近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

縄文人の謎・ロマン “絹”が織り成す“伝統美”とは!

2007年10月31日 | 歴史
絹の織物は、弥生時代には出現していたと云う。
世界的に見ても、日本の絹織物ほど「織り・染め・模様・色彩」などの加工技術において、巧緻・華美・豪華・優雅・多彩・秀麗な衣類を他に求めることはできない。



写真は、典型的な京風着物。
着物に代表される和風ファッションは、“ハレ”の文化を象徴していると云える。“ケ”の生活は慎ましやかで、年に僅か数日しか着ることのない“ハレ”の日のために、大きな負担を惜しまず、“晴れ着”を調達し、束の間の晴やいだ気分に酔いしれたいことから、この偉大な伝統文化を造り上げたと云える。

素材の豪華さに反して、ファッションと云う意識を疎外する着物のシンプルな形状も特筆すべきもので、縫い目を解けば元の生地に返る、フレキシブルな知恵が隠されている。

着物は直線的形状になるため、着方・着付けで背丈の違いをカバーするという、日本独自のファッションが生まれている。日本固有の“風呂敷”に酷似している。

直線的なサイズレスな形状のため、「織り・模様・色彩」のみで、日本独特な衣文化を形成している。織りには抽象模様を、染めには具象的模様を織り交ぜながら絢爛たる様式美を造りだすという、美術工芸の世界に埋没する。

と云うことで、着物ファッションとは、着物の縦と帯の横という、二つの直線の交差というシンプル極まる美意識によって成立している。

着物の縦と帯の横との組合せは、木の文化の象徴である“ヒノキ”や“スギ”がまっすぐ天に伸びるタテのさまと、そして清澄な川が流れるヨコのさまの交差という、日本的伝統美意識に類似している。

縄文時代に遡る、日本独自の直線・縦と横の造形美を持つ建築技法には、“唯一神明造”の手法による伊勢神宮の造営美に辿り着く。





写真は、日本の美・伊勢神宮の外宮及び内宮。
“唯一神明造”は、掘っ建て式・茅葺・破風の先端が屋根を貫く千木という素朴な飾りが特徴であるが、縄文の特徴である全て直線で統一され、内宮の内削は水平に切ることで女性を象徴し、外宮の外削は垂直に切ることで男性を象徴すると云われている。

又シンプルな直線美は、数奇屋造り・茶室などにも引継がれ、シンプルな直線の交差に巧みの技を織り込んで、美的感性を注ぎ込むと云う。

と云うことで、縄文式を原日本人の土着の美意識、弥生式を混血の美意識と呼び、縄文文化の美意識こそ潜在的・文化の深層にあるもとして、時折顔を覗かせるものと捉えられている。


縄文人の謎・ロマン “伝統的美意識”の“ハレ”の文化とは!

2007年10月30日 | 歴史
縄文人が、毛皮を着ていたものが進歩して、繊維の衣類に変わったのであろうか?今日まで発掘された考古学的資料では、調査に限界はあるが、それでも縄文前期・中期・後期の遺跡から“編布”(“あんぎん”と呼び、俵・むしろのような編み方。)が出土したことから、文様・衣類のデザインを類推できる。





写真は、久留米市の正福寺遺跡から出土した“編布”2点。

衣類以外の出土遺物から、縄文人は“ハレ”と云う非日常性と“ケ”と云う日常性のライフスタイルを使い分けていたことが明らかになっている。

例えば、漆塗りなど高度な材料・細工・文様・装飾を付けた用具が発見されているが、関連して当然“ハレ着”も存在していたと考えられる。





写真は上から、さいたま市の“真福寺貝塚”から出土した“ミミズク土偶”及び山形県真室川町の“釜淵遺跡”から出土した“髪を結う土偶”。

縄文土偶の頭部の造形を眺めると、ピアスをした土偶・髪を結う土偶・日本髪の島田・三つ編み、出土した“櫛やペアピン”・“かんざし”などを組み合わせると、髪型が具体的に分かるようだ。

織物の素材は、多くの樹皮や麻からの繊維を利用していたと見られる。
布は大麻やシナ・フジなどの茎・樹皮から採った糸で作っていたらしい。

他にはシカ皮製の冬の肌着、毛皮を組み合わせた厳冬期の“狩り装束”なども考えられる。或いは麻・苧麻製の衣類を重ね着して厳冬を過ごしたかもしれない。

“縄文土器文化”の伝統が今日まで連綿として引継がれ、世界に冠たる陶磁器王国を維持し、昨今では“ニューセラミック・テクノロジー”に形を変えて、世界の最先端を走っている。

又現在のファッション情報の発信機能においても、ブランド品消費量の多さ、美的センスと選択機能の高度さにおいても、世界をリードしていると云える。

又世界のファッションの中心地・パリのデザイン界においても、日本人デザイナーの活躍を見ても、日本人の“衣”に対する文化レベルの高さが見て取れる。



写真は、日本伝統文化を象徴する、京都四季彩の着物。
織・染・刺繍・模様・デザインなど衣料の構成要素が卓越していることに加え、伝統的美意識・色彩的感性・独創性がバックボーンになっていると云える。

編み込み模様・組紐・刺繍などに絶技巧を凝らして再現された、祭りの“縄文衣装”を纏って、縄文美人が現代の六本木や原宿辺りを歩いても、違和感はないと思われる。

縄文人の謎・ロマン “漆工芸”は階層社会出現の証左だ!

2007年10月29日 | 歴史
“漆工芸”は縄文時代前期になって突然出現し、完成した芸術作品と云われ、漆は塗装と接着という異なる用途に使われた。

漆を工芸化するには、樹液の採取・樹液の精製・塗装用漆の調合・器物への塗装という工程が必要。

雑物の排除・水分や湿気の管理等熟練の技を要するらしいが、顔料との混合割合が決め手と云われる。
しかも漆そのものにニーズがあった為、流通していたことが分かっている。

漆対象の器台には様々な材質・形態があり、土器の他に木製容器・櫛・弓・土製腕輪・編み籠等に使われていた。

又漆そのものの製作者と漆塗装者、それに器台製作者は各々別人と考えられる。即ち分業体制が既に取られていたと思われる。



写真は、鳥取県淀江町の“井出遺跡”から出土した漆塗りの櫛。

漆工芸は何故必要とされたのか?何故突然出現し、完成したのか?
これだけの工程を必要とする技術を生み出したエネルギー・財力・権力は何処にあったのか?誰が持っていたのか?

恐らくムラの有力者の強力な指揮命令があったのではないか?
権力を象徴する工芸品であったのではないか?
このことから縄文時代前期には、既に階層社会が誕生していたのではないかと想像できるが?????



写真は、山梨県長坂町の“酒呑場遺跡”から出土した、玦状耳飾りなど。

漆塗り工芸品以外にも、“玦状耳飾り”も縄文前期に現われ、アッと云う間に全国に広まったが、漆塗り工芸品同様、指導的な首長クラスの特権的私有物だったと見られる。


縄文人の謎・ロマン 縄文時代の“漆工芸技術”の粋とは!

2007年10月28日 | 歴史
“漆”は空気に晒されると酸化して黒色に変化するが、化学変化に強く耐久性があるため、古くから塗料や接着剤に利用されてきた。

漆に顔料を加えて発色させる高等技術も知っていたことが明らかになり、しかも6,000年ほど前の縄文前期において早くも技術的に確立されていたと云う。
何故に漆技術に磨きがかけられたのであろうか?



写真は、高知県土佐市の居徳遺跡から検出された“木胎漆器”。
クスノキ材の一辺が44cmほどの角を丸くした方形の蓋と見られる。
黒色の漆地に朱塗りの花弁文様が繊細なタッチで描かれている。

居徳遺跡の漆器は、文様の形だけでなく漆の塗り方なども異なっていると云う。
東西漆器のルーツも異なり、居徳漆器は黒潮ルートに乗り中国の影響を受けた可能性が高いと云われる。



写真は、現在にまで残る伝統工芸、“輪島塗”の煮物椀。
日本独自の伝統工芸らしい逸品。

製作工程数等加工技術は、同時代の中国のモノより日本の方が優れていると云われ、日本独自の漆塗技術があったと考えられている。

漆は魔除け等祭祀などの特殊な用途に用いられたと云われるが、何故これほどの技術的・経済的投資と精力を投入したのであろうか?

自然に対する脅威と子孫繁栄への祈りを込めた、縄文人の世界観と宗教的・社会的価値観が、唯々驚嘆に値する“漆工芸作品”を生み出す原動力となったのであろう!





写真はいずれも、山形県高畠町の“押出遺跡”から出土した彩漆土器。
縄文前期中頃の押出遺跡からは、極めて完成度の高い“漆塗り彩文土器”が出土した。

地文に赤漆を塗り、黒漆で繊細な彩文を描いた土器が6点も見つかり、縄文前期中頃に遡る年代の古さと、その完成度の高さから、山形縄文人独自の発明と見られている。

この技術は、漆の樹液の利用と赤や黒の顔料の使用と云う二つの要素が組み合わさっているが、日本伝統工芸のルーツが縄文前期にまで遡るとは、ただただ驚きの一言に尽きる!

縄文人の謎・ロマン “漆塗り文化”とは!

2007年10月27日 | 歴史
“漆塗りの文明”は、縄文前期中ごろまで遡るが、当時既に完成度の高い“漆塗り彩文土器”やいろいろな木製品が造られていた。

当初漆工芸技術は中国で発明され、縄文晩期頃に日本海ルートで伝わってきたと考えられていた。

しかし縄文前期中頃の山形県高畠町の“押出遺跡”、秋田県大館市の“池内遺跡”、群馬県太田市の“下田遺跡”及び福井県三方町の“鳥浜貝塚”など、遺跡の周辺に広がる湿地帯のお蔭で、腐食を免れた漆塗り木製品が数多く出土したことで、縄文人の高度な発明の可能性が高まった。









写真は上から、青森県野辺地町の“向田遺跡”から出土した漆塗木製品、群馬県太田市の“下田遺跡”から出土した漆塗木製品、群馬県の“高崎情報団地遺跡”から出土した浅鉢形漆器及び福井県三方町の“鳥浜遺跡”から出土した漆塗木製容器の一部分。

漆工芸品の技術は、漆の樹液の利用と赤の顔料の使用と云う二つの要素が組み合わさっている。ベンガラなどの赤色顔料の使用は、早くも旧石器時代末期から縄文草創期に始まった。

生漆を塗ったあとに、外側を赤漆で彩色し、木質の用材に漆を塗り重ねて作られた櫛や竹製の編み籠なども出土しており、縄文時代の工芸技術が高度で多岐にわたっていたことを思わせる。

漆は適当な湿度が要るという特徴を持つため、日本の風土に適していると云われ、又原料となる“はぜ”の木が豊富に自生している上、素材となる木も良材資材が豊富なため、素晴らしいウルシ造形工芸に発展した。

陶磁器を指す“チャイナ”に対して、“ジャパン”と云う呼称がそのまま漆器を意味するほど世界的に認知され、“匠”のわざの洗練・巧緻・昇華を極めるほどになった一方で、美術工芸品として庶民の手の届かぬ、貴重品になってしまったが・・・・・・

近年ハイテク新技術の進展により、脅かされつつあり、時には失いつつある、「縄文人=匠の技=職人」という伝統を守り抜くと共に、欧米・中国などの文明の利器に惑わされないよう、今後とも日本の独自性を生かし、護って欲しい。

日本伝統文化の歴史は、良いところは受け入れ、合わないところは排除するとした、日本的価値観を、今後とも死守してもらいたい。


縄文人の謎・ロマン “アクセサリー”が物語る縄文社会とは!

2007年10月26日 | 歴史
“アクセサリー”を通じて垣間見る縄文社会とは、どんな社会であったのか、ここではアクセサリーを祭祀用装身具という仮説にとらわれることなく、縄文社会がそうであったように、もっと自由な現代感覚で仮説を立てて見る。

アクセサリーは、ムラの権力者やシャーマンのような祭祀者に与えられた唯物特権であったという有力な見方もあるが・・・・・・・・。

1、自由競争社会であった!
土器・石器製作などの技能に秀でた職人や手際・段取り良く物づくりに精進したムラ人は、やがて競争社会に抜きん出て富を蓄積して行き、その腕前は土器・石器などの受注生産にまで拡大していった。

2、商業主義の進展 !
物々交換を通じ交易・文化的交流が促進され、特定地域にしか存在しない貴重な材質のアクセサリーが入手出来るようになった。

3、国際的ハイセンスの持ち主!
縄文人は、日本の古代史上唯一現代にも通じる“国際的ハイセンス”を持ち合わせていた。
身嗜みは清潔で、優美なセンスを競い合える一部の美男美女の間で、贅沢なお洒落競争からファッションを作り出していった。
アクセサリーを装着したムラ人は、全体の1割程度と言われているが、装着しても恥ずかしくない有資格者の割合として1割程度は妥当なところと思われる。

4、アクセサリーは結納品!
女性の通婚圏内で嫁ぐ際、家宝に等しい貴重なアクセサリーが結納品として差し出され、又そういうリッチな結婚相手を探し求めた。
今日の贅沢な家具調度品に相当する“ステータスシンボル”であった。
5、アクセサリーブームは加熱!
縄文早期後半から始まり、少数のムラ人の間で起こったアクセサリーブームは縄文中期には最盛期に達し、特に奇抜・派手さを競い合い加熱していった。

以下全国規模で選りすぐられた、お洒落感覚のアクセサリー逸品を紹介する。

☆石製アクセサリーでは、山形県羽黒町の“玉川遺跡”から出土した硬玉製勾玉、東京多摩ニュータウンのヒスイ製けつ状耳飾り及び兵庫県淡路の“佃遺跡”から出土したペンダント。以下順番にご覧下さい。







☆鹿角・イヌ・イノシシなど骨角製アクセサリーでは、沖縄県内のイヌ・イノシシ・サメ製アクセサリー及び宮城県鳴瀬町の“里浜貝塚”から出土した鹿骨製腰飾り。以下ご覧下さい。





☆更に貝製では沖縄県石川市の“古我地原貝塚”から出土した貝製小玉類、土製では栃木県の“藤岡神社遺跡”から出土した土製耳飾り、そして木製アクセサリーでは福井県三方町の“鳥浜貝塚”から出土した櫛飾り。以下ご覧下さい。







以上今でも喜ばれそうなれそうな、お洒落感覚のアクセサリの逸品でした。

縄文人の謎・ロマン 縄文文化の伝統に見る“流通事例”とは!

2007年10月25日 | 歴史
新潟県上越地方の“寺地遺跡”の歴史的役割について取上げる。



写真は、日本最初のヒスイ工房があったと云う、新潟県青梅町の“メモリアル寺地遺跡”公園。
新潟県青海町の寺地遺跡は、縄文中期中葉から晩期後葉まで継続した“ヒスイ加工工房の集落”であることが判明。
住居跡は合計7棟が発掘され、特に第1号住居跡は典型的なヒスイ工房跡。

ヒスイ工房跡は直径約5mのほぼ円形状の竪穴住居で、主柱穴5本を有し、壁に沿って幅50~70cmのテラスが巡り、工作用の特殊ピットや河原石と大型砥石が置かれ、又特殊ピットには、水溜めの皮袋が張られ、砂と水と砥石で研磨作業が行なわれた施設があったと言われる。

以下現在に見る、“マーケットイン”思想による物づくりコンセプトの原点について、考えてみる。

1、ヒスイ製玉及び蛇紋岩製磨製石斧が同時並行して生産・供給されていたことが判明。ヒスイと蛇紋岩の原産地に隣接しているという地理的条件に加えて、双方に共通する工作技法、即ち形割・研磨・整形・開孔・仕上げと続く加工工程をマスターした。

工作技法を最大限活かすと共に、海上輸送による全国規模の物流・配給ネットワークを駆使することにより大量生産・供給を可能にしたと思われる。

2、良質な原石の確保、工作技能者の育成・確保、ニーズに合った製品開発・設計、物流手段の確保等々並々ならぬ努力を払ったであろうことは、膨大な量の未成品・失敗作の出土からも窺える。



写真は、新潟県糸魚川市の“長者ヶ原遺跡”から出土した、ヒスイ大珠の未成品・失敗作の一部。

3、製品仕上りにバラツキがあればこそ、同じような価値観を持つ文化圏において、各々の製品価値は需給原則で決まっていたと思われる。







写真は上から、北海道南茅部町の“大船C遺跡”から出土したヒスイ製首飾り、東京多摩ニュータウンの縄文中期のヒスイ製垂飾り・玉類及び千葉県船橋市の“高根木戸遺跡”から出土したヒスイ製大珠などのペンダント。

はたしてヒスイ等装身具の平均的価値は、各々ムラ特産の土器・石器や原産地食料品に換算して、交換価値として如何ほどぐらいであっただろうか?

権力の象徴・お祭り用・お守り用・占い道具・アクセサリー等としてのヒスイ製品を求めて、単に一元交易ではなく繰り返し交易されていたという事実は、ヒスイ製品によほどの価値を置いていた証左と言える。

4、ヒスイの光沢、生命が甦る神秘的明緑色、底知れぬ重量感そしてヒスイの霊力・神秘性等に価値を求めたのではないか!

ムラ間の交易関係の証として「ヒスイロード」が確認されているが、山形・岩手県地方にはヒスイ製品の出土例が少ないことからも、陸上ルートより海流を最大限利用した海上ルートが使われたと見られる。

縄文人の丸木舟集団が悠々と大海に舟出してヒスイを送り届けた様子が思い起こされる!



縄文人の謎・ロマン “ヒスイ製大珠”とは!

2007年10月24日 | 歴史
“ヒスイ製大珠”は、縄文中期から後期の文化を色濃く反映している、呪術用・祭事用具として使われ、呪術や祭祀を司る呪術者・祭祀者などシャーマン的存在が使っていたと考えられている。
以下、大変珍奇で、貴重なヒスイ製大珠を紹介する。













写真は上から、山形県大石田町出土のヒスイ製大珠、新潟県内出土の糸魚川産ヒスイ大珠、千葉県市原市の“草刈遺跡”から出土したヒスイ製大珠、富山県朝日町の“境A遺跡”から出土したヒスイ製大珠、函館市浜町遺跡出土の糸魚川産ヒスイ大珠及び青森県黒石市出土の黒色ヒスイ大珠。

写真のように、ヒスイ製大珠には色々な形があるが、“鰹節形大珠”が有名で、名前の通り細長い鰹節の形をしており、10cm以上の大型は見栄えがあり、不思議な事に孔は真中より上に空けられている。

ヒスイ製大珠は、中部地方・北関東・東北地方一円に分布しているが、出土数が少ないことから、個人的所有物と云うよりも集団全体に関係する貴重品であったと見られる。

ということからも、集団の中で社会的に認知された者が装着していたか、又は使っていたと考えられる。

孔が空けられていることから、一般的には紐を通してペンダントとして、使われていたものと想像されるが、大型で重さもあることから、首飾り・腰飾りに使われたかもしれない。

色調は、ヒスイの本領と云うべき明緑色、乳白色や黒光りしたものなどが出土しているだけに、ヒスイ大珠は鮮やかな明緑色だけに特別な価値が置かれていたのではなく、“ヒスイブランド”が全般に求められたとも云える。

ヒスイが持つ独特の神秘的エネルギーに注目していたと思われる。
それにしても、写真の通り、エメラルドグリーンの彩りは、神秘的な彩色を持っている。

大珠はヒスイ製でなければならず、ヒスイに特別な価値、抽象的・観念的な価値評価を置くほど、権威の象徴を意味していたかもしれない。

新潟県の姫川で採れるヒスイが、縄文時代の日本列島各地へ供給されていたことは、ヒスイのような非実用的なものまでが、交易対象として重要な位置を占めていたことになる。

姫川周辺の縄文人は、ヒスイの配給権を独占し、縄文社会の中に自らの揺るぎない地位を確立していたと云える。


縄文人の謎・ロマン “異形石器”が物語る異質な精神文化とは?

2007年10月23日 | 歴史
山形県置賜郡高畠地方は、湖・潟・凝灰岩塊の洞窟等恵まれた自然環境により、旧石器時代から生活を営んでいた痕跡が散見されると云う。

積年の知恵・教えが附加・伝承された証左として、当地方の出土遺物は土器・石器・骨角器・装身具等において多種多様を極めている。
特に石器文化の多様性には奥深い秘密があるように思える。

又縄文時代草創期の洞窟遺跡からの出土物にも、文化度・民度の高さが窺い知れる。



写真は、山形県高畠町の“押出遺跡”から出土した異形石器。
人物や動物を表現したものか、創作デザインを競い争ったのか、それとも各々に何らかのメッセージ・物語性が込められているのか、複雑な精神文化を持っていたと思われる。



写真は、山形県高畠町の“成島遺跡”から出土した三脚異形石器。
大中小様々であるが、三脚に削り込まれたことには変わりない。「三脚」に意味があったと思われる。

これらの異形石器や三脚石器は装飾性を目的とするものではなく、特定の観念を表現する物語性形態として感じ取れる。

二面・ニ角、三・四・五・六・七等々の数が何か特別な意味を持っていたのではないか? 特定の観念を表現しようとしたのではないか?
各々の数値に特殊なモチーフがあり、ストーリーがあったのではないかと思われる。

三・五・七の数は今日特別な意味を持っているが、その原点は縄文時代にまで遡るとも考えられる。

縄文人が、敢えて分割困難で不均衡な奇数数字を、土器・石器のモチーフとして使ったのは、装飾性を意図したよりも、むしろ物語性文様の性質を表しているように見える。

縄文人の謎・ロマン “御物石器”に託した祈りとは!

2007年10月22日 | 歴史
岐阜市は濃尾平野の北部に位置し、長良川に代表される豊かな水の恵みを受けてきた。
岐阜県周辺の縄文遺跡は、“椿洞遺跡・御望遺跡”に代表されるように北部と東部の段丘・扇状地に立地する。

岐阜県を代表する縄文遺物の一つが御物石器で、中部から東日本に圧倒的に多く分布し、中でも岐阜県が全国の半分余りを占めていると云う。



写真は、岐阜県長良川沿いの縄文遺跡から出土し、精巧に加工された御物石器。
御物石器は縄文晩期の磨製又は打製石器で、具体的用途は不明。
この物体は、はたして何を象徴しているか?



写真は、岐阜県長良川沿いの縄文遺跡から出土した、渦巻文様のある御物石器。

双方の御物石器とも、頭・胴部・足にも似た人体が横たわっているように見える。
又青竜のような動物のようにも見える。
遺体を横たわらせて見せる先祖の姿か、或いはご神体なのか、何となく神々しくも見える。

御物石器命名の由来は、皇室に献上されたことから来ていると云われているが、神々しく見えるのは、偶然のハプニングであろうか?

岐阜県は縄文中期集落の隆盛に比べ、後期後半から晩期にかけて集落の衰退ぶりが顕著。
気候の冷涼化に起因する食糧不足問題が、集落の分散と小規模化を促したと見られる。

このような厳しい自然・食生活環境の下、御物石器に託した共通の祭祀を守り続けることにより、共同体意識・団結力を高める必要性があったのではないかとも考えられる。

この点は、呪術具を全く共有しない西日本の縄文ムラとの違いと云える。

縄文人の謎・ロマン “御物石器・独鈷石・異形石器”とは!

2007年10月21日 | 歴史
“御物石器”は、岐阜・石川・富山・愛知県など、中部・北陸地方の一部に限定して発見される石器で、縄文後期末から晩期中葉にかけて造られた。





写真は上から、岐阜県宮川村の“家ノ下遺跡”から出土した石冠・御物石器及び岐阜県内縄文遺跡から出土した御物石器。

写真のように御物石器は、飛騨地方の山岳地帯で多く見つかることから、飛騨地方で独自に工夫され、山間地域に生き残った数少ない人々が、生き抜くための祈りに使った呪術品とも考えられる。

明治時代に見つかったこの種の石器が、明治天皇に献上され、天皇の所有品・御物になったことにちなんで名付けられたらしい。

御物石器は、細長いながらも全体的にまっすぐ伸びた体を持ち、その内、中央の部分は抉られたように窪み、その両側は膨れ上がるという形態を持っている。
しかし最大の特徴は、その窪み部分が真中ではなく、どちらか片方にやや寄った形で作られていること。

この左右非対称な形態を持つことから、この石器には元々の原型があり、それを模倣したものかもしれない。

他にも、御物石器は、“擦石”や“叩石”など「摩擦行為に用いた実用石器」を原型としたものとか、何らかの動物を模倣して作ったとか、突起部分や凹み穴・渦巻き文様などが見られることから、人間の生殖器をシンボル化したもの等の諸説がある。

いずれも確証に欠けるが、この御物石器が、石で囲み・区画した施設の中に埋められていたことから、非常に大切に扱われていたことは間違いないようだ。





写真は上から、千葉県我孫子市の“下ケ戸貝塚”から出土した独鈷石・石棒及び北海道釧路市の“幣舞遺跡”から出土した独鈷石。

写真の通り、独鈷石は、バナナ状の形で、中央部分がへこんでおり、その両側にタガ状の突起を持ち、両端全体が膨らむという形の石器。

“独鈷石”は、縄文後期~晩期、主に岐阜・福島県など中部・東日本で見つかっている。独鈷石の由来になった「独鈷」とは、密教の法具の「独鈷杵」のことで、仏が煩悩を打ち払う象徴として持っていたとのこと。

中央が凹み両側が膨らむという点では御物石器と一緒だが、独鈷石は抉り部が、左右対称となっている点で、御物石器とは異なる。

独鈷石が、非実用的な用途に用いられたとか、祭祀行為に使われたとする説があるが、どんな祭祀に使われていたかは不明。









写真は上から、青森市の“上野尻遺跡”から出土した石偶、北海道八雲町の“栄浜1遺跡”から出土したヘラ形石器、山形県高畠町の縄文遺跡から出土した三脚異形石器及び岩手県一戸町から出土した青竜刀形石器。

御物石器・独鈷石以外にも、“異形石器”と称せられるものに、写真の通り、石偶・ヘラ形石器・三角形石器・青竜刀形石器などがあるが、縄文中期から後期にかけての北海道・東北地方に限定される。

石材は珪質頁岩が9割以上を占め、他に玉髄、黒曜石、鉄石英などが使用されていが、頁岩は薄く剥がれ易い性質があり、打製石器の加工に適している。
形も様々で,あるものは人形のような,あるものは動物に似ているなど,何に使われたかははっきりしない。

男性の墓に副葬品として埋められていた例もあり、何か特別な意味を持っていたと考えられる。用途不明な遺物を祭祀用と看做す傾向が強いが、これらの異形石器群も、総じて祭祀用具の可能性が高い。

縄文人の謎・ロマン 呪術的遺物の“石刀・石剣・石冠”とは!

2007年10月20日 | 歴史
縄文後・晩期になると、“石刀・石剣・石冠”などのように、元の形が分からなくなるほど抽象的な造形へ変化した。







写真は上から、北海道余市町内から出土した石刀、青森県八戸市内の縄文遺跡から出土した石刀・石剣及び山梨県大泉村の“金生遺跡”から出土した石剣・石刀など。

縄文晩期の東北地方を中心に、石棒に見られた男性器の写実的表現を離れ、石刀・石剣などのより抽象的な形態に発展していった。

当初の“子孫繁栄”と云う、石棒祭祀目的が変化し、一人前の大人になっていく過程での、“通過儀礼”として、石刀・石剣による“成人式”のような、セレモニー的機能に変化したのかもしれない。

祈り・願い・呪い・占いなどに心を委ねる機会が多くなるほど、揺るぎない縄文的信仰内容を進化させたと云える。

中部・北陸地方では、石棒が“石冠”に発展し、ひとつの石に男性器のような突起と女性器のような溝の両方が、彫り込まれた。





写真は上から、岐阜県宮川村の“家ノ下遺跡”から出土した石冠及び岐阜県長良川沿いの縄文遺跡から出土した石冠。

これらの石冠は、埋葬された人骨の頭部近くから出土したことから命名された経緯があるが、石冠の原形は、男性器を表した石棒頭部の造形物で、底に凹みがあるものが多いことから、男女両性を具有した呪術具と云える。
縄文時代の呪術具の中には男女の性器を抽象化した造形物が実に多い。

しかし石棒・石刀・石剣・石冠などの呪術具は、縄文時代の終焉と共に姿を消し、弥生時代の農耕社会に引継がれることはなかった。
ここに縄文文化と弥生文化との間に大きな断絶が見られ、世界観の交替劇があったと云える。

縄文人の謎・ロマン “石棒に纏わるストーリー”とは!

2007年10月19日 | 歴史
近年、飯盛山系から流れる讃良川流域沿いにある、大阪四條畷市の縄文後・晩期の“更良岡山遺跡”が再び発掘調査され、“鍔を持つ大型石棒”という大変珍しい遺物が、近畿地方では初めて発見され、北陸産の石材で造られていることと合わせて、大きな話題となった。



写真は、大阪四條畷市の更良岡山遺跡現場。讃良川の工事中に発見されたと云う。
鍔を持つ大型石棒は、縄文中頃に富山県を中心に、石川県・新潟県・秋田県で出土したらしい。



写真は、当遺跡から出土した、鍔を持つ大型石棒の上層部分。
今回近畿地方で初めて発掘されたこの大型石棒は、北陸産の石英安山岩で造られており、北陸地方との交流が再確認された。

鍔を持つ1m大の石棒、正面上部にV字状の盛り上がりが見えるが、これが女性器を表現していると云われている。

今迄にはなかった“異文化の石棒”を受け入れることにより、農耕・狩猟をはじめとする豊かな大地の豊穣・恵みやムラ全体の子孫繁栄を、この石棒に祈り・託したのではないか????



写真は、鍔を持つ大型石棒の全体像描写図。
青色で塗った部分が今回出土した石棒破片で、赤色で塗った部分がV字状の盛り上がり箇所で、石棒本体の男性部分に絡ませることで交接の行為を示していと見られる。

長さ1m大の巨大石棒と共に見つかった、石川県手取川の小石や北陸産の磨石等々と合わせると相当の重量荷物を、何故わざわざ数百キロも運んだのか?
どのように運んだのか?

北陸地方では、縄文中期の終わり頃には、石棒を造りも使いもしていなかったことと考え合わせると、若しかして北陸地方が食料難に陥り、人口対自給食料にアンバランスが発生し、“子宝信仰”の石棒がむしろ邪魔になった?

一方更良岡山縄文人は、自然災害か或いは流行病か何かの理由で存続の危機に瀕し、ムラ全体の子孫繁栄を念ずる思い・執念から、石棒にすがり付いたのではないか。はたして真相如何のほどは????


縄文人の謎・ロマン 呪術遺物・“石棒”とは!

2007年10月18日 | 歴史
縄文前期後半、北海道・東北地方に出現した“石棒”は男根を象ったもので、当初は手に握れる程度の小さなものが、縄文中期以降は大形石棒へと変化していった。当初は長さ10cmぐらいの石棒が、1m~2mほどの大きさにまで大型化した。

縄文中期以降後期初頭までの大きなペニス形石棒には、リアルなルックのものが多いが、そこまでリアルに象徴した背景には、妊娠を占う道具として、“子孫繁栄”を祈願したと見られる。







写真は上から、山梨県明野村の“屋敷添遺跡”から出土した石棒、長野県飯田市の“平畑遺跡”から出土した石棒及び千葉県銚子市の“粟島台遺跡”から出土した巨大石棒。

縄文中期~後期の中部・関東地方では、男性器を象った石棒が、住居の中、特に入口・炉端・奥壁に立てられるようになり、又石棒は土偶同様、意図的に壊されたり、焼かれたりしているものが多く、何らかの儀礼的意味を持っていたと見られる。

住居の入口には、石棒と埋甕が対になって出土するケースもあり、埋甕は女性器を象徴していると見られることから、妊娠・出産を祈願したものであろう。

男根崇拝は今日でも日本の民俗社会に存在し、女性が石製・木製の男根に触れることで、子宝に恵まれると信じられているが、縄文の石棒にも同じような生殖力への崇拝と云う意味があったようだ。

人口が減少傾向にあった当時としては、人口創造のエネルギーを男性器に見立てて、その力に訴えたと見られる。

石棒の大きさの変化は、単なる物理的ものだけでなく、内容的・質的な違いが起こったと云える。住居の中に納まってしまう石棒から、多人数が同寺に見ることができるほどの大きさで、安置される石棒へと機能的な違いが生じた。







写真は上から、長野県御代田町の“宮平遺跡”から出土した彫刻石棒、岐阜県久々野町の“堂之上遺跡”から出土した彫刻石棒及び岐阜県宮川村の“堂ノ前遺跡”から出土した彫刻石棒。

石棒の変化はさらに進み、当初は先端に二本の線のみで男性器を象徴していた石棒が、抽象的な造形変化が起こり、厳しい自然条件の中で生命の継続・社会の存続を祈願した、強い思い入れや特別な意図を持ったものと見られる文様まで刻まれた、“彫刻付石棒”が出現した。



写真は、岐阜県長良川沿いの獣文遺跡から出土した人物彫り石棒。
中には写真のように、“人面付石棒”が出土したが、先端の部分に人の顔が彫られている。
人面付石棒は大変珍しいものであるが、特定個人を意識して製作したものかもしれない。

又縄文後期には大型石棒が配石遺構の中心など、屋外に立てられるようになり、配石墓中央の石棒には、死者の霊を鎮める意味合いがあったのではないか?

石棒は、縄文時代の代表的な呪術遺物の一つで、生活不安・存続不安を恐れるあまり、呪術によって祈り・克服しようとした、高度な信仰体系を象徴していると云える。


縄文人の謎・ロマン “呪術的土製品”とは!

2007年10月17日 | 歴史
呪術的土製品には、土偶のほかにも、土版・土面・土冠・キノコ形土製品・三角柱形土製品・鐸形土製品・スタンプ形土製品などがあるが、ここではキノコ形土製品、三角柱土製品及びスタンプ形土製品を紹介する。

これらの土製品は、特有の文化を象徴し、局地的であり、時代的にも一過性の傾向が強い。
総じて、儀礼・呪術にかかわる、儀式用具・呪術具的色彩が強い。



写真は、秋田県鹿角市の“大湯環状列石”から出土したキノコ形土製品。
東北から北海道にわたる縄文後期の遺跡からは、しばしば環状列石に伴って“キノコ形土製品”が出土するが、キノコが神聖な植物と看做されていたかもしれない。

写真のように傘が凸状のもの、凹状のもの、着色されたものなどいろいろな形態があるが、それぞれに特別な意味合いがあったのであろうか?
自然再生力が強く、美味な食物であることから、キノコの豊饒を祈願したのかもしれない。





写真は、新潟県十日町市の“笹山遺跡”から出土した三角柱形土製品及び秋田市の“下堤遺跡”から出土した三角柱形土製品。

三角柱を横軸にした形の土製品で、細いシノ竹を押し引いた節のような線や刺突文などで、簡単な文様を構成している。
横軸にそって貫通した孔があるが、紐などを通した痕跡は見られないと云う。

底は凹状にへこんでおり、一説には、三角柱形土製品の上部は男性、底部は女性を表した男女両性を合体的に表現した造形物とも云われているが???
東日本一帯に広く分布する遺物であるが、出土例は少ないらしい。
石で造られた“石冠”と呼ばれる呪術遺物と共通性があるようだ。

縄文時代の呪術具の多くは時代が進むに従って、より“抽象化”の方向に変化する傾向が強い。



写真は、青森県八戸市の“風張遺跡”から出土したスタンプ形土製品。
“スタンプ形土製品”にはスタンプ部分の表面に、渦巻き模様などの線刻や刺突文などが施されているが、前述のように、形状が“キノコ”に似ているものは、“キノコ形土製品”と呼び、両者を区別している。

“スタンプ形土製品”の目的は、今風のスタンプとしての機能、アクセサリーとして身につけるもの、表面が平滑なことから“縄文クッキー”などを平面に仕上げるための用具説や、柄の部分は“つまみ”で傘の部分は蓋であり、小さな土器の蓋説、或いは土器製作時、土器の内側を滑らかに仕上げるための用具説などいろいろだが、いずれも決定的説得力に欠ける。

呪術的な意味合いを持たせていたのかもしれない。