近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

アイヌ民族のDNAは関東よりも沖縄の人と近い!

2012年12月30日 | 歴史
ここでは、日本人のルーツを探ります。

北海道のアイヌ民族は地理的に近い関東よりも、沖縄の人たちと遺伝的に近いことがDNA解析から証明されたとする研究成果を、東京大学や国立遺伝学研究所などで作る「日本列島人類集団遺伝学コンソーシアム」がまとめた。

北海道と沖縄では、日本列島に古くから住んでいた縄文人と渡来の弥生人の混血が一部にとどまり、縄文系の人々が残ったとする「二重構造説」を裏付ける成果という。

平成24年11月、日本人類遺伝学会誌(電子版)に発表されたが、当研究チームはアイヌ民族36人と、3世代以上続く沖縄出身者35人の遺伝情報を詳細に調べ、DNAのわずか1文字(1塩基)の違いを約60万か所にわたって分析。





写真は、北海道白老町アイヌ民族博物館の古式舞踏メンバー及び沖縄八重瀬町役場で考古担当の女性。両者の特徴は、丸顔で彫りが深い顔立ち。

すでにデータとしてそろっている関東に住む243人と比較し、アイヌ民族は沖縄出身者により近いことを確認した。こうした傾向はこれまでも示されていたが、データが少なく結論は出ていなかった。

ところで、日本人の先祖をたどる方法として、母親からしか受け継がないミトコンドリアという一種の細菌のDNAを調べる方法があるらしい。

その方法で人類のルーツはアフリカにあるという結果が出たと云う。

 
アフリカで肌の黒い人類が生まれたと仮定します。その中から肌の色が褐色の人種が生まれたとすると、肌の色の違いが諍いの原因となることは十分に考えられる。

肌の色の同じ者同士は親近感を覚えて子供を産み、やがて人数が増えすぎて世界中に移動したと考えるのが自然だ。

しかし、一日に移動できる距離はせいぜい30km。毎日歩いても1万キロ先へ進むには1年はかかる。そんな先を目指して進むことが出来るのは元の世界では暮らせなくなり、未知の世界へ希望を託したことになる。

ちょうど、今から1万年くらい前までは氷河期の時代であったため、温暖化と反対に降った雪が海に流れず循環が少なくなって海水の水位が下がると、至る所が陸続きになって移動可能になった。



写真は、日本人の流入ルート。 

世界中の先住民と呼ばれる人種はこのころに世界中に散って住み着いたものと考えられる。

中央アジアやアメリカ大陸には驚くほど日本に似た人達が住んでいるが、アメリカの先住民であるアメリカン・インディアンにもどこか親近感を覚える。

ちなみに白人は世界中に散った黄色人種の突然変異ではないかと考えているが、これは人種の系統図からも先にアフリカ人が分岐し、その後で白人と黄色人種が分岐していることからも納得が行く。

白人は中央アジアで生まれ、今の欧州地域に移り住んだと言う説もあるが、いきなり金髪で肌が白く目の色が青い人種が生まれると宇宙人のようにも思えたに違いない。

ところで、日本列島に住み着いた遠い日本の先祖は狩りなどをして暮らす縄文人であったが、弥生時代になると、地球自体が寒くなる小氷河期を迎え、さらに寒いところに住んでいた北方民族が暖かいところへと当時陸続きだった日本に移り住んだものと考えられる。

そのとき一緒に稲作の技術と一重まぶたという遺伝子を持ってきて縄文人との間で混血が進むことになり、弥生人は主に西日本に広がり、南西諸島や北海道まではやってこなかった。

従って混血の進んだ日本の本土人と南西諸島に住む琉球人、東日本に住んでいたアイヌ人は、縄文時代の特徴である彫りの深さ、二重まぶたなどの特徴を残すことになり、明らかに違う。
 
江戸時代になって都を東に移し、日本国内で人の移動が多くなったため最近は区別が難しくなって来たが、古くからそれぞれの土地に残る方言や食文化などは、不思議に東西で違っている。

日本遺伝学研究所のホームページによると、どこからやってきたかによって、ミトコンドリアDNAの調査結果に差がでるらしい。

なみに韓国と本土日本ではその差がゼロらしい。また別の調査結果によると、弘前、秋田、仙台には白人と同じウィルスを持った人達が1,2割ほどいるため、そのルーツは白人ではないかという報告もある。

しかし、混血が進んだ日本にとって、日本人は日本語という共通の言語文化を持つが故に日本人であり、それがために日本人は日本で生まれたとする根拠はここにあるようだ。


国内最古、縄文期のイヌの骨と確認 愛媛の遺跡で出土!

2012年12月27日 | 歴史
ここからは、最近の犬事情について検証してみたい。

愛媛県美川村久万高原町の上黒岩岩陰遺跡で50年前に発見された2体のイヌの骨は、埋葬例としては国内最古の縄文時代のものと確認されたと云う。



写真は、上下と側面から撮影した2体のイヌの頭骨。

慶応大の動物考古学の先生らが放射性炭素を使って年代測定した。日本列島でイヌと人がいつからどう関わってきたかなどを解明する重要な手がかりになりそうだ。

同大日吉キャンパスでの日本人類学会大会で発表されたが、2体のイヌの骨は、1962年の発掘当初から、縄文時代早期(9千年前ごろ)の「日本最古の埋葬犬骨」と言われてきた。

その後行方不明になり、詳細な調査ができなかった。

ところが昨春、同大三田キャンパスの考古資料収蔵庫で見つかり、調査の結果、縄文時代早期末から前期初頭(7300~7200年前)のものと分かった。

同大教授陣は「縄文時代にイヌは狩猟に使われていたと考えられているが、国内で埋葬犬の骨自体を年代測定した前例は聞いたことがない」と話している。



堺市の土師ニサンザイ古墳、驚くべき発掘調査結果とは!

2012年12月13日 | 歴史
堺市の土師ニサンザイ古墳現地説明会の状況報告を続けます。

平成24年12月1日から2日間にわたり、一般公開の見学会が始まり、多くの考古学ファンが訪れた。





写真は、ニサンザイ古墳内の御陵山公園内に設けられた、現地見学会受付と説明会光景。

一般公開は堺市が主催し、スタートの9時前に現地到着したが、既に行列ができており、午前中だけで約1300人が集まったらしい。

参加者は見学用の濠橋を渡って、後円部に沿うように設けられた通路を歩いて見学。一列に並んだ状態で見つかった円筒埴輪を写真に納めるなどしていた。







写真は上から、見学会用に設けられた仮設橋を利用して現地会場に向かう見学参加者、仮設見学台に登って発掘現場の説明を受ける光景、50人程度のグループ毎に分けられた見学者が仮設通路で順番待ちをしている様子。

一般公開には、堺市当局の多大な労力と費用がかかっていることは想像に難くない。見学会はまるまる2日間続いたが、考古ファンにとっては久しぶりのエクサイティングなイベントであった。

今年10月から墳丘を宮内庁、濠を堺市が調査したが、濠の底で本来の墳丘裾が確認され、底は従来の墳丘長を計測した地点から更に5m以上離れており、未調査の前方部でも同等以上の間隔を想定した場合、墳丘の推定全長が300m以上あることが分かった。





写真は、本古墳の墳丘が崩れ落ちた斜面の葺石と埴輪片及び周濠を掘り当てた墳丘裾の光景。

今回の発掘調査の結果、墳丘長が300m以上とすると、全国7番目の渋谷向山古墳(景行陵、奈良県天理市)に並ぶ。

宮内庁の調査では、墳丘最下段で築造時に並べられた円筒埴輪などが出土。築造年代が古墳群の巨大古墳では最も新しいことを裏付けた。

また墳丘1段目では直径約35cmの円筒埴輪が多数出土。1段目全体で埴輪約2800本が並べられていたとみられている。





写真は、見学会第一会場に見える、埴輪列と須恵器及び第二会場の奥に見える、葺石と前方に並べられた埴輪列光景。

宮内庁の各調査区では、1段目テラスや造出し部の埴輪列と2段目斜面の下端や葺石が検出された。

堺市と宮内庁の調査結果を合わせると、前方部から造出しにかけての状況がほぼ復元されたと云う。

又墳丘2段目斜面の下端から濠にかけての、古墳築造時の形状を検討することが可能となったと云う。





写真は、今回の調査で出土した円筒埴輪体部や蓋形埴輪片。 

今回の出土遺物には、埴輪・須恵器・土師器があり、埴輪には円筒埴輪や朝顔形、蓋形などの形象埴輪があり、須恵器の甕・器台、土師器には小型壺・ミニチュア土器なども出土した。

埴輪や土器の形・製作技法などから5世紀後半のものと考えられ、同古墳が築造されたのは大山古墳(仁徳陵古墳、5世紀中ごろ)より新しいことがわかった。

古墳群の中では、大山古墳、ミサンザイ古墳(履中陵)に次ぐ大きさで、築造順番も後であるため、仁徳天皇の子、反正天皇の陵にあてる説の根拠にもなりそう。

今後、堺市と宮内庁では、お互いの調査成果を共有して検討を進め、ニサンザイ古墳の規模や形状を明らかにしていく予定と云う。





堺市の土師ニサンザイ古墳、300m超えか、国内7位に!

2012年12月04日 | 歴史
ここからは、世界遺産登録申請に微妙に影響すると見られる、宮内庁が管轄する天皇陵或いは準天皇陵の真相について、考古学的調査・真相に迫る実態解明が求められている折から、今回宮内庁と自治体が同時調査をした土師ニサンザイ古墳について、先日12月1日・2日に行われた現地説明会・見学会の様子などを、二回に分けて報告する。

堺市の百舌鳥古墳群にある、全長290mの前方後円墳・ニサンザイ古墳を同時に調査している宮内庁と堺市は、同古墳の築造時期が5世紀後半と分かり、墳丘全長も元は300mを超えていた可能性が高いと発表した。

全長300mの渋谷向山古墳(奈良県天理市、景行陵古墳)を抜き、国内第7位の大きさになるとみられる。









写真は上から、堺市の百舌鳥古墳群の中で、土師ニサンザイ古墳の位置関係、前方部方面から望む同古墳全体像、12月初旬一部紅葉に染まった後円部光景及び前方部から後円部を望む、周濠に囲まれた墳丘形状。

ところで写真の通り、ニサンザイ古墳は百舌鳥古墳群の一つで、当古墳群は、北は反正天皇陵古墳、南は仁徳天皇陵古墳を経て履中天皇陵古墳の周辺、東はニサンザイ古墳辺りの、東西・南北約4kmの台地上に広がっている。

本古墳群の築造は、4世紀末から5世紀後半で、44基が現存し、かつては100基以上あったことが確認されている。

ニサンザイ古墳は、前方部を西に向けた前方後円墳で、墳丘の規模は、大正15年に測量された地形図により、全長290m・後円部径156m・後円部高24.6m・前方部幅224m・前方部高25.9mと計測され、百舌鳥古墳群では履中天皇陵古墳(ミサンザイ古墳)に次ぐ3番目、全国では8番目の規模を誇る。

前方部が大きく広がる精美な墳丘は3段に築かれ、両側のくびれ部には墳丘が張出す造出しがある。埴輪と葺石があることは確認されているが、埋葬施設の構造や副葬品などは分かっていない。

墳丘の周囲には幅50m余りの濠が巡っているが、昭和51年の発掘調査により濠は二重に巡らされていたことが明らかになった。

その後の調査の結果、外側の濠幅は10~20mで、ほぼ全周していた可能性があると云う。外側の濠を含めた古墳範囲は、東西485m・南北490mの広大な正方形におさまる。

被葬者は分かっていないが、江戸時代には反正天皇陵とする伝承があった。

ニサンザイ古墳は、宮内庁が天皇や皇族の墓である陵墓の可能性がある「陵墓参考地」として管理し、一般の人の立ち入りは禁止されている。





写真は、見学ルートで宮内庁名の立入禁止の赤字貼紙と厳重な立入禁止柵が目に付く光景及び堺市担当の濠掘削工事現場の光景。

濠の水によって削られていた墳丘裾を護岸工事することになり、宮内庁が墳丘を、堺市が、陵墓参考地に指定されていない濠の底や水際を調査した。

周濠や外堤は堺市が管理しており、平成24年10月からそれぞれの管理区域を同時調査していた。


旧石器遺跡:青森で史跡指定へ 発掘捏造後は東北初!

2012年12月01日 | 歴史
更に最先端の遺跡情報をお届けします。

東北旧石器文化研究所(解散)の元副理事長による発掘捏造問題に絡み、宮城県大崎市の座散乱木遺跡の国史跡指定が2002年に取り消された後、東北地方では初めてとなる旧石器遺跡の史跡指定を、文化庁が検討していることが平成24年5月12日、分かった。

対象は、後期旧石器時代から縄文時代草創期にまたがる青森県蟹田町の「大平山元遺跡群」。

捏造を見抜けなかった教訓を踏まえ、文化庁内に設置した有識者検討会で遺物の年代測定などの科学的検証や指定範囲の検討を進め、今秋にも文化審議会に諮問する。

東北の旧石器研究は、史跡指定の取り消しや日本史教科書からの記述削除などで一時信頼が揺らいだ。

ところで、青森県蟹田町の大平山元遺跡は、津軽半島中ほどの蟹田町西外れに所在し、旧石器時代(約16,000年前)から縄文草創期(約13,000年前)にかけての遺跡。

昭和46年に発見された一本の磨製石斧がきっかけとなり、発掘調査の結果、旧石器時代末期の特徴な磨製石斧と同じ包含層から土器片が検出された。

土器を伴わない段階と見られていた、旧石器末期に土器が発見されたことから“歴史的事件”として大いに注目された。





写真は、現在の遺跡現場光景。

大平山元Ⅰ遺跡は私有畑地にあり、文様の全くない親指大の土器片が30点ほど検出され、他方大平山元Ⅱ遺跡は八幡宮境内にあり、地層・石器形態から約16,000年前のモノと見られる数多くの石器類のほか、石で囲った炉跡・焼け石なども見つかっている。

これらの発見は東北縄文文化の幕明けを物語る一大発見として脚光を浴びた。











写真は上から、石斧など石器類・槍先形尖頭器・削器・石刃など・両面調整石器など。

これらの石器類は大平山元Ⅱ遺跡から出土した旧石器時代のもので、遺跡現場付近から採取できる頁岩製で、今日でも境内の地表面から当時の石器片が顔を出していると云う。

石器工房跡かもしれない。

当時の人々の生活痕跡が窺い知れる。





写真は、石器類及び土器片。

大平山元Ⅰ遺跡から出土した土器細片は、無文で隅丸形の平たい底部を持つ鉢形土器と見られ、これまで日本列島各地に分布していた、口縁部に「隆起線文」を持つ縄文草創期の土器とは異なる。

むしろ縄文草創期の隆起線文付土器に先行する祖源的土器と見られ、同一地層から出土した石器と見合う旧石器時代末期の土器と考えられる。

日本最古段階の土器と考えられ、樺太・北海道経由の北方ルートを辿り、遠くシベリアに土器起源を求める可能性を示すものとも云えるが、未だ大陸側には1万年以上古い土器の発見例がないと云う。

いずれにしても津軽半島には縄文文化黎明期を受け入れる文明力が十分備わっていたことを意味する、極めて貴重な発見であった。