三山並立時代の後、琉球を統一したのは、“佐敷城”の按司・“尚巴志”であった。
写真は、沖縄本島東南の佐敷町(現在は合併して南城市)の佐敷城跡。
“尚巴志”は、1406年に中山王を滅ぼすと、父・“尚思紹”を王に即位させ、自ら北山・南山攻略を企てた。
そして北山は、標高100mほどの石灰岩台地に築かれ、周囲には川・急崖などがあり、難攻不落なグスクであったが、遂に陥落させ、その勢いで1429年には南山をも滅ぼした。
ここに三山が統一され、琉球における初の統一王国が形成された。
1430年“尚巴志”は、明朝に三山の統一されたことを報告したと云う。
“尚巴志”の父・“尚思紹”を始祖とする“第一尚氏王統”は、三山を統一した“尚巴志”による18年の王位期間を含め、1469年まで7代・63年間続いた。
第一尚氏は、居城グスクを浦添から首里に遷都した。“第一尚氏王統”時代以降、首里・那覇が政治・経済・文化の中心として隆盛を誇った。
しかし第一尚氏王統は、王位継承を巡って内乱などが起こり、必ずしも安泰ではなく、自滅の道を歩んだ。
とは云うものの、“第一尚氏王統”時代には、積極的な海外貿易を行い、琉球王国は大いに発展した。
写真は、旧首里城正殿の“鐘”の由来。
1458年に鋳造された、“旧首里城正殿の鐘”の銘文には、琉球国が中国をはじめ、朝鮮・日本本土・南方諸国・東南アジアなど港市国家と海外貿易を活発に展開し、繁栄を誇っていたことが刻まれていると云う。
このような繁栄の背景には、朝貢体制を築いていた明朝の海禁政策に便乗して、中国人の海外への出航が禁止されていたことで、南方諸国から胡椒・蘇木などの品物を対明朝との仲介貿易により、巨万の富を稼ぎ、琉球王朝は“大交易時代”を築いたと云える。
東アジアとの交易拠点となった琉球は、日本本土・朝鮮との外交にも力を入れ、海外文化をも取り込んだ。
それと王城のある首里と対外的玄関口である那覇港を結ぶ、道路・港湾などのインフラ整備も行い、王国の繁栄を導いたと云う。
写真は、“今帰仁城”跡から出土した、中国産陶磁器片。
この時期中華貿易で琉球が得た商品で最も目立つのは、各地のグスクから出土している中国産陶磁器で、当時の琉球社会で需要が高かったことが窺える。
これらの中国産陶磁器は、琉球内の需要を満たしただけではなく、南方諸国への輸出品としても使われていたことが窺える。
写真は、沖縄本島東南の佐敷町(現在は合併して南城市)の佐敷城跡。
“尚巴志”は、1406年に中山王を滅ぼすと、父・“尚思紹”を王に即位させ、自ら北山・南山攻略を企てた。
そして北山は、標高100mほどの石灰岩台地に築かれ、周囲には川・急崖などがあり、難攻不落なグスクであったが、遂に陥落させ、その勢いで1429年には南山をも滅ぼした。
ここに三山が統一され、琉球における初の統一王国が形成された。
1430年“尚巴志”は、明朝に三山の統一されたことを報告したと云う。
“尚巴志”の父・“尚思紹”を始祖とする“第一尚氏王統”は、三山を統一した“尚巴志”による18年の王位期間を含め、1469年まで7代・63年間続いた。
第一尚氏は、居城グスクを浦添から首里に遷都した。“第一尚氏王統”時代以降、首里・那覇が政治・経済・文化の中心として隆盛を誇った。
しかし第一尚氏王統は、王位継承を巡って内乱などが起こり、必ずしも安泰ではなく、自滅の道を歩んだ。
とは云うものの、“第一尚氏王統”時代には、積極的な海外貿易を行い、琉球王国は大いに発展した。
写真は、旧首里城正殿の“鐘”の由来。
1458年に鋳造された、“旧首里城正殿の鐘”の銘文には、琉球国が中国をはじめ、朝鮮・日本本土・南方諸国・東南アジアなど港市国家と海外貿易を活発に展開し、繁栄を誇っていたことが刻まれていると云う。
このような繁栄の背景には、朝貢体制を築いていた明朝の海禁政策に便乗して、中国人の海外への出航が禁止されていたことで、南方諸国から胡椒・蘇木などの品物を対明朝との仲介貿易により、巨万の富を稼ぎ、琉球王朝は“大交易時代”を築いたと云える。
東アジアとの交易拠点となった琉球は、日本本土・朝鮮との外交にも力を入れ、海外文化をも取り込んだ。
それと王城のある首里と対外的玄関口である那覇港を結ぶ、道路・港湾などのインフラ整備も行い、王国の繁栄を導いたと云う。
写真は、“今帰仁城”跡から出土した、中国産陶磁器片。
この時期中華貿易で琉球が得た商品で最も目立つのは、各地のグスクから出土している中国産陶磁器で、当時の琉球社会で需要が高かったことが窺える。
これらの中国産陶磁器は、琉球内の需要を満たしただけではなく、南方諸国への輸出品としても使われていたことが窺える。