近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

アイヌ民族・文化 “アイヌ民族・文化”の展示施設紹介とは!

2007年11月30日 | 歴史
アイヌ民族・民俗・文化を紹介する博物館・資料館には、札幌市・旭川市・白老町・平取町・静内町・阿寒町など数多くあるが、館内外の規模・展示施設・点数・内容のバラエティーなど抜きん出ているのが、白老町の“アイヌ民族博物館”と云える。







写真は上から、白老町の“アイヌ民族博物館”の入口、館外の光景及び“ポロトコタン”の光景。

本博物館は、アイヌ文化の伝承・保存をはじめ、調査・研究・教育普及事業などを総合的に行う、アイヌの代表的な社会教育施設。

野外博物館の性格を持つ園内には、写真のように、アイヌの生家であった“チセ”・コグマの飼養檻・丸木舟などを復元・展示して、アイヌコタンを再現している。







写真は上から、当博物館内の“イオマンテ”古式舞踏公開の光景、チセ内に展示された宝物・漆製品及び公園内のヒグマ飼育檻。

文化伝承・保存事業として、イオマンテ(クマの霊送り)・イワクテ(物の霊送り)・シンヌラッパ(先祖供養)などアイヌ伝統儀式を公開している。

叉当博物館収蔵のアイヌ民族・民俗資料5,000点ほどのうち、約800点を常設展示している。

更に伝統工芸の機織・ゴザ編み・アイヌ文様の刺繍・民族衣服の製作なども常時実施・公開しているだけでなく、サケの捕獲・アイヌ文様刺繍・彫刻・丸木舟試乗などの体験学習も行っている。

白老町全体が、アイヌ文化を伝える観光スポットとして、ホテル・温泉旅館なども充実している。一度訪れる価値は十分、魅力一杯の観光地である!

白老町以外にも数あるアイヌミュージアム・関連施設を訪ねて、アイヌ民族の暮らしの息吹に触れ、北方ロマンに思いを馳せてみませんか!


アイヌ民族・文化 人口推移・高校と大学進学率・就労機会は!

2007年11月29日 | 歴史
アイヌ民族はかつて北海道を中心に、広い地域に住みつき、それぞれ“北海道アイヌ・東北アイヌ・千島アイヌ・樺太アイヌ”と呼ばれていた。









写真は上から、厳しい気候の冬季シベリア地方、火山が多いとされる千島列島の光景・遠景及び遠方に霞む樺太の光景。

その後日露戦争・二度の世界大戦などを契機として、大多数が北海道を中心に暮すようになり、戦後は日本全国に散らばっていった。

アイヌの人口調査は、和人がアイヌを使役する必要性から1800年代に始められたが、1807年の26,256人から漸減して、1931年には15,969人までに落ち込んだ。

いずれも概算だが、1822から1854年にかけては23,563人から17,810人に激減しているのは、和人がもたらした伝染病や強制労働による家庭破壊などが原因として考えられている。

1931年を底に近年では増加傾向に変わってきたが、それでも北海道全土に占めるアイヌ民族人口は1%程度であり、自分たちの声が社会に届けられ、道政・国政に反映されることは難しい状況。

高校進学率は、1972年の41.6%から2006年には93.5%へと大きく改善してきたが、北海道の平均高校進学率の98.3%には及ばない。

叉大学進学率は、1979年の8.8%から2006年には17.4%へ飛躍したが、北海道全体の平均38.5%に比べると半分以下という進学状況で、社会的地位を向上させる上で大切な教育面の格差解消が依然急務と云える。

叉上記高校・大学進学率調査の対象となったアイヌの学生に、何らかの差別を受けたことがあるかどうかを尋ねたところ、イエスと回答した学生が16.8%と依然旧体制の影響が残っていることを物語っている。

更に産業分類別就労者の分布比率を調査したところ、アイヌ民族の第一次産業就労者(農業・漁業など)が1972年の63.2%から2006年には28.6%へと半分以下に減り、一方第三次産業就労者(製造業など)は15.4%から41.1%へと2.5倍以上に増えている。

それでも2006年の北海道平均は、第一次産業就労者が5.5%、第三次産業就労者が73.6%であることから、アイヌ民族の就労機会不均衡・近代化遅れが際立っている。

しかし第一次産業への就労偏重が、必ずしもアイヌ民族の就労満足度が低いとは限らないと思うが????

アイヌ民族・文化 “アイヌ民族の特徴”居住地・集落は何処?

2007年11月28日 | 歴史
アイヌ民族は居住地を巡り、強制移住を含め、移住し続けたと云える。
アイヌ民族は、かつて樺太(現在のサハリン)から、千島列島・北海道・東北北部地方にかけて広い地域に住んでいた。

アイヌの人々は、北の豊かな自然の中で、狩猟・漁労・採集を中心とした独自の生活を営んできた。自然から学んだ知恵・信仰・風俗・言語は代々受継がれ、固有の文化が育まれた。

道内には、白老町・旭川市・平取町などの日高地方・阿寒町などに、アイヌの歴史・文化を伝える施設が点在している。

北海道が2006年に実施した“ウタリ生活実態調査”によれば、北海道に住むアイヌ民族の人口は、72市町村に23,782人が点在して住んでおり、中でも平取町に代表される“日高支庁”管轄地域と、白老町が所在する“胆振(しぶり)支庁”管内に全体の60%ほどが占める。





写真は、北海道平取町の“二風谷アイヌ文化博物館”全景及び同博物館の紅葉が進んだ入口。

“二風谷アイヌ文化博物館”と“萱野茂二風谷アイヌ資料館”の所在地で知られる“二風谷”は“アイヌの聖地”と呼ばれ、現在の住所は“平取町字二風谷”で、平取町に散在していたアイヌ民族が当地へ纏まって移り住んできたと云う。

実際アイヌの血を受継いでいる人たちは、不幸な歴史を背負って全国に散在し、婚姻・養子縁組などを含め、自らがアイヌと表明する人のみを調査対象としていることからも、アイヌ系の人口動態調査は、極めて難しい。

1988年東京都が実施した実態調査によれば、東京在住のアイヌ推計人口は、約2,700人と見積もられているが、実際はそれより数倍は居住していると見られる。

アイヌ民族・文化 “アイヌ文化伝承功労者・故川村カ子ト氏”

2007年11月27日 | 歴史
川村カ子ト(カネト)氏は、旭川市近文に生まれ育ち、アイヌ酋長になった。
鉄道測量技手として天才能力を認められた、カ子トはアイヌ特有の身体能力・酋長であるが故の頭脳とリーダーシップにより、北海道鉄道敷設の測量の先頭に立った。

北海道の厳しい自然条件にも立ち向かいながら測量を行うだけの、肉体的・精神的・技術的素養を持ち合わせた“カ子ト”の名は、鉄道関係者の間に知れ渡った。

“カ子ト”の評判を聞きつけた三信鉄道(現在のJR飯田線)は、三信鉄道の難所・佐久間~天竜峡間の敷設測量に彼を招聘するほどであったと云う。
カ子トは各地の鉄道建設にも従事していた。JR飯田線の建設にも参加した。



写真は、手前が現在の“川村カ子トアイヌ記念館”及び“川村家住居”。

しかし“カ子ト”の晩年は、測量技手の命である目の障害を患い、測量技手の職を諦め、それまでの貯金をはたいて、アイヌ酋長としてアイヌ文化を後世に伝えるため、“川村カ子トアイヌ記念館”を設立した。

この記念館は、旧川村家の第八代目・“川村カ子ト”が私財を投じて大正5年に建設した、最古のアイヌ資料館として現在も活躍している。

“カ子ト”が鉄道の世界で、前述のような偉業を成し遂げながら、彼の名声認知度は不当に低かったのは、差別・偏見などの影響があったかもしれない。

石狩川支流にアイヌコタンがあったが、19世紀終盤にアイヌの人たちは、今の“旭川市近文”に移住を強制された。
当時近文コタンを統率していたのが、“カ子ト”の父であり、“カ子ト”の子が現在の当記念館館長である。







写真は上から、現在の旭川市近文の住宅街、共同墓地及び大衆浴場・看板「熊の湯」に注目。元アイヌムラらしい。

アイヌの人たちの強制移住には、土地収奪と和人移入が伴った。
強制移住後、アイヌが持っていた共有地は、学校の敷地・鉄道・道路・軍事工場などに貸し出され、手放されるのが相場であった。

差別と同化政策が強行された。
近文コタンも例外に漏れず、近文コタンの前に軍用道路を通すため、“天塩”へ移転を強要されたが、アイヌは断固反対して、この地に留まった。

アイヌが犠牲とされた、土地強制収用に関する裁判は今でも続いているらしい。
例えば、共有地裁判を巡って、原告の一人は、「言葉を奪われ、過酷な労働を強いられ、アイヌにはない病を和人によりうつされ、無念の思いで死んでいった多くのアイヌの心を握りしめて・・・」提訴したとその思いを語っていたと云う。

当アイヌ記念館の活動を振返ると、アイヌ民族の復権に向けての共同の“砦”として、植民地支配や皇民化の波をはねのける役割を担ったと云う。

測量技手の仕事を退職した後、“カ子ト”は“近文アイヌコタン”の長となり、史跡保存会・民族手工芸会の会長を歴任し、“ウタリ協会”の理事を務めるなど、アイヌ民族復権に生涯をかけた。

アイヌ民族・文化 “アイヌ文化伝承功労者・故萱野茂氏”紹介

2007年11月26日 | 歴史
ここではアイヌ文化伝承功労者として、傑出した功績を残されたアイヌ民族出身者を紹介する。

先ず故萱野茂氏は、平取町の“二風谷アイヌ資料館”の前館長として、私財を投じて民俗文化継承のための当資料館を建設・管理運営し、アイヌ民族の生活用具・民具を収集・保存したことにより、これら民俗資料が2002年に“国の重要有形民俗文化財”に指定された。





写真は、平取町の“二風谷アイヌ資料館”全景及び資料館前庭のアイヌチセ風景。

アイヌ民族の民話や英雄叙事詩などを“古老”との対話から録音し、音声資料をも収蔵している。更にスウェーデン・ノルウェー・カナダ・中国・ロシア・オーストラリア・ニュージーランド・インドネシア・フィリピン・アフリカ大陸などの各国に居住する先住民族・少数民族の資料を展示し、世界の先住民族にも視線を向けている。

1992年には、アイヌ出身者として初めて参議院議員に当選し、アイヌ民族解放に大いに貢献した。

叉ここ平取町は、アイヌの聖地として大きなアイヌ集落を成していたが、苫小牧東工業団地開発への工業用水確保の目的で、ダムが建設されたため、聖地水没の憂き目に遭った。



写真は、平取町の“二風谷アイヌ文化博物館”に近い、高さ32m・堤長さ550mの“二風谷ダム”現場。

ダムができた沙流川は、サケ・カラフトマスが遡上する豊かな川として知られていた。“二風谷ダム”では、主にカラフトマスを対象にして、その遡上を助ける魚道を設置している点が、せめて救われる。

故萱野茂らが土地収用取消しの裁判を起し、結局判決では土地収用を違法とし勝訴したが、ダムの取り壊しまでは至らず、ダムは発電目的・洪水対策に変わって、無駄にも建造されてしまった。

民族文化財保存か、地域開発優先かの二者択一の中で、歴史的遺産が無残にもその痕跡を留めている。

故萱野茂氏は、アイヌ文化伝承活動の中で、「我々アイヌは、自然の利子で食べてさせてもらっていたが、そこに和人がやってきて、元本を食いつぶしてしまった!」というメッセージを残している。

アイヌ民族・文化 “アイヌ文化”の伝承・保存

2007年11月25日 | 歴史
アイヌ文化伝承・保存事業には、クマの霊送り(イオマンテ)・ものの霊送り(イワクテ)・舟降ろしの儀式(チプサンケ)・先祖供養(シンヌラッパ)といったようなアイヌ伝統儀式がある。





写真は上から、アイヌの先祖供養及び舟降ろしの儀式。
先祖供養は先祖に供物を送る儀式であり、舟降ろしの儀式は、古くから伝わる技法で造られた舟に、魂を入れるための儀式で、いずれもアイヌ伝統儀式として伝承・保存されている。

アイヌの文化的価値は高いが、現存する遺構などは皆無であり、文字が無かっただけに歴史的考察も、日本の文献に登場する“アイヌ研究家”の記録を探ることくらいしか出来ない。

そのような中で、静内町にはアイヌ文化の伝承が幾つか見られるが、幸い“無形文化財”として保存されてきた。





写真は、静内町の“シャクシャイン法要祭”及び“シカの追い込み猟”
例えば、カムイノミ・神への祈りの中には、写真のように“シャクシャインの法要祭”があり、真歌公園に建つシャクシャイン像の前で、アイヌ古式に則ってシメヤカニ執り行われる。

叉“シカの追い込み猟”もアイヌの伝統的猟法として、ウタリ協会静内町支部が再現している。



写真は、静内町の国指定史跡の一つである、“シベチャリチャシ”遺跡。
更に静内川流域には、16~18世紀にわたるアイヌ遺跡が5ヶ所にあり、いずれも“国指定史跡”として保存されている。

他にも前述した、ユーカラの伝承のように、口承文芸も忘れがたい。

アイヌ民族・文化 “アイヌ民族・文化”の特異性とは!

2007年11月24日 | 歴史
アイヌ文化について語る際には、“カムイ”(神)と“カムイノミ”(神への祈り)を抜きにしては考えられない。

カムイとは、人間を超えた存在ではなく、人間が抗し難い力をもつ対象なら、動物であれ、自然現象であれ、物であれ、カムイと呼ばれる。

カムイは“カムイモシリ”と呼ばれる神の国で、人と同じ姿で暮らしていると信じられている。

カムイには、ヒグマをはじめいろいろな動物、丸木舟・臼・食器・家などの物、川・山・海・火・風・地震・津波・雷などの自然等々がある。







写真は上から、神の中で最も神格の高い“シマフクロウ”2点及び“川村カ子トアイヌ記念館”一角の倉庫用チセ前のフクロウ像。

森羅万物の中で神格が高いカムイには、“シマフクロウ・クマ・シャチ・火の神”が含まれる。シマフクロウは、その容貌から「森の哲学者」とも呼ばれ、アイヌの人たちにより、「村を司る神」「村を守る神」として崇められてきた。
しかし現在生息数が減少し、絶滅が危惧されている。

このようにカムイには道具までも含まれることから、アイヌの神は超越的な存在ではなく、自分の持ち場・役割を分担している“職能神”と云える。

日本の神々は、“八百万の神”と呼ばれるように、自然の中で神さえも己の役割を持っているもので、神さえも集団で存在すると信じられている。

もう一つアイヌ文化の特異性は、神々に対するアイヌの人たちの関わり合いに注目したい。“カムイノミ”と呼ばれる日々の祈りは、日常生活に欠かせない要素で、毎年最初に採れた、鹿・鮭・丸木舟にするために切り落とした木・ヒエ・アワの糖・更にはハエ・ノミにも“魂送り”として祈りを捧げる。

「猟に出ては山の林へ祈り、川の水神に祈り、狩の神に祈り、沖へ出て風に遭っては祈り、雨に叩かれては祈り、波に脅かされては祈り、猟が無ければあるように祈り、あればあって喜びを告げて祈り、家にいても不幸に祈り・喜びに祈り、病気に祈る・・・・・」等々、アイヌは祈りの民であり、祈りこそ彼らの生活規範そのものであった。

このようにアイヌ民族が、生き物・物・自然などへの祈りを生活規範としていることから、アイヌ文化には、心と物・人と自然が深く関わっていると云える。
物と自然との関わりあいの中で、“技と美”が求められるようになった。









写真は上から、“サッポロピリカコタン”に展示された、アイヌ的デザインの木綿製衣服、“国立民族学博物館”のアイヌ民族の木綿製アイヌ文様衣装及び“札幌市内アイヌ総合センター”に展示された、ポッシェットと手甲のデザイン。

アイヌ文様の原点は直線と曲線で、直線は心の正しさ・正直さ・真心などを表し、曲線は平和・円満・豊かさなどの意味が含まれていると伝えられている。

即ちアイヌ文様には、直線・曲線が織成すアイヌ民族の心が描かれていると云える。渦巻文・括弧文・組紐文・植物文などが、日常用具・儀礼用具・嗜好用具などによく使われている。

特に彫り物・縫物にアイヌの伝統的技巧・文様の美的センスが凝縮されている。
そしてアイヌ文様は、伝統的な美的センスのみならず、魔除け・守護を願う信仰に基づくものでもあった。


アイヌ民族・文化 “アイヌ語”の起源は?

2007年11月23日 | 歴史
アイヌ語は、主に北海道・樺太・千島列島のアイヌを中心に話されていた。
元来アイヌ語は音声による“口承”をもってのみ語り継がれてきた。



写真は、アイヌ語研究で知られる、日本の言語学者・故金田一京助氏。

アイヌ語の文字による記録は極めて限られており、和人によってカナで記録されたもの、金田一京助氏による本格的な記録やアイヌ自身がローマ字などを用いて書き残したものなどがある。

アイヌ語と日本語との間には共通点が見出せないが、日本語が基盤となった幾つかの言語のうち、一つが発展した言語であると云う見方が一般的である。
地方によっては多くの方言があるらしい。

アイヌ語を継承しているアイヌの人たちは段々減少しており、近いうちに消滅してしまうと懸念されている。
1996年の調査では、15,000人ほどのアイヌの中で、アイヌ語を流暢に話せる人は15人(0.1%)ほどしかいなかったと云う。

叉別の調査では、千島列島では既にアイヌ語は消滅し、樺太でも恐らく消滅し、残る北海道でも平均年齢が既に80歳を越え、アイヌ語の話者数も10人以下となっていると云う。「消滅に近い言語」と云える。



写真は、萱野茂著・アイヌ語辞典。
元参議院議員の故萱野茂氏ら、アイヌ語を残そうとするアイヌ自身の努力により、“アイヌ語教室”が各地に開設され、現在北海道内に十数ヶ所のアイヌ語教室が残り、アイヌ語を学ぶ日本人も増えてきており、アイヌ語辞典も各種出版されている。

“アイヌ文化振興財団”主催のアイヌ語弁論大会には毎年多くのアイヌ語ファンが参加すると云う。
アイヌ語の研究に取組んでいる人材も十数人を数える。

特に東北地方では、アイヌの歴史的連続性や地名研究の必要から、アイヌ語への関心が伝統的に高いらしい。

アイヌ語起源の名称は、北海道そのものをエキゾチックで魅力的な土地として、日本人に認識させるに十分であり、かろうじて残っている“アイヌの舞踏”も観光資源としても極めて有意義と云える。

将にアイヌ語を残せるか、正念場にさしかかっている。


アイヌ民族・文化 アイヌ民族の“伝統・習俗”とは!

2007年11月22日 | 歴史
“自然崇拝・自然へ回帰”をモットーとしていた、アイヌの人たちは、諍い・争いを嫌い、極力話合いの中で問題解決することを本義としていた。

「実力行使の前に徹底的に話し合う」という風習を持ち、無用な戦いを避けようとする人間本来の高貴な姿勢は、戦争や身分制度を当然視していた戦国・江戸時代の武士には、到底理解・尊重されなかった。

むしろ逆にアイヌ民族への不当な抑圧を招いた。このような封建社会的抑圧に対する怒りとして、不本意ではあるが、数度にわたるアイヌの大規模な軍事行動が、図らずも発生してしまった。

そして軍事行動後の停戦協定交渉にしても、交渉に臨むアイヌの人たちの真摯な態度・善意は踏みにじられ、停戦祝宴の席で首長が虐殺されてしまうという、悲惨で残忍な悪行に甘んじたのが、アイヌ民族の伝統・習俗であった。

アイヌ民族の伝統・習俗は、戦国時代・江戸時代の“何でもありき”という荒廃した世の中でも、一途に護られ続けたと云える。



写真は、“サッポロピリカコタン”に展示されている、アイヌ文様の“木綿製衣服”。

現在では、アイヌ人たちの大半が同化政策の影響もあり、日常生活面は和人と大きく変わらない。
しかしアイヌであることを隠す人たちもいる中で、アイヌ民族としてのプライドは、一部の血筋仲間たちの間では、少なからず健在である。



写真は、アイヌ民族の口承による伝承光景。
アイヌの歴史・教訓・生活の知恵などが描かれている“叙事詩”を歌として語る“ユーカラ”が口承され、記録活動も始まっているらしい。文字を持たないアイヌ民族にとって、口承は、待ったなしの“必至の伝承手段”である。
ユーカラの研究者としては、金田一京助が知られている。

アイヌ民族の奇妙な習俗の中に、老婆による“占い”があると云う。
例えば病気や凶事の前兆を発見し、未然に防止したい場合、易者を呼んで教えを乞う。

易者は家に呼ばれると恍惚自失の状態になり、病気の原因などを夢うつつのままに述べ、目はカット見開いた虚ろな状態で、ひどく恐ろしく見えるらしい。この風習は現在でも盛んに行われていると云う。

もう一つはアイヌ民族の結婚観について、アイヌ男性が嫁を貰う場合、「妻を借りる」と表現するそうで、神様から借りることで、相手の女性を自分の所有物として拘束する一対婚とは異なり、“夜這い婚”のように自由度が認められているらしい。

アイヌ民族・文化 “アミニズム”儀式に不可欠の“捧酒箸”とは!

2007年11月21日 | 歴史
アイヌ民族が“カムイノミ”の儀式で、神や先祖に“神酒”を捧げるとき、“イクパスイ”(イク[酒を飲む]・パスイ[箸])という独特の儀礼具・”捧酒箸”を使う。以下アイヌ文化を伝承する民族工芸品の最高峰を行く捧酒箸を紹介する。















写真は上から、旭川市の“川村カ子トアイヌ記念館”に展示された、蛇に巻かれた捧酒箸、クマを崇める捧酒箸、シャチが乗せられた捧酒箸、華麗なデザインの捧酒箸、札幌市内“アイヌ総合センター”に展示された、捧酒箸、“大阪国立民族学博物館”に展示された、いろいろな捧酒箸及び削り房つき捧酒箸。

箸先を酒杯につけ、神や祖先の祭壇に向けて垂らすと、一滴の酒が神の国には一樽になって届き、神々も人間たちと同じように酒を酌み交わすものと考えられた。

同時に、“イクパスイ”は、人間の祈り言葉を神へ伝える役目を持つ。
そのため“パルンペ”(舌)といって先端に三角形やヘの字型の小さな切り込みがつけられている。

材質については、イタヤカエデ・ノリウツギ・イチイ・マユミなど比較的加工しやすい材が用いられた。

通常上面には彫刻が施され、写真のように、動物などを具象的に表現したものもあるが、大部分は草花文、縄目の結束文、本土の武家社会にみられる家紋を取り込んだものなど多種多様で、抽象的な文様もある。

民族工芸作品として、多種多様な文様・デザインは実に興味深い。

記号的な所有印が刻印されることが、自分の家の所有物であることを示すための目印らしい。
これら刻印は、やはり家系や地域によってある程度の共通性が認められると云う。

アイヌ民族・文化 “アミニズム信仰”の“儀式”とは!

2007年11月20日 | 歴史
前述の通り、アイヌ民族の信仰は、汎神論的なアミニズム信仰であった。
即ちあらゆるものに神・カムイが宿ると信じている。

例えば、アイヌの伝統舞踏として名高い、“イオマンテ”は“クマの霊送り”の踊りで、クマの狩猟に際してクマの命を最大限敬うという独自の文化である。









写真は上から、“川村カ子トアイヌ記念館”に展示された“イヨマンテ儀式次第”、“白老町アイヌ民族博物館”での“アイヌ古式舞踏・イヨマンテ”の光景、アイヌ儀式用の化粧した被り物・“クマ神の顔”及び“平取町立二風谷文化館”に展示されたクマの神化身。

“イヨマンテ古代舞踏”は、人間が山の神であるクマの毛皮・爪・仮面を身につけ、クマの姿に変身して盛大な儀礼“クマの霊送り”を行い、狩猟によりクマを射とめ・肉と毛皮をいただいた“クマ”に、来年も肉・毛皮を持って訪れるようにあの世に送り返す儀式。











写真は上から、アイヌ民族の“儀式風景・カムイノミ”、“サッポロピカリコタン”展示の“神事用具”、“川村カ子トアイヌ記念館”展示の“宗教儀式用具”、“白老町アイヌ民族博物館”でのアイヌ古式舞踏の弦楽器及び口琴。

“カムイノミ”とは「神に祈る」という意味で、アイヌ民族が、神格であるカムイを帰す儀式で、例えば狩りの獲物に対して、獲物の格好をして自らのもとへ来てくれたカムイに感謝し、神の国へ送り帰すこと。
カムイノミの儀式には、写真のような弦楽器・口琴などアイヌ固有の楽器を伴う。







写真は上から、アイヌ民族のイルカなど動物送り祀り・カメなどの動物送り祀り・サケなど餌食供え祀りなどに用いられた“変身仮面”。

というようにアイヌ儀礼は、“物神の霊送り”により旅立つカムイに、再び食糧・用具として人間社会を訪れ・役立って欲しいと願う。

このような儀礼・考えは、日々の食糧を自然に求めた“漁狩猟採集民”としてのアイヌの人たちの世界観を如実に物語っている。

「漁狩猟採集民は落ちこぼれである」といった考えは、“文明”対“野蛮”という偏見から来る誤った考えであり、むしろアイヌ民族こそヒトの原点の生き証人と云える。

しかし、このような前時代的風習・儀式に対して、明治維新以降の近代国家建設を大儀に掲げた知識人には十分な理解が得られず、アイヌ軽視に結びついたと云える。
アイヌ民族は、アミニズム信仰のような独自の文化を持つが故に、政府の差別政策に晒されてしまった。


アイヌ民族・文化 “アミニズム信仰”とは!

2007年11月19日 | 歴史
アミニズム信仰は、穢れ無き美しい自然への畏敬・崇拝を自然に表する、人間の本能であり、人間は何かを信じていかなければ生きていけない存在の証。

アミニズム信仰は他の多くの神教と異なり、自然と共生する理想の社会を築き上げることを目指す。

アイヌ社会には神社もないし、お札もない。自分の精神の中に神社もお札も納めていると考えられる。

神社は仏教が日本に入り、お寺が造られるようになってから建てられるようになったらしい。坊さんがお寺を建てるから、神主も対抗上お宮を造るようになったという経緯がある。

縄文時代の自然崇拝、「大地に感謝し自然と共生する」信仰は、農耕社会になった弥生時代以降も、“神道”の自然崇拝思想に引継がれていた。
そこには、深い森林に覆われた山並みに、心の安らぎ・神秘を感じ、森の奥に“カミ”が鎮座し、岩や石に“カミ”が宿っているという自然信仰に通じる。

アイヌ民族は沖縄の琉球民族同様、全てのものには霊があり、その霊をあの世に送って、そして叉その霊はこの世に帰ってくるという信仰。
人間が肥沃な土地で、人間の生き様を通して学んだ、自然の“カミ”への信仰であった。

しかし明治以降、アイヌの人たちは信仰の自由を奪われた。
信仰の原点であった“クマの霊送り”の儀礼をはじめ、“新しいサケを迎える儀礼”もサケの捕獲禁止と共に実施不可能となった。





写真は上から、“川村カ子トアイヌ記念館”と並んだ“川村家住居”及び北海道平取町の“萱野茂”所有の“二風谷アイヌ資料館”前庭に展開された、復元“アイヌコタン”が雨に煙る光景。

アイヌ民族・文化の復興に尽力した、川村カ子ト家住居及び参議院議員としてアイヌ民族解放に多大な功績を残した萱野茂氏が復元したアイヌコタン。



写真は、“白老町アイヌ民族博物館”で演じられた、アイヌ古式舞踊の“子守唄”。

昭和50年代になってやっと各種儀礼が復興し、各地のアイヌ集落で儀礼・祖先供養をはじめ、“国の重要無形民俗文化財”に指定された“伝統舞踊”も披露されるようになった。

平成9年には、“アイヌ文化振興や伝統の普及・啓発に関する法律”が制定され、以来アイヌの人たちの文化伝承・保存活動が一層の広がりを見せた。

前述したとおり、「人間である“アイヌ”に対するものは、全て“カムイ”と看做される。」という“カムイ信仰”は、人間にとって欠かせない“火”や“肉・毛皮”をもたらしてくれる動物などは身近な“カムイ”と看做した。
アイヌの人たちの暮らしは、カムイとの共生以外の何者でもなかった。

今日北海道の地名に残る、屈斜路・知床・洞爺・小樽・釧路・札幌・白老などはカムイ信仰が北海道各地に広がっていたことを物語る。


アイヌ民族・文化 “アイヌ文化”の真髄とは!装身具について

2007年11月18日 | 歴史
アイヌ女性の身嗜みに欠かせないのが、“ガラス玉”であった。
アイヌ女性が正装するときに、身につけなくてはならない首飾りは、色・サイズとも様々なガラス製の装飾品を好んだと云う。





写真は、“国立民族学博物館”に展示されている、ガラス玉首飾り。
北海道北太平洋岸沿いのアイヌ先住民は、外来の交易者との接触によって、ガラス玉を知り、欧州・中国・本州など世界各地からガラス玉を輸入することで、先住民工芸に華を咲かせた。

12~13世紀の東アジア地域は、中国を中心に日本・韓国・東南アジアなども加わり、大規模な商品経済を展開していた。

この枠組みに取り込まれたのが北海道を中心としたアイヌ民族で、北方のアムール地域との交易をはじめ、中国製綿織物・ガラス製青玉などの交易や松前藩の和人商人との交易をも積極的に推進していた。

これらの交易品のうち、ガラス玉は、高度な技術を要して作られたものではなく、簡単な製法で大量にしかも安価にできあがり、単色のものが圧倒的で、青・白・黒に加えて黄・緑や琥珀色が多い。

ガラス玉は、単に装飾品としてだけでなく、形・色に意味付けや価値付けをしていたことで、玉に霊力があると信じていたらしい。

アイヌ人が入手したガラス玉の対価として、毛皮・海産物などを交易品として使ったと云う。

装飾ガラス玉は、アイヌ女性の手元に財産として蓄えられ、宝物として母から娘へ受継がれていった。

次にアイヌ男性が正装するときは、自製の刀下げ帯で“装飾刀”を身につけた。





写真は、国立民族学博物館に展示されている、宝刀及び小刀。
刀の刃には魔を追い払う意味があり、病人を刀の峰で打って治癒を祈ったと云う。刀を振り上げて無事を喜ぶ風習もあったらしい。

写真の刀は銀装の立派なもので、実用ではなく儀礼用に製作された貴重品で、宝物として代々受継がれたに違いない。


アイヌ民族・文化 “アイヌ文化”の真髄とは!“住居”について

2007年11月17日 | 歴史
アイヌの人たちは、食糧・飲料水などが得やすく、日の出の方向を選び、災害に遭わないような山手・河川・海浜地域に“チセ”を建てて住み、集落(コタン)の規模は、数軒から十数軒のチセから成っていたと云う。
“チセ”と呼ばれる、長方形で一間づくりのアイヌ民家は、住む地域・環境によって素材が変わっていた。







写真は上から、“白老町アイヌ民族博物館”公園内の萱葺き“チセ群”の復元光景、“川村カ子トアイヌ記念館”一角の笹造り“チセ”及び札幌市の“サッポロピリカコタン”内の“チセ”。

チセの建築材料は、すべて身近にあって入手しやすい自然の素材を使っていたので、地域性が見られる。
笹・草・萱・葦・樹皮などを、壁・屋根に使用し、葡萄の蔓・樹皮などで固定したらしい。

外観は寄せ棟造りで、支柱は栗・桂などを使用し、土台を置かずに地面に直接埋められて固定されてと云う。



写真は、“チセ”屋内の見取図。
チセは大きな家でも長辺9~11m、短辺4~6mほどで、チセには入口に付属する形で“納戸或いは物置”(セム)が配置され、一度玄関を通り、右に曲がって屋内に入るというスタイル。

チセには3つの窓があり、入口から一番奥の窓が儀式などに使われる“神窓”があり、次いで右側の奥に“採光用窓”、一番手前に炊事などに使用した窓があるのが一般的であった。

中央に据えられた炉より奥は“神(カムイ)”が神窓から出入りする神聖な場所として扱われ、足を向けて寝ることは禁じられていた。

チセは建てられる方向が、地方にもよるが、チセの中心から神窓が東或いは西に向いているなど、集落単位では同じ向きに建っていたと云う。







写真は上から、チセ屋内の状況で、“旭川市立博物館”に展示された“チセ”室内中央の光景、“白老町アイヌ民族博物館”のチセ屋内に展示された漆製品の宝物及び“国立民族学博物館”に展示されている、アイヌ民族民家の屋内装。

チセの左手奥には、交易などで手に入れた宝物や儀式などに使う道具を置く場所が設けられていた。

家の中心には炉が置かれ、炉棚の上では肉・魚を置いて燻製・保存食を作り、叉火を絶やすことなく、そこで煮炊きをし、暖をとり、儀式を執り行うなど、火は重要な存在であった。

壁面の内側は、蒲を編んだ覆いで囲っていたので、炉の炎と壁面の断熱効果・輻射熱で真冬でも暖かく生活していた、アイヌ人の知恵には驚かされる。





写真は上から、“川村カ子トアイヌ記念館”一角の“倉庫用チセ”及び“白老町アイヌ民族博物館”公園内の“ヒグマ飼育檻”

チセの周囲には付属して、食糧庫・便所・物干し・小熊を飼養する檻・祭壇などが置かれていた。ヒグマ猟で生まれたばかりの小熊が手に入ると、檻で1~2年ほど大切に飼育したと云う。


アイヌ民族・文化 “アイヌ文化”の真髄とは!“食”について

2007年11月16日 | 歴史
アイヌ民族の生活形態は、狩猟・漁労・採取・農耕・交易を組み合わせて生活に必要な物資を確保していた。

自然に食糧を求めていたことで、多くの時間を採取に割いたが、特に野生植物は一度で採り尽くしてしまうことはせず、必ず“根”を残し、次の年の分を確保する知恵を働かせた。

北海道という地理的条件から、長い冬の間の食糧として、叉飢饉に備えるためにも備蓄を心がけた。



写真は、漬物素材には欠かせない“カブ”。
叉東日本に分布する“カブ”のように、大陸から北海道を通り本州に伝わった作物もあり、縄文時代の北海道は日本列島の先進地として、他にも大陸から直接渡ってきたものが数多く発掘されている。





写真は、サケの豊漁を願うアイヌ民族の“伝統儀式の光景”及びサケを干し、乾燥している風景。

食生活では、サケを主食の中心に据えて、秋に遡上するサケを大量に捕獲し漁場近くに構えた住居兼加工小屋で簡単な燻製を施した“干物”にして保存食とした。
サケは自給食糧として重要であっただけでなく、和人との交易品としても大量に確保する必要があった。

穀物栽培では、ヒエの栽培は古くから行われ、祭事に用いる酒をヒエから醸造した。他にアワ・キビなどの栽培も行われたらしい。これらを炊飯して“かゆ”に炊いたものを好んだ。

アイヌ民族が縄文文化を継承した事例の一つとして、マタギ(狩人)・焼畑農耕民が極最近まで存在していた。





写真は、球根から澱粉を取る“オオウバユリ”及びその球根を塊状に加工したユリ団子。
“オオウバユリ”の球根から採取・塊状保存した澱粉と、澱粉を採集した後の滓を発酵させ、乾燥保存した“ユリ団子”も主食の一つであったと云う。

北海道特産の馬鈴薯は、ユリ球根澱粉の延長上にあったかもしれない。



写真は、北海道名物の石狩鍋。
調理方法は、煮る・焼く・炊くという方法で、山菜をベースに動物の肉・魚を入れて煮た汁、中でもサケなどを入れた汁は、今でも北海道ならではの“石狩鍋”として残る名物料理で、アイヌ人たちにとって格別であったらしい。

他にアワ・ヒエ・山菜などを汁がなくなるまで煮込んだものや動物の肉・魚を串に刺して焼いたものなどを好んだらしい。