鏡(景初は3年までで終り)に鋳出されたとしていた、斜縁盤龍鏡が出土したため。

文様面には景初4年の銘帯があったことで、邪馬台国論争に新たな火種を提供することになったことで知られている。

銘帯に「景初四年五月丙午之日陳是作鏡吏人?之位至三公母人?之母子宣孫寿如金石兮」の35文字の銘文が鋳出された、斜縁盤龍鏡の大きさは面径16.8cmほど。

卑弥呼の鏡として学会は色めき立ち、報道は飛びついたと云う。「魏志倭人伝」に魏から鏡を卑弥呼へ与えられたと記録されているのが、景初3年(239年)であり、また景初という年号は3年で終わっているところから、架空の紀年ということで、鏡の伝来について様々な推測がなされ、贋作説まで飛び出した。

ところが1994年に丹後、太田南5号墳から景初年代より古い年号を持つ青龍3年(235年)という国内で出土した最古の魏鏡が発掘されたことで、再び広峰古墳が取り上げられることになったらしい。

この前方後円墳である広峰15号墳に葬られた主は、埋葬施設が木棺直葬と云うように比較的簡素だが、古丹波を支配した大きな勢力の首長であろうか?

首長とともに埋葬されたこの景初4年紀年銘「魏鏡」は、どこでつくられ、誰の手を経てこの地に伝えられたのであろうか?

土師川のように地名・土師が残っていることは、「土師」氏の関連とも見られ、隣接する綾部市と重ねると、渡来の技術者集団が、当地に移住してきたとも考えられる。

いずれにしても、古代の謎は今でも、未解決のままでいる。
①景初4年②丹波・丹後に4つ鏡③三角縁神獣鏡。景初4年・239年は間違いではないか?魏の明帝は景初3年の1月1日元旦に亡くなった。

日本の慣習では、この年に改元。従って景初3年1月2日から、正始元年に改元されるところ。

ところが、広峰15号墳から発掘された鏡には、「景初四年五月丙午之日」と書かれていたため、信憑性が疑われたが、景初4年5月に製作したとすれば、景初4年があったことになる。

この謎は、この鏡が日本で作られたのであれば、作った人が皇帝の死を知らなかったと言うことになるかもしれないが??????

景初4年は13ヶ月あったと言う説から、作るときに間違ったとか、諸説紛々。

この鏡の持ち主は、魏の国の人の持ち物であり、福知山市に住んでいたことが重要だが、この持ち主は、239年頃にこの鏡を受け取って、死んだのは何年か分かっていない。





京都府与謝郡岩滝町の大風呂南墳墓群とは!そのⅡ

2009年09月10日 | 歴史
岩滝町・大風呂南墳墓群周辺の古墳巡りを続けます。

弥生時代中期には、鉄やガラスなどを加工する技術を持った奈具岡遺跡があり、また京丹後市弥栄町の“大田南5号墓”からは「青龍3年」の銘鏡(中国製か日本製か不明だが)が発掘され、この地方の古代史における位置づけは、今後とも多いに注目に値する。





写真は、大田南古墳群現場及び本古墳から出土した方格規矩四神鏡.

大田南古墳群は、弥栄町字和田野に所在し、丹後半島を北流する竹野川の中流域左岸、峰山町との町境の丘陵上にある。

古墳群は、2号墳とその南側に位置する4号墳、さらにその南に5号墳が位置し、2号墳の東側丘陵裾部に位置する6号墳の計三基の前期古墳を含む。

3世紀後半の5号墳は、平成6年3月に国の重要文化財である「青龍三年鏡」が出土し、当時は日本最古の魏鏡「卑称呼の鏡」が出土と騒がれたらしい。

この鏡は三角縁神獣鏡ではなく、中国にも多く存在する方格規矩四神鏡で、しかも、青龍3年は西暦235年に当たり日本最古の紀年銘鏡で、卑弥呼が中国の魏に使者を遣わした西暦239年の4年前の年号。

この鏡が丹後に出土したことで、邪馬台国以前に丹波にも強力な支配権を持った豪族が存在し、日本海をはさんで大陸・朝鮮半島と直接に交流していた可能性が十分に考えられる。





京都府与謝郡岩滝町の大風呂南墳墓群とは!そのⅠ

2009年09月08日 | 歴史
ここからは、京都府の日本海に及ぶ古墳群を巡る。

平成10年9月に、弥生時代後期から末期の岩滝町・大風呂南墳墓群から鉄剣12本やガラス製の釧など大量の副葬品が発掘された。

「邪馬台国の女王卑弥呼誕生直前の丹後地方に強大な武力と鉄資源を持った王が君臨したいたと考えられる」と報じられた。



写真は、岩滝町天橋立に近い丘陵地にある2基の墳墓で、計5基の埋葬施設を確認。この地方一帯が畿内・北九州と並んで古代史上重要な位置を占める。

→発掘された遺物には、全国的にも大変珍しいとか、全国初とかいう代物が多数混じっており、丹後地方が畿内・九州に並んで重要な位置を占めていたのではないかという意味で古代史上画期的な発見であり、今後更なる遺跡調査・研究が待たれる。

以下大発見の出土遺物について概観する。
1、ガラス釧(ガラスの腕輪)



写真のように、ほぼ円形で直径9.8・内径5.8・厚さ1.8cm、深い青色で中に気泡が見える。被葬者が左腕にはめていたが、日本で3例目、今回が初の完壁例。

完全な形で、製作当初に近い色調が残る状態での発掘は今回が初めてとのこと。
ガラス釧には水銀朱と見られる朱が一部に付着していたらしい。

2、貝輪系銅釧(貝の腕輪を意識して作った銅の腕輪)



写真のように、元々貝輪の形が銅でも作られた。九州から関東まで70点くらいが出土、しかし京都府内で13点という発掘数は、佐賀県に次いで全国2番目に多いとのこと。

弥生時代に北九州の有力者が、奄美大島や沖縄方面の珊瑚礁の海で採れた大型巻き貝で作った腕輪をつけて、その身分を表現したのが始まりで、弥生時代中期以降は銅でも作られるようになったらしい。

出土位置は、死者の頭付近に纏めて置かれていた。

3、鉄剣



写真のような鉄剣が、一つの墓穴から11本発掘、元々は北九州から瀬戸内地方に多く、近年丹後・但馬地域の出土例が急増。

鉄製武器・工具は畿内地方よりずっと多く発見されている

弥生時代後期には、鉄器が日本列島に広く普及、丹後・但馬地方からも多く出土しており、且つ畿内地方よりも多く発見されていることは当時の権力の象徴である鉄武器であるだけに、この地方に有力な権力者が存在していたことは間違いなさそう。

→1,800~2,000年前の弥生時代後期は、邪馬台国女王卑弥呼が活躍した時期に一部重なるか、より以前と考えられるが、そのような倭国大乱の頃、広く海を舞台に九州から大陸まで交易して鉄製武器をはじめ、各種の物資を安定供給していた一大勢力が丹後地方に存在したことは、古代史のページに新たな投石をしたことになる。

京都府京田辺市の大住車塚古墳とは!そのⅡ

2009年09月06日 | 歴史
国指定史跡の大住車塚古墳巡りを更に続けます。







写真は上から、後方部の墳丘、前方部の墳頂及び墳頂部に散乱する葺石。
更なる発掘調査を進めれば、新たな発見が望めるように思えるが・・・・・・。





写真は、大住南塚古墳全景及び二子のように見える両古墳の遠景。

大住車塚古墳の南西側に並んであるのが大住南塚古墳で、昭和61・62年の発掘調査により、4世紀終わり頃に造られた前方後方墳で、長方形の周濠があることが分かったと言う。周濠の一部は現在でも池として残っている。

大住南塚古墳は、全長約71m・後方部一辺約37m・高4.1m以上、前方部幅約30mで、周濠長約103m・幅73mを測る。

本古墳は、左が後方部・右が前方部で、大住車塚古墳の南西に並んでおり、“ションベ池古墳”と呼ばれている。

このように周濠を持つ前方後方墳が2基並ぶのは、全国でも珍しいと云われている。大住南塚からは竪穴式石室が発見されているが、周辺には古墳時代後期の古墳も存在するらしい。

ほぼ同じ大きさの同じ形の古墳が二つ並んであることになり、どちらの古墳にも葺石と埴輪が出土している。

ところで、京田辺市の甘南備山には、壮大な謎が隠されている。
それはすなわち邪馬台国から大和王朝に繋がる“ミッシングリング”の話。



写真は、京田辺市甘南備山の光景。

甘南備山のふもとには、本古墳名の一部でもある、大住という地名があり、大住隼人と言われる古代豪族が住んでいたと云う。

これははるか九州から天皇に付き従って移住してきた一族だと言われている。「大住」と言う地名は九州の「大隈半島」からきた地名?

すなわち九州にあった邪馬台国で、卑弥呼の死後、政権争いが勃発し、その政争に敗れた豪族の一族郎党が東へ移住し、紀伊半島の新宮に上陸後、熊野を経て奈良に至り、大和政権を樹立した。

そしてこれが神武天皇の東征伝説の元になった、という説だが、はたしてその真相は?

大住車塚古墳・南塚古墳とも全国的には珍しい、全長70m前後の大型前方後方墳であり、大和政権のシンボルである、前方後円墳ではない点が、大和政権を樹立したとすれば、極めて不可解であり、その信憑性に疑念が残る?????





京都府京田辺市の大住車塚古墳とは!そのⅠ

2009年09月04日 | 歴史
京田辺市は、京都・奈良・大阪を結ぶほぼ中心にあり、なだらかな丘陵地と平野部からなる田園都市で、“関西学研都市”の北部に位置する玄関口となっている。

京田辺の歴史は古く、万葉の時代からの遺跡や文化財も数多く残されている。

大住車塚古墳は、大住の字東村・林・岡村の集落の中間に並ぶ2基の前方後方墳として、4世紀終末から5世紀始め頃、古墳時代前期から中期に造られた古墳で、その美しい姿により、昭和49年に国史跡に指定されている。









写真は、京田辺市の大住車塚古墳の史跡碑、左側が前方部で後方部から見た本古墳の全景、前方部から見た全景及残された周濠跡。

地元では、智光寺山(チコンジ山古墳)とも呼ばれている。

本古墳は、全長約66m・後方部一辺30m・高4.5mほどで、前方部幅約18m・高1.5mを測る。

本古墳の周りには、写真の通り、長さ約98m・幅約60mの長方形周濠があり、埋葬施設の主体部は、竪穴式石室か粘土槨と考えられているが、副葬品は不明。




京都府亀岡市の千歳車塚古墳とは!

2009年09月02日 | 歴史
千歳車塚古墳は、亀岡盆地の東北部に位置し、牛桧山から西へ緩やかに延びる台地上に築かれた前方後円墳。

亀岡市は、山背国・摂津国と境を接し、政治・文化・交通などの面から河内政権・大和政権とも深い関係があったことは、史料・古墳の分布状況や出土品などからもうかがえる。

延喜式内・出雲大神宮の西方約600mの水田中にあり、墳丘には樹木もなく古墳が造られた当時に近い姿をしている。







写真は、千歳車塚古墳現場で、前方後円墳の形が窺い知れる。それと国の重要文化財である最寄りの出雲大神宮。

“国史跡”指定を受けた丹波地方に現存する最大の前方後円墳で、出土した埴輪から6世紀前半・古墳時代中期の築造と推定されている。

しかし本古墳の最大の特色は、墳丘・周壕とも左右対称にはならない、いびつな前方後円墳。

前方部が西北を向き、全長80mほど、後円部は直径約41m・高さ約7.5m、前方部の幅45.5m・高さ6mほどの精美な姿を残している。

外形では築段が認められるほか、後円部の直径に比べて前方部は幅が広く、くびれた部分の方形の造り出しを持つ。

本古墳の被葬者は“倭彦王”との説が有力視されている。

『日本書紀』によれば、6世紀の初め、皇位継承者の途絶えた朝廷が、天皇の血筋にあった“倭彦王”を迎えようとしたと記されている。

しかし丹波の亀岡にいた倭彦王は、迎えの兵に驚いて逃亡したため、その後、朝廷は、越前から継体天皇を迎えたとされている。

本古墳の最近の発掘調査で、構造が二重の濠を持ち、前方と後円の中間のくびれている部分から6世紀前半の埴輪が出土したと云う。

本古墳は、高槻市の第21代・継体天皇陵と黙されている、“今城塚前方後円墳”と構造・時期共全く同じで、更に出土した埴輪が高槻市の埴輪工房造りと云うことで、本古墳の被葬者は、継体天皇と強い関わりがあった、倭彦王の墓説が有力視されているわけ。