近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

古墳あれこれー継体天皇にまつわるストーリーとは!そのⅠ

2011年09月30日 | 歴史
今城塚古墳に関連して、継体天皇に関する最新情報を以下提供する。

滋賀県高島市鴨の天神畑遺跡では、これまで縄文時代から近世までの多彩な遺構・遺物が多数発見されているが、平成23年の調査では、弥生時代後期頃の、合流する2本の川跡近くからは「大壁造建物」が見つかった。







写真は、平成23年5月、天神畑遺跡の現地説明会風景、本遺跡から出土した国内最古と見られる大壁建物跡及び大壁建物のイメージ図。

本遺跡で、朝鮮半島からの渡来人が建築に深くかかわった「大壁建物」の古墳時代前期(4世紀後半~5世紀初め)の建築とみられる2遺構が見つかり、県文化財保護協会が発表した。

大壁造建物とは、柱と壁の両方の強度で建てあげる建物。

大壁造建物は渡来人がもたらしたとみられ、国内で約100カ所見つかっているが、ほとんどが古墳時代後期(6~7世紀)のもので、国内最古とみられる。

大壁造建物が見つかる遺跡は、渡来人の痕跡が見られるところが多く、渡来人の建築技法のひとつと考えられている。そのためか、今回の調査では同じく渡来系技法で作られた乾式系土器の破片が多数見つかっている。

同協会は「早い時期から渡来人が広範囲に活動していたことを示す貴重な資料」としている。

和風建築は柱と柱の間に壁を造るが、大壁建物は細い柱を骨材とし、壁の中に土で塗り固める。

これまでは、5世紀前半のものとみられる南郷柳原遺跡(奈良県御所市)の遺構が最古とされていた。

今回見つかった2ヶ所の大壁建物跡は、それぞれ縦約10m・横約12m。四方の外壁部に溝(幅約60cm)が残り、深さ約30cmの多数の穴があったことから細い柱を立てたとみられる。

溝から4世紀後半~5世紀初めのものとみられる土器が見つかり、古墳時代前期の可能性が高いと判断した。

神聖な場所とされた川の合流地点で、渡来人が祭祀を行ったと推測される。

日韓交流史に詳しい林博通・滋賀県立大名誉教授(考古学)は「朝鮮半島でもここまで古い大壁建物跡はほとんど見つかっていない。渡来人が早い時期から日本で、首長らの信頼を得て祭祀を行っていたことがうかがえる」と話している。

又近くの遺跡からも乾式系土器が出土しており、この辺りは渡来人と関係が深い村があったらしい。

更に当遺跡周辺は継体天皇とのゆかりが深く、継体天皇の父・彦主人王の根拠地とされており、歴史的に重要な土地であったと云える。

古墳あれこれー今城塚古墳公園オープン!そのⅢ

2011年09月28日 | 歴史
大阪高槻市の今城塚古代歴史観で観察できる、更なる貴重な発見について紹介する。





写真は、今城塚古墳の家形石棺蓋石の出土状況及び同古墳歴史観に展示された復元家形石棺。

出土遺物の中で特にユニークなのは、後円部の発掘調査で3種類の石棺材の破片が大小多数見つかり、それぞれ3基の家形石棺がおさめられていたと云う。

石材は、九州熊本の阿蘇ピンク石、兵庫の竜山石、大阪・奈良にまたがる二上山白石などいずれも凝灰岩製。

特に海路850km以上を運ばれてきた阿蘇ピンク石をはじめ、大王墓の築造にいかに広範な資材と労働力を結集した点は驚嘆に値する。

今城塚古墳は継体天皇陵であるという学説が最有力で、高槻市が史跡公園として整備し、隣接する今城塚古代歴史館とともに平成23年4月にオープンさせた。

陵墓・陵墓参考地治定されていないために、天皇陵に相応しいこれほどまでの発掘調査成果が上がったことからも、今後とも他の天皇陵についても、本格的な発掘調査の必要性が問われる。

同館の森田克行館長は「200点以上の形象埴輪が出土した例はほかになく、造形も優れている。古墳時代の儀式の様子がわかる生きた教材」と話している。

古墳あれこれー今城塚古墳公園オープン!そのⅡ

2011年09月26日 | 歴史
継体天皇陵とされる今城塚古墳の全容に迫ります。

10年間にわたる発掘調査で、日本最大級の埴輪祭祀場が見つかったが、そこに配置されていた埴輪類の数々を次に紹介します。









写真は上から、今城塚古墳出土の鷹飼人・武人・牛などの埴輪、祭殿風家・武人・太刀などの埴輪、祭殿風の家や巫女さん埴輪及び祭殿風の家・楽座の男子・盾などの埴輪。

今城塚古墳最大の特徴である、大規模な埴輪祭祀場は、復元埴輪でかつての壮大な姿のままに再現され、古代王権の儀礼を伝えている。

墳丘を取り巻く内濠は水が満ちているが、前方部側を水濠とし、後円部側は水面を芝生で表現した広場として、一般市民に開放している。











写真は上から、今城塚古墳外濠沿いに隣接した民家群、同古墳内濠を一部市民用に公園化している光景、同古墳西側の緑の芝で覆われた内濠沿いに後円部から前方部を望む公園のような光景、墳丘内の遊歩道光景及び後円部の石室跡地の様子。

同古墳に隣接する住民やビジターがいつでも自由に散策できる、将に遺跡公園として開放している。

更に墓陵墳丘内部にまで、自由に散策できる遊歩道まで設けられており、たまたま墓陵に治定されていないお陰で、墓陵資料にアクセスできる、全国稀に見る貴重な体験。



古墳あれこれー今城塚古墳公園オープン!そのⅠ

2011年09月24日 | 歴史
間違って治定された陵墓の一つ、今城塚古墳を一般市民に公開した公園が今年4月にオープン。ここからは、実質天皇陵の一部始終を詳しく紹介する。

今城塚古墳は、6世紀前半に築かれた、二重の濠を備える淀川流域最大の前方後円墳で、学術的には継体大王の陵墓と云われている。

10年間にわたる発掘調査では、日本最大級の埴輪祭祀場や、墳丘内石積・石室基盤工といった当時最先端の土木技術など、貴重な発見が相次いだ。

陵墓や陵墓参考地などによる規制がなく、一般市民に完全公開されているだけに、どうやって造られたのか、どのよう祀りが行なわれたか、誰が葬られているのかなどを具体的に考えることができる、唯一の大王墓としてかけがえのない歴史遺産と云える。

日本を代表する歴史遺産・今城塚古墳が、10年間ほどにわたる発掘調査と7年間に及ぶ整備工事を終え、広さ9haの緑豊かな古墳公園に生まれ変わった。

今城塚古墳に、家・太刀・盾・人物・動物など約190点の形象埴輪を発掘調査で確認された位置に復元配置。







写真は、今城古墳石碑と古墳遠景、古墳造り出しテラスに再現された埴輪祭祀場と埴輪行列の光景、外堤の祭祀場で家・太刀・盾・人物・動物など約190点の埴輪に守られた被葬者が眠る墳丘の様子及び前方部コーナーから後円部を望む墳丘光景。

継体天皇は531年に磐余玉穂宮で亡くなられ、摂津国三島郡の藍野の地(現在の高槻市辺り)に、陵墓を築いたとされる。

継体天皇が長年にわたり、勢力基盤とした琵琶湖・淀川流域の中でも、特に淀川北岸の三島地方を選んだのは、死後も安らかに護られる場所として当地を重視していたに違いない。

前方後円墳の形を再現しながら、戦国時代の1596年に直下型・伏見地震で墳丘直下を走る断層がずれたため、崩壊した墳丘の形状などを活かしていると云う。

二重の濠に挟まれた堤から外側にせり出すように造られた「埴輪祭祀場」から出土した破片から、写真のような祭祀場を復元。

両手を上げて祈ったり、杯を持ったりする巫女の埴輪もあり、亡くなった大王の魂を鎮めるために行われた儀式を表現したという。



古墳あれこれー間違って治定された天皇陵とは!そのⅤ

2011年09月22日 | 歴史
ここからは、文字通り間違って治定された天皇陵を検証してみる。

先ず中尾山古墳は、奈良県明日香村大字宇多に所在する終末期の八角墳で、周辺には高松塚古墳や天武・持統天皇陵など多くの終末期古墳が点在している。



写真の中尾山古墳は、高松塚古墳から僅か100m以内に位置する隣接古墳。

八角形・3段成で、周辺は3重の砂利石で取り囲まれている。

陵墓・陵墓参考地でもない、このような古墳群等を徹底調査してはどうかと考えるが・・・・・・・。

古墳時代終末期の7世紀中葉には中尾山古墳のように、突如として中央政権に天皇陵の墳形とされる八角墳が現われた。

八角墳であることや埋葬施設からも、かなりの有力者が葬られていたと考えられ、この古墳こそが真の文武天皇陵ではないかと言われている。

平面形が八角形古墳には、ほかに天智天皇陵古墳、天武・持統天皇陵古墳などがある。

古墳あれこれー間違って治定された天皇陵とは!そのⅣ

2011年09月19日 | 歴史
天武・持統合葬の後、平安時代~室町時代の天皇陵は、薄葬によって位置を特定することが困難なものや陵が置かれた寺院が廃滅したことによって所在が不明になってしまったものなどが多く、天皇陵の治定に関し、ますます歴史学的・考古学的信頼度は低下する。

後白河天皇の法住寺陵、後醍醐天皇の塔尾陵などのように近世にいたるまで管理され、伝えられたものはむしろ少数派。





写真は、京都市東山区の後白河天皇法住寺陵及び奈良県吉野町の後醍醐天皇塔尾陵。

現在天皇陵とされる古墳の中には、その天皇の治世と古墳の築造時期が大幅にずれている例が存在する。

継体天皇陵として治定されている太田茶臼山古墳はその典型例で、実際の築造時期は継体天皇の治世より約1世紀前にあたる、と推定されている。

逆に、天皇陵指定を受けていないが、考古学者によって天皇陵と推定されている古墳も少なくない。これらの古墳は指定を受けていないが故に学術調査が可能で、被葬者の特定が可能となった。

宮内庁は学術的信頼度については「たとえ誤って指定されたとしても、祭祀を行っている場所が天皇陵である」とし、天皇陵の治定見直しを拒絶している。

近年では、「墓誌など被葬者を特定できるような確実な証拠が発見されなければ、見直す状況にはならない」とし、証拠の発見など、状況によっては天皇陵の治定見直しを行う可能性もあることを示唆している。

考古学界も天皇陵指定を受けていない天皇陵と推定されている古墳に関しては、墓誌などが出土したわけではないので、あくまでも推定でしかないとの立場を取っている。

このため、学界内部に於いても、治定見直しを行うような論議は一切行われていない。

古墳あれこれー間違って治定された天皇陵とは!そのⅢ

2011年09月17日 | 歴史
ここでは、天皇陵として認知されている事例を紹介しています。

二つ目の例は、奈良県明日香村の天武・持統合葬陵です。

天武・持統合葬陵の墳形は、直径約50m・周囲約219m・高さ約6mの円墳または八角形墳で、現在はその頂上部だけが残されている。

石室は、南向きの全長7.6mほどの横穴式石室で、被葬者は天武天皇と持統天皇。





写真は、明日香村の天武・持統天皇陵の檜隈大内陵遠景及び同陵の拝所。

岡寺駅から県道155号線(多武峰見瀬線)を利用して明日香村に入る場合、「野口」交差点で右折して県道209号線(野口平田線)を南に下っていけば、野口の集落を抜けたあたりで右手の丘の上にこんもりとした森が見える。

天武天皇と持統天皇を合葬した“桧隈大内陵”である。

日本の古代史に興味を持つ者にとっては周知の事実だが、宮内庁によって陵墓叉は陵墓参考地に指定されている古墳は、そのほとんどで被葬者が確定されていない。

そんな中にあって、桧隈大内陵は、被葬者を特定できる数少ない陵の一つである。

被葬者が特定可能なのは、この陵の盗掘の様子を調査した記録が幸運にも残されていたため。

鎌倉時代の文暦2年(1235)、桧隈大内陵は盗掘にあっている。その盗掘の様子が実は詳細に調査され、記録として残されていた。

明治13年(1880)にその存在が明らかになった、「阿不幾乃山陵記(あおきのさんりょうき)」と呼ばれる記録で、陵墓内の石室・棺の大きさ・形状などを詳しく記している。

それによれば、ここには天武天皇の遺体を入れた棺桶と、天皇として初めて火葬にされた持統天皇の遺骨を納めた骨壺が葬られていたという。盗掘の話は、鎌倉時代の歌人・ 藤原定家の「明月記」にも見える。

天武天皇は、645年の乙巳(いっし)の変(大化改新)の立て役者・中大兄皇子(後の天智天皇)の同母弟で、大海人皇子と呼ばれていた人物。

皇子弟として兄の政権を助けたが、天智天皇が実子の大友皇子を寵愛するようになり、次第に政権から疎外されていった。天智天皇の病臥の床で皇位を託されたものの、これを固辞し、出家して吉野に隠遁した。

672年に天智天皇が崩御すると、大海人皇子は挙兵して近江朝の大友皇子を討った。これを壬申の乱という。

壬申の乱で勝利した大海人皇子は飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)で即位して天武天皇となった。

天武天皇は皇親政治によって中央集権国家体制を固めたことで有名。

『古事記』や『日本書紀』編纂の緒となる史書編纂事業を命じたのは、この天皇。

朱鳥元年(686)9月に崩御し、2年3ヶ月の長きに渡る喪のあと、この陵に葬られた。

持統天皇は、天武天皇の正妻で、生前の名を野讃良(うののささら)皇女といった。気丈な女性だったらしく、夫の吉野隠遁にも同行して苦楽を共にした。

朱鳥元年(686)9月、夫の天武天皇が亡くなると、翌月には我が子・草壁皇子のライバルである大津皇子を自殺に追い込み、草壁即位の安全を図った。

しかし、草壁皇子が若くして病死したので、遺児で孫にあたる軽皇子(後の文武天皇)が成長するまでの中継ぎとして、686年自ら持統天皇として即位した。

在位中は、天武天皇の遺業を受け継ぎ、飛鳥浄御原令を施行するなど、大化改新以来の律令国家建設に意欲を燃やした。

697年8月、軽皇子に譲位し、自らは太上天皇(皇位を後継者に譲った天皇に送られる尊号)となって若き天皇を支えた。

大宝2年(702)12月、58歳で崩御、荼毘(火葬)にふされ、夫の天武天皇が眠るこの陵に合葬された。

古墳あれこれー間違って治定された天皇陵とは!そのⅡ

2011年09月15日 | 歴史
天皇陵の比定違いとは逆に、既に天皇陵として認知されている事例を紹介します。

現在の歴史学的・考古学的知見に基づき同意できるものは、奈良時代までの天皇陵では、天智天皇陵・天武・持統天皇陵など数か所程度とされる。

ここで、天皇陵として認知されている、天智天皇陵と天武・持統天皇陵を以下紹介する。

→都市山科区の御廟野古墳・天智天皇陵

御廟野古墳・天智天皇陵は、京都市山科区御陵上御廟野町に所在する古墳時代終末期の八角墳。

広大な御陵周辺は、地名からして、御陵一色に染められている。天智天皇は、大化の改新のパートナー・中臣氏の邸宅があった山科に葬られたとされる。

又京都の山科に墓を造ったのは、天智天皇が馬で山科に行った時、行方不明のまま戻らなくなり、沓だけがここで見つかったので墓を造ったという伝承によるとも云われている。

山科は、京都市街地の東側にある山科盆地の北部と、周辺の山地を範囲としている。

東海道の街道町で、江戸時代には特に栄えたらしい。東側は滋賀県大津市との県境に接し、南側は伏見区醍醐地区と接している、閑静なベッドタウン。







写真は、琵琶湖から流れる、琵琶湖疏水・山科疎水の風景と、天智天皇陵への誘導路と参道。

天智天皇陵の直ぐ北側には、写真のように、松並木に囲まれた琵琶湖疏水の流れが見えるが、当地は隠れ桜の名所としても知られている。

考古学的には御廟野古墳と呼ばれているが、実際は宮内庁管理下の陵墓であり、上円下方墳で、下段が方形、上段が八角形の古墳。

八角形の規模は、上円対辺長約46m・下方辺長約70mを測ると云う。











写真は上から、御廟野古墳・天智天皇陵の案内板、陵墓正面、側面ビュー、石碑及び天智天皇ゆかりの日時計碑。

周囲に玉垣をめぐらした上円下方墳で、入口に天智天皇が日本で最初に時計を作ったという故事にちなんだ、石造りの日時計がある。

御陵が上円下方墳で、上円部が八角形という特殊性は感じ取れない。

本古墳は、被葬者の実在性について、天皇陵古墳であることに問題がないと云われているだけに、「天智天皇陵」と呼称しても、間違いのない古墳。

このような古墳は非常に稀で、他には天武・持統合葬陵の“野口王墓”があるだけらしい。

八角墳は7世紀の中葉になると、大王墓のみが営むようになり、現在知られているかぎりでは、天智天皇陵のほかは、奈良県桜井市の段ノ塚古墳の現舒明天皇陵、上述の奈良県高市郡明日香村の野口王墓の現天武・持統陵、一般に文武天皇陵と考えられている奈良県明日香村の中尾山古墳だけ。

日本では初めて大王に、八角墳という固有型式の陵墓が出現したといえる。

第38代・天智天皇は、別名・天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと)で、大化改新で知られている中大兄皇子。

天智天皇(626~671年)の皇子時代の名は中大兄皇子で、中臣鎌足らとクーデターを起こして蘇我入鹿を暗殺、大化改新を成し遂げた人物として有名。

663年、百済復興を目指した白村江の戦いで大敗を喫した後、大津へ遷都して大津宮で即位。

歴史的には天智天皇は671年12月、大津宮で崩御。御陵の土地選定中に皇位継承をめぐり、息子の大友皇子と弟の大海人皇子(天武天皇側)との間に壬申の乱が起こり、反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱であった。

天智天皇の死後28年後にようやく御陵造営が始まったらしい。

天智天皇の死は、弟の大海人皇子による暗殺という説もあるらしい。





古墳あれこれー間違って治定された天皇陵とは!そのⅠ

2011年09月13日 | 歴史
これからは、古墳あれこれと題して、古墳をいろいろな側面から観察してみたい。

先ずは、陵墓に指定されている古墳のうち、大阪・奈良地方には、天皇陵は41基・皇后陵は11基・皇太子などの墓は34基所在する。

全国的には、宮内庁管理の陵墓が、北は山形県から南は鹿児島県まで1都2府30県にわたって所在しており、歴代天皇陵が112・皇后陵など76で計188、更に皇族等の墓552基を数える。

これら陵墓は現在も皇室及び宮内庁による祭祀が行われており、研究者などが自由に立ち入って考古学的調査をすることができない。調査には宮内庁の認可を要するが、認可されて調査が実際に行われた例は数えるほどしかない。

現在の天皇陵比定とは裏腹に、実際に葬られている人物(天皇とは限らない)が誰であるかはほとんど分かっていないのが現状で、それが考古学・歴史学の常識でも有る。

実際に、天皇陵として比定されていない古墳で、確実に大王墓である古墳が数多く有る。

箸墓(280m)・西殿塚(220m)・メスリ山(230m)・桜井茶臼山古墳(210m)・土師ニサンザイ(290m)・今城塚(190m)・見瀬丸山(310m)・牽牛子塚(八角墳)など。

纏向の5つの纏向型の前方後円墳もその当時の首長の墓であることは間違いないと思われる。





写真は、メスリ山古墳空撮及びみかん畑越しの同古墳の森。

桜井市のメスリ山古墳はあまり著名ではないが、一度橿原考古学研修所へ行って見れば分かる通り、メスリ山古墳も大王墓以外の何物でもないと云える。

記紀が正しいとすれば、現在の天皇陵の中に、上述した大王墓だけは、確実に間違って比定されているはず。

中でも、今城塚古墳は、ほぼ確実に継体天皇陵であるといわれているもので、大王墓の中で唯一実年代が確定している古墳であると云われている。その代わりにはじき出されたのが、茨木市の現継体天皇陵・大田茶臼山古墳。





写真は、太田茶臼山古墳空撮及び同古墳サイドビュー。

写真の通り一重の周濠を巡らした、全長約226mの5世紀代の前方後円墳。

この古墳にはいったいだれが眠っていることでしょう?

また、牽牛子塚古墳は、斉明天皇と娘の間人皇女の合葬陵であるという説がかなり有力だし、見瀬丸山古墳は確実に大王墓ではあるものの、欽明天皇陵か宣化天皇陵かで意見が割れている。

欽明天皇陵も宣化天皇陵も別の古墳が当てられているので、この二つの内のどちらかは確実に別人の墓という事になる。もっとも、両方とも別人というのが一番確率は高いかもしれないが。

継体天皇が6世紀前半、宣化・欽明天皇が6世紀中頃から末、斉明女帝に至っては7世紀中頃。記紀の記述は6世紀頃からはそろそろ信用出来るといわれているが、その時代にしてこのありさま故、それ以前の天皇陵の比定の信頼性など無いも同じと云える。

記紀はともに、仁徳・履中・反正の三代の陵が『百舌鳥(耳原)』にあると記している。

そして、仁徳陵を『百舌鳥耳原中陵』、履中陵を『百舌鳥耳原南陵』、そして反正陵を『百舌鳥耳原北陵』とする延喜式の記述に基づいて、仁徳陵に百舌鳥古墳群の中央にあり、最大の大仙陵古墳(486m)をあて、その南の上石津ミサンザイ古墳(365m)を履中陵に、そして北の田出井山古墳(148m)を反正陵にあてている。

すぐ分かる通り、この時期としては田出井山古墳は極端に小さい大王墓ということになる。

このサイズでは、崇神天皇の時代であっても、黒塚古墳などと同じ規模の臣下の墓と見なされる。

行燈山古墳・崇神天皇陵の場合は、その陪冢の南アンド山古墳ですら100mを越えていることから、田出井山古墳がいかに小さいかが分かる。

それでも、百舌鳥古墳群では、大仙陵古墳より北ではこれが最大規模の古墳。

そして、実は百舌鳥古墳群には田出井山古墳よりはるかに規模の大きな古墳が存在している。その古墳は全長約290m、渋谷向山古墳に次ぐ全国第8位の墳丘長を有する、土師ニサンザイ古墳。

土師ニサンザイ古墳の規模は、百舌鳥古墳群中で大仙陵・上石津ミサンザイの両古墳を除く他の古墳を圧倒しており、誰かは別にして大王墓であることはほぼ間違いないと云える。



写真は、堺市百舌鳥古墳群の位置関係。

写真のように、仁徳陵・履中陵・土師ニサンザイと三陵の位置を見比べた時、大仙陵古墳を『中陵』と呼ぶのは相当無理がある。

更にもう一つ深刻な事実が待っている。仁徳陵・大仙陵古墳と履中陵・上石津ミサンザイ古墳の墳丘上の円筒埴輪の形式を比べた結果、上石津ミサンザイ古墳の円筒埴輪の方が明らかに古い形式。

土器や埴輪の編年というのは、絶対年代に関してはかなり信頼性が低いものだが、相対編年については非常に精密なものとされている。

従って、大仙陵古墳を仁徳陵とした場合、上石津ミサンザイ古墳は履中陵ではなく、仁徳天皇以前のいずれかの大王墓となってしまう。

この場合は、記紀の伝承が誤りとしなければならず、また、仮にそうだとした場合、上石津ミサンザイ古墳の適当な被葬者は見つからない。


古墳時代に文字出現!

2011年09月11日 | 歴史
これからは、古墳に関するトピックスを多面的に紹介する。

先ずは文字の出現に関するホットニュースで、三重県嬉野町中川の片部遺跡は古墳時代前期の遺跡で、ここから出土した土器に4世紀前半とされる日本最古の文字が発見された。





写真は、三重県嬉野町の貝蔵遺跡発掘現場及び同遺跡から出土した、“田”と記した墨書土器。

土器は口径約12cm・高さ約7cmで、土師器と呼ばれる素焼きの壺で、口の部分に墨と筆で書かれたと見られる文字が確認された。

これまで日本最古の文字とされていたのは、千葉県稲荷台1号墳出土の鉄剣に刻まれていた銘で、5世紀半ばとされている。

これより古いものもあるが、それらはいずれも大陸から伝来したもの。

墨書文字は更に新しく、7世紀の奈良県の木簡が最古とされてきた。

今回嬉野町で見つかった墨書文字は、それらを300年ほども遡り、古代の文化水準に対する認識のみならず、古代史そのものの再検討もあり得る大発見となった。

考古学の専門学者による検討委員会は、平成8年1月に文字が「田」である事、4世紀前半という古い時代に日本で作られた土器であることなどを発表した。


奈良県明日香村豊浦町の豊浦宮とは!そのⅡ

2011年09月09日 | 歴史
明日香村豊浦町の豊浦宮跡巡りを続けます。







写真は、推古天皇の明日香村小墾田宮跡看板と後方に見える宮跡の土壇、同宮跡から望む三輪山光景及び宮跡から田畑越しに望む畝傍山光景。

603年に、推古天皇は新しく造営された小墾田の宮(“おはりだのみや”と読み、写真のように明日香村豊浦の田圃の中に残る)へ移り、豊浦の宮の跡地には豊浦寺が建立された。

飛鳥の地に最初の宮が営まれた意義は大きい。その後は難波(大阪市)、朝倉(福岡県朝倉町)、大津(滋賀県大津市)に一時的に宮を遷したこともあるが、694年に藤原京に遷都するまでのおよそ100年間飛鳥は王城の地として栄えることになる。

福岡県朝倉町には、661年斉明天皇が朝鮮半島の百済国救済に出兵の際、この地の“朝倉橘広庭宮”に移られて行官が置かれた。

叉667年には、天智天皇が近江大津宮に遷都した。

即位した翌年の593年に、推古天皇は聖徳太子を皇太子に立てて、国政をすべて任せたと、『日本書紀』は伝える。

従来からさまざまな説を生んできた問題の箇所であるが、現在の通説では、我が国の古い時代には、天皇の生存中に後継者を指名する制度はなく、皇太子制が成立するのは飛鳥浄御原令(689年制定)からであるとされている。

こうした通説に従うならば、聖徳太子の立太子の記事は『日本書紀』編者の捏造ということになる。

しかし、反論もあり、未曾有の政局の混乱を収拾するために苦肉の策として、推古女帝を登場させた裏には、推古天皇は不摂政を条件とされた、と推測される。

そのため、後代のような皇位後継者としてではなく、実際に女帝に代わって政務を総覧する皇族として、聖徳太子が指名された可能性は十分あると思われる。

すでに聖徳太子は20才の青年皇族に成長していた。

ここからは飛鳥時代の幕開け当時の政争について、概観する。

元々は蘇我氏と物部氏の宗教上の争いに端を発し、推古天皇と聖徳太子が歴史の舞台に登場した。

人民には仏教を伝えたが、自国ではあまり仏教が盛んでなかった百済が衰亡の一途をたどり、逆に仏教信仰が盛んで多くの寺を建てていた新羅が栄えていたのを見て、「これは仏教の力だ」と蘇我氏は考えたと云う。

さらに、次々と朝鮮半島から渡来人が流入する中で、人々をまとめ上げる宗教として日本古来の神祇(じんぎ)信仰だけではなく、仏教が必要である、と考えたらしい。

こうして蘇我氏と神祇信仰を説く物部氏の争いはエスカレートしていった。

571年、第29代欽明天皇没後、その息子の敏達天皇、用明天皇が相次いで病死し、後継者を誰にするかで大激突したと云う。

物部守屋は欽明天皇の息子である穴穂部(あなほべ)皇子を、蘇我馬子はその弟である泊瀬部(はせべ)皇子を推薦し、激突したと云う。

そして587年、蘇我馬子は穴穂部皇子を暗殺するという強行策に打って、さらに豪族をまとめ上げ、物部守屋を激戦の末に討ち取ることに成功した。

当初は蘇我氏側が劣勢だったが、ここで神秘的な力を発揮したのが14歳の厩戸皇子(うまやどのみこ)、いわゆる聖徳太子だったといわれている。

用明天皇の息子である聖徳太子は、木で仏像を彫り、兵士達の心の拠り所とすることで士気を高め、一気に戦局を覆したと云う。

こうして蘇我馬子は泊瀬部皇子を即位させ(崇峻天皇)、さらに飛鳥の地に飛鳥寺(法興寺)を建立し仏教の拠点とした。

しかしその後、馬子が「崇峻天皇は自分を嫌っている」と警戒し、592年部下に暗殺させた。

そして欽明天皇の娘で、敏達天皇の后だった炊屋姫(かしきやひめ)を即位させのが推古天皇で、19歳の聖徳太子を摂政につけ、さらに娘を嫁がせ義理の息子とし、馬子は朝廷の大実力者として政治を行うようになった。


奈良県明日香村豊浦町の豊浦宮とは!そのⅠ

2011年09月07日 | 歴史
歴代天皇の御宮跡は、確たる伝承・跡地が見当たらない例が多いが、その中でもそれらしき伝承・宮跡が残されている事例を、以下紹介する。

592年、豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)が、豊浦宮にて33代推古天皇として即位された。

その宮の跡地は、現在明日香村豊浦にある向原寺およびその近隣の地下に眠っていると云う。

飛鳥時代の幕開けであり、飛鳥の宮都が藤原京に移るまで100年余り続く。









写真は上から、推古天皇の豊浦寺跡の石碑のある向原寺入口、同宮跡の説明看板のある向原寺入口、同寺境内光景及び同寺下層で見つかった豊浦宮の建物跡。

推古天皇即位1ヶ月前、蘇我馬子が東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)を使って崇峻天皇を殺害するという前代未聞の事件が発生した。

当時崇峻天皇が内裏に多くの武器を集めているとの報から、馬子は、天皇が自分を嫌っているのではないかと恐れ、東国の調(みつきとは贈り物)を進上すると偽って、臨御した天皇を、部下の東漢直駒に暗殺させたと、「日本書紀」は伝えている。

群臣たちは敏達天皇の皇后であった、豊御食炊屋姫に皇位につくよう嘆願した。

しかし姫は何度も辞退したが、3度目の上表文でなおも懇願されたため、ついに群臣たちの要望に従ったという。

暗殺と云う大事件の直後の即位だったため、正式な推古天皇宮を造営する時間がなかった。

そのため、蘇我本宗家の邸宅の一画を仮宮とした程度のものだったと思われる。地形上、その範囲は最大でも150×80m程度と見られている。

これまでの豊浦寺の後身である、現在の向原寺で実施された発掘調査では、講堂や金堂の下層から、写真のように、石敷をめぐらす掘建柱建物や礫敷がみつかっている。

叉出土した瓦の類似性から飛鳥寺との関係が深いことや、遠隔地からも供給されていたことなどが判明したと云う。





写真は、向原寺一角にある難波池の由来を記す看板及び難波池を再現し、仏像を祀る難波池神社。

写真のように難波池神社で、池の中に鎮座するのは、無格社「難波池神社」で、豊玉比売命を祀る。

難波池の由来として、向原寺(豊浦寺)の一角に「難波池」と称される池があった。

この池は「日本書紀」に552年、仏教伝来の記事に廃仏派の物部尾興(ものべのおこし)が仏像を投げ込んだ難波の堀江であるとの伝承をもつ。

そして後世の記録には、この仏像が信濃(長野県)の善光寺に祀られたという善光寺縁起として語り継がれているらしい。





天王山・大山崎での天下分け目の合戦とは!そのⅡ

2011年09月05日 | 歴史
京都府大山崎での天下分け目の合戦について、今回の新発見を更に続けます。









写真は上から、秀光の山崎合戦時の防御用堀跡の発掘調査現場、同発掘現場の大阪成蹊大学校舎越しに望む天王山の光景、光秀本陣跡と今回の発掘調査現場の位置関係及び光秀の山崎合戦で急遽造られた堀跡光景。

同センターによると、長岡京市大阪成蹊大の構内を発掘し、南北26m・幅4~5m・深さ2mほどのまっすぐな堀跡が見つかった。

全長は北側の試掘調査と合わせると49mになり、終戦直後の航空写真から推測すれば400mほどにも及ぶという。

堀跡底からは16世紀の茶釜も出土した。

また、堀の断面は逆三角形や逆台形など場所によって異なり、場所ごとに分担して掘った跡もあったと云う。合戦に備え、大勢の兵を動員して突貫工事でと造ったのではないかと見られる。

堀の断面や堀の長さなどから、敵軍から攻められた際の最後の砦として、策を弄したと思われる。





写真は、大山崎町の天王山から望む山崎合戦の古戦場遠景及び天王山の戦い現場周辺の地図。

天王山の展望台からは山崎の古戦場や敵陣が真正面に俯瞰でき、明智軍が小泉川を天然の濠として有効に利用しなかったことや、天王山を奪取した羽柴軍からは明智軍の動きが手に取るように眺められ、合戦開始以前から羽柴軍が優位に立っていたことが窺い知れ、確かめられる。

天下分け目の決戦は、実際の合戦は城ではなく天王山東側の湿地帯で展開され、淀川沿いの名神高速道路・山崎JC附近の戦いで明智勢は総崩れとなり、日暮れた後には勝負を決し、破れた光秀はやむなく勝竜寺城に逃げ込み、夜が更けるのを待って少数の近臣と共に城を抜け出した。

近江・坂本城へ向かう途中、山科・小栗栖村で落ち武者狩りの土民の竹槍にかかり「三日天下」に終わったとされるのが通説。

しかし秀吉は織田信長に代わる「次の天下人」と期待され、織田家の家臣の大多数は秀吉の命令に服するようになった。これに対して柴田勝家は、滝川一益らと組んで信長の三男の神戸信孝を担ぎ、秀吉の天下取りを阻もうとした。

しかし丹羽長秀や池田恒興らと結んで、次男の北畠信雄を取り込んだ秀吉の優位は揺るがず、翌・天正11年(1583)4月の滋賀県・賤ケ岳の合戦で柴田勝家軍に圧勝した秀吉は、天下統一の足掛かりとして此処・宝寺山崎城に入り、天王山山頂に城を再構築し、天守も造られたとの記述が残る。

同・天正11年には大坂城築城が着手され、完成後に移るまで2年足らずで山崎城は廃城となったが、此処を本拠に城下町が整備され、千利休も屋敷を構えており、千利休が山崎の合戦前後に創作した茶室“待庵”が残っている。


天王山・大山崎での天下分け目の合戦とは!そのⅠ

2011年09月03日 | 歴史
これから2日間は、先日新たに長岡京市で発見された、光秀の巨大な隠れ堀跡に纏わるストーリーを、当時の天王山の合戦を辿りながら、振り返ってみたい。

天王山・大山崎要衝の地は、軍事拠点としても重要で且つ要害であった天王山の城・山崎城は、豊臣秀吉VS明智光秀「天下分け目の合戦」舞台となり、知られるところとなった。

天正10年(1582)「本能寺の変」で明智光秀によって織田信長と、二条城に居た長男の信忠が共に討たれた。

織田方の諸将は強敵・毛利方を攻めて遠くに居てすぐには動けないと読み、光秀は古い伝統を尊ぶ武将や寺院が立ち上がり、自分を支援してくれると思い込んでいた。

その間に畿内を制圧するつもりだったが、頼みにしている親戚の細川藤孝や大和郡山城主・筒井順慶の来援もなく、組下大名たちも離れていったことは光秀にとって大きな誤算となった。織田方優勢と見通し、寝返ったと思われる。

備中高松城を攻め陥落寸前だったが、本能寺の変を伝えられ、秀吉軍はすぐさま高松城主・清水宗治と毛利軍との和議を成立させ、驚くべき速さで京都を目指し中国街道を駆け抜けて、2日後には約70キロ東の姫路城に戻り【中国大返し】で軍備を整えた。

秀吉の下した的確な判断と迅速な行動が天下争覇の勝負を決したといえる。





写真は、大山崎町の天王山山頂に残る宝寺城天守閣跡の光景及び天王山の“秀吉出撃の道”沿いに残る石垣跡。

天王山山頂へはJR山崎駅をスタートし、宝寺(宝積寺)か観音寺を経由して山頂まで遊歩道が整備されている。

酒解神社の鳥居付近から宝寺城の城域となり、天王山頂には宝寺城の本丸・二の丸・土塁の残る井戸曲輪・本丸の三角点標のある少し高くなっている台地は天守閣の在った跡と思われる。

竹薮の中には数段の曲輪があるが、石垣の遺構が残っている。

“山崎の戦い”で主戦場となったのは、八幡市の男山(八幡山)と天王山との隘路部に近い小泉川周辺だが、「山崎合戦之地」と刻まれた石碑が建っているのは天王山の山上。

秀吉と光秀による天下分け目の合戦舞台となったのが大山崎の天王山と山麓周辺で、天王山の宝寺城と淀川対岸の男山を占拠して優位に立っていた明智光秀が、合戦前日に淀・勝龍寺城へ引き下がる消極策を採った為、天王山を占領した秀吉軍が明智軍の後方に回り込むことにも成功し、はさみ撃ちの格好となった。







写真は上から、長岡京市の勝竜寺城跡地の土塁痕跡、勝竜寺城の本丸復元公園及び大山崎町の光秀本陣跡案内板。

光秀軍は、京都府大山崎町の東北端に位置する、現在のサントリー京都ビール工場の裏手にある、御坊塚に光秀本陣跡を置いたと云う。

織田信長を倒して天下をとった明智光秀が、豊臣秀吉と戦った山崎の合戦の舞台となった京都府長岡京市で当時の大規模な堀跡が見つかったと、長岡京市埋蔵文化財センターが平成23年8月4日、発表した。

光秀が秀吉軍を迎え撃つために掘った防御用とみられ、すぐそばには陣地を築いたような跡もあることから、同センターは光秀の本陣跡がほぼ確実になったとみている。

この続きは、明日叉!




堺市の履中天皇陵に纏わる謎とは!そのⅡ

2011年09月01日 | 歴史
履中天皇陵に纏わる謎について、更に続けます。





写真は、履中天皇陵前方部の周濠で待ち受けているボート及び同天皇陵前方部から望むサイドビュー。

鳥居の下の濠際にボートが見える。恐らく、宮内庁の「式部職」か「掌典職」職員が渡岸する時のボーと思われるが・・・。

「実際に埋葬されている人物と指定天皇は違う」といくら考古学者が矛盾を指摘しても、謎の祭祀を続けることの不可解さを象徴するような、謎のボート?

一重の盾形周濠と堤がめぐっているが、平成6年に外側に幅10mほどの2重目の周濠が見つかっている。

江戸時代の記録では、後円部中央に大きな窪みがあったといわれていることから、すでに盗掘を受けている可能性がある。

履中天皇は仁徳天皇の第一皇子で、仁徳天皇崩御後に即位した天皇だが、考古学の発掘成果から、履中天皇陵は、仁徳天皇の陵墓に比定されている大仙陵古墳よりも古い時代に造築されたと考えられている。

ここで当時の情況を辿ってみると、先代の応神天皇は朝鮮半島に出征し、仁徳天皇は内政の充実に努めて、巨大な治水事業を行っている。

当時の国民は疲れ切っていたはず。そこで、履中天皇は、今後3年間、税の取り立てを免除すると宣言した。その間、宮殿に雨漏りがしてもそのまま放置したと云う。

さて、3年後、国を見渡すと、そこかしこに朝餉の支度をする煙が立ち上って昔の穏やかな景色が戻っていた。そこで、もういいだろうというので、再び税の徴収が始まったと云う。

こういう伝承をもつ履中天皇が、はたして自分のために日本一巨大古墳を造るだろうかという疑問。

履中天皇陵については、考古学的にも、宮内庁の指定どおりでよいと云われる。

しかし在位が僅か6年と短かった履中天皇がなぜ無理をして、当時日本一の本古墳を作ったのか?

上石津ミサンザイ古墳クラスの巨大古墳の造営には、最低でも15年ほどかかることなどから、むしろ履中天皇の在位がわずか6年とは考えにくいとも云われている。

ここにからんでくるのが、岡山県の造山古墳と作山古墳に注目。





写真は、岡山市の造山古墳空撮と岡山県総社市の作山古墳全景。

造山古墳は全長約360m・作山古墳が全長約286mであり、この二つの古墳は、履中天皇とほぼ同じ時期に当ることから、仁徳天皇や履中天皇の耳にもうわさが届いたと考えられる。

この点は、天皇や朝廷の権威に対する挑戦になることから、見捨てるわけには行かない。

そこで、対応策は2つ、履中天皇が巨大古墳を造って日本一の座を守るか、或いは懲らしめに兵を送って中止させるかの二者択一。

おそらく履中天皇が戦を好まず、前者を選んだと思われる。明確にどちらかを選ばなければ、周りがおさまらなかったと推測される。

履中天皇の功績としては、各地に国司を置き、官事を記録させて、ひろくその意向を伝えた。また、諸国の記録を残すために国史(くにひと)を置き、蔵職(くらのつかさ)を設立し、蔵部(くらひとべ)を置くなど制度化することで、次第に複雑化していく国家財政を安定させようとした。

また、忠臣の平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)・蘇我満智宿禰(そがのまちのすくね)や、物部氏・葛城氏の各氏族にも国事を任せたとされる。

というように、ヤマト政権の国家体制を構築した功績は大きい。履中天皇陵の規模に相応しい功績を残したと云える。

最近の調査によれば、仁徳天皇陵の南東に位置する、土師ニサンザイ古墳が本当の履中天皇陵かもしれないらしいが????

一方履中天皇の伝承には、次のようなものがある。

古事記には、履中が即位前、同母弟・住吉仲皇子と内戦となり、もう一人の弟、反正の力を借りて住吉仲皇子を滅ぼした、と記載されている。

皇位継承に対する内戦であると云えるのでは・・・・。

特に注目したいのが、住吉仲皇子(“すみのえなかつみこ”と読み、仁徳天皇の皇子)。

名前の「住吉」からも推察できますように、この皇子は「海人族」の出生と考えられている。さらに、住吉仲皇子に加勢した豪族がすべて「海人族」の豪族達で占められていたと云われる。

一方、履中天皇に加勢したのは、漢直(倭漢氏)の祖である阿知使王、平群氏、そして物部氏で、彼らはすべて渡来系一族、すなわち、「天孫族」といえる。

履中天皇の即位に際し、「海人族」と「渡来系一族=天孫族」の代理戦争が勃発し、結果、履中を擁立した渡来系一族が政権を担う時代が到来したらしい。

履中天皇の勝利により、海人族から制海権を奪った履中天皇は、国内外へ即位を宣言するために、宋への朝貢を実行したと云える。

驚くべきことに、履中は「宋書」だけでなく、朝鮮半島の高句麗でもその足跡らしき記述が残されていた。

更に次のような伝承も伝えられている。

「第17代履中天皇の御世は、日本書紀に在位6年とあるように短いものだった。即位直後には、酔って寝ている間に弟の墨江中王が反逆して宮に火を放ったため、天皇は阿知直に連れ出されて大和へと逃げた。

その途中で目を覚ました天皇は、野宿するならカーテンくらいは持ってくるべきだったとユーモアを歌に詠んだものの、疑心暗鬼になっており、駆けつけた弟の水歯別命(みずはわけのみこと)にも会おうとしなかった。

そこで水歯別命は、墨江中王の配下の曾婆加里という隼人を欺いて、その主君を殺害させた。

しかし、曾婆加里の行為は忠義には反するけれど、その功績に報いないのもまた信義に反するとして悩み、結末として曾婆加里を手厚く歓待した後でこれを殺害した。」というもの。

権力闘争には、気配りせざるを得なかった時勢が窺える。