近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

奈良田原本町の唐古鍵遺跡公園の整備進行情況

2017年04月27日 | Weblog
最終投稿から1年以上が経ってしまいすっかりご無沙汰しっぱなしで申し訳ありません。
そこで今回は、奈良県田原本町の唐古鍵遺跡に関する、平成29年4月現在の最新情報と遺跡公園整備進捗情況をお届けします。
唐古・鍵遺跡は、奈良盆地中央部、標高約48m前後の沖積地、奈良県田原本町大字唐古及び大字鍵に立地する弥生時代の環濠集落遺跡。
明治34年、高橋健自が『大和考古雑録』の中で「磯城郡川東村大字鍵の遺跡」として紹介した事を始め、全国からヒスイや土器などが集まる一方、銅鐸の主要な製造地でもあったとも見られ、弥生時代の日本列島内でも重要な勢力の拠点があった集落と見られている。卑弥呼は大和川の大水害を避けて唐古・鍵の地を捨てて、約5km南東に位置する高台の纒向に移動したのではないかという説があるほど、当時の政治・経済・文化の中心的存在であったと見られる。
遺跡の中心部は平成11年(1999年)に国の史跡に指定され、ここから出土した土器に描かれていた多層式の楼閣が遺跡内に復元されている。
しかし実際各時代の遺跡を構成する遺構も複雑で、特に集落遺跡では居住に関するさまざまな遺構が検出されているが、遺構の性格を特定するのが困難なものも多い。特定できる主要遺構としては、弥生時代の大型建物2棟、大環濠、多重環濠や古墳時代の前方後円墳、奈良~平安時代の板組井戸、鎌倉~室町時代の居館環濠、江戸時代の屋敷の井戸、唐古池の堤防などがあり、極めて複雑。。
そこで現在田原本町が、弥生時代に絞った、国史跡「唐古・鍵遺跡」で史跡公園整備を進めている。以下の写真は、平成29年4月現在の本遺跡現場の様子。まだ遺跡公園の姿は現れていない。



写真左は、遺跡公園全体の西側の部分で、国道24号線沿いに位置する。
写真右は、遺跡公園の東側で、ハウス栽培など私有農地として使われている部分が多い。現在の様子はご覧のように整地が済んだところで、これからは公園としてのレイアウトを具体化していく段階。



写真左は当遺跡公園の南側広場で、更に南後方に下がると楼閣が望まれる。
こちらでは、弥生時代の光景再現を試み、コナラ・ヤマモモ・クヌギなどの植栽が進められている。
この他遺構展示館などを設けるほか、発掘調査で出土した環濠や森を復元し、「弥生の風景」をよみがえらせる。完成は平成29年4月を予定している。
 唐古・鍵遺跡は田原本町北部に位置する弥生時代を代表する集落跡。環濠に囲まれ、全体の広さは約42万㎡(700m×600m)。町教委による発掘調査で建物跡のほか、土器・石器・木製品など膨大な量の遺物が出土している。
 唐古・鍵は紀元前5世紀から3世紀にかけての村、周囲には何本もの環濠をめぐらしていた。その広さは全国有数で、楼閣(絵画土器による)があり、大型建物跡や青銅器を作る施設も置かれていた。単なる農村とはいえない集落村だった。


写真のように唐古池を巡る歩道沿いには、未だピンク色の花びらを散りばめた桜並木があり、南側と西側は一面に芝生が広がり、又東側一帯にはレンゲ畑が広がっていた。
 昭和11年から昭和12年にかけて、唐古池から道路工事用の泥土を採取した折に土器や木片などが発見され、昭和12年に発掘調査が行われて以降、間に中断はあるものの今日まで119次に及ぶ発掘調査が行われてきた。
 弥生時代前期には、遺跡北部・西部・南部の小高い丘に居住域が形成され、各居住区はおよそ150×300mの範囲を有していたらしい。そこからは、多数の鍬や鋤の農耕具、斧の柄などの工具、高杯や鉢などの容器類の各種未製品の木製品が多数検出された。この期の石包丁の石材は遺跡の南方6kmにある耳成山からの流紋岩であった。原石から石包丁までの製作の過程のものが出土している。このようなことから、この集落の形成時期から様々な道具を造り、その周辺の地域に供給する集落であったと推定されている。更に弥生時代としてはもっとも古い総柱の大形建物跡が検出されている。
田原本町は遺跡の公有化をはかるとともに、有識者による整備委員会を組織し、平成21年度から史跡公園整備を進めている。