近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

堺市の田出井山古墳・反正天皇陵とは!

2011年06月30日 | 歴史
堺市の百舌鳥古墳群巡りを続けます。

田出井山古墳・反正天皇陵は、堺市堺区北三国ヶ丘町にある前方部を南に向けた前方後円墳で、百舌鳥古墳群の中では北端にあり、仁徳天皇陵とその南側の履中天皇陵と合わせて百舌鳥三陵と呼ばれているが、現在は宮内庁が管理している。











写真は上から、田出井山古墳・反正天皇陵の前方部御拝所光景、同天皇陵の宮内庁管理下の鉄柵越しの外提、同後円部東西サイド周濠の様子、同墳丘の段差を思わせる木々の盛上り落差の様子。

墳丘の規模は全長約148m・後円部径約76m・高さ約14m・前方部幅約110m・高さ約15mで、百舌鳥古墳群では7番目の大きさ。

陪塚とされる古墳2基を伴い、墳丘は3段に築かれ、その墳丘や出土した埴輪から、5世紀後半頃に造られたと考えられている。

現在、一重の盾型周濠がめぐっているが、前方部外周で行われた発掘調査で、かつて二重濠があったことが確認されている。前方部の外側には、幅約11.5mの外濠が巡っていた。

本古墳は、陪塚と推定される古墳の存在や二重濠など、大型前方後円墳として不足のないすがたの古墳だが、大仙古墳・仁徳陵や石津ヶ丘古墳・履中陵或いはニサンザイ古墳に比べ、その規模がかなり小さいことから反正天皇陵とすることに疑問が残る。

第18代反正天皇は、履中天皇の実(同母)弟で、「倭の五王」のうち「珍」にあたるとされているが、同天皇の事跡は記紀にはほとんどないらしい。

記紀は、反正天皇が丹比柴籬(たじひしばがき)宮で即位したと伝えているが、大阪府松原市上田七丁目にある柴籬(しばがき)神社周辺には、丹比柴籬宮があったという伝承が残っているらしい。

田出井山古墳の形から、履中陵と同時期と考えられており、ニサンザイ古墳を反正天皇陵と考える学者もいる。

第17代履中天皇陵に治定されているミサンザイ古墳は、墳丘長365m・表面積17万㎡を誇り、我が国で3番目にランクされる巨大古墳。







写真は、反正天皇陵の鉄製柵門で仕切られた民家との境界線、同天皇陵の民家に隣接した様子及び同天皇陵の民家に囲まれた墳丘木々の様子。

田出井山古墳は、写真のように、南海本線・堺東駅の東側の住宅地にあり、写真にあるように、墳丘は修復整備されているわけではないが、風雪を耐えて良好な状態で保護されている。

仁徳天皇陵古墳の1/3ほどの大きさで、天皇陵では小さいほうだが、理由はよくわかっていない。

本古墳は、その形や出土した埴輪から、仁徳天皇陵より少し新しい、5世紀後半頃に造られたと考えられている。

内部施設、出土品などは一切知られていない。




堺市北区のいたすけ古墳とは!

2011年06月28日 | 歴史
堺市の百舌鳥古墳群巡りを続けます。

いたすけ古墳は、百舌鳥古墳群のほぼ中央にあり、大仙陵古墳の南、上石津ミサンザイ古墳の東に位置する、前方部を西に向けた、5世紀後半の前方後円墳。

古墳規模は、群中でも8番目の大きさで、全長約146m・後円部径約90m・高さ約12.2m・前方部幅約99m・高さ約11.1mで、3段に築成され、南部のくびれ部には造出しがある。

本古墳の場所は、大仙公園の南にある都市緑化センターの前から東へ進みJR阪和線の踏切を渡ると、右手の民家の家並みが切れたところに巨大古墳が見えてくる。







写真は、いたすけ古墳の石碑と案内板と本古墳の周濠光景。

仁徳天皇陵、履中天皇陵を中心とする百舌鳥古墳群の中においても、主要な地位を占めるものであり、保存の状態もきわめて良好で、わが国の古墳文化を考える上に価値深いものがあり、昭和31年に国史跡に指定された。

正面右側のくびれ部には造出しが設けられ、また周囲の場所によっては50m以上の楯形周濠が巡らされている。台地の南端に位置しているため、濠の南側には大規模な堤が築かれている。

葺石と形象埴輪が出土し、特に後円部からは“衝角付冑”の埴輪が出土している。しかし主体部の構造や副葬品などは不明。







写真は、正面奥側の樹木が伐採された禿山の様子が窺える光景、本古墳の周濠に浮かぶ壊れた橋脚遠景及び同古墳にかかる壊れた橋脚の現在の姿。

この古墳は、昭和30年頃に住宅造成のため破壊されそうになったが、市民運動によって保存されたと云う。

造成工事の際には、土砂を取る重機を入れるため周濠に橋が架けられ、樹木の伐採が行われたと云う。

伐採は半ばで中断されたものの、古墳の半分ほどがはげ山となったらしい。これらの写真は、当時の痕跡を残している。







写真は、本古墳の壊れた橋上で休息する野生たぬき、同古墳の壊された橋上に現れた野生たぬきの光景及び同古墳から出土した“衝角付冑型埴輪”。

写真の通り、周濠の橋は、現在でも古墳側から伸びる半分が残されている。

木のないところが幅99m・長さ75mほどの前方部で、竹林が生えているところが直径90mの後円部。

チョット変わったところでは、写真のように、本古墳内に野生のたぬきが住んでいることで一躍有名になったらしい。

叉写真のような、ウルトラマンのような出っ張りがついた衝角付冑の埴輪は、後円部から出土したもので、堺市の文化財保護のシンボルマークになっているらしい。



堺市の百舌鳥大塚山古墳群とは!そのⅡ

2011年06月26日 | 歴史
百舌鳥古墳群巡りを続けます。その中で、百舌鳥大塚山古墳群を引続き覗いてみます。

宅地造成工事に先立ち、1949年に緊急の発掘調査が行われた。その結果、墳丘には葺石・埴輪列が確認され、また、前方部に4基、後円部にも4基の粘土槨が確認されたと云う。

そのうち遺体が埋葬された痕跡が認められたのは、前方部・後円部各1基のみで、他は副葬品のみであったと云う。埋葬施設は高野槙製の木棺であった。











写真は上から、百舌鳥大塚山古墳から出土したガラス玉・勾玉・管玉など、斜縁二神二獣鏡、鉄製柄付手斧、鉤状鉄製品及び装飾象嵌付鉄鉾と鉄剣。

副葬品として、勾玉・管玉・櫛・銅鏡・鉄製の甲冑・短甲・刀剣・手斧・鎌・鋸・鉤状鉄製品・鉄鉾などが多数出土した。とりわけ、刀剣は300口を超えたと云う。

と云うように副葬品の中には、武具・武器が多い点注目された。

前方部墳頂付近には、椅子・壷・器台などのミニチュア土製品を伴う家形埴輪が出土している。

叉出土した大量の鉄製品などの副葬品は、コンテナ約100箱分にも上ったと云う。

1986年に堺市教育委員会により、墳丘の裾部の発掘調査が行われたが、この調査により、当古墳の造営過程が確認されたらしい。

副葬品のうち、写真のような斜縁二神二獣鏡のほか、斜縁三神三獣鏡・位至三公鏡なども検出された。

叉写真のような鉄鉾から円形をした金の象嵌が見つかり、最古の象嵌文様と判明。

鉄鉾は、被葬者の傍らに副葬されており、長さは50cmほど。

古墳時代の象嵌は、ほとんどが大刀で鉾は異例。

象嵌文様としては、これまで国内最古とされてきた、5世紀後半の兵庫県・宮山古墳で出土した大刀の銀象嵌を半世紀遡る。

その特徴から中国製とされ、中国との交流を深めた倭の五王の時代にふさわしい、有力豪族の活躍が偲ばれる。

この地域は、渡来人が居住して渡来文化の花を咲かせ、その文化はいまもこの一帯のあちこちに残されている。

渡来系氏族は、百済からの渡来人とみられる葛井、津、船、西文、武生、蔵、田辺史、飛鳥戸などの氏名が記録されているらしい。


堺市の百舌鳥大塚山古墳とは!そのⅠ

2011年06月24日 | 歴史
百舌鳥古墳群のハイライトを続けます。

上町台地の広がる当地は、絶好の住宅開発地として早くから注目され、結果的には乱開発により、古墳群が一部犠牲の羽目に追い込まれたことは誠に残念としか云いようがない。

百舌鳥古墳群は、大阪上町台地に繋がる、広い台地の西部の低・下位段丘を利用して造られ、その台地には百済川が谷を刻んで西流している。

即ち百済川の北側に半島状の地形ができているが、そこは百舌鳥古墳群がある耳原地区。





写真は、百舌鳥大塚山古墳の南を流れる百済川光景と同百済川沿いのマンション開発状況。

3世紀には渡来人が移住してきたといわれているが、百済川の北に住んでいた百済人は鉄を作り、鉄が副葬された古墳造りにも土木技術で貢献したらしい。

その後、百済川の南に新羅人が移住してきたが、彼らが作り出したのが須恵器で、堺市は朝鮮半島を中心とした、人と文化の国際交流の最先端の役割を演じていたと云える。

堺市耳原の古墳群は、百舌鳥古墳群の中では古いほうで、巨大な大仙古墳から比較的小さな乳岡(ちのおか)古墳まで大きさはまちまち。



写真は、百舌鳥大塚山古墳の案内板が立てられた上野芝町公園。

ここを先端に南側に本古墳が所在。

この半島状のような地形の中で、百舌鳥大塚山古墳は、堺市西区上野芝にかつて存在した古墳で、履中陵古墳の南約400mに位置する西に向けた前方後円墳。

本古墳は、5世紀前半の古墳時代中期の古墳だが、陵墓や史跡等に指定されていなかったことから、残念ながら戦後の宅地造成で消滅した。





写真は、左側が百舌鳥大塚山古墳の1948当時の空撮及びその後開発が進んだ、現在の古墳跡の様子で、写真の通り、残念ながら住宅地に変容してしまった。

墳丘の全長約168m・後円部径約96m・高さ約14m・前方部幅約113m・高さ約12mの前方後円墳で、百舌鳥古墳群では第5位、全国でも第54位の大きさを誇っていたらしい。

墳丘は三段築成、くびれ部には造り出しがあり、周濠がめぐっていたと云う。









写真は、区画整備された百舌鳥大塚山古墳跡の住宅地光景、住宅地道路先に覗く履中陵の遠景及び同古墳の輪郭を残し屈曲した道路の形状。

1949年に墳丘が削られ、周濠も埋め立てられ、地上から姿を消したと云う。

また、かろうじて残っていた墳丘の裾部も、1986年の宅地造成工事により全て削り取られてしまったらしい。

戦後に破壊された古墳として最大規模であり、現在は、写真の通り、道路の形状に輪郭の痕跡を残すのみ。









堺市の百舌鳥古墳群巡り総括!そのⅨ

2011年06月22日 | 歴史
応神天皇に纏わるストーリーを続けます。

隣接する春日神社境内には、応神天皇宮跡の碑がポツンと立っている。



写真は、橿原市大軽町の軽島豊明宮址。

『日本書紀』には、応神天皇宮を軽島豊明宮(かるしまのとよあきらのみや、現在の奈良県橿原市大軽町)に営んだと記されている。




写真は、大阪市東淀川区の応神天皇を主祭神とする大隈神社。

応神天皇ゆかりの地、大隈宮があった地に鎮座する大隈神社。

大隅宮(おおすみのみや)は、現在の大阪市東淀川区大隅、一説に同市中央区に置かれたという。

応神天皇の業績を記紀で調べても、大した記録は残されていないが、主な功績について要約すると、一つは職業部民を定めたこと。

漁師や航海に従事する海部、山林の管理や収穫に従事する山部、伊勢の海を管理する伊勢部を定めた。

また対外関係では、百済との交渉などが記されており、百済の王が使者を送り、牡馬、牝馬一頭を献上し、太刀と大鏡も贈られた。

更に「論語」10巻「千字文」1巻を携えた賢人ワニキシや職人も渡来してきた。

百済だけではなく、新羅からも多くの人々が、渡って来たことも記されている。

めぼしい記述としては、治世5年目の8月に「諸国に令して、海人(あま)及び山守(やまもり)を定む」とある。

治世11年目の10月に「剣池(つるぎのいけ)・軽池(かるのいけ)・鹿垣池(かのかきのいけ)・厩坂池(うまやさかのいけ)を作る」とある。



写真は、天空を映す幻想的な剣池の光景。

剣池は、現在の橿原市石川町にあって、孝元天皇陵の周囲の池のことらしい。

応神天皇の時代、朝鮮半島からの渡来人の来朝記事が多い。応神15・347年には、百済王は阿直岐(あちき)を遣わして、良馬二頭を献上してきた。我が国では、ちょうどこの頃が馬文化の根付く時期。

また、阿直岐の建言により、翌年には王仁(わに)を菟道稚郎子(“うじのわきいらつく”と読み、応神天皇の子で、後の仁徳天皇である大鷦鷯(おおさざき)尊の弟)の先生として呼び寄せた。

王仁は論語十巻、千字文一巻、併せて十一巻を携えてやってきた。

王仁の後裔とされているのが、古市郡(かつて河内国にあった、現在の羽曳野市の一部)を本拠とした渡来系氏族の西文(かわちのふみ)氏で、西琳寺(さいりんじ)はその氏寺であると云う。



写真は、羽曳野市にある高野山真言宗の仏教寺院、西林寺山門。

西文氏は河内を本拠地として,文筆や出納などで朝廷に仕えていたと云う。

千字文とは、中国六朝時代の詩を集めた書籍で、梁の時代の周興嗣(しゆうこうし)の作とされている。

王仁が来朝した頃は、まだ作られていないが、この伝承は我が国へ漢字が伝わった最初とされている。

また奈良の石上神宮には有名な「七支刀」が保存されている。



写真は、天理市の石上神社に伝わる鉄剣。

七支刀(ななつさやのたち)は、大王家に仕えた古代の豪族・物部氏の武器庫であったとされる、奈良県天理市の石上神宮に六叉の鉾(ろくさのほこ)として伝えられてきた鉄剣で、全長74.8cm。

この奇妙な形をした刀は、当時の倭国と朝鮮半島南部に存在した百済国との同盟を記念して、百済の近仇首王(きんきゅうしゅおうは、百済の第14代の王)の時代、372年に贈られてきた刀とされている。

倭国はこの同盟がきっかけで、それから20年後、百済を支援して高句麗を相手に壮絶な戦闘を繰り広げることになる。

倭国は、朝鮮半島で高句麗軍と戦火を交えたことで、騎馬文化の多くを学んだと云う。

5世紀に入ると、古墳に埋蔵された副葬品が三種の神器に代表されるような宗教的なものから、武具に替わったと言われる所以。




堺市の百舌鳥古墳群巡り総括!そのⅧ

2011年06月20日 | 歴史
ここからは、応神天皇に纏わるストーリーを取上げる。

九州生まれの“誉田別尊”(ほむたわけのみこと)は瀬戸内海を東進し、近畿入りを阻む勢力をうち負かし、難波に上陸して応神天皇となり王権を打ち立てた、と書記は伝えている。

この逸話を以て、神武東征(初代天皇である神武天皇が日向を発ち、大和を征服して橿原宮で即位するまでの日本神話の説話)との共通点を指摘する意見は多い。何らかの勢力が九州から来て近畿に新王権を樹立した、と言うのである。

「騎馬民族征服説」では、崇神天皇の時代に第一次の渡来が行われ、騎馬民族が朝鮮半島を経由して筑紫(北九州)に来たという。

その時のリーダーが崇神天皇で、それから何代か後に、応神天皇をリーダーとする集団が筑紫から近畿に入り、現在の天皇家につながる礎を築いたと主張する。

従って、実在した最初の天皇は崇神天皇であるという事になる。神武東征はこの史実の反映だと言う。

他にも、応神天皇が実際に九州から来たという意見を持つ学者も多い。

書記は、応神天皇と朝鮮半島の強い結びつきを記述しているが、これらは、応神天皇もしくはその遠くない先祖達が朝鮮半島から来たという事を示していると言う。

養蚕技術を伝えたとされる秦(はた)氏や、倭漢直(やまとのみやのあたい)氏の先祖達も渡来してきたと考えられており、一大集団が日本列島を目指して大陸・半島からやってきたことはほぼ確実である。

高句麗の侵攻によって迫害された朝鮮半島の人々の集団は、多くの技術や文化をたずさえて日本列島へ渡来してきたのである。

百済から渡来してきた学者の阿直岐(あちき)は優馬と太刀をもたらし、同じく学者の王仁(わに)は「千字文」と「論語」を伝えた。

職工や機織り・酒造りの技術者なども多数来日し、日本文化の技術革新に多大の貢献をしたものと思われる。

阿直岐や王仁は、さまざまな典籍を日本に伝え、阿直岐史(あちきのふびと)の先祖であり、王仁は書首(ふみのおびと)などの先祖にあたる。

この他日本書紀の応神紀には、引き続いて竹内宿禰の活躍や、百済征伐譚や、蘇我氏の祖満智(まち)にまつわる話、大鷦鷯皇子(おほさざきと読み、仁徳天皇のこと)と大山守皇子(応神天皇の皇子)を呼んで世継ぎに関するテストをした話など、色々と逸話を残している。

応神天皇は多くの皇妃を抱えており、皇后の姉、妹も妃とする。日本書紀によれば、応神天皇の皇子女は20人、古事記によれば26人にのぼっていると見られる。

渡来人とそれ以前の倭人達との間の争いもあっただろうし、渡来してきた渡来人同士の権力争いもあった。

その中から、抜きんでて権力を確保した人物が後に「応神天皇」と呼ばれ、この地に葬られたと考えられる。





写真は、大鳥古墳に隣接する応神天皇陵入口光景及び応神陵の上空写真。

江戸時代に、この応神陵は一度発掘されているが、その際、金メッキを施した馬具が出土しており、日本最古の馬具と言う見方もある。



写真は、国宝の金銅透彫鞍金具で、江戸時代に、応神天皇陵の陪塚丸山古墳から発掘されたもの。

書記にも、応神天皇が百済より馬を貰ったという記述があり、応神天皇は乗馬の習慣を持っていたことがうかがえる。

これらの事から現在の応神天皇陵は、そのまま応神天皇の墓と比定してもいいのではないか、という意見が多い。

またこの天皇の時代は、考古学上の画期点としても注目される。

中期古墳時代を特徴づける鉄製の農具や武器が急速に普及したことが確認でき、記紀の記述を見ても、従来に比してかなりの史実性を帯びている事が見て取れる。

天皇の異名、誉田別皇子(ほむたわけのおうじ)も、従来のものより現実的な名前になっており、河内王朝の様相も具体性が高く、応神天皇の実在についてはその可能性が高いとされている。

陵へはロープがかけてあって、そこへ渡る舟もあったが、すでに朽ちて船底から水が染み込んでいた。最近まで宮内庁関係者が何らかの目的で陵へ渡っていたらしい。

応神天皇は、有名な「宋書倭国伝」に登場する「倭の五王」のうち「讃」(さん)に比定される。

次代の仁徳天皇をあてる場合もあるが、いずれにしても「仁徳王朝」の開始時期を5世紀前後とする学会の定説は間違いないものと思われる。




堺市の百舌鳥古墳群巡り総括!そのⅦ

2011年06月18日 | 歴史
堺市百舌鳥古墳群の一つ、御廟山古墳について続けます。

御廟山古墳に纏わる謎とは?

御廟山古墳は、かつて”ホムタワケ”(第15代応神天皇)の陵墓であると、近隣の人々には信じられていたらしい。

本古墳は、ホムタワケを主祭神とする百舌鳥八幡宮の「奥の院」であるとの位置づけ。











写真は上から、堺市の百舌鳥本町を中心とした、広域をカバーする百舌鳥八幡宮の大鳥居、百舌鳥八幡宮拝殿、同古墳周辺の密集した民家群の様子、同古墳周辺を取囲む民家群の光景及び八幡宮周辺の住宅地沿いから望む御廟山古墳の森。

百舌鳥八幡宮から歩くと、拝殿は濠を超えて後円部の正面を見る位置にあったものと思われる。

現在は神宮の社地が狭くなって、写真の通り、その間に道路や住宅地が挟まっているが、往時は同じ広域敷地内にあったと言う。

百舌鳥八幡宮のご祭神は、応神天皇・神功皇后・仲哀天皇(神功皇后の夫、応神天皇の父帝)の三神をご祭神としている、武運の神(武神)。

社伝によれば、神功皇后が外征の帰途、この地において幾万代まで天下泰平を祈願されたことにより、当地を万代(もず)と称し、祀られて来たと云う。

近年、宮内庁の判断で、ホムタワケの陵墓に、羽曳野市・古市古墳群の誉田御廟山古墳が比定された。

この比定は広く学術調査が行われた結果の結論ではない。そのため、明治時代にこちらの御廟山古墳は「陵墓参考地」(被葬者を確定できないものの、皇族の墓所の可能性が考えられる場合)の扱いになってしまった。







写真は上から、西向きの御廟山古墳前方部正面の光景、同古墳前方部北側から望む墳丘の様子、同古墳前方部南西端の墳丘光景。

周濠の幅は、前方部が約30m、後円部は約50mと推定されている。

平成20年の調査結果、古墳の全長が、従来より約14m長い、約200mになることが判明。

今回の調査は濠部周辺だけという限定的なものではあったが、宮内庁と堺市の共同調査が行われたことは画期的で、歴史ファンまで足を踏み入れることができたのは、新しい時代の到来を予感させる。

埴輪など出土品から築造年代は、従来の5世紀後半から中頃に遡ったことで、仁徳天皇陵よりやや早いと見られ、仁徳天皇より古い応神天皇の陵墓としての可能性が残った。

応神天皇陵第2候補にふさわしい古墳であることが改めて確認されたと言える。

宮内庁が「陵墓」・「陵墓参考地」であると決めてしまうと、一般人はおろか、専門家ですらほとんど古墳の調査ができないことが、眞の被葬者の推定作業にとって大きなネックになっていた。

同古墳は、応神天皇を最初に埋葬した墓であるとか、仁徳天皇の御妃の墓とする伝承もある。

ホムタワケ(応神)は、実在が確信できる大王ではない。日本書紀を信ずるなら、百歳を超えて生きた超長寿な人物。

父親とされているのは「仲哀天皇」について、住吉大社の神代記によると、母の神功皇后こと息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)に関して「是に皇后、大神と密事あり」とあるように、住吉大神との間の子であるとも言われる。

また、息子であるはずの「オオサザキのみこと・大雀命・仁徳天皇」の陵墓との記述も指摘されて、その名ホムタワケという信憑性に反して、謎の多い大王であると云える。

果たしてこの墳墓にホムタワケ(応神天皇)が眠っているのか、あるいはオオサザキ(第16代仁徳天皇)なのか、あるいはまったくの別人なのか、興味は尽きない。



堺市の百舌鳥古墳群巡り総括!そのⅥ

2011年06月16日 | 歴史
百舌鳥古墳群巡りを続けます。

本日は、堺市の御廟山古墳をご覧頂きます。

御廟山古墳は、北区百舌鳥本町にある前方部を西に向けた前方後円墳。

墳丘は、全長約186m・後円部径約96m・高さ約18.3m・前方部幅約119m・高さ約17.8mの規模で、日本最大の大山古墳・仁徳天皇陵の全長約486mを含む百舌鳥古墳群では4番目の大きさの前方後円墳。

墳丘は3段に築かれていて、南側のくびれ部には造出しがある。







写真は、御廟山古墳の正面姿、南側の周濠光景及び北側のマンションに囲まれた光景。

葺石と埴輪が出土しているが、埋葬の主体部の構造や副葬品などは分かっていない。

同古墳は、応神天皇を最初に埋葬した墓とか、仁徳天皇の御妃の墓とする伝承があり、宮内庁が明治時代に陵墓参考地(被葬者を確定できないものの、皇族の墓所の可能性が考えられる場合)に指定。

墳丘は宮内庁、周濠は地元自治会が管理しているが、裾周りが濠水によって崩落、その護岸整備工事に向けて、同庁が平成20年10月から事前調査に入ったのに合わせ、堺市が濠を調べていた。





写真は、平成20年10月の発掘調査現場の遠景と近景2点。

発掘調査結果、円筒埴輪や家形埴輪などコンテナで20箱分出土したと云う。

皇族を埋葬したと伝えられている古墳などは、宮内庁は「御霊の安寧と静謐(せいひつ)を守る」として、“陵墓参考地”に指定し、宮内庁が管理をしているが、それらの古墳は、従来研究者に公開されることはあっても、一般公開はされてこなかった。

しかし今回本古墳の墳丘15ヶ所を発掘調査した中で、1ヶ所だけが初めて公開された。

今回の調査結果、古墳の全長が、従来より約14m長い、約200mになることが判明。

出土品から築造年代は従来の5世紀後半から中頃に遡ったことで、仁徳天皇陵よりやや早いと見られる。

出土品は、全て宮内庁保存・管轄化にあり、今までのところ一般公開されていない。





写真は、出土した円筒埴輪などの埴輪列及び葺石。

墳丘のテラス部から円筒形や朝顔形・蓋形・家型などの埴輪列が確認された。

前方後円墳のくびれ部分に、通常は両側とも造り出しがあるが、ここは南側だけ。

出土物の99.9%が埴輪で、そのうち円筒埴輪が9割、残りが形象埴輪。

形象埴輪が造り出し部に集中して見つかったことから、弔いの儀式を行ったのではないかと考えられている。

と言うように、今回の発掘は、宮内庁と自治体との初の合同調査や一般公開、そして報道陣の立ち入りなど異例ずくめであったと云う。

今後は、限定された区域だけでなく、陵墓全体を調査できるきっかけになればと、考古研究者は期待を寄せていると共に、宮内庁の職員とも意見交換ができるよう、宮内庁の公開姿勢が更に軟化することを期待したい。






堺市の百舌鳥古墳群巡り総括!そのⅤ

2011年06月14日 | 歴史
百舌鳥古墳群巡りを続けます。

今回のテーマは、雄略天皇陵に纏わる謎に迫ります。

第21代雄略天皇(456~479年)は允恭天皇の第5皇子で、安康天皇の同母弟。気性が激しいため、“大悪天皇”との謗りを受けてきたようだ。

安康天皇が眉輪王に刺殺された後、第5皇子は、王位につくため兄の坂合黒彦皇子(さかいのくろひこおうじ)、八釣白彦皇子(やつりしろひこおうじ)をもその黒幕として殺害。

又次期天皇の有力候補だった、仁徳天皇の孫・市辺押磐皇子を狩に誘い出し射殺して即位。反抗する氏族らを軍事力で鎮圧したと云う。

というように、日本書紀によれば、雄略天皇は残虐非道な暴君として記録され、独断専行の残虐ぶりはその後も続き、多くの偉人を殺害したため、“大悪天皇”という評価を後世に残した。

日本書記に残る数々の悪行から尊卑の秩序を保つため、元々雄略陵だった大仙古墳を仁徳陵に当てたのではないかと推測されてもいる。

現実に、大仙古墳の円筒埴輪は5世紀末のものいであり、仁徳陵とするのは誤りで、造営時代的にはむしろ雄略陵とするのが正しいと云う。









写真は上から、現在の雄略天皇陵正面入口、円墳と方墳の繋ぎ目の写真2点及び高鷲丸山古墳の周濠光景。

羽曳野市の雄略陵・高鷲丸山古墳が、直径76mの円墳で、「天皇陵=前方後円墳」の前提では、高鷲丸山古墳が雄略天皇陵の候補から外れるが、雄略天皇が当時中国宋の墓制の円墳を採用したとの見方がある。

一方写真の通り横からみると、後円部とははっきり別れているが、前方部らしき古墳が認識できる。もともとは円墳で、後から前方部を付け足したという説を裏付ける。

雄略天皇は“有徳天皇”であったとの評価もあり、又数々の武功を称え、後世天皇が、前方部を付け足したとも考えられるが・・・・。

高鷲丸山古墳とよばれている直径76mの円墳と、平塚古墳といわれる1辺50mほどの方形部分を合わせたもので、円墳には幅20mほどの濠が巡っている。

それにしても、雄略天皇陵としては、もっと堂々とした墓陵が想像され、チョットこじつけがましく、無理があるようにも思われる。



応神天皇・仁徳天皇・履中天皇に纏わる謎とは!

2011年06月11日 | 歴史
天皇の系図を見ると、父の15代応神天皇の和風諡号(しごう-贈り名)は、“ホムタワケ”、その子どもの仁徳が“オオサザキ”で、16代仁徳の子の三天皇(17代履中、18代反正、19代允恭天皇)のうち、二人までが、いわゆる!“ワケ系の諡号”を持っている。

しかし、仁徳はワケ系の諡号を持たない。まずこれが不思議で、元々天皇系図も、一般には真実性にかけると言われているが。

応神天皇(西暦393年崩御)→仁徳天皇(西暦427年崩御)→履中天皇(西暦405年崩御)→反正天皇(西暦410年崩御)と続く、天皇系図に見られる一連性のなかで、和風諡号の点から考えると仁徳天皇だけが違和感がある。

次に生存年数だが、第1代神武天皇の生存年数127歳を代表として、架空と断定されている第9代開化天皇までは、いずれも生存年数が100歳を越えている。

しかもその後も、仁徳天皇までは、生存年数が垂仁天皇の140歳を筆頭にどの天皇も100歳を越えている。

古代にこんな長生きした人がいるだろうかと極めて疑問であり、仮にこのことが事実としても、16代までの天皇全員が100歳を越えるということは、ありえないこと。

一番興味深い謎は、父である応神天皇とその子どもである仁徳天皇は同一人物ではないかという謎。

この2天皇の人物をめぐる説話には、かなり共通した話があり、例えば古事記には、琴の話がよく出てくるが、古事記の仁徳天皇の所に出てくる琴の話が、日本書紀では応神天皇のところに出てきたり、渡来人の話で、同一と思われる人物が、古事記では、応神天皇の時に日本に来たと書き、『姓氏録』では、仁徳天皇の時に来たとされているなど。







写真は上から、仁徳天皇陵正面拝所、応神天皇陵正面入口拝所及び履中天皇陵正面光景。

日本で最大の古墳は大仙古墳・仁徳天皇陵で、第2位は応神天皇陵、第3位が履中天皇陵。

ところが、この三つの古墳を考古学的に比較すると、年代順位がおかしい。

埴輪などの比較研究からすると、履中陵古墳の物は、すべて古い形の土師質埴輪で、応神陵古墳の物は、土師質と須恵質埴輪が混在していて、仁徳陵古墳は須恵質埴輪がほとんどだということがこれまでの調査でわかっている。





写真は左が、典型的な土師器の壷と須恵器の壷。

土師器は弥生土器の名残を持った素焼きの土器で、華麗な文様が影を薄めたのが特徴であり、須恵器に劣る600~750度で焼成される。

一方須恵器は朝鮮半島の技術を取り入れ、1,000度以上の高温で焼いた、青灰色の硬質の土器で、5世紀頃に土師器に取って代わった。

この歴史的事実は、重大なことを訴えている。即ち一番古い古墳は履中陵古墳で、次に応神陵、そして仁徳陵という順番になるが、この順番では、天皇系図上困る。

従来は、大仙古墳が仁徳天皇の陵墓だと言われてきたが、最近では圧倒的にそれを否定する声の方が多い。

現に最近、教科書から仁徳天皇陵の説明が消えつつある。



写真は、神戸市舞子の五色塚古墳、平地から望む三段丘。

本古墳の全長約194m、高さは前方部が11.5m・後円部約18mで、4世紀末から5世紀初頭頃の造営とされる。

時期的にも整合され、大仙古墳に代わり、神戸の五色塚古墳が仁徳天皇陵として取り上げられるようになってきた。

大仙古墳自体が、仁徳陵と断定できなくなってきたからであり、この事実は大変悲しいこと。

世界最大規模の古墳がいったい誰を被葬しているのかが分からないとは!



東大阪市と八尾市の池島・福万寺遺跡出土のコウノトリ足跡!そのⅡ

2011年06月11日 | 歴史
コウノトリの足跡を探し求めて、当遺跡巡りを続けます。

池島・福万寺遺跡の調査面積が広範囲に亘るため、水田に水を引き込む為の灌漑施設、水田継続に伴う祭祀、生産域と居住域の構成など、沖積地における水田発展史を物語る遺跡として、日本国内はもちろん、外国からも注目されている。





写真は、今回池島・福万寺遺跡から出土した、コウノトリ足跡及びコウノトリ親子のアップ写真。

コウノトリは、全長約110~115cm、翼開長160~200cm、体重4~6kgにもなる非常に大型の水鳥。羽色は白と金属光沢のある黒、クチバシは黒味がかった濃い褐色で、脚は赤く、目の周囲も赤い。

平成23年5月の調査では、弥生時代前期の池島・福万寺遺跡水田跡で見つかった鳥の足跡がコウノトリと判明したと、奈良文化財研究所が発表した。

足跡は約400㎡の水田跡に約千個残され、人の足跡も混じっていた。

平成20年11月から恩智川治水緑地の整備に伴う発掘調査で、南から北へ流れる川跡(幅19~24m、深さ約2m)約70m分を確認した。

川跡の東側には人工の土手(幅約2m、残存の高さ0.5~0.6m)、その東側に、畦で区切られた水田跡4枚(1枚約200㎡)が広がっていた。川跡には杭40~50本を打ち込んだ堰の痕跡があり、そこから取水して、水田に供給していたとみられる。

水田跡からは、川から水を引くための堰や水口と共に、地面の傾斜にしたがって小規模の水田が多数造られ、一番低い水田から水路へ水を戻す工夫の跡が良く残っており、水と仲良く共存していた智恵が窺える。

今回の発掘調査で明らかになったのは、河川の氾濫で泥をかぶった水田に足跡が付き、直後に流れ込んだ砂でパックされたらしい。

弥生時代前期の水田稲作が始まった頃から人と共生したことを示す発見で、同時代の祭器・銅鐸に描かれた鳥もコウノトリの可能性が高まった。専門家は「農耕祭祀の中で人々の信仰を集めた鳥だったのでは」とみている。

これまでは群馬県内で出土した6世紀の足跡が国内最古だったが、今回はさらに約900年さかのぼる。

洪水で埋まった水田跡で鳥の足跡数十個と、人の足跡約100個を確認した。

その後、鳥の足跡1個を石こう型に取り、同研究所に鑑定を依頼。

しばらく特定できなかったが、豊岡市の兵庫県立コウノトリ郷公園や千葉県我孫子市の山階鳥類研究所も分析に加わり、足跡の大きさが約15cmと大型であり、サギに比べて指が太い点、更に指の間が広い等々の特徴からコウノトリのものと判定したと云う。

同遺跡の他の鳥の足跡も写真鑑定の結果、コウノトリの特徴と共通していた。

しかしサギとの説もあり、今後も真偽を争うことになりそう。


東大阪市の池島と八尾市の福万寺遺跡とは!そのⅠ

2011年06月09日 | 歴史
ここからは突然ですが、先日発見された東大阪市の池島遺跡と八尾市の福万寺遺跡から出土したコウノトリ足跡を辿ってみたいと思います。

大阪府が計画する恩智川の洪水対策のための調整・遊水池としての開発に伴って、東大阪市と八尾市に跨る池島・福万寺遺跡周辺が発掘調査されてきた。

その調査がはじまってから、2011年でちょうど30年になるが、空前の規模で調査が継続した池島・福万寺遺跡は、いまや、日本の水田の歴史を語る代表的な遺跡。

河内のムラ、池島・福万寺遺跡では、3500年前の縄文時代後期の人が使った土器にはじまり、弥生時代・古墳時代のムラや水田、奈良時代から現代につづく水田など、河内に住んだ人びとが作ったもの、使ったものがたくさんみつかっている。

この治水緑地の面積は、八尾市福万寺町と東大阪市池島にまたがる40haで、周囲を恩智川の堤防と同じ高さの堤防で囲んでいる。





写真は、東大阪市と八尾市にまたがる池島・福万寺遺跡の発掘調査現場空撮で、左側が東大阪市池島の恩智川治水緑地、右側が八尾市福万寺町運動市民広場及び福万寺遺跡の田圃跡。

治水緑地は地域内を4ブロックに分割し、大雨の時、河川からの水を一時貯留することにより、洪水被害を防止する施設。







写真は上から、平成23年6月現在の東大阪市池島治水工事現場と池島弥生橋の記念モニュメント越しの望む同工事現場及び現在の八尾市福万寺町運動公園光景。

いずれも発掘調査現場の空撮写真の恩智川を挟んだ左右の現在の姿。

該当地域は、八尾市域は「福万寺町運動市民広場」として、叉東大阪市域は「恩智川治水緑地」として整備されてきた。

本遺跡は、縄文時代晩期から江戸時代にかけての生産遺構が出土したことで知られ、弥生時代の水田遺構、近代まで連綿と継続する農耕に伴う遺構、古墳時代の住居跡などが検出されているほか、土器を中心とする各時代の遺物が見つかっている。











写真は上から、池島・福万寺遺跡現場の恩智川流域、恩智川沿いの記念モニュメント・池島弥生橋、本遺跡周辺で弥生時代を彷彿とさせる田圃光景、現在繰り広げられている田植え光景及び恩智川沿いから望む生駒山麓に広がる田圃風景。

この続きは、明後日に公開します。





堺市の百舌鳥古墳群巡り総括!そのⅢ

2011年06月07日 | 歴史
百舌鳥古墳群を振り返って、その特徴をハイライトしてみるコーナーを続けます。

ここで、堺市堺区の乳岡古墳を振り返ってみる。

百舌鳥古墳群の形成は4世紀の後半から始まったとされている。

そのころに造られた古墳に、全長約155mの“乳岡”(ちのおか)古墳があるが、本古墳は、百舌鳥古墳群の中では6番目の規模を持ちながら、最初に築造されたもので、国史跡に指定されている。

本古墳は、百舌鳥古墳群の最も南西部、石津町にある前方部を南に向けた、前方後円墳で、名前の由来は乳房を連想するような墳形のためと云われている。

南向きの前方部は、現・仁徳陵や現・履中陵と同じ方向を向いている。

周囲に巡っていた幅約30mの大規模な周濠も埋められてしまい、3段に築かれた後円部のみが現存している。









写真は、乳岡古墳の記念石碑、民家が迫る本古墳遠景、乳房を連想させるような、乳岡古墳の後円部全景、及び同後円部墳丘3段築成の様子。

本来は全長推定155mの大型前方後円墳で、百舌鳥古墳群では6番目の大きさで、現・仁徳陵、現・履中陵、ニサンザイ古墳、御廟山古墳と既に消滅した大塚山古墳に続く。

本古墳周囲の住宅地を歩くと道が、不自然に曲がっているが、元の前方部や濠の形に影響されていると思われる。



写真は、民家に削り取られた本古墳前方部の光景。

写真のように前方部の大半が削られて住宅地になっている。

ほぼ完全に残っている後円部は3段に築造され、直径約94m・高さ14mほどの規模で、昭和47年に墳頂部にあった土壇の発掘調査が行われ、後円部中央の粘土で覆われた長持形石棺は、和泉砂岩製であることが確認された。この石棺は、埋め戻されたと云う。

また、石棺の周囲からは、車輪石などの腕輪形石製品や碧玉製の腕輪が出土し、百舌鳥古墳群で最も古い古墳であることが判明。

更に、墳丘には葺石と埴輪があり、濠も巡っていた。

濠はすでに埋めたてられ、住宅や工場などになっているが、昭和60年に行われた発掘調査で、後円部西側の濠は、幅約30mという大規模なものであったことが確認されている。

叉石棺の形や遺物から4世紀末頃と考えられ、百舌鳥古墳群で最初に造られた前方後円墳。





大阪府堺市の百舌鳥古墳群巡り総括!

2011年06月05日 | 歴史
百舌鳥古墳群特徴のハイライトを続けます。





写真は、羽曳野市の巨大な応神天皇陵遠景及び同天皇陵の外濠光景。

古市古墳群は羽曳野丘陵の残丘を利用して築かれてきたが、百舌鳥古墳群は大量の盛り土が必要な平地に築かれている。

写真のように、古市古墳群を代表する、誉田御廟山古墳(元応神陵)は、日本第2位の墳丘長約425mを誇る築造で、埴輪は野焼きではなく、全て窯で焼かれ、外表面の仕上げが統一されると共に、墳丘が精美に仕上がるなど築造管理が行き届いていたらしい。

一方百舌鳥古墳群の墳丘の向きに着目した場合、前方部を北西西に向けている古墳群と南南西に向けている古墳群に分類されていると云う。

それでは、百舌鳥古墳群が造営された歴史的背景・地理的条件などを振り返ってみたい。

百舌鳥古墳群は、5世紀・宋書による倭の五王(讃、珍、済、興、武)の時代に築造された。

3世紀中頃に三輪山麓の大和・柳本古墳群が築かれた倭王国の陵墓は、4世紀の中頃に奈良盆地の北の佐紀古墳群に移り、4世紀の後半から5世紀には河内平野の古市・百舌鳥古墳群に移った。





写真は、桜井市の代表的な大和・柳本古墳群の崇神天皇陵及び奈良市山陵町の代表的な佐紀古墳群の佐紀石塚山古墳前景。

古墳群変遷の歴史的事実を、倭の実権が三輪王朝から河内王朝に移ったとするか、河内に誕生した新しい王権が倭王権を呑み込んだとするか、倭王権の河内進出とするかなど種々の説がある。

大和王朝そのものは、引続き大和に君臨しているわけで、陵墓としては、下記の通り、立地条件などに恵まれた河内平野に進出したと見るのが自然の流れと思われるが。

5世紀の日本は、中国・朝鮮などとの対外関係もひっ迫し、河内地域の政権支配層の約30%は渡来人が占めたと云われ、渡来人による文明開化が進んだ時代。

須恵器・馬具・武器・鉄・金属文化などが飛躍的に発達し、現在の大阪の中心部を占めていた河内湖の開拓や大規模な治水工事も可能になった。

そのような技術革新が巨大古墳を生んだと云える。

その技術革新を生んだ大王として、応神天皇や仁徳天皇が登場するが、その実体についての確かな文献・文字資料はない。

急激な技術革新は、むしろ、騎馬民族征服王朝と共に運ばれてきたとする説もある。

河内平野の百舌鳥・古市古墳群の巨大陵墓の有様は、これらの事情を説明する有力な手懸りとなり、6世紀以降の大和朝廷確立への鍵であるはずが、詳細が分からず、陵墓および陵墓参考地として宮内庁管轄下のままで、明治以降は立入り・調査は許されず、もどかしさが残っている。

陵墓に埋葬された天皇名は、書紀や延喜式による文献、中国・南朝の宋書に記された倭の五王との対応、陵墓周辺からたまたま発掘された資料或いは過去の発掘品などから想像されているにすぎず、実情は不明。

大阪府堺市の百舌鳥古墳群巡り総括!

2011年06月03日 | 歴史
古市古墳群の総括を終えたことに鑑み、ここからは、百舌鳥古墳群を振り返って、その特徴などをハイライトします。

大阪府の堺市には、古市古墳群と並んで我が国を代表する百舌鳥古墳群が所在する。

そもそも古墳群が築かれている一帯の地名そのものが、古墳の造営と関係があるらしい。

『日本書紀』に記された伝承によれば、その昔、この地で古墳の工事中に飛びこんできた鹿の耳から、百舌鳥が飛び立ったことから百舌鳥耳原と名づけたという。

百舌鳥古墳群は、堺の旧市街地の東南方向に位置し、東西・南北とも約4kmのほぼ正方形の区画に、かつては94基の古墳(前方後円墳23基、帆立貝式古墳9基、方墳8基、円墳54基)が存在したと言われている。

第二次大戦後に宅地開発が急速に進んだため、現在は残念なことにその半数近くがすでに
失われてしまい、現存する古墳は半壊のものも含めて48基にすぎないと云う。



写真は、百舌鳥古墳群のマッピング。

本古墳群の中でも、墳長100m以上の代表的な古墳群は、いずれも前方後円墳で、墳長の長い順番に以下の通り。

大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)、上石津ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)、土師ニサンザイ古墳、御廟山古墳、大塚山古墳、乳岡古墳、田出井山古墳(伝反正天皇陵)、いたすけ古墳、永山古墳そして長塚古墳の10古墳を数える。

百舌鳥古墳群は、4世紀末頃に乳岡古墳が築造され、次に履中陵古墳と大塚山古墳、仁徳陵古墳・御廟山古墳・いたすけ古墳、そして反正陵古墳・土師ニサンザイ古墳の順に、5世紀末頃までに築かれた、古墳時代中期のものと考えられている。

ここで使われた埴輪を焼く窯のひとつが御廟山古墳の南東、百舌鳥川左岸にある、百舌鳥梅町の窯跡で5世紀中頃の築造と考えられ、いまのところ百舌鳥古墳群で発見されている唯一の埴輪窯。











写真は上から、百舌鳥古墳群の中で墳長の長い順番に、大仙陵古墳・伝仁徳天皇陵正面遠景、同陵3重目の外濠光景、上石津ミサンザイ古墳・伝履中天皇陵正面、同陵周濠の様子及び土師ニサンザイ古墳全景。

これら古墳群には、倭の五王中の第17代履中・第18代反正(はんぜい)の2代にわたる王陵が含まれている。

特に、仁徳天皇陵に治定されている大仙古墳は、墳長およそ486m・前方部の幅305m・高さ約33mで、日本第1位の規模を誇る超巨大前方後円墳であり、エジプトのクフ王のピラミットや中国の始皇帝陵と並んで、世界の三大古墳に数えられている。

大仙古墳を造るには、毎日2,000人の人々が働いても15年以上はかかったという権力の象徴的存在。叉墳丘の周りには水を湛えた濠が三重に巡り、大仙の名にふさわしい、神秘的な悠久の仙山として、地元では大仙陵と呼ばれてきた。

ところで世界最大規模の第16代仁徳天皇陵は、出土物から5世紀中葉~末ごろの可能性が高いと言われる。

しかし仁徳天皇(在位:313~399年)は4世紀中葉の人物である為、仁徳天皇陵でないことはハッキリしている。

大仙古墳の出土物等から、この時期に大和朝廷を統一国家として治世した第21代雄略天皇陵である可能性が高いと言われているが・・・・。

いずれにしても、頑迷に発掘調査を拒否している宮内庁方針が変わらない限り、ことの矛盾は今後とも延々と続く。

履中天皇陵は、百舌鳥古墳群の南部に位置する、前方後円墳で、大きさは全長約360m・後円部径205m・高さ約25m・前方部幅約237m・高さ約23mで、日本で3番目の大きさ。

履中天皇(在位:400~405年)は、仁徳天皇よりも後の時代の人物とされているが、考古学の発掘成果から、履中陵・上石津ミサンザイ古墳は大仙陵古墳よりも古い時代に造築されたと考えられている。

土師ニサンザイ古墳は、百舌鳥古墳群の南東の端に位置し、墳丘は3段構築で全長は約290m・後円部径は約156m・高さ約24m・前方部幅は約226m・高さ約22.5mで、前方部を西に向けており左右に造り出しがある。

全国で8番目の大きさで、現在の周濠は一重だが、二重目の濠が一部確認されていると云う。

土師ニサンザイ古墳は、宮内庁が陵墓参考地に指定されているものの、天皇は埋葬されていないとされている。5世紀後半の築造と考えられており、百舌鳥古墳群の大型古墳の中では最も時代が新しい。

本格的な百舌鳥古墳形成は、古市古墳群にやや遅れて開始され、立地条件も古市古墳群とは異なる。