近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

京都市右京区太秦の天塚古墳とは!

2009年07月31日 | 歴史
天塚古墳は、太秦松本町にあり、明治28年の石室発掘調査の際には、銅鏡・馬具・勾玉・鉄剣など約400点の副葬品が出土したらしい。

近辺の古墳分布や遺物などを考え合わせると、この古墳は近くの“蛇塚古墳”や“甲塚古墳”と同じく、大陸から渡来してこの地域をひらいた秦氏一族の墓と推定され、往時の土木技術や一族の勢力圏を探る貴重な手がかりとなっている。

天塚古墳は6世紀前半代の築造と考えられ、蛇塚古墳の1世代あるいは2世代前の古墳であり、嵯峨野を支配した、「秦」氏の棟梁・首長の墓かもしれない。





写真は、住宅街の一角に佇む天塚古墳遠景及び白清稲荷大神社により導かれた古墳入口。

天塚古墳は、太秦の市街地の南東部の人工運河で知られている、西高瀬川南の、小さな丘陵地にあり、写真のように、木が繁っている場所。

本古墳は、嵯峨野では蛇塚古墳に次ぐ大きさをほこる前方後円墳であり、全長約71mを測り、6世紀前半の築造と考えられている、国指定史跡。









写真は、上から本古墳の登り口、古墳への誘導散策道、残された墳丘状況及び現在の墳頂光景。

今から1400年余り前の継体・欽明大皇の頃に造られた前方後円墳で、横から見ると2段式に積みあげて造られている痕跡が窺える。

第1段の上部に円筒埴輪を並べて、第2段の土が落ちてくるのを防いだ跡があると云う。

古墳時代後期の主な前方後円墳は、太秦・嵯峨野一帯に集中するが、段ノ山古墳、清水山古墳、天塚古墳、片平大塚古墳、蛇塚古墳などで、これらの古墳群は秦氏が築いたものと考えられている。これらのうち、段ノ山古墳・清水山古墳は、残念ながら破壊されていると云う。

墳丘には珍しく後円部西側の無袖式、西側くびれ部には片袖式と、2基の石室があり、石室内には現在、伯清稲荷大神の祭壇が置かれ、巨岩の組み合わせを見ることができる。



写真は、無袖式石室内部の光景。

無袖式石室は、全長約10m・奥壁の高さ2.1mほど。

本古墳の面白さは、霊的スポットの感が大変強いという雰囲気があり、夜にはとても怖くて近づけないらしい。

天塚古墳の特色として、通常前方後円墳は、後円部に縦穴をほって墓室にするのに対して、この古墳は横穴にしていることで、この時代以降、墓の形式となってくる、横穴墓室の形と前方後円墳とを併用している点が珍しいと云う。

又天塚古墳には、後円部に西南から入る王室と、前方と後円の境目になる西の所から入る陪室の2つの基室があるが、主室は主人公のもの、陪室は、その家族・家来の遺体を入れたらしい。



京都市右京区の太秦古墳群と嵯峨野古墳群とは!

2009年07月29日 | 歴史
ここからは暫くの間、京都市右京区の古墳の中でも、秦氏の影響をまともに受けた、代表的な古墳を巡ってみたい。
☆はじめに
右京区の太秦・嵯峨野古墳群は、京都の中でも最大規模の歴史的史跡だが、多くが開発のために発掘調査後埋設され、宅地や学校などの建物が建ち、今日その姿を見ることはできない。

国の史跡に指定されない限り、保存することもできずに無作為な開発にさらされ、郷土の赴きも削り取られてゆく運命にある。

この地区の歴史を辿ると、平安時代以前に、古代の京都を開拓した先住民の人達がいたが、これが太秦の秦氏。

秦氏は朝鮮半島の新羅からの渡来民であること、農耕・土木・養蚕・機織りなどの技術を伝え、古代京都に新しい文化をもたらし、千年の都をつくる基礎づくりをした集団であることを、秦氏ゆかりの古墳や遺跡が伝えてくれる。

平安京以前、古代の豪族・秦氏が、未開拓地であった嵯峨野の地域でも灌漑を造り、農業を広めたと云う。



写真は、葛野大堰から望む渡月橋の景観。

大堰川に「葛野大堰」と呼ばれている堰をつくり、嵯峨野の地域で灌漑を営んだことは、秦氏が高い技術水準を持っていたことを物語っている。

秦氏とは、このような高度な技術を持っていた集団の一族で、5世紀後半に渡来してきたと云われている。

秦氏は、中央で伊勢神宮や東大寺の大仏などの巨大な建物の建造にも寄与したと云うが、日本全国にも散らばり、稲荷神社や八幡神社などを作り、彼らの文化と技術を日本に広めた。

しかし秦氏は、蘇我・物部・入伴などの古代豪族が、天皇を中心に権力争いをしたようなことはせず、秦氏は京都の太秦・嵯峨野という土地を中心に、農耕・機織などの労働を中心とした実力豪族として、その姿が今でも残されている。

秦氏の祖先の活躍は、応神天皇の時に、大陸から渡ってきた秦氏一族(数千人から1万人規模)が、天皇に協力し、大和朝廷の設立に初めから関わっていたらしい。

第15代・応神天皇の時代に始まり、第21代・雄略天皇の時代・5世紀後半にも祖先が活躍したという伝説がある。

しかし、京都盆地にも、5世紀代から朝鮮系渡来人による開発と定住が進み、この人々が「秦」姓となったのは6世紀以後からであり、歴史的な活動が顕著に認められるのは、第33代の女帝・推古天皇の頃・6世紀中頃から7世紀前半の頃からで、“秦河勝”が広隆寺を建立した8世紀には、この国家統一事業の完成期であったと云う。



写真は、京都市右京区太秦の広隆寺。

広隆寺は、国宝第1号の弥勒菩薩像を安置した京都最古の寺で、秦河勝は聖徳太子の参謀として活躍したといわれ、皇族との関係も深いだけに、寺には太子ゆかりの御遺品や皇族からの賜り物が、大切に多く奉られていると云う。





京都府長岡京市天神の今里大塚古墳とは!

2009年07月27日 | 歴史
今里大塚古墳は、古墳時代末期、乙訓地方における最期の首長古墳と見られている。後期の群集墳と違って珍しく平野部にある古墳。

この乙訓地方の首長は、当時乙訓郡だけでなく、葛野郡等京都盆地北部一帯を支配下に置いていたのではないかとする説もある。地元では古くから「王塚」と呼ばれて来たと云う。







写真は、今里大塚古墳全景、墳丘のサイドビュー及び民家との密着状況。

直径は約45m・墳丘の高さ約6.5mで、円墳としての大きさは、7世紀前半に造られた、山城地方で最大級の横穴式石室を持つ古墳で、乙訓地域の石舞台古墳といわれている。

今里大塚古墳公園は、名前のとおり乙訓地方最後の大首長の墓とされる古墳。

本古墳は、史跡公園として整備されているものの、写真の通り、民家とはびっしり隣接している。

又本古墳は、当初円墳と思われていたが、その後の周濠部分の調査によって、周濠が円形を描いて巡るのではなく、西側に直線状に伸びているようで、西面する前方後円墳である可能性が高くなったらしい。

とすると、墳長約80mで幅約20mの周濠がめぐる前方後円墳ということになる。

更に平野部にあることや巨石で作られた巨大な石室を考慮すると、前方後円墳の可能性が極めて高い。これまでのところ葺石や埴輪は見つかっていない。

埋葬施設は横穴式石室だが、盗掘を受けたため、現在は天井石に使われた巨石がごくわずかに残るのみ。残っている石室の一部は、玄室長約6m・幅約3m・高さ約3m以上・羨道の長さは10mに及ぶと推定され、巨大な石室であったと考えられている。

石室に使用された岩石は、古墳の西側にある丘陵地の緑色岩類と見られる。

平成11~12年に調査した今里大塚古墳は、石室前部の羨道の左右の石材と数10トンクラスの天井石がなかったらしい。ごくわずかにしか残っていない巨石から考えて、この古墳の石材も長岡京を造るときに、取り出されて、利用されたと考えられる。

近年の調査結果のよると、本古墳から長岡京時代の祭祀用の土馬の一部や壷が発掘されたことから、石材を転用するに当たって、被葬者への魂鎮めと、穢れを祓っていたものと見られる。

副葬品はまったく見つかっていないが、被葬者は絶大な権力を持っていた人物と見られ、この地域の首長墓を考えていく上で、貴重な考古資料。

被葬者として考えられるのは、朝鮮半島から渡来したとされる秦氏が、農耕技術・土木技術・養蚕や機織りの技術・酒造の技術などをもたらしたと考えられる。

渡来した秦氏は、5世紀頃には、京都盆地の西部、現在の京都市右京区や西京区を中心とする地域に定住したと見られているが・・・・・・・・。

本古墳には、怪異な伝承が残されていることで、知られている。
即ち太平洋戦争中、食料増産のために、本古墳を農地として利用し芋畑にすることが計画された。

地元の古老たちの猛烈な反対も無視され、墳丘部には芋の苗が植えられてしまった。それから数ヶ月後に、芋畑計画の推進者が、原因不明の病に罹り急死した、と伝えられていると云う。


京都府長岡京市の走田古墳群とは!

2009年07月25日 | 歴史
走田古墳群は、西部丘陵上の稲荷山古墳群の南斜面にあり、周辺には式内社で有名な走田神社がある。

このあたりは、かつて八反林古墳や明神古墳など7基ほどの古墳があったと言われているが、ほとんどが未調査のまま破壊されたらしい。





写真は、式内社の走田神社本殿及び丘陵に残る古墳らしき残痕。

と云うことで、現在見ることができるのは、走田9号墳(海印寺古墳)のみ。





写真は、寂照院全景及び寂照院の本堂再建工事中に発見された9号墳の横穴式石室。

9号墳は、寂照院の中にそのまま保存されていて、石室を見学することができる唯一の古墳。

9号墳は、墳丘の南半分は土取りによってなくなり、横穴式石室の羨道部が出ていたが、直径約12m・高さ約3.5mの円墳と考えられている。

7世紀はじめの円墳で、石室は石材を組み合わせた家形石棺が置かれていた。この石棺は、現在補修処理がされ、公開されている。

埋葬施設は、南南東に開口する両袖式の横穴式石室で、玄室は長さ約3m・奥壁の幅は約1.8m・中央部が約1.9mと真ん中が膨らんだ形になっている。

また石室床面には排水溝が掘られ、その上に礫が厚く敷かれていると云う。

この古墳からは、蓋杯の須恵器が出土したが、7世紀初頭のものと断定。

天井石をはじめ、石室の石や石棺の蓋や側石は、その当時抜き取られたものと考えられ、その時期は、まさに長岡京造営の時期と重なっているので、これらの石材は、長岡京を造るために持ち去られたと考えられている。



写真は、家形石棺の蓋と底石。
出土した石棺の部材と石種一つは、家形石棺の蓋で、もう一つは組合式の底石。

石棺蓋は、天井部の平坦面部分がかなり広く、突起の突出度合いは小さく、家形石棺の中でも古墳時代終末期の段階のものと見られている。

この石棺蓋の石材は、淡青灰色で、半分近くが風化などによる鉄さび色をした茶褐色で、兵庫県高砂市にある伊保山のものらしい。

組合せ式の底板は淡黄土色で、石種も伊保山のものだと見られている。

長岡京市から向日市そして京都市の西部にかけて、後期の古墳に播磨系石材の石棺を使うのが特徴的だとのこと。




長岡京市の長法寺七ツ塚古墳とは!

2009年07月23日 | 歴史
長法寺七ツ塚古墳は、長岡京市粟生北畠にある、古墳時代後期の古墳。

田畑と住宅の間を縫って大小7個の古墳が、家族墓を思わせるように直線上に、約30m間隔で並んでいるが、そのうち3・4号墳は破壊されている。

その他は現在も残されているが、住宅地内にあるという現状では、古墳群としての面的な保存は極めて困難らしい。
そこで現在残っている5ヶ所の墳墓を、少なくとも市史跡として残して欲しい。

4号墳が帆立貝式古墳以外は、方墳と云われている。













写真は上から、住宅地帯に取り残され、ひっそりと佇む、長法寺七ツ塚5号墳、これからも残されたまま、守られていくか不安な6号墳と7号墳、本古墳群から田んぼ越しに望める南西方面及び七ツ塚古墳の地図上の位置づけ。

5号墳は一辺が18mほどの方墳で、周溝を持ち、埋葬施設として木棺直葬1基が見つかっている。木棺は、板材を箱形に組み合わせて作り、内側は赤く染められていたらしい。

そのほか後述する、4号墳以外の詳細は不明。

本古墳群は、今から1400年ほど前の6世紀中ごろに築かれたもので、古くから七ツ塚と呼ばれていた。現在は写真のように、周りの田んぼと住宅に蚕食され、原形が著しく損なわれている。

4号墳についての概要は以下の通り。

4号墳は、前方後円墳か帆立貝式古墳かのいずれかで、扇状地緩斜面の尾根筋上に立地している。

標高約48mに立地し、墳長20mほど・後円径約16m・高さ約3m・前方長さ4mほどだが、発掘調査後は消滅してしまった。

玄室の掘り方は、幅約5.5mの規模を有し、凝灰岩製の組み合せ式石棺片が出土していることから、首長級の古墳であったことを思わせる。長法寺七ツ塚古墳群と今里大塚古墳の間を埋める首長墳の可能性が高い。

本古墳群は、稲荷塚古墳と同じ頃に築造された古墳だが、これらの埋葬施設も釘を用いない箱形木棺であり、前方後円墳の稲荷塚古墳に葬られた首長、その下に連なる本古墳群の被葬者たちとも、伝統的な埋葬施設を採用するという点で共通し、6世紀の長岡京市域北部勢力の特徴といえる。

主体部のうち、後円部中央の箱形木棺は、長さ2.95mほどで、主軸と斜交しており、主体部の西寄りには、もう一つの箱形木棺があるが、長さ2.8mほどで、これまた主軸と斜交している。

1987~1988年にかけて4号墳の発掘調査の結果、主体部木棺からは、須恵器・メノウ製玉・ガラス製玉・水晶製玉・銀環・鉄刀・鉄鏃・鹿角装刀子などが出土したが、又第2主体部からも、ガラス製玉・鉄刀・鉄鏃・鎌・鹿角装刀子・須恵器などが検出されたと云う。

これら副葬品からも、この地方の首長墓に相応しいことが分かる。


京都府長岡京市の井ノ内稲荷塚古墳とは!

2009年07月20日 | 歴史
井ノ内稲荷塚古墳は、京都府長岡京市井ノ内にある前方後円墳で、1993年から96年にかけて4度の発掘調査が実施された。

その結果、本古墳墳丘の規模と構造は、全長約46m・後円部径29.5m・前方部長さ16.5m・クビレ部幅21.5m・前方部幅29.5m・現存する後円部高さ4m・前方部高さ3.5mの規模をもつ前方後円墳。





写真は、井ノ内稲荷塚古墳が眠る竹薮及び僅かに墳形が窺える、現在の井ノ内稲荷塚古墳。

墳丘は盛土によって造られており、段築成は認められず、葺石や埴輪をもたない。古墳築造の時期は、これまでの調査で出土した須恵器の特徴から判断して、6世紀前半の築造であると推定できる。

埋葬施設は、後円部には横穴式石室1基、前方部には少なくとも木棺直葬1基の埋葬施設が存在している。

横穴式石室は、天井石は後世の攪乱によって持ち去られているが、下半部は良好に遺存しており、右片袖式の形態をなす。その規模は、玄室長4.6m・幅2.2m・羨道長5.5m・幅1.3mで、向日市物集女車塚古墳と並んで、乙訓地域最大級のもの。

金銅製馬具・金製刀装具をはじめ、多くの副葬品が良好な状態で遺存していた。

横穴式石室の破壊についは、後円部にある横穴式石室は、大規模な攪乱を受け、天井石をはじめ多くの石室石材が持ち去られている。

その撹乱坑から、長岡京期の祭祀用の土器(墨で人面が描かれることがあるタイプの壺など)が出土していることから、その攪乱は長岡京の造営に必要な石材を入手する目的で行われたものである可能性がある。

今回検出した前方部の埋葬施設は、木棺を直接墳丘内に埋める木棺直葬という構造で、木棺は墳丘の主軸に直交するように置かれている。副葬品の出土状況から、東側に頭を向けて被葬者が葬られていたと判断される。



写真は、井ノ内稲荷塚古墳の実測図。

盗掘で破壊されていたが、4基の木棺があったと推定され、鉄刀・鉄鏃・馬具・装身具・土器などが出土したと云う。

木棺は釘を使用しない組み合わせ式の箱形木棺で、底板を持たない。
木棺規模は、長さ3.5m・幅80~85㎝・残存高さ10~15㎝の大規模なもので、注目される。

墓壙は、確認できた面で長さ6mほど・幅3.5m・深さ1.7mという非常に大規模なもので、そのなかに木棺を設置し、土で埋め戻しているらしい。

京都府長岡京市の恵解山古墳群とは!

2009年07月18日 | 歴史
長岡京市は、古くから東海・滋賀地方と畿内を結ぶ交通の要所として、縄文・弥生遺跡をはじめ多くの古墳が点在している。

最も古い古墳としては、4世紀後半の前方後円墳である、長法寺南原古墳をはじめ、5世紀前半の今里車塚古墳は全長約75mの前方後円墳であり、又乙訓地方(現在の向日市と長岡京市)最大の前方後円墳である、5世紀中頃の恵解山古墳等が点在している。

これらの他にも井ノ内車塚古墳・稲荷塚古墳・長法寺七ツ塚古墳群等、6世紀豪族の墓と見られる古墳群が見つかっている。

ここでは、中でも代表的な恵解山古墳を紹介する。



写真は、恵解山古墳現場。

この古墳は5世紀中頃に築造されたもので、全長約120m・前方部の幅約76m・高さ約6.5m・後円部の径約60m・高さ約8m。幅約55mで濠を加えると全長約180mの前方後円墳。

3段に築かれた古墳で、国史跡に指定されている。







写真は上から、当古墳から出土した鉄鏃・鉄刀・鉄剣など鉄製武器類。

昭和55年の発掘調査では、鉄鏃472点、鉄刀146点、短剣52点など、前方部から700点にのぼる鉄製武器類が発見され、全国的に注目されたらしい。

この古墳に葬られた人は乙訓地域を支配した首長であったと見られている。これらの古墳は史跡散策コースとして、現在も近郊市民に親しまれていると云う。




京都府長岡京市の今里車塚古墳とは!

2009年07月16日 | 歴史
今里車塚古墳は、5世紀前半・古墳時代中期に造られた全長約75mの前方後円墳で、幅12mほどの濠を巡らしている。市内では恵解山古墳に次ぐ大規模なもので、葺石で覆われていた墳丘は削り取られ、当時の面影は窺えない。











写真は上から、今里車塚古墳が削り取られた現場の説明看板、本古墳を分断した“今里通り”、道路を挟んで後円部方面及び前方部跡地及び元々の古墳形態イメージ。

残念ながら、住宅や道路が開発され、当時の面影は全く見られない。
長岡京の大路が造られた際に、既に破壊されたらしい。

墳丘規模や出土遺物などから、本古墳は、有力な支配者である首長を葬った前方後円墳。



写真は、本古墳から出土した木製の埴輪片を復元したもので、盾形埴輪の一部と見られる。

周濠の中から陶製埴輪や土器のほかに「木製の埴輪」が出土し、全国的に注目されたと云う。

長岡京市今里の本古墳・第11次調査で、木製の柱列や盾形埴輪などが出土。今回の調査は、1978年以来続いた同古墳の最終調査になる見込みで、「盾形埴輪の確認は初めて。古墳の実態を解明するのに大切な成果をあげられた」としている。

調査地はマンション建設予定地で、前方後円墳の最西端にあたる。

東西約5m・南北約18mを発掘したところ、後円部の墳丘の端の部分や約4m間隔で設置された木製の柱4本が確認され、文様の描かれた盾形埴輪も見つかった。

これら木製品は、被葬者の権威の大きさを示していると云う。同市内の勝竜寺にある恵解山古墳と同じく、乙訓地方を治めた首長の墓と見られる。

柱が発掘された状況からは、柱を立てた後に盛り土や葺石の作業が施されたことが分かるといい、墳墓をつくる最初の段階に、柱を置いたかもしれない。

「今までにも柱は出土していたが、今回の調査から、設計の基準の役割を果たしていた可能性も出てきた」としている。

この辺りの弟国宮(おとくにのみや)は、西暦518年に継体天皇が筒城宮から遷宮した3番目の宮跡の推定地と見られる。付近には乙訓寺が所在するが、この辺りが候補にあげられる。

乙訓寺の乙訓は、長岡・向日・大山崎地域を乙訓郡といい、古くは「弟国」と記されていた。また、乙訓寺周辺の今里からは、弥生時代から古墳時代にかけての集落跡が広範囲に発見されているらしい。

この辺りには、本古墳のほか、小規模な円墳や方墳で構成される山畑古墳群、福西古墳群、走田古墳群など大小様々な古墳が数多く築かれていると云う。





京都府長岡京市の古墳巡りとは!

2009年07月14日 | 歴史
ここからは、京都府の最西端・大阪府との県境・長岡京市の古墳を巡ります。
向日市と同じく、歴史・文化の都として注目に値する。

☆はじめに
長岡京市は、人口が約8万人の中都市で、京都府の南西に位置し、京都と大阪のほぼ中間にある地理的条件や、鉄道をはじめとする高い交通利便性により、多くの企業が集積している産業立地帯でもある。



写真は、長岡京市の自然豊かな光景。

一方歴史的・文化的資産と、多数存在する山・丘・樹林地・水辺など豊かな自然環境と一体となった美しい歴史的風土を形成している。

又長岡京市には6世紀前半に「弟国宮」、8世紀後半に「長岡京」が、当時の日本の都として栄えた街。

長岡京を造営する際に、周辺古墳の石材を取り出し持ち去って、利用した物証が残っているが、その一つが古墳群から長岡京時代の祭祀用の土馬・祭祀用壷などが発掘されたことから、石材を転用するに当たって、被葬者の魂を鎮め、穢れをお祓いするために奉ったと考えられている。

弟国宮は、継体大王の2度目の遷宮があったところで、長岡京市の今里・井ノ内地区にあり、長岡天満宮から北へ約1.5~2.5kmの辺り。

長岡京市中部は、商業地・住宅地から構成され、長岡京市の中心地となっているが、西部は、主に西山の丘陵地帯からなる自然あふれる地域で、有名な神社仏閣などが点在する。

東部は日本を代表するハイテク企業が進出しており、工業地帯を構成する。

長岡京の南部は一部市域が重なり、隣接する向日市・大山崎町とともにタケノコの産地として著名。





写真は、長岡天満宮の霧島つつじと光明寺周辺の竹林。

特に竹林は美しく、平安時代の作品『竹取物語』のモデルは、長岡京市とも云われている。

また長岡天満宮八条ヶ池の霧島つつじ、乙訓寺の牡丹、楊谷寺のアジサイ、光明寺の竹林・紅葉も美しさに定評がある。




京都府向日市の物集女(もずめ)車塚古墳とは!

2009年07月11日 | 歴史
物集女車塚古墳は、横穴式石室をもつ6世紀中頃に築造された、前方部2段・後円部2段の前方後円墳で、現在緑地公園として整備され、京都府の指定文化財。
後円部は直径約31m・高さ約9m、前方部は幅約38m・高さ8mほど。

本古墳は、物集女街道沿いにあり、向日丘陵から伸びる尾根の先端を利用して東西方向に築かれ、今から1,500年近く前の乙訓北部一帯を治めた豪族の墓と考えられている。









写真は上から、物集女車塚古墳の全体像、本古墳の表看板とサイドヴュー及び道路工事で削られた前方部の一部。

後円部に今も残る、1本のスギは、江戸時代に植えられたものの子孫だと云われている。

昭和元年に物集女街道の拡張によって、古墳前方部の一部が削られたが、現在残っている部分の全長は45mほどもある古墳。

昭和58年の大々的な発掘調査の結果、本古墳は風化・崩壊した部分を復元した場合、長さ43~48m・高さ7~9m程度の前方後円墳であることが判明。

側面が30度ほどの勾配があり、北部と西部には約6mの幅を持つ周濠があったことも判明。

更に昭和60年、61年の調査で、石室内から馬具・ガラス製の装飾品・金属製の冠の断片・刀剣など武器・土器など多数の副葬品が発見された。

毎年5月頃、定期的に横穴式石室の内部が一般公開されている。
本古墳は、平成8年に“車塚緑地公園”が整備され、京都府の史跡に指定されている。

地元では「淳和天皇(第53代天皇で、桓武天皇の皇子)の霊柩車を埋めた塚」とも言い伝えられている。





写真は、本古墳石室内の石棺及び石室底部を流れる排水溝の出口。

石棺の側面や蓋石には縄掛突起と呼ばれる突起があり、内面にはベンガラが塗布されている。

石棺蓋は、平坦面がかなり広い屋根形をしていて、3枚の石材から作られ、写真の通り、左右の蓋石に2つ、真ん中の蓋石に1つの縄掛け突起がある。どの縄掛け突起も方形ではなく、隅が丸い楕円形をしている。

門にあたる前庭部は南側、廊下にあたる羨道部、石棺が安置された玄室を仕切る梱(シキミ)石を経て中央部へ通じているが、排水システムは場所によって適切に施工され、千数百年間玄室を大雨から守っていたと云う。長雨が続いた時には、玄室を除湿する水が、少しずつ流れ出ると云う古代人の英知が窺える。

玄室には少なくとも3~4回の埋葬跡が発見されているが、最初のものは、二上山から切り出した凝灰岩の板材を組み合わせて作り、家形石棺を用いたと云う。同古墳は、横穴式石室の形式や副葬品から中央政権とかかわりの深い豪族の墓とされている。



写真は、副葬品として納められていたガラス小玉・トンボ玉など。

副葬品としては、「玉類」のほか、「武器類」多数が馬具などと共に出土した。
特に「金銅製ガラス玉付冠」が合わせて見つかったことから、当初は旧乙訓郡在地の「実力者」のものではないかと考えられていた。

そして更に調査を進める過程で、古墳の平面設計が継体の今城塚古墳のものと同型であることが分かったことからも、埋葬者は継体天皇の関係者と考えられている。

6世紀後半、大和朝廷の混乱の中、この地方に北陸から出た継体天皇の「弟国宮」が造られたことなどから、埋葬者は継体擁立勢力と従属関係をもち、これらの政変と無縁ではなかったのではないか?

継体朝を考える上でも乙訓宮を考える上でも、極めて重要な考古資料。

歴史は下がるが、史料によると、織田信長が山城方面を治めるようになる、1573年・天正元年に、桂川西岸一帯の支配を任された細川藤孝は、周辺の各城主に信長に従うよう命じた。

しかし、物集女氏の当主・細川忠重はこれに従わず、1575年・天正3年に勝龍寺城で謀殺された。これ以降、物集女氏と城の記述は文書などから姿を消したとされる。

信長や秀吉などの天下とりの陰に隠れた地方豪族の興亡盛衰が偲ばれる。





京都府向日市の妙見山古墳とは!

2009年07月09日 | 歴史
妙見山古墳は、第6向陽小学校の西側に所在し、全長約120mという古墳時代前期の代表的な前方後円墳。残念ながら、竹林として開発され、昭和42年に消滅した。

かつては古墳時代前期の巨大妙見山古墳として、その威令を放っていたそうだが、タケノコ畑の土入れ作業などにより消滅したという。のんびりとした話だが、何ともいい加減な扱いだ!







写真は上から、妙見山古墳跡に残された竹藪、竹薮の内部及び後円部の一部が残された状況。

過去の略測図によると後円部の直径約69m・高さ約8m、前方部は幅約58m・高さ約5mほど。

後円部には竪穴式石室があり、後円部頂上には直径約48cmの楕円形埴輪があったと云う。

後円部の石室は盗掘されていたが、三角縁獣帯三神三獣鏡・鉄製の冑・大量の鉄鏃・銅鏃などが検出されたと云う。

古墳を横切るようにして散策路を下ると、住宅街に抜ける。

「竹の径」への標識を頼りに、さらに行くと、長岡京をひらいた桓武天皇皇后陵(伝高畠陵古墳)が見える。

桓武天皇皇后陵は、直径約65m・高さ7mほどの円墳。森に包まれ、静まりかえっている。

京都府向日市の寺戸大塚古墳とは!

2009年07月07日 | 歴史
寺戸大塚古墳は寺戸町芝山にあり、4世紀・古墳時代前期の全長約98mの前方後円墳。

第6向陽小学校から竹林公園へと進むと、竹林の西側に雑木林が見えてくる。
さわやかな竹林が続く竹の径を通れば、寺戸大塚古墳が目に入るが、私有地のため立ち入りはできない。青々とした竹林や見事に組み上げられた竹垣に囲まれた姿が美しく迫る。









写真は上から、寺戸町の竹の径、寺戸大塚古墳の説明看板、本古墳墳頂及び本古墳後円部。

昭和42・43年の2回に亘り、発掘調査が行われ、主体部・墳丘の構造が明らかにされた。

墳丘は3段に築成され、各斜面は33度の角度で墳頂に至り、墳頂には一辺が8mほどの方形の区画が埴輪で巡らされ、ここで埋葬儀式が行われたと見られる。墳丘からは、円筒埴輪・朝顔形円筒埴輪なども出土したと云う。

北側の後円部は現存しているが、南側の前方部は竹林と化し、当時の面影はないと云う。

前方部の大半が失われており、地形が様変わりして、詳しいことは不明。しかし向日丘陵に残る数少ない前期古墳として、貴重な史料。

本古墳後円部は、直径約54m・高さ約10mの大きさで、中央に竪穴式石室があったと云う。前方部にも埋葬施設があったらしい。

墳丘からは、円筒埴輪・朝顔形円筒埴輪などが出土したと云う。

又発掘調査により、三角縁神獣鏡のほか多くの鏡・管玉・勾玉・刀剣・石釧・鎌・鉄斧・鉄剣・鉄刀・農耕具なども出土している。

三角縁神獣鏡が出土する古墳が、京都府南部地域の椿井大塚山古墳にもあり、離れた古墳からも同じ形の鏡が出土することから、これらの古墳の被葬者の間に同盟・同氾関係があったのではないかと考えられる。


京都府向日市の五塚原古墳とは!

2009年07月05日 | 歴史
五塚原古墳は、向日市寺戸町芝山の“はりこ池”西側の山頂にあり、4世紀・古墳時代前期の全長約94mの前方後円墳。

後円部は直径約54m・高さ約9m・前方部は幅約36m・高さ4mほどで、後円部に比べ前方部が低く、幅も狭い典型的な古墳時代前期の特色を色濃く示している。

後円部の頂上が、標高約70mの三角点になっている。古墳の上を歩いて見ることもできる古墳。









写真は上から、五塚原古墳の芝山公園登り口、標高約70mまでの散策道・遊歩道、はりこ池越しに見える本古墳及び大池越しに望む本古墳。

墳頂への道すがら、シイやクヌギなどの雑木林を透かし見れば、京都市内の町並みが望め、丘陵の尾根に立っていることを実感するらしい。

はりこ池と大池の間の遊歩道を辿っても本古墳墳頂に辿りつける。

はりこ池・大池の周辺は公園として整備され、四季折々の自然の美しさを楽しむことができるらしい。又西ノ岡丘陵には、はりこ池・大池のほかにも、数多くのため池が所在すると云う。

本古墳石室などの発掘調査等を実施していないため詳細については不明。



写真は、桓武天皇皇后陵。直径約70m・高さ約7mの円墳。

五塚原古墳の近くには、“長岡京”をひらいた桓武天皇の皇后陵(伝高畠陵古墳)が、宮内庁管理の陵墓になっている。

もともと古墳(円墳)だったものを利用したとされる。

江戸時代から明治初頭にかけては、五塚原古墳が桓武天皇皇后陵と考えられていたらしい。

京都府向日市の元稲荷古墳とは!

2009年07月03日 | 歴史
元稲荷古墳は、向日市向日町に所在する、古墳時代前期の二段築成の前方後方墳で、全長約94m・後方部の長さ約52m・高さ約7m、前方部の幅約46m・高さ約3m。前方後方墳は、方墳を2つ連結した平面形の古墳。

後方頂部には、稲荷が祭ってあったので元稲荷古墳と呼ばれているが、現在は勝山公園にして、緑繁る向日神社と本古墳が保全されている。









写真は上から、上から見た元稲荷古墳の鳥瞰全形で、木々は向日神社の森、前方部登り口に掲げられた本古墳の看板、本古墳のサイドビュー及び後方部から見下ろす本古墳前方部。

本古墳は、向日丘陵先端部の尾根上に築かれた全長94mを測る前方後方墳で、築造は3世紀末から4世紀初頭で、乙訓地域では最も古い古墳であり、全国でも最古級の前方後方墳とされる。

古墳時代前期の前方後円(方)墳が、元稲荷古墳を含め5基連なるように築造されたが、これらを総称して「向日丘陵古墳群」と呼んでいると云う。

昭和35・45年の2回にわたる発掘調査の結果、その規模や性格が明らかになり、墳丘の斜面に貼られた葺石は、偏平なタイル状のもので、弥生時代の終わりごろの墓の「貼り石」によく似たものであったという。





写真は、本古墳前方部から見上げる後方部と後方部墳頂中央に造られた収納庫。

収納庫には、竪穴式石室から出土した埋葬品などが納められ、毎年一般公開されていると云う。石室の大半が盗掘されていたが、鉄製武器(銅鏃・刀・剣・鏃・鎗・矛・石突)、鉄製工具(斧・錐)や土師器の壷などが出土したらしい。

名神高速道路建設時に盛土の採取地となり、向日丘陵は大きく削り取られ、その跡地は住宅地として開発され、古墳の北側は急な崖となっているが、破壊は認められず、本古墳盛土の全面に石を敷き詰めていたことが判明。





写真は、本古墳に関する現地説明会光景及び葺石の出土状況。

平成21年2月の発掘調査では、後方部の平坦面や外周から敷石が見つかったことを発表した。

同古墳では、階段状の前方部の斜面でも敷石が見つかっており、築造当時は墳丘の表面全体が、近くの河原から採取したらしいこぶし大の石を敷き詰めていたことが判明。

荘厳な“石の山”に見せることで被葬者の権威を示していたと見られる。

と云うように、大掛かりな造りにすることで、被葬者の権力を誇示したのではと推測され、邪馬台国の女王・卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳など、同時代の古墳の成り立ちを考える上でも貴重な資料。

本古墳は箸墓古墳を頂点とする初期ヤマト王権の政治秩序に従って3世紀後半に造られ、その被葬者は、王権に参画しながらも、政治経済的に自立した桂川流域を支配拠点に置いた有力な首長であったと考えられる、前方後方墳という墳形は、そのような政治階層的自立を表現したものと思われる。

又出土した土器の中には、縁に独特の丸みを持つ讃岐産の祭儀用土器の破片約30点が出土し、被葬者が讃岐地方の有力者と深い政治的な繋がりがあったことを窺わせる。壺は胴が丸く、口の縁の断面がくの字状に膨らんでいる讃岐地方特有の形状という。

土器は、埴輪などを置くとされる頂上部分にあったと見られるが、首長を葬る儀礼の際に土器が1段目に落ちたと考えられている。

前方部の墳丘中央には、南北約2m・東西約4mの範囲で埴輪が配置されていた部分があり、この埴輪は、円筒埴輪と壷型埴輪のセットで、弥生時代の墓に供えた土器を模して作られた古い形の埴輪であることが判明。

このように、この元稲荷古墳は、墳形や葺石の状態、出土した埴輪や土器などから、近畿地方における他の前期古墳の中でも、極めて特異な古い様相を示す重要な古墳であると考えられている。

この他に、向日丘陵に築かれた前期の古墳には、五塚原古墳・寺戸大塚古墳・妙見山古墳・北山古墳などがあるが、これらの古墳は、ほぼ同じ大きさをしていることから、この時代古墳を築くのに何らかの規制や約束事があったと考えられている。