天塚古墳は、太秦松本町にあり、明治28年の石室発掘調査の際には、銅鏡・馬具・勾玉・鉄剣など約400点の副葬品が出土したらしい。
近辺の古墳分布や遺物などを考え合わせると、この古墳は近くの“蛇塚古墳”や“甲塚古墳”と同じく、大陸から渡来してこの地域をひらいた秦氏一族の墓と推定され、往時の土木技術や一族の勢力圏を探る貴重な手がかりとなっている。
天塚古墳は6世紀前半代の築造と考えられ、蛇塚古墳の1世代あるいは2世代前の古墳であり、嵯峨野を支配した、「秦」氏の棟梁・首長の墓かもしれない。
写真は、住宅街の一角に佇む天塚古墳遠景及び白清稲荷大神社により導かれた古墳入口。
天塚古墳は、太秦の市街地の南東部の人工運河で知られている、西高瀬川南の、小さな丘陵地にあり、写真のように、木が繁っている場所。
本古墳は、嵯峨野では蛇塚古墳に次ぐ大きさをほこる前方後円墳であり、全長約71mを測り、6世紀前半の築造と考えられている、国指定史跡。
写真は、上から本古墳の登り口、古墳への誘導散策道、残された墳丘状況及び現在の墳頂光景。
今から1400年余り前の継体・欽明大皇の頃に造られた前方後円墳で、横から見ると2段式に積みあげて造られている痕跡が窺える。
第1段の上部に円筒埴輪を並べて、第2段の土が落ちてくるのを防いだ跡があると云う。
古墳時代後期の主な前方後円墳は、太秦・嵯峨野一帯に集中するが、段ノ山古墳、清水山古墳、天塚古墳、片平大塚古墳、蛇塚古墳などで、これらの古墳群は秦氏が築いたものと考えられている。これらのうち、段ノ山古墳・清水山古墳は、残念ながら破壊されていると云う。
墳丘には珍しく後円部西側の無袖式、西側くびれ部には片袖式と、2基の石室があり、石室内には現在、伯清稲荷大神の祭壇が置かれ、巨岩の組み合わせを見ることができる。
写真は、無袖式石室内部の光景。
無袖式石室は、全長約10m・奥壁の高さ2.1mほど。
本古墳の面白さは、霊的スポットの感が大変強いという雰囲気があり、夜にはとても怖くて近づけないらしい。
天塚古墳の特色として、通常前方後円墳は、後円部に縦穴をほって墓室にするのに対して、この古墳は横穴にしていることで、この時代以降、墓の形式となってくる、横穴墓室の形と前方後円墳とを併用している点が珍しいと云う。
又天塚古墳には、後円部に西南から入る王室と、前方と後円の境目になる西の所から入る陪室の2つの基室があるが、主室は主人公のもの、陪室は、その家族・家来の遺体を入れたらしい。
近辺の古墳分布や遺物などを考え合わせると、この古墳は近くの“蛇塚古墳”や“甲塚古墳”と同じく、大陸から渡来してこの地域をひらいた秦氏一族の墓と推定され、往時の土木技術や一族の勢力圏を探る貴重な手がかりとなっている。
天塚古墳は6世紀前半代の築造と考えられ、蛇塚古墳の1世代あるいは2世代前の古墳であり、嵯峨野を支配した、「秦」氏の棟梁・首長の墓かもしれない。
写真は、住宅街の一角に佇む天塚古墳遠景及び白清稲荷大神社により導かれた古墳入口。
天塚古墳は、太秦の市街地の南東部の人工運河で知られている、西高瀬川南の、小さな丘陵地にあり、写真のように、木が繁っている場所。
本古墳は、嵯峨野では蛇塚古墳に次ぐ大きさをほこる前方後円墳であり、全長約71mを測り、6世紀前半の築造と考えられている、国指定史跡。
写真は、上から本古墳の登り口、古墳への誘導散策道、残された墳丘状況及び現在の墳頂光景。
今から1400年余り前の継体・欽明大皇の頃に造られた前方後円墳で、横から見ると2段式に積みあげて造られている痕跡が窺える。
第1段の上部に円筒埴輪を並べて、第2段の土が落ちてくるのを防いだ跡があると云う。
古墳時代後期の主な前方後円墳は、太秦・嵯峨野一帯に集中するが、段ノ山古墳、清水山古墳、天塚古墳、片平大塚古墳、蛇塚古墳などで、これらの古墳群は秦氏が築いたものと考えられている。これらのうち、段ノ山古墳・清水山古墳は、残念ながら破壊されていると云う。
墳丘には珍しく後円部西側の無袖式、西側くびれ部には片袖式と、2基の石室があり、石室内には現在、伯清稲荷大神の祭壇が置かれ、巨岩の組み合わせを見ることができる。
写真は、無袖式石室内部の光景。
無袖式石室は、全長約10m・奥壁の高さ2.1mほど。
本古墳の面白さは、霊的スポットの感が大変強いという雰囲気があり、夜にはとても怖くて近づけないらしい。
天塚古墳の特色として、通常前方後円墳は、後円部に縦穴をほって墓室にするのに対して、この古墳は横穴にしていることで、この時代以降、墓の形式となってくる、横穴墓室の形と前方後円墳とを併用している点が珍しいと云う。
又天塚古墳には、後円部に西南から入る王室と、前方と後円の境目になる西の所から入る陪室の2つの基室があるが、主室は主人公のもの、陪室は、その家族・家来の遺体を入れたらしい。