近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

沖縄の歴史・文化 “グスク”時代とは!

2007年12月13日 | 歴史
暫く休みましたが、今日から再開します。

村落発生の初期段階では、階級の差や貧富の差がゆるやかな社会であったと思われる。

その後稲作による農耕が定着し、農耕生産が本格化するにつれて、村落の人口増加をもたらし、その社会を維持するために、新たな耕地を獲得する必要に迫られた。
こうして必然的に隣接する血縁集団が、互いに協力し合って共同作業するようになり、交流を深め、結びつきを強めていくことで、大きな集団が形成され、この地縁集団が“ムラ”と呼ばれた。

ムラの指導者は、豊かな耕地を手に入れ、農耕生産による富を蓄えた有力者の中から選ばれるようになった。
必然的に貧しい者と富める者の差が広がり、支配する者と支配される者という階級が出来上がっていった。

12世紀にかけて、各地に“按司”(あじ)と呼ばれる支配者が出現した。







写真は上から、世界遺産である“護佐丸”の居城・“中グスク”正門、世界遺産・“座喜味グスク”跡、世界遺産・“勝連グスク”跡。

各按司は、写真のような“グスク”とよばれる強固な城塞を築き、相互に対立を深めていく激動の時代へと進んでいった。

しかし、写真のようなグスクのほか、“首里グスク”や“今帰仁グスク”のように高い石垣を巡らした「城塞」と云えるものがある一方、防御施設がないもの、深い森の中の風葬地帯のものや単なる拝所なども含まれるらしい。
つまり本土で一般的に言う「城」とは異なる。

按司はグスクに住み、農具の普及や家畜の飼育など農業生産力向上に努め、勢力拡大に力を注いだ。

各按司は、東アジア及び東南アジア諸国との貿易によって得た陶磁器・鉄などの文物を基盤に、農具を鋳造するだけでなく、鉄製武器を入手して武力を強化し、互いに貿易の利権や支配の拡大を巡って争った、国家の胎動期に当る。

このような社会的背景から考え、多くのグスクは国家胎動期の争いの拠点と看做され、防御・自衛・攻略等に対する工夫が執拗なまでに凝らされていることが読み取れる。

グスクは、琉球社会が統一国家へ向かう時代の緊張関係の中で形成された“歴史的記念物”と云える。

時期的には、概ね12世紀前後から16世紀前半頃までで、日本史上では平安時代後期から鎌倉・室町時代にかけてであり、中世に相当する。