雄略天皇陵に纏わる謎について、更に続けます。
雄略陵のこれまでに紆余曲折の経緯を辿ると、
先ずは雄略天皇陵とされ、松原市と羽曳野市を区画する行政の境界線上に位置している、“河内大塚古墳”は幅の広い濠に囲まれて雄大な姿を横たえ、台地上に築かれた大型の前方後円墳。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/93/ae1243af8c4ff23d78f049a79ef981d4.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/a0/b44c70066d13894367b0e50225d08e23.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/e1/723edf6f179325e79cf02aaaeba40750.jpg)
写真は上から、“河内大塚古墳”全景、東北側ビュー及び西の側面。
墳丘の長さは約335mで、わが国で5番目の規模を誇り、堂々たる大王陵と見なされておかしくないが、歴代の天皇陵には比定されておらず、大正14年に陵墓参考地に指定された。
それ以後宮内庁の管理下にあるが、学術調査は今日まで行われていない。
本古墳が雄略天皇陵(在位456~479年)の可能性があるとされるが、平面の形状や埴輪の有無などから6世紀後半の築造と考えられ、年代的に合致しない。
これほどの巨大古墳を築くことができる権力を有した人物ならば、必ず記紀にその名が登場していて当然であるが、そのような人物は見あたらないと云う。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_3.gif)
次に現在の雄略陵・高鷲丸山古墳は、後付けで前方後円墳を取り繕っているが、極めてこじつけがましく、年代的にも違いすぎるため、実態にそぐわない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/8c/6e66e0ed2e0dbd0415577b1681fb01c5.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/3f/f990e741cfe39ac5464826b6b9445713.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/92/1e4c9d36182999b0cdef70ca25f91916.jpg)
写真は上から、現在の雄略天皇陵正面入口、円墳と方墳の繋ぎ目及び周濠光景。
羽曳野市の雄略陵・高鷲丸山古墳が、直径76mの円墳で、「天皇陵=前方後円墳」の前提では、高鷲丸山古墳が雄略天皇陵の候補から外れるが、雄略天皇が当時中国宋の墓制の円墳を採用したとの見方もある。
一方写真の通り横からみると、後円部とははっきり別れている、前方部らしき古墳が認識できる。
もともとは円墳だったものが、後から前方部を付け足したという説を裏付けているように見える。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_1.gif)
一方で雄略天皇は“有徳天皇”であったとの評価もあり、又数々の武功を称え、後世天皇が、前方部を付け足したとも考えられるが・・・・。
高鷲丸山古墳とよばれている直径76mの円墳と、平塚古墳といわれる1辺50mほどの方形部分を合わせたもので、円墳には幅20mほどの濠が巡っている。
それにしても、雄略天皇陵としては、もっと堂々とした墓陵が想像され、チョットこじつけがましく、無理があるようにも思える。
以上のような事情から、真の雄略天皇陵は、高鷲丸山古墳か、或いは大仙古墳か、はたまた仲哀天皇陵か、現状のままでは、迷宮入りしそうな状況。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_5.gif)
雄略陵のこれまでに紆余曲折の経緯を辿ると、
先ずは雄略天皇陵とされ、松原市と羽曳野市を区画する行政の境界線上に位置している、“河内大塚古墳”は幅の広い濠に囲まれて雄大な姿を横たえ、台地上に築かれた大型の前方後円墳。
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写真は上から、“河内大塚古墳”全景、東北側ビュー及び西の側面。
墳丘の長さは約335mで、わが国で5番目の規模を誇り、堂々たる大王陵と見なされておかしくないが、歴代の天皇陵には比定されておらず、大正14年に陵墓参考地に指定された。
それ以後宮内庁の管理下にあるが、学術調査は今日まで行われていない。
本古墳が雄略天皇陵(在位456~479年)の可能性があるとされるが、平面の形状や埴輪の有無などから6世紀後半の築造と考えられ、年代的に合致しない。
これほどの巨大古墳を築くことができる権力を有した人物ならば、必ず記紀にその名が登場していて当然であるが、そのような人物は見あたらないと云う。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_3.gif)
次に現在の雄略陵・高鷲丸山古墳は、後付けで前方後円墳を取り繕っているが、極めてこじつけがましく、年代的にも違いすぎるため、実態にそぐわない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/8c/6e66e0ed2e0dbd0415577b1681fb01c5.jpg)
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写真は上から、現在の雄略天皇陵正面入口、円墳と方墳の繋ぎ目及び周濠光景。
羽曳野市の雄略陵・高鷲丸山古墳が、直径76mの円墳で、「天皇陵=前方後円墳」の前提では、高鷲丸山古墳が雄略天皇陵の候補から外れるが、雄略天皇が当時中国宋の墓制の円墳を採用したとの見方もある。
一方写真の通り横からみると、後円部とははっきり別れている、前方部らしき古墳が認識できる。
もともとは円墳だったものが、後から前方部を付け足したという説を裏付けているように見える。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_1.gif)
一方で雄略天皇は“有徳天皇”であったとの評価もあり、又数々の武功を称え、後世天皇が、前方部を付け足したとも考えられるが・・・・。
高鷲丸山古墳とよばれている直径76mの円墳と、平塚古墳といわれる1辺50mほどの方形部分を合わせたもので、円墳には幅20mほどの濠が巡っている。
それにしても、雄略天皇陵としては、もっと堂々とした墓陵が想像され、チョットこじつけがましく、無理があるようにも思える。
以上のような事情から、真の雄略天皇陵は、高鷲丸山古墳か、或いは大仙古墳か、はたまた仲哀天皇陵か、現状のままでは、迷宮入りしそうな状況。
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