近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

棺運ぶため周濠を渡る橋の跡か?…堺市のニサンザイ古墳

2013年02月28日 | 歴史
ここでは、又貴重な新発見のお知らせです。

世界文化遺産の国内候補「百舌鳥・古市古墳群」に含まれる堺市の前方後円墳、ニサンザイ古墳の後円部付近で、周濠を渡るための橋の跡とみられる柱穴が見つかったと、堺市が平成25年2月21日発表した。





写真は、ニサンザイ古墳で見つかった柱穴跡及び復元した橋脚想像図。

ニサンザイ古墳後円部の裾と対岸の堤を真っすぐ結んだ長さ約40メートルの橋があったと推定され、他の古墳では例のない遺構という。

専門家は「被葬者の棺を運ぶために造られた橋では」とみている。

市文化財課によると、柱穴は後円部の裾で25個、周濠で4個を発見。古墳の中心線に沿って整然と並び、柱とみられるクヌギ材(直径約20センチ)も一部残っていたと云う。

同課は周辺の堆積物や地層から古墳築造時のものと判断。周濠に木製の橋が架かっていたとみている。

ニサンザイ古墳は、全長約290mの巨艦のような大型前方後円墳にもかかわらず、宮内庁による大王墓に比定されないまま、陵墓参考地扱いのため、拝所も設けられず、民家や市民公園が隣接している情況。

ニサンザイ古墳は「反正陵」とする伝承が、地元では伝わっていたと云う。

現在、宮内庁はこの古墳を、天皇陵の可能性あるとして、陵墓参考地に指定して管理しているが、主体部の構造や副葬品を確認できないため。

現在反正天皇陵に治定されているのは、田出井山古墳だが、ニサンザイ古墳は田出井山古墳に比べて4倍近い面積を占め、大王陵としてふさわしい。



箸墓古墳に立ち入り調査「墳丘に土器の破片散乱」!

2013年02月25日 | 歴史
又ビックな古墳情報が飛び込んできた。
邪馬台国論争に一石を投じそうな、歴史的には画期的試みと考えられる。

邪馬台国の女王・卑弥呼の墓との説がある奈良県桜井市の箸墓古墳(全長約280m)で平成25年2月20日午前、日本考古学協会など15学協会の研究者16人が初めて立ち入り調査に入った。陵墓指定している宮内庁が調査を認めた。

邪馬台国論争に絡んで注目度の高い古墳で、古代史解明に欠かせない陵墓研究にとって大きな一歩となった。

何より今回、箸墓古墳を調査できたことが大きい。日本列島で最初に築かれた大型の前方後円墳だから。

築造の時期は3世紀半ばとみられ、「魏志倭人伝」では西暦247年ごろ亡くなったとされる邪馬台国の女王・卑弥呼の墓の可能性が指摘される。

今回踏査では表面が葺石で覆われている様子などが確認された。







上野写真は、箸墓古墳の最新画像と今回初の立入調査光景。散乱した葺石が散見される。

箸墓古墳は最古の巨大前方後円墳で、ヤマト王権最初の王墓とも考えられている。宮内庁は孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓として管理している。

今回は発掘や採取はできず墳丘の最下段を歩くだけだが、立ち入った研究者たちは過去の知見を検証し、新知見を探した。

調査に入った研究者は「1972年の高松塚古墳の発掘以来の感動を覚えた。東アジアの巨大古墳の出現を考える上で基準となる古墳で、入れた意義は大きい。日本の考古学にとって重大な成果だ」と話した。

陵墓は古事記、日本書紀などの文献を基に、江戸時代末期から明治時代に指定され、現在740カ所あるが原則立ち入りが禁止されてきた。

一方、研究者の間では、文化財としての側面から学術調査を望む声が絶えなかった。宮内庁は1979年以降、陵墓の補修に伴う発掘調査の見学などで年1回程度、限定公開してきたが、宮内庁外の研究者が主体となる調査はほぼ無かった。

15学協会は2005年、11カ所の陵墓の立ち入り調査を要請。宮内庁は2007年に内規を変え、条件付きで立ち入りを認めた。

以後、2008年の神功皇后陵(奈良市、五社神古墳)から毎年行われるようになり、今回で6回目となる。

箸墓古墳の立ち入りを現地で見守った研究者は「1880年に立ち入りが禁止されてから約130年ぶりに入ることができ、この時を考古学者がどれほど待っていたか。ようやくここまできた」と評価した。

研究者は同日午後、卑弥呼の後継者、台与の墓との説がある奈良県天理市の西殿塚古墳も立ち入り調査する。

宮内庁は陵墓(天皇や皇族の墓)への一般の立ち入りを禁じており、研究者の要請で同古墳に入ることが認められたのは初めて。学会の要請による陵墓や、その候補である陵墓参考地の立ち入り調査は8カ所目。

最古の巨大前方後円墳とされる箸墓古墳の前方部は、県立橿原考古学研究所などが航空レーザー測量で作製した立体図から、3段構成の可能性が高いとされていた。

しかし、研究者は立ち入り調査後、「実際の様子や後円部との関係から、前方部も4段だった可能性が高い。

中で目視できたのが大きかった」と指摘した。また、「周囲を歩くと石が累々としており、古墳全体が石で覆われていた可能性が高い」と話した。



奈良県明日香村で大化改新の立役者「出会いの場」に精巧な石敷発見!

2013年02月18日 | 歴史
最新の史跡情報を、引続きご案内します。

大化改新の立役者、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣(藤原)鎌足が初めて出会った場所「飛鳥寺西の槻の樹の広場」とみられている奈良県明日香村の飛鳥寺西方遺跡で、7世紀中頃~後半の石敷きが見つかり、村教委が平成25年1月30日に発表した。

調査地は飛鳥寺西門の西にある「入鹿の首塚」のすぐ西側。当時の西門の西方約40mに位置する。





写真は、大化改新立役者の敷石跡発掘現場及び敷石跡の拡大光景。

石や砂利を隙間なく丁寧に敷き詰めており、明日香村教委は当時の皇族・貴族らが饗宴や儀式を催した広場にふさわしい空間としている。

石敷きはこれまでも確認されていたが、今回は東西15m・南北24mの広範囲にわたって出土。

このうち東西6m・南北10mの範囲には、15~25cm大の平らな石を精巧に敷き詰め、周りには3~10cm大の砂利を敷いていた。

過去の調査から同遺跡は東西約120m・南北約200mと確認されており、周辺にもさらに石敷きが広がっていた可能性が高い。

また、写真のように、石敷きには石のない円形の部分が2か所あった。

拳大石の石敷きの中央では直径1・9mの範囲で石敷きが欠落。内側は石敷きが整備された後に人為的に掘り込まれた直径約1・5m・深さ40cmの穴があった。

調査区東側では直径3m以上・深さ1・6m以上の穴も見つかった。どちらの穴も性格は不明。

日本書紀で、広場にあったとされる「槻(ケヤキの古名)」などの木の根や、建物の柱の痕跡は今回見つからなかったという。


邪馬台国説で沸いた吉野ヶ里遺跡が26年間の発掘調査を終えた!

2013年02月12日 | 歴史
最新の史跡・遺跡情報を引続きご案内します。

佐賀県の吉野ケ里遺跡で、県教育委員会が昭和61年以来、4半世紀にわたって続けてきた発掘調査が平成24年9月に終了した。

同遺跡の発掘で熱を帯びた邪馬台国論争は、いまだ決着していない。

発掘調査後期の発見が、邪馬台国の女王卑弥呼(生年不明~248年ごろ)の居所に「宮室」「楼観」「城柵」があったという中国の史書「魏志倭人伝」の記述と符合したため、1989年以降、大きな注目を集めてきた。

邪馬台国の所在地については現在、全国で少なくとも30カ所ほど説がある。有力候補地として「畿内説」の奈良県・纒向遺跡があるが、吉野ケ里遺跡を含む「九州説」も根強い。

纒向遺跡には、卑弥呼の墓との説がある前方後円墳があり、3世紀前半では国内最大の高床式建物が2009年に見つかっている。





写真は、吉野ヶ里遺跡公園のマップ及び復元された「北内郭」(手前)と物見やぐらなど弥生時代後期の集落跡、平成24年9月29日、佐賀県吉野ケ里町で。

今後は約2万点に上る出土品を分類して年代測定などを実施し、平成26年に調査報告書をまとめると云う。

遺跡では弥生時代前期から後期の集落跡が見つかり、ムラからクニへと発展する様子が確認された。

前期(紀元前5~前3世紀)は、青銅器を鋳造する道具の断片が出土。

中期(紀元前2世紀~前1世紀)では、巨大墳丘墓や約3千基の甕棺墓から頭部を切り取られた人骨など戦闘の犠牲者とみられる被葬者が見つかっていた。

東京新宿ど真中の市谷で発見された縄文人骨とは!

2013年02月04日 | 歴史
縄文遺跡を追いかけているファンにとって、とんでもないホットニュースが飛び込んできました。

東京都新宿区役所は1月30日に、市谷住宅街のマンション建設予定地から約4千年前の縄文時代のものとみられる11人分の人骨が見つかったと発表した。





写真は、東京新宿区の市谷遺跡発掘現場の光景とマンション建設予定地から見つかった約4000年前の人骨の様子。

見つかった人骨のうち、7人分は保存状態がよく、新宿区は縄文人の暮らしぶりが分かる貴重な資料としている。

当時の縄文人の顔立ちを調べるため、顔を復元することも検討しているらしい。

同区によると、現場は新宿区市谷の住宅街で、昨年11月、マンション建設のため民間業者が発掘調査し、人の脚の骨を発見しビックリ仰天。

その後、約300㎡の地中から縄文式土器とともに次々と人骨が見つかったと云う。

埋葬されていたとみられるが、近くに竪穴住居の跡もあったらしく、縄文ムラの一角であったと想像される。

国立科学博物館が一部の骨を鑑定した。付近は武蔵野台地と呼ばれ、骨が溶けやすい酸性の土壌にも拘わらず、今回の一大発見に至ったことに対して、新宿区文化観光課の担当者は「貝塚などを除き、整った人骨が見つかるのは珍しい」と話している。

新宿区の防衛省近くの住宅街から、11体もの縄文時代の人骨が見つかったとは本当に信じがたい。

これまで関東平野で見つかった縄文時代の人骨は、海に近い貝塚から出土したものばかりだが、今回の現場は海岸線から離れた台地上であり、当時の地形にも想いを馳せる。

新宿区の担当者は、「大変珍しく、保存状態もいいので貴重だ」と興奮気味だったらしい。

今後の更なる珍発見に期待したい。