近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

静岡県沼津市の辻畑古墳とは!そのⅡ

2009年10月30日 | 歴史
沼津市の辻畑古墳巡りを更に続けます。

先ずは出土遺物について、概観してみたい。





写真は、辻畑古墳から出土した高杯及び土器。

墳丘の周囲に掘られた周濠からは、祭事に使われたとみられる、高さ約20cm・直径約25cmの高坏には円錐形の脚部があり、写真の通り、割れた状態で見つかった。古墳完成後の祭事に使われたものと推測できる。

脚部上方に“くし”で引いたような横しまがあることから、3世紀前半に作られたと見られる。これらの土器の様式は、ほぼ「纏向3式」と同年代ということになる。

何となく、古墳築造については、近畿の方が東日本よりも先行していたイメージがあるが、西日本と東日本は、ほぼ並行していたと見られる。

沼津市には、本古墳から北西3kmほどに“清水柳北1号墳”と呼ばれる、8世紀前半築造の上円下方墳があるが、主体部には棺はなく、遺骨を納めた蔵骨器を入れる石櫃が確認された。古墳築造にも、当時の仏教思想が反映され、土葬から火葬に移行する時代であった。

このことは、西暦645年の“大化の改新”から間もなく、“大化の薄葬令”が出され、大規模墳墓築造が禁止されてからも、地方では権力者が、権威を示すために依然として墳丘を持った上円下方墳が築造されていたことになる。

辻畑古墳が最古級の古墳に対して、本古墳は「最も新しい時代の古墳」と云うことができ、古墳の最終の形態を示している。

一方で、辻畑古墳のように、同市教育委員会が「辻畑古墳は、卑弥呼の墓とされる奈良県桜井市の箸墓古墳とほぼ同じころに築かれた!」としている。

と云うことで、沼津市には最古級の古墳と最新の古墳が揃っていたことになり、しかも同じ地域から、前方後方墳であり、上円下方墳であったりと、ヤマト王権の象徴・思想とは異なる、むしろ反逆とも取れる思想・行動は、当地の豪族が一大勢力を誇示していたからだとも云える。





写真は、本古墳から出土した銅鏡片。

本古墳からは、同時代のものと思われる銅鏡などの副葬品も多く出土したことから、3世紀前半から中頃の築造と見られる。
埋葬品は、鉄鏃を含めコンテナ30箱分にも上がったらしい。

本古墳の遺構は、幹線道路の計画ルートの真ん中にあり、いずれ消えてしまう運命にあるが、全国的にも、考古学上も大変貴重な発見だけに、何とか保存して欲しい。

「邪馬台国の時代に、東海から東方面では独自の文化が形成されていたことは分かっていた。古墳の位置は愛鷹山麓から見下ろし、駿河湾入江の最も深いところに位置していることから、豊かな湿地帯で人の流れが活発だったとみられることを証明する貴重な史料」と見られる。

弥生時代には低墳丘墓が一般的であったが、この時期平野部の前方後方墳にも土を盛り上げて高塚を持つように築造されたことになる。

邪馬台国大和説では、前方後円墳は、大和地域を中心にヤマト王国として広がったとされ、一方前方後方墳を造営したのは、東海地方を中心に邪馬台国に対立していた狗奴国であったと云う説が有力だと云われている。

日本列島各地に点在した地域国家が、ヤマト王権によって徐々に統合され、古代国家が成立する過程で、前方後円墳に代表される首長の権威に対して、アンチ・ヤマト王権の象徴として、前方後方墳も並存したと考えられている。

卑弥呼が生きている時代に、前方後方墳を造るだけの有力豪族が、この地に存在していたことは、3世紀中頃の支配構造を考える上で貴重な史料であり、この地は狗奴国の勢力圏内の一つであったかもしれない。

今後の更なる発見・情報収集が待たれる。




静岡県沼津市の辻畑古墳とは!そのⅠ

2009年10月28日 | 歴史
これから暫く、関西地方の古墳巡りから離れ、我が故郷・静岡県沼津市で最近話題となった、全国レベルのホット古墳情報を緊急取材しましたので、以下報告します。

先ず沼津市古墳時代前夜を振り返って見ると、当地は温暖な気候と豊かな自然に恵まれ、当時既に片浜から原、さらに田子の浦海岸や内浦湾沿岸の海岸地域は、当時の海岸線は愛鷹山麓に迫っていたとは云え、既に集落が開けていたと云う。

このことは、これらの場所に点々と古墳がつくられたことからも推測される。

沼津市は、眼下に駿河湾、南東に伊豆半島が延びる風光明媚な地で、在地豪族が墳墓を築造しそうな立地。

そのような自然・社会環境の中で、今回話題を呼んだ、辻畑古墳は沼津市東熊堂の熊野神社旧境内地から発掘され、南北約62m、西側4分の1は道路で削り取られていたが、東西約35mと見られ、高さは約4.5mの前方後方墳。

墳頂の1.0mほど下には、副葬品を伴う木棺跡が検出されたと云う。







写真は、発掘調査現場で平成21年10月初旬の光景及び年輪を感じさせる、大木の根っこが取り残されたまま、崩し落とされた古墳墳丘の高さが窺い知れる。

発掘調査は、国道1号から同246号に抜ける都市計画道路の建設に伴って実施され、平成22年~23年度中には古墳を撤去して、計画された道路を建設する予定と云うが、本古墳が保存されることを切望する。

市街地でありながら、遺構の大半が残っていたことに、関係者からは「奇跡だ!」との声も上がったと云う。









写真は、辻畑古墳の現地説明会光景、古墳と共に出土した弥生時代後期の竪穴式住居跡及び住居跡全景。

本古墳は国道1号線沿いの住宅地にあり、平成20年5月以降、本格的な調査を進めてきたが、市教育委員会は、平成21年9月、出土した土器や副葬品を分析した結果、同古墳が弥生時代後期から古墳時代初期に築かれた東日本最古級の古墳であると発表した。

出土した高杯から、本古墳の築造が230年前後と見られ、奈良県桜井市の纒向石塚古墳と同じ古墳初期に分類されるらしい。

と云うことで、本古墳が近畿地方で本格的な古墳の築造が始まったのとほぼ同時期にあたり、特にヤマト王権の象徴的墳形である前方後円墳に対して、前方後方墳であることは、独自性の強い、当地固有の古墳形態として、その歴史的意義付けや古墳発祥から発展の経緯を考える上で、貴重な発見と云える。

後方部の木棺跡に検出された、鏡・鉄鏃などの副葬品と土器の組み合わせからも、3世紀前半頃のものと分かったという。


京都府八幡市の西車塚古墳とは!

2009年10月26日 | 歴史
八幡市は京都府の南部、大阪府との境界線沿いに位置し、石清水八幡宮の門前町として発達した。

八幡市の代表的遺跡である、西車塚古墳は、八幡市八幡荘式部谷にある前方後円墳で、全長約115m・後円部径約80m・前方部幅約32mあり、後円頂部に八角院という仏堂があるが、後円部が著しく大きいのが特徴。

本古墳は、東車塚古墳から北東に100m前後と隣接していることから、被葬者は、東車塚古墳と同族の首長と考えられる。







写真は、田畑に浮かぶ西車塚古墳と僅かに覗く八角堂、田畑から望む、正面の男山及び本古墳墳頂から覗く八幡市市街地光景。

本古墳の立地する場所は、高台から平野へ向かって下がる傾斜面にあり、水の確保が難しい丘陵地は、古墳時代には墓地としての土地利用しかされていなかったと言う。

奈良~平安時代頃に溜池を造って、土地利用に着手し、さらに、平安末期~鎌倉時代には造成して、土地利用しにくかった傾斜地を、耕地として利用するようになったと云う。









写真は、西車塚古墳の発掘調査現場、墳丘への登り口と案内看板、八角堂がある西車塚古墳墳頂光景及びその八角堂近景。

形状は前方後円墳であるが、前方部は開墾されて原型はなくなっている。

後円部平坦地の北端、前方部に接するところに円筒埴輪が埋もれて見つかったと云う。

八角堂は、鎌倉時代に男山西谷に建立されたが、大破したため1607年に再建され、明治維新の神仏分離に際し、本尊と共に現在の地・本古墳墳頂に移設されたと云う。

このように墳上に八角堂が建っていたことが幸いし、古墳内部の破壊を免れた。
明治35年の境内工事に伴い、石室を掘りあてたが、残念ながら石室そのものは、破壊されてしまったと云う。

本古墳周辺には盾形の周濠跡が認められる。

明治35年の埋葬施設調査では、長さ2.7m・幅0.6m・高さ0.9mほどの竪穴式石室内で、銅鏡・車輪石・石釧・鍬形石・石製合子・勾玉・管玉・ガラス玉などが出土。

銅鏡には三角縁神獣鏡・盤竜鏡・画文帯神獣鏡・彷製六獣鏡・彷製品規矩鏡など9面の同笵鏡が確認されていた。
これらの埋葬品から5世紀前半の築造と推定されている。

しかしながら、これら貴重な埋葬品は散在・拡散してしまい、今日行方不明の状況。






京都府八幡市の東車塚古墳とは!そのⅡ

2009年10月24日 | 歴史
八幡市の東車塚古墳巡りを更に続けるが、ここからは、松花堂庭園内の東車塚古墳を紹介する。









写真は上から、東車塚古墳の石碑、内園から見える後円部全体像、後円部墳丘状況と庭園の一部である本古墳墳丘の光景。

松花堂庭園の内庭の築山には、写真の通り、“東車塚古墳”碑が建てられている。

本庭園は、東車塚古墳の跡地一帯に造園されており、後円部が内庭の築山として残存している。庭園は内園と外園に別れており、内園は東車塚古墳を利用して造られている。

周辺は平坦だが、この地は小山になっていたため、その景観を取り入れ庭園を築いたが、この小山が前方後円墳だったので、古墳であることを知らないまま、庭園を築いたらしい。





写真は、松花堂庭園入口の奥に広がる東車塚古墳遠景及び竹林に囲まれた本古墳後円部の正面像。

本古墳は、全長約94m・後円部径約53m・前方部幅約30mを測り、後円部と前方部にそれぞれ埋葬施設があったと云う。

後円部は粘土槨で、銅鏡・勾玉・素環頭大刀・鉄剣・鉄鏃・甲冑・鉄斧などが出土。
一方前方部は木棺直葬と推定され、新山古墳と同笵の三角縁神獣鏡・内行花文鏡・盤龍鏡などが出土。

本古墳の築造は、埋葬品から4世紀末から5世紀初頭と推定されている。

しかし発掘調査が明治時代であったこともあり、これら貴重な埋葬品は、散在・拡散されてしまい、ほとんど行方不明の状況らしい。

本古墳の被葬者は、かつて男山東麓を支配していた豪族で、石清水八幡宮遷座前の中心地であったことが窺い知れる。


京都府八幡市の東車塚古墳とは!そのⅠ

2009年10月22日 | 歴史
ここからは、京都市内から南に下がった八幡市の古墳巡りを始めます。

先ず東車塚古墳は、八幡市八幡荘志水に所在するが、前方部が削平され、後円部が現在“松花堂庭園”の築山になっているものの、古墳の風情は残っていない。

松花堂庭園は、江戸時代初期に華やかな寛永文化人の中心的存在として活躍し、後世に名を馳せた、“松花堂昭乗”ゆかりの庭園で、現在でも癒しのポイントとして親しまれている。

現在では、車塚古墳よりは史跡・松花堂庭園の方が良く知れ渡っている。

そこで先ずは、松花堂庭園を紹介する。









写真は上から、松花堂庭園入口の史跡石碑、内園の光景、本庭園の草庵及び泉坊書院の光景。

本庭園は、約2万2千㎡の広大な敷地を持ち、露地庭や枯山水で構成され、梅花・椿花・若葉・深緑・紅葉など四季を通じて優美な景観が観られる。

内園の中心には写真の通り、草庵茶室や書院があるが、明治初期の廃仏毀釈によって、男山にあった松花堂・僧坊など仏教系に関する施設はすべて取り払われて、明治24年に、名園として名高い小堀遠州設計の庭園と共に、草庵の茶室・方丈・泉坊書院・玄関がこの地に移築復元されたと云う。

小堀遠州が愛した“綺麗さび”の世界が再現されている。

京都府登録文化財になっている玄関をくぐると、目の前に茶室を兼ねた草庵と並んで書院がある。

周囲には珍しい40種類ほどの竹や200種にも及ぶ椿などにより“洛南の名園”として高い評価を得ていると云う。





写真は、四季折々の食材を活かした、典型的な松花堂弁当。

四季折々の景色を楽しみながらいただく、松花堂弁当の発祥の地でもあり、風雅を好む文化人さながらの優雅なひと時をエンジョイできる。

昭和初期に料亭“吉兆”の創始者が当地の松花堂を訪れ、四つ切箱をヒントに懐石料理を盛り付け、世に出されたのが松花堂弁当の始まりらしい。

松花堂庭園に隣接して、“吉兆松花堂店”が店構えをしている。


京都市東山区の八坂古墳とは!そのⅡ

2009年10月20日 | 歴史
京都市の八坂古墳巡りを更に続けます。

八坂神社の古層には、現在の本殿下に霊泉があり、古くから水が勢いよく立ち昇る地として、水神あるいは龍神信仰があったと考えられている。

八坂神社創祀は、諸説あるが社伝では、656年(斉明天皇2年)と伝えられ、平安遷都がなされた794年(延暦13)以前よりこの地に祀られていたとされる。

また、869年(貞観11年)疫病流行の際、当社の神にお祈りして始まったのが祇園祭で、朝廷からも厚く尊敬されたと云う。

一方、民衆の信仰も深く京都はもとより全国に広く崇敬されるようになった。現在ではこの神を祀る神社は全国に3,000余社に及ぶと云う。





写真は、高台寺東奥の傘亭・時雨亭の東側裏山に横たわっている八坂古墳。

保存状態がよくないので古墳群の全貌はわからないが、八坂方墳は一辺約40m・高さ約3mの大きさで二段築成され、埴輪列が認められるが、内部主体部は不明。

方墳としては京都盆地では例がなく、古墳時代中期の方墳では京都盆地で唯一のものらしい。

因みに傘亭と時雨亭は、高台寺の1789年再建以来、度重なる火災を免れた、国指定の重要文化財。

この古墳と系譜的につながる首長墓が他に存在したとみられるが、東山山麓から平野部にかけては早くから開発が進んだため破壊され、将軍塚古墳群中の一基を除いて、完全な形で確認できていないと云う。



京都市東山区の八坂古墳とは!そのⅠ

2009年10月17日 | 歴史
八坂古墳群と呼ばれる、首長の墓と見られる古墳群が東山山麓にある。
古墳群周辺は、早くから開発が進んだために、古墳群は破壊されたと見られる。

先ず東山山麓の周辺環境を概観してみると、
東山からの土砂は、このあたりにも扇状地をつくり、四条通りの南座から八坂神社に向かっても、叉五条通りや七条通りも、みな東へ登りになっている。





写真は、東山山麓から眺める京都市内夜景及び泉涌寺と裏山の光景。

鴨川から東へと坂道が続く東山の麓からは京の都を広く展望することができ、叉東山山麓は古くから皇室との関わりの深いところ。

泉涌寺は皇室の菩提寺として知られ、その山懐には多くの天皇・皇族の陵墓があり、京の都最大の伽藍を誇り、紅葉で名高い東福寺も歴代天皇の帰依を受けてきたと云う。

東山山麓と云えば、八坂神社周辺には古墳時代前期から中期にかけて、将軍塚古墳群や八坂古墳群などの首長の墓群が築造され、その後、渡来氏族の八坂氏が居住するようになったと云う。





写真は、八坂神社境内及び円山公園から望む高台寺東側の八坂古墳方面。

当古墳周辺一帯を支配した古代豪族・八坂氏との関連が注目されるが、八坂氏は、八坂神社や法観寺を建て、5世紀頃に京都府南部にいた高麗氏が北上してきたものと考えられている。

八坂氏は、高句麗人を始祖とする渡来系氏族で、山城国愛宕郡八坂郷に居住したので、後日地名をとって氏族名にしたと伝えられている。


京都市左京区の植物園北遺跡とは!

2009年10月15日 | 歴史
植物園北遺跡は、植物園の北側一帯に広く分布する大規模な集落跡で、昭和54~56年にかけて行われた下水工事の際に発見された。

遺構は弥生時代後期から古墳時代にかけての集落遺構が中心で、竪穴式住居が多数検出されている。

植物園北門前の北山通りは、今日では、歴史に培われた伝統的な価値を守りながら、新しい生活文化を受け入れるという、柔軟な感性が見受けられる。



写真は、現在のモダンな北山通りの光景。

北山通り沿線には、コンサートホール・教会などの文化施設・先鋭的な建築作品が点在し、ノートルダム女子大・京都工芸繊維大学など学生の町でもあり、叉名刹の近くに洒落たカフェ・現代的な構えのレストラン・ブティックなど洗練されたスポットで形成され、千年の時空を超えて、最先端につながる多様性こそが、古都の魅力でもある。





写真は、北山通り北側を走る丘陵の光景と立並ぶ住宅及び僅かに残る田園風景。

北山通り沿線の都市化・モダン化の一方で、過密な宅地化が北洛地方にまで浸透し、政令都市の中でも突出した人口密集は自然と緑地を蝕み、かつては田園地帯であり、狩猟もできたという当時が偲ばれるが・・・・。





写真は、植物園北遺跡の発掘現場光景及び現在の植物園北門前の様子。

植物園北遺跡は、京都盆地では弥生時代最大の集落跡で、神武天皇東征に従って西賀茂に住んだとされる上賀茂神社の祭神・賀茂建角身命(かものたけつのみのみこと)との関連が指摘されていると云う。

奈良・平安・鎌倉・室町の各時代の遺構も検出されており、特に住居跡は三重に重なっており、3世代に亘り続いた、大規模かつ長期間集落で、上賀茂・下鴨の中間にあたることから、“賀茂氏”にゆかりのある遺構とも考えられている。

賀茂氏は、飛鳥時代よりこの地に栄えた豪族で、上賀茂神社・下鴨神社は賀茂氏が奉祭する神社で、加茂川(鴨川)などの地名の由来にもなっており、平安京が造営される以前より、この地が賀茂氏の支配する土地として認知されていたことが窺える。

5世紀前後に、賀茂氏が北山の麓に住居群を形成したと伝えられている。

この当時、肥沃な農耕地を求めて、移住者が増えたと見られ、特に本格的な稲作農業の伝播に伴い、米を中心とした食糧の安定確保を睨んで、当地への人口流入が進み、住居群の形成に繋がってと考えられる。

当地からは、古墳時代前期の竪穴式住居9棟,平安時代末から鎌倉時代の掘立柱建物4棟が検出されている。

叉縄文前期(紀元前6000年ごろ)の万能ナイフ・石ヒも見つかった。ほぼ完全な形で、山野を駆けめぐった縄文人の息吹を伝えている。

石ヒは横幅約7cm・高さ約4cmの三角形で、三辺にそれぞれ刃が刻まれ、多目的に使用されたと見られ、刃は現在でも切れそうなほど鋭さを保っていたと云う。

更に、遺跡周辺では“落とし穴”とみられる縄文中期の遺構も見つかっており、狩り場だったと見られる。

と云うことで、石ヒは「獲物の皮をはいだり、持ち帰ろうとして現地で肉を分解するために用いたのだろう。狩りの合間にでも落としたのかもしれない」と考えられている。

いずれにしても、今回の発見は、改めて伝統維持と新規開発のバランスある共存の重要性を考えさせるものと云える。





京都市左京区の岩倉忠在地遺跡とは!

2009年10月13日 | 歴史
これから暫くは、京都府を南下して再び京都市内、更には八幡市へと、京都府の古墳巡りは続く。

先ず岩倉忠在地遺跡は、京都市左京区岩倉大鷺町に所在するが、同志社中・高校の校舎建設に伴う発掘調査の結果、弥生時代後期末~古墳時代初頭(3世紀前半)の集落跡が出土。

平成20年8月以降の発掘調査で、方形の竪穴住居跡や掘っ立て柱建物跡が計5棟出土したが、過去の調査でも竪穴住居跡8棟が見つかっており、岩倉盆地に中規模以上の集落が広がっていたことを示している。









写真は上から、岩倉忠在地遺跡の発掘調査の光景2点、平成21年9月現在の同志社校建設中の比叡山が覗く遺跡現場及び同遺跡周辺から望める比叡山の光景。

同志社中学校・高校の校舎建設に伴い約9,000㎡を調査したところ、5棟の遺構周辺では壺や鉢などの土器が捨てられていたと云う。

3世紀頃、ヤマトでは纒向遺跡を中心にいくつかの在地首長・豪族からなる連合政権が成立した。このヤマト王権は、4世紀中頃までには東・西日本一帯にまで勢力を広めた。

それに応じて京都も、“ヤマシロ”(山代、奈良時代には山背、平安時代には山城と表記される)と呼ばれ、ヤマト王権の勢力圏に巻きこまれていったと云う。それに呼応するかのように前方後円墳が築かれていった。

竪穴住居はいずれも一辺約5mの方形で、掘立柱建物跡1棟や大量の土器を捨てた沼跡も見つかったと云う。

土器の分布や地形からみて、集落の大きさは南北約250m・東西150mほどあり、3世紀前半の集落とみられ、遺構の重複がないことや土器形式から、数10年ほど存続したらしい。

平成17年の発掘調査でも、同時代の竪穴住居跡が確認されており、約2~3haに集落が広がっていたと見られている。

同遺跡は、岩倉では唯一の集落跡で、過去には土器製作に使われたとみられる、同時期の粘土塊や焼け落ちた土葺き住居が見つかっている。

ヤマシロ地方ではこの時期、京都市左京区の植物園北遺跡など、それまでなかった所に集落が営まれることが分かっており、背景として人口増加などが指摘されている。

この当時、肥沃な農耕地を求めて、ヤマシロ地方に移住者が増加したと見られ、特に稲作農業が、西日本一帯に急速に伝播していった当時、米を中心にした食糧の安定確保を睨んで、人口移動が進んでいったと考えられる。


京都府亀岡市の坊主塚古墳とは!

2009年10月10日 | 歴史
坊主塚古墳は、亀岡市馬路町に所在する、平地に築かれた一辺約34m・高さ約5mの方墳で、墳丘は葺石で覆われた二段築成となっている。

1956年の発掘調査により、多くの福葬品が発見された。四神四獣鏡をはじめ冑・頸甲・肩甲・鉄剣・鉄鏃などのほか、須恵器片も見つかり、これらの発見調査から坊主塚古墳は、5世紀後半に築造されたと考えられている。

国指定史跡の千歳車塚古墳西側の道を北へ進むと“平の沢池”に出るが、そこから西に進むこと約600mのところに坊主塚古墳は立地している。







写真は上から、平の沢池のうち中池と下池境の堤、荒廃とした坊主塚古墳の墳丘及び看板が見える本古墳の近景。

1辺が約34メートルの方墳で、主体部は組み合わせ式木棺が直葬され、武具や装飾品を含め、豊富な副葬品が出土しており、叉墳丘には円筒埴輪が立てられていた。

車塚北西1.5km小さな丘の南側麓近くの水田中にある方墳で、完全裸の状態で墳丘も良好。発掘調査では周溝と葺石が確認され、叉南側では造出しの存在が予想されている。





写真は、本古墳から出土した、銅鏡・玉類・馬具・鉄製品・須恵器をはじめ円筒埴輪。

坊主塚古墳のすぐ西側にある方墳の“天神塚古墳”は、竹薮の中で詳細不明。



写真は、竹林そのものが天神塚古墳。

この坊主塚古墳の北西約100mのところに、坊主塚と並ぶように築かれているのが天神塚古墳で、1辺約30m・高さ約5mの方墳で、ここも二段に築成されている。

詳しいことは分かっていないが、坊主塚と同じ時期に築かれたものと見られ、一族あるいはその系列の墳墓と見られている。

この2の古墳の背後の丘陵には円墳27基からなる群集墳・池尻古墳群がある。



写真は、池尻天満宮全景。

池尻の集落は呉弥山の南側にあり、池尻天満宮は、その呉弥山の麓に鎮座する。
付近には5世紀後半の坊主塚と天神塚の2基の上円下方墳がある。呉弥山には円墳27基からなる群集墳、池尻古墳群がある。

最近、坊主塚古墳の前方から、大きな古代建築物の跡が見つかり、背後に墳墓を従えた建物としてみるとき、この地を支配していた豪族の存在が注目されることになった。

ここの北方、三俣川の右岸に、この地方では珍しい帆立貝式の前方後円墳・糠塚古墳があり、5世紀ごろ築造の全長約65mの大きな古墳と見られるが、これまた詳しいことはわかっていない。

亀岡にはこのほか、亀岡地域の初代首長墓と思われる向山古墳(4世紀後半)もある。

ところで、当地名の“馬路町”には、馬路の小豆と言われるものがあり、これは延暦13年、桓武天皇が京都に都を遷されたころより、丹波出雲の国、馬路の豪族が、上京の折々、この生頭を宮中へ献上されてきたと伝えられていると云う。





京都府亀岡市の出雲遺跡とは!そのⅡ

2009年10月08日 | 歴史
亀岡市の出雲遺跡巡りを続けます。

同遺跡で古墳時代前期から中期の竪穴住居跡3棟が見つかったと発表した。

最大の住居跡が約7m四方で、約500m西には、地域の支配者の墓などとして5世紀後半から築かれた“時塚古墳群”(同市馬路町)があり、市教委は「古墳の造営と周辺集落の関係を知る上で貴重な成果」としている。

円墳は直径約19mで、副葬品などから古墳時代前期の築造と判明。地名から「出雲武式(ぶしき)古墳」と名付けられた。

この円墳を囲む周壕の北部から薄緑色の石釧が見つかった。



写真は、本古墳から検出された石釧。

緑色凝灰岩で造られており、直径約9cm・高さ約2cm。石釧は当時、貴重な器具で、有力者の副葬品として用いられたという。

口丹波の古墳で、石釧の発見は3例目。
丹波ではこれまでに、同時期の垣内古墳と向山古墳(亀岡市篠町)で石釧が発見されている。

各古墳の規模や出土遺物などから、垣内古墳を造った口丹波の最有力首長のもとで、出雲武式古墳と向山古墳の首長が地域を治めていたと考えられている。

亀岡市は、亀岡盆地及び周辺山地を中心に位置し、亀岡盆地のほぼ中央を大堰川・保津川(桂川)が流れる。

亀岡盆地は、太古では大きな湖であり、風が吹くと美しい丹色の波が立ったところから、このあたりを丹波と呼ぶようになったとされる。

出雲神話で有名な大国主命が亀岡と嵐山の間にある渓谷を切り開いて水を流し土地を干拓して、切り開いたという伝説が残っており、出雲大神宮の祭神となっている。



写真は、式内社の出雲大神宮。

出雲大神宮は、丹波国の中心地である亀岡の地に丹波国一宮として鎮座する。

日本建国は大国主命の国譲りの神事によるが、丹波国は出雲・大和両勢力の接点に位置し、一宮として出雲大神宮があることは、遥かに日本建国の頃を想はせる。





京都府亀岡市の出雲遺跡とは!そのⅠ

2009年10月06日 | 歴史
出雲遺跡は、亀岡市千歳町に所在する、弥生時代後期(2世紀後半)から古墳時代に属し、平成19年7月の発表では、ここから六角形の竪穴住居跡が見つかった。







写真は上から、出雲遺跡の2年前の発掘現場。圃場整備事業に伴い、田圃に様変わりした現在の姿及び周辺の亀岡盆地田園風景。

竪穴住居は、円形か四角形が大半で、六角形は珍しく、丹波地方で4例目と云う。

府教委は「有力者の住居か集会所のような建物で、集落の中心的な施設!」と推測している。六角形の住居跡は対角線の長さが7.8~8m・一辺が4~5mで、広さ約50㎡。

平地から約50mの高さの丘陵斜面にあり、当時主流の水田耕作を中心とする生活には不向きだったらしい。

この住居跡は盆地を見下ろす山の中腹に造られていた。

邪馬台国が日本国内を統一する直前の「倭国の大乱」の時期にあたり、「防御性の高い土地に住むことを強いられた状況がうかがえる」としているが、住居の中には使える状態の土器がそのまま残されていた。

倭国動乱の中、敵が迫ったため、住民が何も持たずに逃げ出した可能性もあると見られる。

これが大乱による緊急避難の痕跡かどうかはわからないが、生活必需品を置き去りにしているところを見ると、何か切迫した状況であったことには間違いない。

住居跡の中からは甕や壺など土器類15点が確認された。いずれもほぼ完全な形で残されており、散らばった状態の米も数多く見つかった。米はすでに炭化していたが、脱穀されていたと云う。

こうしたことから府教委は、住居は住民がいなくなって、そのまま放棄されたと判断。しかし、まだ使用できる貴重な甕や壺をそのままにして住まいを放棄するのは、当時としては異例で、これまでの発掘調査でも火災を受けていないケースはほとんど確認されていないという。

「魏志倭人伝」などによれば、邪馬台国の女王、卑弥呼が倭国を統一する前、日本国内は100国以上に分裂、戦いを繰り広げていた。

発掘調査で見つかる、この時期の竪穴住居には、戦闘で火災に遭い焼け落ちた状態のものもあるが、今回の遺構には火災の跡はなかった。



京都府京丹波町の塩谷古墳群!そのⅡ

2009年10月04日 | 歴史
京丹波町の塩谷古墳群巡りを、更に続けます。

本古墳は平成元年に、府営ため池整備工事中に発見され、発掘調査の結果、本古墳群最大の5号墳から、5~6世紀の襲(おすい)を羽織る2体の巫女型人物埴輪が出土。





写真は、本古墳5号墳から出土した2体の巫女人物埴輪及び公民館で展示された巫女埴輪のレプリカ。

巫女人物埴輪の衣装は、古代人の祀り・祈りを物語る象徴的な遺物で、中でも襲は、古代の衣服の一で、頭からかぶって衣服の上を覆い、下は裾まで長く垂れた衣をいうらしい。

2体の巫女埴輪は、京都府の文化財に指定されている。





写真は、巫女埴輪の拡大像及びデザイン性に富んだ、八頭身美人の輪郭。

この埴輪は、高さが71.5cmほどで、髪は島田髷・筒袖の服とスカートのような女装をし、襲と呼ばれる布を羽織、その上から襷のような帯を着けているように見える。

首飾りがお洒落感覚を醸し出している。

両手に酒壷を持っていたとされるが、祈りの形にも見える。

卑弥呼の面影を髣髴とさせるような優美な姿には、当時の祀りの様子が垣間見える。

6世紀ころには「丹波」の名のつく女性が天皇の后となっている土地柄からも、巫女の支配力が及んでいたのかもしれない。

このような珍しい出土遺物を伴った古墳群を残すため、平成3年に“京都府ふるさと環境整備事業”によって、塩谷古墳公園が整備されたと云う。

巫女埴輪は、太古の世界に迷い込ませるような錯覚を覚えるが、現在でも身近に歴史を感じ、親しめるスポットとなっている。


京都府京丹波町の塩谷古墳群とは!そのⅠ

2009年10月02日 | 歴史
京丹波町は、京都府のほぼ中央部、丹波高原に広がる自然豊かな農山村で、町全体の約83%を森林が占め、この間を縫って田園が広がっている。

古くから丹後・山陰街道を結ぶ交通の要衝として栄え、京阪神など大都市圏へ約1時間で移動できるなど、交通環境に恵まれている。

京丹波町の主要産業は農林業。丹波高原の気候風土を生かし、コメのほか、丹波地域特有の自然を生かし、丹波マツタケ・丹波クリ・丹波黒大豆・丹波大納言小豆など、全国に名高い丹波ブランド産品の主産地。

このような自然環境の中、塩谷古墳群は、京都府船井郡京丹波町曽根に所在する、京丹波町の指定史跡。

本古墳は5世紀から6世紀前半のもので、小高い丘の上にある、直径8mから最大15.5mほどの12基の大小の古墳から成る。









写真は、丘陵最頂部にある5号墳より北を望む、左右の自然環境・田園風景で、古代人の自然重視の世界観が窺い知れる。

古墳公園入口の古墳に登って眺望できるように階段が設けられた2号墳墳丘の様子と5号墳の墳丘。
5号墳は丘陵の最頂部にあることから、本古墳群の盟主として崇められていたと思われる。





写真は、本古墳群を見上げる遠景及び本古墳公園の入口看板。

全国的にも貴重な発見として、一躍脚光を浴び、古墳の保存を求める声が内外から高まり、ふるさと環境整備事業の主旨のもとに、自然環境・歴史環境を整備し、塩谷古墳公園として市民に親しまれている。