龍角寺古墳群巡りを続けます。
浅間山古墳が所属する龍角寺古墳群では、古墳時代後期の6世紀第2四半期に古墳の造営が始まったらしいが、本古墳群は現在までに114基の古墳の存在が確認された中で、浅間山古墳の墳丘長は約78mとされている。
浅間山古墳の本格的な調査は、1979年~1981年にかけて行なわれたが、印旛沼北岸では最大級の前方後円墳。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_1.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/ef/50fca797596621edfe535aa2880de521.jpg)
写真は、浅間山古墳墳丘。
1994年の実測調査では、66mとされていた墳丘長は、元来は約78mであったものと推定された。
終末期の前方後円墳らしく後円部よりも前方部が発達しているが、前方部の長さがやや寸詰まりの墳形が特徴的で、墳丘裾を巡る幅7~8m、深さ約1.3mの周溝があったことが判明した。
当時の当地前方後円墳の多くが、円墳に短小な方形部が付く“帆立貝形古墳”に類似していた。
本古墳の墳丘は三段築成で、一段目と二段目は低く、三段目が高かったと考えられている。
築造当時の墳丘の高さは、前方部が約7m・後円部が約6.7mで、前方部と後円部の高さはほぼ等しかったと見られている。
浅間山古墳には、複室構造の横穴式石室があり、全長は6.7m・幅は最大2.3m・高さ最大で2mほどの石室は、筑波山周辺で産出される片岩で造られており、仕切りとなる石によって羨道・前室・後室の三区画に分けられている。
石室内からは金銅製冠飾・銀製冠・金銅製の馬具・挂甲(鎧の形式の一つ)などが出土したと云う。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_2.gif)
墳丘から埴輪は検出されておらず、前方後円墳最末期の古墳であることは間違いないとされるが、石室の構造や出土品から浅間山古墳の造営を7世紀第2四半期という説もあり、一般的には6世紀末から7世紀初頭と考えられている前方後円墳の終焉時期との関係で論議を呼んでいると云う。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_3.gif)
浅間山古墳が所属する龍角寺古墳群では、古墳時代後期の6世紀第2四半期に古墳の造営が始まったらしいが、本古墳群は現在までに114基の古墳の存在が確認された中で、浅間山古墳の墳丘長は約78mとされている。
浅間山古墳の本格的な調査は、1979年~1981年にかけて行なわれたが、印旛沼北岸では最大級の前方後円墳。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_1.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/ef/50fca797596621edfe535aa2880de521.jpg)
写真は、浅間山古墳墳丘。
1994年の実測調査では、66mとされていた墳丘長は、元来は約78mであったものと推定された。
終末期の前方後円墳らしく後円部よりも前方部が発達しているが、前方部の長さがやや寸詰まりの墳形が特徴的で、墳丘裾を巡る幅7~8m、深さ約1.3mの周溝があったことが判明した。
当時の当地前方後円墳の多くが、円墳に短小な方形部が付く“帆立貝形古墳”に類似していた。
本古墳の墳丘は三段築成で、一段目と二段目は低く、三段目が高かったと考えられている。
築造当時の墳丘の高さは、前方部が約7m・後円部が約6.7mで、前方部と後円部の高さはほぼ等しかったと見られている。
浅間山古墳には、複室構造の横穴式石室があり、全長は6.7m・幅は最大2.3m・高さ最大で2mほどの石室は、筑波山周辺で産出される片岩で造られており、仕切りとなる石によって羨道・前室・後室の三区画に分けられている。
石室内からは金銅製冠飾・銀製冠・金銅製の馬具・挂甲(鎧の形式の一つ)などが出土したと云う。
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墳丘から埴輪は検出されておらず、前方後円墳最末期の古墳であることは間違いないとされるが、石室の構造や出土品から浅間山古墳の造営を7世紀第2四半期という説もあり、一般的には6世紀末から7世紀初頭と考えられている前方後円墳の終焉時期との関係で論議を呼んでいると云う。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_3.gif)