近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

千葉県印旛郡栄町の龍角寺古墳群と岩屋古墳とは!そのⅣ

2012年05月30日 | 歴史
龍角寺古墳群巡りを続けます。

浅間山古墳が所属する龍角寺古墳群では、古墳時代後期の6世紀第2四半期に古墳の造営が始まったらしいが、本古墳群は現在までに114基の古墳の存在が確認された中で、浅間山古墳の墳丘長は約78mとされている。

浅間山古墳の本格的な調査は、1979年~1981年にかけて行なわれたが、印旛沼北岸では最大級の前方後円墳。



写真は、浅間山古墳墳丘。

1994年の実測調査では、66mとされていた墳丘長は、元来は約78mであったものと推定された。

終末期の前方後円墳らしく後円部よりも前方部が発達しているが、前方部の長さがやや寸詰まりの墳形が特徴的で、墳丘裾を巡る幅7~8m、深さ約1.3mの周溝があったことが判明した。

当時の当地前方後円墳の多くが、円墳に短小な方形部が付く“帆立貝形古墳”に類似していた。

本古墳の墳丘は三段築成で、一段目と二段目は低く、三段目が高かったと考えられている。

築造当時の墳丘の高さは、前方部が約7m・後円部が約6.7mで、前方部と後円部の高さはほぼ等しかったと見られている。

浅間山古墳には、複室構造の横穴式石室があり、全長は6.7m・幅は最大2.3m・高さ最大で2mほどの石室は、筑波山周辺で産出される片岩で造られており、仕切りとなる石によって羨道・前室・後室の三区画に分けられている。

石室内からは金銅製冠飾・銀製冠・金銅製の馬具・挂甲(鎧の形式の一つ)などが出土したと云う。

墳丘から埴輪は検出されておらず、前方後円墳最末期の古墳であることは間違いないとされるが、石室の構造や出土品から浅間山古墳の造営を7世紀第2四半期という説もあり、一般的には6世紀末から7世紀初頭と考えられている前方後円墳の終焉時期との関係で論議を呼んでいると云う。

千葉県印旛郡栄町の龍角寺古墳群・岩屋古墳とは!そのⅢ

2012年05月28日 | 歴史
千葉県印旛郡栄町の龍角寺古墳群巡りを続けます。

みそ岩屋古墳は、7世紀後半に龍角寺古墳群に造られた、5基の方墳のうち、一辺が約35の方墳。

高さ約4.7mの台形のような形をした三段築成で、埋葬施設は貝化石を含む軟質砂岩で造られた横穴式石室で、
平成21年2月に国史跡に指定され、草刈などの整備がなされ全容が明らかになったと云う。







写真は、みそ岩屋古墳(龍角寺106号墳)の墳丘及び横穴式石室内部。

本古墳は、岩屋古墳(龍角寺105号墳)の北、谷をひとつ隔てて築造された方墳で、規模は小さいが三段築成。

全長4.35mの石室は、貝の化石を多量に含んだ、凝灰質砂岩の切石積横穴式石室を有するなど、岩屋古墳と共通する要素が多く、後続する古墳と考えられている。

岩屋古墳に比べると玄室が幅広く、使用された石材がやや大きいのが特徴で、古墳の東側には、中近世に築造された塚とともに庚申塔の石塔が並んでいる。


千葉県印旛郡栄町の龍角寺古墳群・岩屋古墳とは!そのⅡ

2012年05月26日 | 歴史
千葉県印旛郡の古墳群巡りを続けますが、ここでは、本古墳群114基のうち、代表的な古墳・特徴的な古墳について、概観してみる。







写真は、左上から2段築成の岩屋古墳墳丘。横穴式石室と石室の内部。

この岩屋古墳は、7世紀前半の古墳時代終末期に築造され、一辺が約80mの方墳で、高さが約12.4mあり、横穴式石室も2つあり、方墳としては、用明天皇陵(聖徳太子の父親)や推古天皇陵(聖徳太子の伯母)をも凌ぐ大きな古墳。

千葉県のこの地区に、これほど勢力を持った豪族がいたとの驚きと共に、大変興味深い。

本古墳は、全国でも最大級の方墳として、房総の古墳時代の終焉を飾っている。

2基の石室のうち、写真の通り、西側の石室は、全長4.8m・奥壁幅1.64m・高さ1.15mあり、石室は切石を積上げ側壁を天井に向かってアーチ形に工夫している。

石材は貝の化石を多量に含んだ凝灰室砂岩で、当地の古墳だけに使われていると云う。

平成19年には、地形測量時に石室内から直刀・金具・人骨などが検出されたらしい。

竜角寺古墳群を代表する岩屋古墳は、その重要性から昭和16年に“国史跡”に指定され、2基の石室は、江戸時代にはすでに盗掘されていたことが知られていたが、現在まで本格的な発掘調査は行われておらず、石室に納められていたと見られる副葬品の行方は“謎”のまま。

叉平成19年の測量調査で注目すべき発見があった。



写真は、本古墳の舌状張出地形。

注目すべき発見とは、石室前の前庭部の南側に伸びる、舌状の張出地形の存在で、この張出地形は古墳南面の台地から谷津(台地に谷が入り込む独特の地形)に向かって下っていく“斜道”状の張出しで、人為的に造成したものか、自然地形を利用したものか、今後の発掘調査を待たなければならない。

この舌状の張出地形が、岩屋古墳築造時からのものとすれば、“香取の海”(古代関東平野東部に湾入していた内海)につながる資材の運搬路として、叉古墳完成後は、墓道あるいは祭祀場として活用されたかもしれない。

張出部は、幅20~30m・長さがおよそ50mで、標高29mから15mほどへ下っていくが、緩やかな斜面部は、「上り下りしやすい」斜道として利用された可能性がある。


千葉県印旛郡栄町の龍角寺古墳群・岩屋古墳とは!そのⅠ

2012年05月24日 | 歴史
ここからは、千葉県印旛郡に密集する古墳群を巡ってみる。

千葉県には、古墳が約1万基あると云われ、古代寺院も約40ヶ所が知られている。古墳は古墳群と呼ばれるように、集中して造られ、古墳群のある地域は、有力豪族の所在地に近い。

古墳群は、農業生産力が高かった場所や交通の要衝などに造られており、合わせて古代寺院も並存する場合が多く、寺院と古墳は、地方豪族の力を誇示するために造られたと云える。

龍角寺古墳群は、印旛沼と利根川には挟まれた印旛沼を望む海抜約30mの台地上に立地。前方後円墳36基・円墳71基・方墳7基など114基の古墳が林間に点在する県内屈指の古墳群。

5~6世紀の畿内では大仙古墳などの巨大な古墳が造られたが、房総でも大型の前方後円墳が海岸平野に展開されていた。





写真は、房総風土記の丘丘陵光景及び敷地内の見学コース遊歩道と案内碑。

昭和54~56年にかけて古墳群全体の測量調査が実施され、古墳の規模・形・位置関係が明確になり各古墳の番号も付与されたと云う。

これらの古墳群は幾つかのグループに分かれるようで、一つ一つのグループが別々の集団によってつくられたかもしれない。

龍角寺古墳群は、5世紀末に始まり7世紀前半に至るまで長い間築造され続けた。

前方後円墳で最大のものは、浅間山古墳で全長約70m。

方墳では千葉県印旛郡栄町龍角寺にある岩屋古墳が最大で、付近一体が“房総風土記の丘”として整備されている。

全国屈指の大方墳や龍角寺のように関東で最古の古代寺院を建立できた豪族がどういう人物であったか、何故北総のこの地に一大勢力が出現したのか、近隣古墳群や畿内の勢力とどのような関係にあったか、巨大古墳群・巨大寺院を造るために動員された労力はどこからどのように調達されたのか、等々謎が多い。


茨城県ひたちなか市の古墳群とは!

2012年05月21日 | 歴史
関東地方の古墳巡りを続けます。

ひたちなか市には、全国的にも壁画石室で著名な虎塚古墳をはじめ、馬形埴輪が出土した馬渡埴輪製作遺跡や、乳飲み児を抱く埴輪が出土した太平・黄金塚古墳の他にも、数多くの古墳が点在している。

他にも、寺前前方後円墳・川子塚前方後円墳・飯塚古墳などが知られている。





写真は、虎塚古墳現場及び虎塚古墳のサイドビュー、全長56m余りの前方後円墳で、前方部が後円部より大きい典型的後期古墳。

那珂川の二つに支流に挟まれた台地の最南端に位置し、近くには江戸時代から知られている十五郎穴横穴群も見つかっている。



写真は、虎塚古墳出土の横穴式壁画石室で、昭和49年に国史跡指定を受けた。

玄室の長さ3.0m・幅1.4m・中央部高さ1.4mほどの石室の玄門入口には、ベンガラで連続三角文が赤く描かれている。

玄室内文様は三角文の他、武具・渦文・円文など多様にわたり、このような幾何学文様は北部九州とのゆかりが考えられる。

石室内部からは遺骸一体・太刀・刀子・やりかんな・鉄鏃・鉄釧・鉄製鉾などの副葬品が出土したと云う。



写真は、“馬渡埴輪製作遺跡”から出土した馬形埴輪。

国指定史跡である当遺跡は、これまで20回にも及ぶ発掘調査が行われ、住居址2 窯跡19基・工房跡12基など、5世紀末から6世紀にかけて埴輪生産に関係した、一連の遺構が発見されている。

出土した埴輪には馬形の他、円筒・朝顔形・人物等があり、市周辺の古墳に供給されたと考えられている。




写真は、乳飲み児を抱く埴輪。

県指定の文化財として貴重な資料で、古墳時代後期の太平・黄金塚古墳から出土したもので、全国的にも大変珍しい形象埴輪と云われている。

以上茨城県内で代表的な古墳と珍しく貴重な埴輪を紹介しました。


埼玉県内のユニークな古墳群とは!

2012年05月19日 | 歴史
関東地方の古墳群巡りのうち、本日は埼玉県の古墳巡りに移ります。

そこで、埼玉県内の古墳群の中から、特にユニークな埴輪が出土したケースを以下紹介する。

☆埼玉県花園町・寄居町の小前田古墳群
花園町南端、花園インター西側の国道140号周辺の古墳群。100基を数える大古墳群だったが、花園町にあったものはほぼ全部が消滅してしまったと云う。

花園町は、荒川中流域左岸の町で、関越自動車道・秩父鉄道・国道140号線が中央を走っている。

畑作や養豚が主要な産業ののどかな町だが、近年140号沿いにできた、“道の駅はなぞの”と周辺の観光スポット開発に伴い、周辺古墳群はその犠牲となった。





写真は寄居町にある、宅地開発で半壊してしまった小前田古墳跡及び本古墳から出土した巫女埴輪。

小前田古墳群は花園町内に約50基、寄居町内に約50基、計約100基存在したが、国道140号線の建設及びそれに伴う周辺の開発などによって、残念ながらほとんどが姿を消してしまった。

☆埼玉県花園町の黒田古墳群
花園町黒田の黒田古墳群は、花園町南部、荒川左岸の段丘上にあり、6世紀後半から7世紀前半にかけて造られた古墳群。昭和49年の圃場整備に伴って発掘調査が行われた。

調査の結果、前方後円墳1基と円墳2基が現状保存されている。

出土物は轡(くつわ)などの馬具が多いことから、馬の生産に関係した人たちの墓である可能性が高いようだ。





写真は、黒田古墳群現場及び本古墳群から出土した埴輪の中で、中央が大変珍しい太刀型埴輪。

黒田古墳群は、昭和53年の関越道の建設に伴い発掘調査が行われ、その際17号古墳の頂上部分より、写真のような太刀型を模した器材埴輪がほぼ完全な形で発掘された。

この埴輪は全長97cmほどの大きなで、平成5年に埼玉県の文化財に指定された。

なお、本古墳群は県選定の重要遺跡となっている。

☆埼玉県嵐山町の屋田古墳群
屋田古墳群は、丘陵上の嵐山町と滑川町にまたがって分布しているが、嵐山町には古墳21基が検出されている。





写真は、屋田5号墳の墳丘及び本古墳から出土した人物埴輪。

屋田5号墳から出土した男子人物埴輪で、直径が19mほどある円墳の石室入口近くから出土したと云う。

鍔つきの帽子をかぶる美豆良(みづら)髪(古墳時代に見られる、髪を両耳の横で束ねた男性の髪型)の男子像で、下半身は省略されている。

顔面は赤く彩色されている。






横浜市港北区の綱島古墳とは!

2012年05月17日 | 歴史
綱島古墳は、鶴見川北岸の南北に細長く広がる、標高30mほどの台地の南端部に位置している。







写真は、綱島古墳が所在する綱島公園入口、綱島古墳の看板及び古墳墳丘光景。

本古墳は、現在綱島公園として整備されているが、径約20m・高さ約3mの円墳と考えられ、平成元年に築造時期・性格・形状などを明らかにする目的で学術発掘調査が行われた。

発掘調査の結果、墳丘の頂部で木棺直葬と考えられる埋葬施設内から、鉄刀・刀子・鉄鏃などの副葬品が発見され、又古墳の周辺からは破砕された状態の須恵器甕・土師器・坏・円筒埴輪などの遺物が出土したと云う。

これらの出土遺物より、本古墳は5世紀後半から末葉に造られたことが明らかになり、鶴見川の流域に現存し、その築造時期を知ることの出来る数少ない古墳であることが判明。

本古墳は、地域の首長の墓と考えられ、古墳文化の発展過程を知る上で貴重な古墳として、平成元年に市史跡に指定された。

横浜市栄区のいたち川流域横穴古墳群とは!

2012年05月14日 | 歴史
横浜市内の古墳巡りを続けます。

横浜市内柏尾川やその支流の流域には、横穴式古墳が多く散在しています。

中でも、栄区飯島町から上郷町にかけた、いたち川流域には11群140基以上もの横穴古墳があり「いたち川流域横穴古墳群」といわれている。



写真は、現在の七石山横穴墓群。

それら横穴古墳群のうち小菅ケ谷1丁目を中心とする、“七石山横穴墓群”は最大の規模で、古くは100基以上あったと考えられているが、根岸線架設工事の折、ほとんど壊されてしまったと云う。

これらの横穴墓は断面がアーチ型で棺室がよく発達しているのが特徴。

一般に横穴古墳は、古墳時代後期から造られたといわれているが、この辺のものは奈良朝のものと考えられている。

これによく似たものは中郡大磯町高麗や、埼玉県比企郡に多くあるらしい。

これらの地域は7世紀中半頃から朝鮮半島の政変に伴い移住してきた大陸系文化・技術水準の高い人々を定住させ、開発させた所。

かつて、これらの横穴古墳は大和政権下の大豪族が造った、壮大な“高塚式古墳”に対して、もともとその地域に住んでムラを治めていた里長などの人々が造ったものと考えられていた。

ところが、最近の考古学では大陸より渡来した人々が造った墓だとする考えが強くなってきた。

その考えからすると、いたち川流域の古墳群もそれらの人々によって造られた可能性が高いと思われます。



横浜市青葉区の市ヶ尾横穴古墳群とは!

2012年05月12日 | 歴史
次に横浜市市ケ尾町では“市ヶ尾横穴古墳群”など、多くの古墳が見つかっている。

市ヶ尾駅から北に約1キロ行った小高い山の中腹にあるのが、1933年に発見された“市ヶ尾横穴古墳群”。





写真は、市ヶ尾横穴古墳群発掘を記念した、“市ヶ尾遺跡公園”の入口と登口。

本古墳群は、“市ヶ尾遺跡公園”として整備されているので、気軽に歴史にふれられる場所として、市民の散歩ルートになっている。







写真は、市ヶ尾横穴古墳A群の光景及びA群のうち9号墳内部の様子。

横穴古墳とは、台地や段になった丘の斜面に高さ2m前後の穴を掘り、人を埋葬した墓のこと。

この埋葬方法は古代東アジア社会などでも見られるという。





写真は、市ヶ尾横穴古墳B群の光景及びB群のうち5号墳内部の様子。

上述のように、古墳群はA群とB群に分かれており、A群には古墳が12基、B群には7基あり、土師器や須恵器などの装飾品も発見されている。

これらの古墳群は、6世紀後半から7世紀後半の古墳時代の末期につくられており、農耕を営んでいた有力な農民の家族を葬った家族墓のひとつ。

写真のように、横穴墓単体では、古墳に比較して規模は小さく、社会階層的にはムラ長に次ぐ有力者並びにその家族墓と考えられる。

ここで、墓制の歴史について遡ってみると、縄文時代には地面に穴を掘り遺体を埋葬する土壙墓が中心だったが、弥生時代は甕棺・石棺・木棺など埋葬用の棺の使用が中心となっていく。

社会階層の分化に伴い、階層による墓制の差異も生じて、集団内の特定の人物或いは特定なグループの墓地あるいは墓域が区画される。

古墳は地方の権力者レベルの墓だが、弥生から古墳時代の方形周溝墓に埋葬される人々は最下層ではないにしても、古墳をつくるほどの高い地位層でもなかった。

紀元3~7世紀頃には、権力者の古墳が出来たが、一般人は路傍に捨てられたり、河川等に作られた墓もできたり、或いは遺体を野原や死体捨て場のようなところに捨てて、獣が食うにまかせていたかもしれない。

従って古墳や横穴墓のように今日まで残されているのは、ほんの一握りの墓と云うことになる。

ところで市ヶ尾町は、横穴式石室の古墳が多く見つかっているところで、近くには、“稲荷前古墳群”や“朝光寺原古墳群”など、都筑一帯を統治していた首長層の墓が発掘されている。

“市ヶ尾横穴古墳群”に葬られた人々は、こうした首長層の人々と、なんらかの関わりをもつ人々だと考えられているという。



横浜市青葉区の稲荷前古墳群とは!

2012年05月10日 | 歴史
ここからは横浜市内の古墳群を巡ります。

☆はじめに
横浜に初めて古墳が造られるのは、近畿地方などの中心地域から遅れること約1世紀、4世紀後半のこと。

古墳の多くは、河川流域の肥沃な耕地を経済的基盤として造られた。
そして6世紀には、丘陵の斜面に横穴墓が造られはじめ、8世紀頃まで引続き造られていった。

横浜市域には、90基余の古墳と100か所余りの横穴墓群があることで知られている。

先ずは稲荷前古墳群について、青葉区の地形は、区の中央部を流れる鶴見川が、多摩丘陵を分断し、氾濫平野を形成している、一方多摩丘陵には、谷底低地が樹枝状に分布し、複雑な地形を形成している。

特に起伏に富んだ地形となっているため、盛土による大規模な造成が施されていることは、今も古墳時代も同じ。

先ず、横浜市青葉区大場町の南端部には、神奈川県指定史跡の“稲荷前古墳群”がある。本古墳の最寄り駅は東急田園都市線の“市が尾”駅で、横浜上麻生道路に面している。





写真は、稲荷前古墳群の入口及び古墳頂から望む住宅地。

稲荷前古墳群は、1967年付近の住宅造成中に、南北に連なる尾根上に発見され、当時は“古墳の博物館”とも呼ばれたという。

現在、本古墳群として残る場所の北方には住宅街が広がっているが、実は住宅街に姿を変えたその場所に、古墳群の大部分があったらしい。

ほとんどは住宅地に姿を変えた状態で、辛うじて一部の残影が見られるという。

発見された古墳群は1967年と1969年に発掘調査が行われ、現在では大部分が住宅地と化し、消滅したらしい。

4世紀から5世紀の古墳時代に、谷本川の流域に広がる“都筑”を、有力な首長が治め、大和政権とも一定の政治的・文化的な関係を持っていたらしい。

これらの古墳は、この地域を治めた歴代の首長や一族の墓で、それらの古墳群は、前方後円墳2基・前方後方墳1基・円墳4基・方墳3基の計10基の古墳と横穴墓9基から構成されていたと云う。





写真は、稲荷前古墳群のうち、16号墳の前方後円墳頂面と側面。

前方後方墳は、神奈川県で初めて発見されたらしい。

前方後方墳は正方形をした2つの墳丘を、撥形をしたくびれ部で連結をした特異な形のもので、全長約37.5m・後方部幅約15.5m・前方部幅約11.0m・くびれ部幅10.0~11.5mを測っている。周囲には幅1.2~1.4mの周溝が確認されている。

4世紀から6世紀にかけて、現在の横浜市18区の一つである、“都筑の地”を治めた首長の墓であろうと云われている。

その南側には、鶴見川を見下ろす丘に、15号墳・17号墳と合わせて3基の古墳が保存されている。

1970年には、現在残された0.8haほどの面積が神奈川県史跡に指定された。

15号墳と17号墳は方墳で、16号墳の前方後方墳は4世紀後半に造られたもののようで、最も古い時期の古墳のひとつであるらしい。

古墳時代前期は、ヤマト王朝の威令が地方まで及ばず、古墳形態も前方後円墳に統一されていない時期で、当地に見られる前方後方墳のように、地方色が残されていたと思われる。



東京多摩市の塚原古墳群とは!

2012年05月09日 | 歴史
関東地方の古墳巡りを続けます。

多摩市の塚原古墳群は、庚申塚古墳の北方・多摩市和田に所在し、古墳時代後期のもので、現在までに10基の古墳が確認されている。

現在、1号墳以外に墳丘はなく、石室と周溝の発掘調査が行われたが、埋葬者は不明である。





写真は、個人の宅地内に保存されている、塚原1号墳の正面と裏側。

塚原1号墳は、直径約9m・高さ2mほどの円墳で、10基の中で最も保存状態が良く墳丘が残っている唯一の古墳。

現状未調査だが、羨道の門柱石と思われる石材が露出していると云う。

全てが横穴式石室による円墳と推測されるが、石室が確認されているのは4号墳・5号墳・6号墳・9号墳の4基のみ。その全てが地面を掘り下げて川原石を積み上げて造られた石室。

発掘調査時には既に畑として利用していたため、石室の石などは取り除いた箇所も見られたらしい。

江戸時代後期の“新編武蔵風土記”稿には「古墳が元禄の頃には40~50基あったが、14、5基に減少した。」とされている。

周辺はほとんどが未調査の区域であるため、今後の調査で古墳数はさらに増えると考えられている。



写真は、本古墳から出土した土師器・須恵器などの土器。

周辺には稲荷塚古墳・臼井塚古墳・庚申塚古墳、又大栗川対岸には中和田横穴墓群や日野市万蔵院台古墳群があるが、古墳以外に古墳時代の住居跡や土器なども多数発見されている。

都内でも有数の古墳群の一つ。



東京多摩市の庚申塚古墳とは!

2012年05月06日 | 歴史
庚申塚古墳は、多摩市の永山駅から北西、小田急・京王線と野猿街道の間にあり、古くからの通りの辻に所在し、墳丘は僅かな高まりを残しているだけで域内に庚申塔がたっている。

古墳上に庚申塔(中国より伝来した庚申信仰に基づいて建てられた石塔)があるため、このように呼ばれていると云う。

本古墳は和田古墳群の一つで、現状半壊状態にあり、10m×10mほどの円墳。
古墳前の通りに“庚申塚通り”の名を残している。



写真は、庚申塚通り沿いの住宅地の中にひっそり残っている庚申塚古墳。

詳しい規模・出土品などは不明。かなり変形しているが地蔵堂として墳丘が残る。

この北方には9基からなる塚原古墳群が分布しているが、墳丘が残るものはほとんどなく、本古墳については「多摩市史」にも、又現地の案内説明にもあまり詳しい記述がない。

東京多摩市の古墳群とは!

2012年05月04日 | 歴史
東京多摩市の古墳群について、概観してみる。

西日本から始まった古墳造営は、畿内では3世紀中頃、東京都内では4世紀後半、そして多摩市内の古墳群は、更に200年ほど経った、6世紀後半~7世紀前半と見られている。

多摩川に沿った地域では、多くの古墳が見つかっており、下流域ほど古く、上流に向かうにつれ新しくなることが分かっているが、度重なる洪水被害から上流に移動したものと考えられる。

又古墳時代当時、多摩川下流域では、多摩丘陵の直下まで、海岸線が侵入していたと考えられている。



写真は、古墳時代の東京湾海岸線。

古墳時代当時、田園調布の亀甲山古墳近くまで海岸線が迫っていた。

又“あばれ川”多摩川の洪水は、記録があるものだけでも1589から1859年までの間に62回の洪水があつたと云う。

頻繁な洪水災害により、痕跡が残されていないこともあるが、多摩川下流域では、古墳時代に人が住んでいた形跡が認められない。

多摩丘陵上の古墳時代の開始は、田園調布の多摩川台公園内「亀甲山古墳」の全長約100m・後円部約90m・円の高さ約9mで、多摩川下流域の武蔵野の中心地が、この地にあつた例示といわれている。



写真は、多摩川市内を流れる大栗川。

多摩川市内では、多摩川に注ぐ大栗川の下流に沿った和田・百草の台地上に6~7世紀の古墳が集中している。

多摩市は、日野市と府中市の南にあり「多摩ニュータウン」と云う巨大住宅街が存在する、人口15万人ほどの都心のベッドタウンとして急発展してきた。

和田・百草地区の丘陵上には、稲荷塚古墳・臼井塚古墳・庚申塚古墳・塚原古墳群などが存在し、また、大栗川対岸には中和田横穴墓群・日野市の万蔵院台古墳群が所在する。

これらはまとめて和田古墳群と呼ばれ、都内でも有数の古墳群のひとつ。

昭和58年に野猿街道の拡幅工事に伴う発掘調査以降、塚原古墳群として、現在までに10基の古墳が発見され、その規模・埋葬施設・副葬品など貴重な発見が相次ぎ、未だ地下には古墳が眠っているものと思われる。

多摩市内の古墳は、稲荷塚古墳が全国的にも数少ない八角形墳であるほかは、全てが円墳で、周溝が巡らされ、溝の内側は盛土がなされ、その中央に埋葬する石室が設置される形態が一般的であった。



東京都多摩市の稲荷塚古墳とは!そのⅡ

2012年05月01日 | 歴史
東京都多摩市百草にある、古墳時代後期の稲荷塚古墳巡りを続けます。



写真は、本古墳から出土した凝灰岩石積み横穴式石室。

築造時期は7世紀前半の古墳時代後期と推測され、石室は既に盗掘されていたため被葬者は不明。

以前、石室は公開されていたが、現在は石室の保護のため埋め戻されており、色違いのブロックなどで石室の位置や形、大きさが分かるようにしてあると云う。

石室の全長は約7.7mで羨道部の長さ約1.6m・幅1.2mほど、前室の長さ約2.3m・幅1.7mほど、又玄室の長さは約3.8m・幅3mほどの三室からなっている横穴式石室。

石室は凝灰岩の“切石”を組み合わせて積み上げられた構造で、玄室の奥壁には高さ約1.6m・幅1.2mほどの一枚石が使用され、玄室と前室の間には高さ1.7mほどの門柱石など巨大な石が使用されている。



写真は、本古墳横穴式石室の復元模型。

一番手前が墓室への通路である“羨道”、真中が“前室”、一番奥・上が“玄室”で、前室と玄室の壁が三味線の胴部のようにカーブしていることから、“胴張複室構造”と呼ばれている。

石組は、石を加工して曲線を描く平坦な壁面を作り出すだけでなく、切石を積上げるにあたって、隣の石隅の一部をカットして組み合わせる、“切石”と云う手法が用いられている。

この石室構造は、規模的にも測量・土木技術的にも卓越したものとして注目されている。

“胴張複室構造”と云う石室構造に関しては、渡来系氏族の特徴と関連するとの説があり、外来思想に基づいた、全く新しい墳丘形式を生み出す条件が当時の東国に存在したかもしれない。

本古墳は、都内の7世紀代の古墳としては八王子市にある“北大谷古墳”に次ぐ大きさで、北大谷古墳は本古墳周辺の古墳群とは距離が離れており、関連性は不明ではあるが、石室の構造や築造時期など共通点が多い。

従来八角墳は、7世紀中頃以降の天皇陵の古墳(例えば天智天皇・天武天皇・持統天皇など)として考えられていたが、東日本では稲荷塚古墳の発見に続き、群馬県藤岡市の伊勢塚古墳、群馬県吉岡町の三津屋古墳、山梨県笛吹市の経塚古墳と発見が続いたため、八角墳に対する考え方が変わったものの、全国でおよそ15万基造られた古墳の内、八角墳は全国で15例ほどしかない。

八角墳は古墳期後期に、近畿地方のみで築造された天皇クラスの最高実力者の墓であるとされてきたが、それもこの稲荷塚古墳の発見により揺らいでいるようだ。

八角形の形については、仏教或いは中国思想の影響とする説があるらしい。7世紀中葉になって初めて大王にのみ固有の墳墓形式を創り出したことを示している。

それは大化のクーデターによって大王を中心とする中央集権的な政治体制を目指した勢力の動向と軌を一にするもので、思想的にも天下の支配者として八方を治める大王にふさわしいものと云う、道義的なイデオロギーから八角形が選ばれたかもしれない。

6世紀中頃から7世紀中頃(大化の改新)までの多摩を含む関東では、大和政権が本州での勢力拡大を図るため、関東以北に勢力のあった毛人(蝦夷)の同化対策、毛人の強い抵抗による攻防戦或いは地方豪族による権力争いの調停などを行っていた時代。

蘇我蝦夷の「蝦夷」と言う名前はその時代背景から名づけられたとされている。

聖徳太子、蘇我馬子、推古天皇の死後、大和朝廷では権力争いが激化し、その後蘇我氏が権力を振るうが、その強引な行動が蘇我氏に対する皇族や諸地方豪族の反感を高めた。

637年には蝦夷が叛乱を起こし朝貢することを断ったため、大和朝廷は武将・“上毛野形名(かみのつけののかたな)”を、現在の群馬県辺りに派遣した。

しかし蝦夷の攻防が激しく、大王による大和朝廷の存続を揺るがし兼ねない事態にまで陥ったが、その反乱は辛うじて鎮圧をしている。

643年に蘇我入鹿は山背大兄王を含む聖徳太子の血をひく上宮王家を滅亡させた。

その後645年の乙巳の変、646年の大化の改新により蘇我体制に終止符が打たれ、蝦夷に対する政策も変わり7世紀中頃の攻防戦線は東北へ移動をしている(蝦夷征伐)。

大化の改新では薄葬令が出され、天皇以外の豪族・庶民は従来の墓の規模を遙かに縮小し、簡素化している。

このように、地方豪族の存在価値を中央に知らしめると伴に、その後当地に国府が設置されたこと、又地元の豪族を葬った古墳群とは距離を置いて単独で位置すること、更には近くの経塚古墳・三津屋古墳なども八角形古墳であったり通り、中央のヤマト王権と関係深い人物と云うことができるのではないか?

稲荷塚古墳から西方100m付近には臼井塚古墳があり、築造時期は稲荷塚古墳が7世紀第2四半期頃に対して、臼井塚古墳は7世紀中頃で、同じ凝灰岩の切石を用いた胴張複室構造の石室。

臼井塚古墳石室の主室および前室の平面形が、楕円形および胴張りを呈する点が地方的特性をもつ。

石室は稲荷塚古墳よりも小さいが、構造は同じで、現在石室は埋め戻されている。