近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

大阪藤井寺市の真の雄略天皇陵とは!そのⅡ

2011年04月28日 | Weblog
雄略天皇陵に纏わる謎について、更に続けます。

雄略陵のこれまでに紆余曲折の経緯を辿ると、

先ずは雄略天皇陵とされ、松原市と羽曳野市を区画する行政の境界線上に位置している、“河内大塚古墳”は幅の広い濠に囲まれて雄大な姿を横たえ、台地上に築かれた大型の前方後円墳。







写真は上から、“河内大塚古墳”全景、東北側ビュー及び西の側面。

墳丘の長さは約335mで、わが国で5番目の規模を誇り、堂々たる大王陵と見なされておかしくないが、歴代の天皇陵には比定されておらず、大正14年に陵墓参考地に指定された。

それ以後宮内庁の管理下にあるが、学術調査は今日まで行われていない。

本古墳が雄略天皇陵(在位456~479年)の可能性があるとされるが、平面の形状や埴輪の有無などから6世紀後半の築造と考えられ、年代的に合致しない。

これほどの巨大古墳を築くことができる権力を有した人物ならば、必ず記紀にその名が登場していて当然であるが、そのような人物は見あたらないと云う。

次に現在の雄略陵・高鷲丸山古墳は、後付けで前方後円墳を取り繕っているが、極めてこじつけがましく、年代的にも違いすぎるため、実態にそぐわない。







写真は上から、現在の雄略天皇陵正面入口、円墳と方墳の繋ぎ目及び周濠光景。

羽曳野市の雄略陵・高鷲丸山古墳が、直径76mの円墳で、「天皇陵=前方後円墳」の前提では、高鷲丸山古墳が雄略天皇陵の候補から外れるが、雄略天皇が当時中国宋の墓制の円墳を採用したとの見方もある。

一方写真の通り横からみると、後円部とははっきり別れている、前方部らしき古墳が認識できる。

もともとは円墳だったものが、後から前方部を付け足したという説を裏付けているように見える。

一方で雄略天皇は“有徳天皇”であったとの評価もあり、又数々の武功を称え、後世天皇が、前方部を付け足したとも考えられるが・・・・。

高鷲丸山古墳とよばれている直径76mの円墳と、平塚古墳といわれる1辺50mほどの方形部分を合わせたもので、円墳には幅20mほどの濠が巡っている。

それにしても、雄略天皇陵としては、もっと堂々とした墓陵が想像され、チョットこじつけがましく、無理があるようにも思える。

以上のような事情から、真の雄略天皇陵は、高鷲丸山古墳か、或いは大仙古墳か、はたまた仲哀天皇陵か、現状のままでは、迷宮入りしそうな状況。

◎大阪藤井寺市の真の雄略天皇陵とは!そのⅠ

2011年04月26日 | 歴史
ここからは、雄略天皇陵に纏わる、謎めいたストリーを2回に分けて、紹介する。

仲哀天皇陵・岡ミサンザイ古墳は、藤井寺市藤井寺4丁目の近鉄南大阪線藤井寺駅南の商店街を抜けた所に所在するが、これこそが真の雄略天皇陵と目されている。

全長約242m・後円部径約148m・高さ19.5m・前方部幅約182m・高さ約16mで、三段構築の前方後円墳。











写真は上から、藤井寺市の仲哀天皇陵の正面遠景、同天皇陵の前方部正面光景、前方部北側光景、同前方部南側光景及び後円部遠景。

第14代・仲哀天皇陵(200年崩御)は、墳丘長約242m・周濠幅約50mの大型前方後円墳で、古市古墳群では4番目の大きさ。

別名“岡ミサンザイ古墳”とも呼ばれ、羽曳野丘陵の北東部外縁に位置している。横穴式石室を採用している可能性があること、また出土した円筒埴輪などから、5世紀後半の築造と考えられている。

このことからこの古墳こそ、前方後円墳が造営年代的にも、雄略天皇陵ではないかと云われている。

第14代仲哀天皇(在位:192~200年)陵にしては、余りに年代のずれがあり、かけ離れていると云える。

本古墳は古市古墳群では4位、全国18位の巨大古墳で、写真の通り水を湛えた幅50mほどの周濠がある。

しかし現状は、“仲哀天皇恵我長野西陵”として宮内庁が管理している。

1983年の宮内庁の調査で中世末頃に城郭として利用され、大規模な改変を受けていることが分かったと云う。このため本来の古墳の形状を窺い知ることが困難な状態らしい。

ただ墳丘には葺石が葺かれていたらしく、又外堤には円筒埴輪列が確認されている。

その埴輪の特徴からこの古墳は、5世紀後半に築造されたものと考えられている。この古墳も古市古墳群を構成している。

雄略天皇(在位:456~479年)の治世下で、大和や河内の豪族等が武力で制圧され、多くの政略結婚が繰り返されたことが伝えられてきた。

勢力拡大の範囲は北から南に及び、埼玉県の“稲荷山古墳”から出土した太刀に漢文表記の銘文が発見され、ここに「ワカタケル大王」とあった。雄略天皇を指すとする説が有力である。

稲荷山古墳は、行田市の東南部の「さいたま風土記の丘」にあり、全長約120mの前方後円墳。

風土記の丘創設に先立って、昭和42・43年に発掘調査が行われた結果、墳頂部に礫槨や粘土槨が検出され、礫槨からサビに覆われた鉄剣が出土した。

10年後の昭和53年にその鉄剣の表と裏面に金象嵌の115文字のあることが判明したというわけ。

叉熊本の江田船山古墳から出土した鉄剣も雄略天皇のものと確認され、2本の鉄剣の銘文によって、雄略朝の日本列島支配は、少なくとも西は熊本から東は埼玉まで及んでいたことが明確になった。

確かに雄略朝は王権の伸長した画期的な時代であった。日本書紀によれば、吉備氏に対してあらゆる圧力をかけて弱体化をはかり屈服させて、雄略天皇の配下に組み込まれ、朝鮮半島にも派兵しており、版図の拡大とともに支配の密度も高めたと云える。

稲荷山古墳出土の大刀に表記された銘文の内容は、「ワカタケル大王(雄略大王)の寺(役所)が斯鬼宮にある時、吾は大王の天下統治を補佐した。それの記念として、この百錬の刀利(百回も打って鍛えた、切れ味すぐれた鉄刀)を作らせ、吾が大王に仕えた所以を記しておく。」というように雄略大王の権力がこの地方まで行き渡っていたことを物語る。



写真は、稲荷山古墳から出土した、ワカタケル大王の大刀。

銘文は「辛亥年七月中記す」と始まり、これが471年とわかり、「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」に仕えたと明文化されていたことから、同時にこれが「ワカタケル」すなわち雄略天皇と確定した。

これにより熊本県の“江田山古墳”から出土していた鉄刀銘文も“ワカタケル”と解読でき、5世紀後半には大和朝廷の実権が日本全土の大半にまで及んでいた有力な証拠となった。

渡来系の人たちが刀を鍛え、文字を書いたと見られるが、雄略天皇が渡来系人脈を抱え、大きな勢力を持っていたことが窺える。

一方で、第21代雄略天皇は允恭天皇の第5皇子で、安康天皇の同母弟。気性が激しいため、“大悪天皇”との謗りを受けてきたようだ。

安康天皇が眉輪王に刺殺された後、第5皇子は、王位につくため兄の坂合黒彦皇子(さかいのくろひこおうじ)、八釣白彦皇子(やつりしろひこおうじ)をもその黒幕として殺害。

又次期天皇の有力候補だった、仁徳天皇の孫・市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)を狩に誘い出し射殺して即位。反抗する氏族らを軍事力で鎮圧したと云う。

というように、日本書紀によれば、雄略天皇は残虐非道な暴君として記録され、独断専行の残虐ぶりはその後も続き、多くの偉人を殺害したため、“大悪天皇”という評価を後世に残した。

日本書記に残る数々の悪行から尊卑の秩序を保つため、元々雄略陵だった大仙古墳を仁徳陵に当てたのではないかと推測されている。

現実に、大仙古墳の円筒埴輪は5世紀末のもの故、仁徳陵とするのは誤りで、造営時代的にはむしろ雄略陵とするのが正しいと云う。

このように岡ミサンザイ古墳が、雄略天皇陵として最も有力な候補ではあるが、仁徳陵も雄略陵候補ではある。







大阪府藤井寺市の鍋塚古墳とは!

2011年04月24日 | 歴史
鍋塚古墳は、近鉄「土師の里」駅の改札を出ると、道路をはさんで正面に小さな山が目に入る古墳。

樹木の生い茂ったその姿は、周囲の雑踏のせいか、ややこぢんまりとした印象を受けるが、一辺約50m・高さ7mほどの大形の方墳。





写真は、鍋古墳案内板及び墳丘の様子。

現状からでは確認できないが、濠をともなっていた可能性があると云う。

発掘調査が行われていないため、埋葬施設や副葬品等は明らかになっていない。しかし円筒埴輪列や墳丘斜面に石を葺いた葺石があることが分かっており、墳丘の表面では、家・衣蓋・盾・靫形などの形象埴輪の破片が見つかっている。

この古墳は特に目立つ規模ではないが、埴輪の特徴から古市古墳群のなかでは初期に築造された古墳の一つと考えられ、すぐ西側にある巨大な前方後円墳仲津山古墳(仲津姫陵)との関係が注目される。

鍋塚古墳の周辺には「沢田の七ツ塚」と呼ばれた中小規模の古墳が数多くあったらしい。

ところが戦後の宅地化等の工事のため、次々とその姿を消していったそうで、最後に残った鍋塚古墳が昭和31年に、国の史跡に指定され、現在にその姿をとどめている。

姿を消していった古墳の中に高塚山古墳があり、この古墳は鍋塚古墳の北側にあり、ほぼ同規模の方墳または円墳であったと云われている。

昭和29年の工事に先立つ発掘調査では、6mを超える長大な割竹形木棺とそれを覆った粘土槨が埋葬施設であることが分かったらしい。

内部の副葬品はすでに盗掘にあっていたが、鉄製武器や革盾・農工具類・ガラス小玉・管玉が残っていたと云う。

また、墳丘が姿を消した後の昭和60年に、大阪府教育委員会が近鉄線と府道堺大和高田線の間にわずかに残された空き地を調査し、一段目のテラス面とそこに立てられた円筒埴輪列を見つけた。

鍋塚古墳と高塚山古墳が造られたのは5世紀前葉で、南側にある大形の前方後円墳の仲津山古墳も同じころに造られており、両古墳は、仲津山古墳の陪塚として密接な関係にあったと考えられる。

かつて「沢田の七ツ塚」と呼ばれた古墳の中で現在も地上に姿をとどめているのは鍋塚古墳のみになってしまいましたが、道を行き交う車や人とは対照的に、そのかたわらでひっそりとたたずむ姿を見るとき、悠久の歴史の流れをひしひしと感ずる。

大阪府藤井寺市の市野山古墳・允恭天皇陵とは!

2011年04月22日 | 歴史
市野山古墳は、国府台地の北端に築造された墳丘長約227m・後円部径約140m・前方部幅約160m・前方部の高さ23.3m・後円部の高さ22.3mほどの全国第20位の前方後円墳。

允恭天皇陵とも呼ばれているが、陵名は惠我長野北陵(えがのながののきたのみささぎ)で、宮内庁によって第19代允恭天皇の陵墓に比定されている。









写真は上から、市野山古墳の空撮、允恭天皇陵の入口光景、同天皇陵後円部から望む前方部光景、前方部から望む後円部方面光景。

允恭天皇は、17代履中天皇と18代反正天皇の弟で、「倭の五王」の内の「済王」とされている。

「宗書」倭国伝によれば、443年に倭国の済王が使者を派遣し、貢ぎ物を贈り、「珍王」をしのぐ「6国の諸軍安東将軍・倭国王」という高位に任ぜられたとある。

更に451年には宋朝・文帝から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号されたと云う。

北に向いた前方部がやや開き気味なため、墳丘の周りに掘られた周濠の外肩もやや広がっている。

墓山古墳や太田茶臼山古墳(継体陵)ときわめてよく似た平面プランで造られていて、規模もほぼ同じであるという。その整美な外観は、古墳時代中期の代表的な墳形であると言われている。

出土した埴輪などから、築造年代は5世紀後半とされるが、近くに国府八幡神社、唐櫃山古墳・長持山古墳・衣縫塚古墳などがある。

前方部を北に向け、墳丘は3段築成で、くびれ部両側に造出しを備えている。周囲には幅25~40mの内濠と外堤、さらにその外側に溝をめぐらせている。

外側の溝は後円部や前方部側では確認されていないため、全周しない可能性がある。

この外堤の上部平坦面の幅はほぼ20mで、これは後円部側の周濠の幅約40mの半分に相当する。さらに、外堤の外側に18m~20m幅の外周溝が存在したことが判明しており、この溝と堤で約40m幅の周庭帯を作っていたことになる。

外堤の周りに溝が掘られていたことから、二重周濠を持つ古墳ではないかとされているが、溝は0.6~2.0mと底が浅く、しかも南から北へ丘陵が大きく傾斜しているため、水を湛えていることはなかったとされている。

内部施設や副葬品については不明で、外堤上で円筒埴輪列は確認されていないが、外側の溝から埴輪が出土していると云う。





写真は、允恭天皇陵周濠外堤が民家に占領されている光景及び後円部外堤に建てられた民家群。

外堤の調査によって、この堤の上で奈良時代の遺構が見つかっている。ということは、奈良時代には王陵として認識されておらず、当時から古墳の領域に人々が住み着いていたことを示している。





写真は、允恭天皇陵の宮の南陪及び国府八幡神社の桜木間から覗く同天皇陵の宮の南陪遠景。

更に本古墳は周囲に8基の陪塚が築かれている。1基の方墳以外は、すべて円墳か小型前方後円墳。

出土した埴輪は、窖窯(“あながま”と読み、登窯の意)で焼成された製品で、円筒埴輪のほか家・盾・靱・蓋・人物等の形象埴輪が出土している。

円筒埴輪の特徴は、誉田御廟山古墳(応神天皇陵)のものよりかなり退化が進んでおり、むしろ岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)のものに近いとされる。

従来の埴輪編年によれば5世紀末とされているが、最近では5世紀中葉とする説が有力。

これは倭の五王「済」の年代と近く、「済」を允恭天皇に比定する説が有力なことから、市野山古墳=允恭天皇御陵という宮内庁の考えも、あながち的外れではないのでは、という考えから来ているらしい。






大阪府羽曳野市の峰が塚古墳とは!

2011年04月20日 | 歴史
大王級の墓域が使い果たされ、その立地は更に羽曳野市方向に南下し、規模も更に縮小された。こうした動きの中で、6世紀前半の古市古墳群は前方部の幅を広げるようになったようだ。

峰が塚古墳の墳丘長はわずか96m・前方部の幅74.4m・高さ10.5m・後円部は直径約56m・高さ9mほどの前方後円墳。

墳丘は2段に築かれており、2段目斜面の裾部分のみに数段の角礫が葺いてあるほかは、表面に葺石はみられない。

1992年の発掘調査で、後円部墳頂中央部の盗掘壙を掘り進めた結果、竪穴式石室が現れたと云う。

石室や盗掘壙から、大刀・鉄鏃などの武器、轡・鐙(あぶみ)などの馬具、装身具、玉類などが大量に出土し、また、成人男性の骨や歯なども出土しているが、国の史跡に指定されている。

江戸時代には、日本武尊白鳥陵に比定されていたと云う。

墳丘の長さは96mほどと中小規模ではあるが、前方部の幅を広げることなどで規模の見劣りをカバーしたと思われる。





写真は、峰が塚古墳遠景及び峰が塚古墳墳丘の様子。

本古墳は6世紀前半の古市古墳群の一つ。羽曳野市の南西に位置し、古墳群は更に南下しつつあったが、スペース的にそろそろ限界、規模は更に縮小傾向が続く。



写真は、峰が塚古墳の一角で、国道170号線をわたって直ぐの所にある蓮池。

池の深さは1m以上もあり、危険とのサインも見えるが、これが本古墳の二重濠のうちの外濠らしい。

墳丘規模の縮小の規制から逃れる方法として、当時としては例があまりない二重濠を設けることにより、威厳を及ばせたと言える。

全体の規制の中で、あくまで権威の象徴である墳丘の仕上がり具合にこだわった様子が見え隠れする。

古市古墳群は、大王級の古墳と在地系有力者の古墳とが複雑に寄り合うと共に、5世紀代には古墳築造の一般化傾向を契機として、一般人の古墳も混在したと云う。





大阪府藤井寺市の古室山古墳とは!

2011年04月18日 | 歴史
古室山古墳は、大阪府藤井寺市古室2丁目にある前方後円墳で、1956年9月に単独の古墳として国の史跡に指定された。

本古墳は、藤井寺市に16基ある前方後円墳の一つで、そのうち6基が国の史跡に指定されている。

ここでは古室山古墳について紹介する。

本古墳は、西名阪自動車道の高架下の道路が古室2丁目付近でやや急な上り坂になるが、この坂を登りきると、北側に小高い丘があり、説明板が立っているのが本古墳。







写真は、古室山古墳石碑と案内板、本古墳から望む藤井寺市と大阪市内遠景及び同古墳墳頂から望む二上山と葛城山光景。

本古墳は、後円部頂上の標高が約39mを測り、国府台地の西側縁辺の地形を利用して造られた前方後円墳で、墳丘は3段に築造され、造り出しは現在東側にのみ残存していると云う。

視界をさえぎる巨木が少ないため、頂上からの眺望はすばらしいものがある。また、梅や桜の木が植えられており、季節になると美しい花を咲かせ、これらはいずれも訪れる人々を楽しませている。







写真は、古室山古墳前方部の桜爛漫光景2点及び桜が満開の本古墳前方部遠景。

本古墳には、春は梅や桜が市民公園を彩り、秋には桜や柿の紅葉が見られ、後円部の西側には大きなハゼの木が真っ赤に、銀杏が黄色に紅葉するらしいし、また後円部にはクヌギの木も多くドングリが沢山落ちると云う。

墳丘の一部には住宅が建っているが、藤井寺市による公有地化が進められていると云う。





写真は、古室山古墳公園内に民家が同居している光景2点。

本古墳公園が一般市民に公開されているにせよ、民家までが占拠している現状は早急に改めるべき。









写真は上から、古室山古墳の前方後円墳全景で手前が前方部、同古墳前方部墳丘の様子、同後円部墳丘の様子及び同後円部から望む前方部光景。

古墳墳丘の長さは約150m・後円部径約96m・高さ約15.3m・前方部幅約100m・高さ約9.3mを測り、墳丘は3段築成で、葺石が確認される。現在、くびれ部の東側のみに造り出しが残り、周囲に周濠と堤をめぐらしている。

古市古墳群の中では中形の前方後円墳に属するが、前方部は北東を向いている。

墳丘の斜面には石を葺いていた。また、平坦面には円筒埴輪列があり、家・衣蓋・盾・靫・冑形などの形象埴輪も確認されている。

出土した埴輪の特徴から、仲津山古墳とほぼ同時期、4世紀末から5世紀前半の築造と考えられ、古市古墳群の形成が開始された時期にあたり、同古墳群中で最も早く造られた古墳の一つに数えられると云う。

人を葬った埋葬施設がどのようなものであったかは分かっていないが、後円部の頂上に板状の石材が見受けられ、このような石材を用いて築かれた竪穴式石槨というものがあった可能性が考えられる。

同時期に造られたものには、津堂城山古墳があるが、墳丘の長さが208mほどの前方後円墳で、同時期のものとしては最大の規模を有する。

これに対して、古室山古墳は墳丘の長さが約150mと同じ前方後円墳でもひとまわり小さい。

このような規模の差は一体何を物語っているのか?

当時の社会では、最も権力のあるものを頂点とした、ピラミッド形の身分秩序があり、前方後円墳に葬られたのは、ピラミッド形の身分秩序の上層にあり、それぞれが権力者として認められた人々。

即ち津堂城山古墳と古室山古墳にみられるような、同時期の前方後円墳の規模の差は、権力者の間の力関係を表わしていると云える。

4世紀末から5世紀初頭の時期には津堂城山古墳の被葬者を頂点とした身分秩序があり、古室山古墳の被葬者もその秩序に組み込まれていたと考えられる。





大阪府羽曳野市の墓山古墳とは!

2011年04月16日 | 歴史
墓山古墳は、羽曳野市のほぼ中央にある、古市古墳群の中で第5位の規模をもつ大型の前方後円墳で、5世紀初め(約1,600年前)に造られたと推定される。

全長約225m・後円部の直径135m・高さ21m・前方部の幅153m・高さ19mほどで、盛り土は3段に積まれている。











写真は上から、墓山古墳空撮、先日4月上旬に満開の桜越しに望む墓山古墳遠景、同古墳後円部から望む前方部光景、後円部墳丘の近景及び前方部墳丘の様子。

羽曳野市役所の西側にあり、宮内庁が伝応神陵・誉田山古墳の陪塚として、伝応神天皇陵古墳の名で管理していると云う。

陪塚というには余りに巨大であり、周囲に中・小規模の古墳が配されている、堂々とした王陵と見なしてもおかしくない。

後円部と前方部のつなぎ目には造り出しがあり、周囲には濠が掘られ、その外側には幅約25mの堤がめぐっている。

墳丘の斜面は石でおおわれ、平坦部には埴輪が列になって並べられている。中心部には竪穴式の石室が造られ、長持形石棺が納められていたらしい。







写真は、墓山古墳の民家と市役所に隣接した過密光景、同古墳脇の駐車場と桜越しに望む羽曳野市役所及び後円部沿いの民家に囲まれた周濠光景。

かつての外堤は、写真のように、現在は羽曳野市役所の駐車場に利用されている。その駐車場と周濠の間を、狭い遊歩道が後円部の円周に沿って築かれていたと云う。

叉写真のように、近年宅地開発の進展により、現在では周濠に隣接して民家が密集している。

墓山古墳のすぐ北にある野中古墳は、墓山古墳に付属する陪塚と考えられているが、この古墳には鉄で作った多量の武器や農工具が納められており、墓山古墳の被葬者が貴重な鉄を多量に所有していた実力者であったことが推定できる。





写真は、墓山古墳陪の向墓山古墳光景及び石碑を伴う宮内庁の柵で囲まれた向墓山古墳墳丘の様子。

墓山古墳の周囲には野中古墳とは別に、写真の向墓山のほか、浄元寺山・西墓山という3基の陪塚が配されており、典型的な中期大型古墳の様相をみせている。

墓山古墳は、3段構成で墳丘が築かれ、くびれ部の両側に造出しを設けているが、さらに、一重の周濠と外堤を巡らし、外部施設として河原石が葺かれ、円筒埴輪や人物埴輪などが立てられていたことも分かっている。

後円部の頂には格子状に彫られた長持形石棺の蓋が露出しており、津堂山古墳の石棺との類似性が指摘されている。多量の滑石製勾玉も見つかっている。

前方部の幅と後円部の直径の関係を見ると、前方部の幅が後円部の直径を若干上回っている。こうした形態は、古墳時代中期に典型的なものらしい。

興味深いのは、その規模から判断して、市野山古墳(允恭天皇陵)や茨木市太田にある継体天皇陵と同一築造企画で構築されたと考えられていること。

出土した円筒埴輪は、野焼きと考えられる黒斑のある埴輪と窖窯(あながま)焼成による黒斑のない埴輪の2種類が存在したと云う。

ということは、この古墳に並べられていた円筒埴輪は、埴輪焼成法の変換期のものであると推察できる。

形象埴輪には、楯・衣蓋・靱(“うつぼ”と読み、矢を入れる道具)・家形・人物・短甲などが見られる。

はたして大王級の墓山古墳被葬者は誰であろうか?




大阪府羽曳野市の白髪山古墳・清寧天皇陵とは!

2011年04月14日 | 歴史
白髪山(しらがやま)古墳・清寧天皇陵は、国道170号線をはさんで軽里大塚古墳・日本武尊陵と反対側に位置している。

墳丘長約115m・後円部径約63m・前方部幅約121m・周濠幅30~50mを測り、くびれ部・周庭を伴い、後円部と前方部とも2段築成で、前方部を南西に向けた前方後円墳。









写真は上から、国道170号線沿いの望む清寧天皇陵遠景、同天皇陵の河内阪門原陵石碑、同前方部正面入口光景及び同後円部全景。

本天皇陵付近は、古市古墳群の南西の端にあたり、古墳は前方部を南西に向けて築かれている。宮内庁は第22代・清寧天皇の河内阪門原陵(かわちのさかとのはらのみささぎ)として、この古墳を管理していると云う。

白髪山古墳の前方部は、その幅が全長よりも長く、後円部の直径の倍もある。

このように異常なまでに前方部が拡大していることから、最後の前方後円墳である、と言われる。









写真は上から、手前の清寧天皇陵のバチ型形態の空撮光景、同天皇陵の前方部遠景、同天皇陵周濠脇に隣接密集した民家の様子及び同天皇陵陪の小型前方後円墳光景。

もちろん最後に造られた前方後円墳ではないが、その形も最終形態ではなく、幕末の修復工事によって、写真のように、前方部の外形が大きくバチ形に変わったらしい。

この古墳は北側に造出しを持ち、墳丘の周りに濠と堤を築いている。

前方部の幅が極端に広いことの他に、この古墳にはもう一つ特徴的なことがあり、前方部の東に中軸線を同じくする全長45mの小型前方後円墳を従えていること。

写真のような小型前方後円墳は、“小白髪山古墳”と呼ばれる陪塚的性格を持つ古墳で、宮内庁管轄下、柵に囲まれている。

白髪山古墳の内部構造や副葬品に関しては、陵墓であるため何も明らかにされていないが、前方部の高さが後円部の高さより3mほども高く、埋葬施設がある可能性が指摘されている。

昭和54年、宮内庁によって外堤と周濠の調査が実施され、その際、考古学や地質学の一部専門家に発掘現場が公開された。

発掘の結果、重要な遺構は見つからなかったが、埴輪片が出土したと云う。

埴輪に末期的な特徴が見られたことから、古墳の築造時期は5世紀後半から6世紀前半と考えられている。

清寧天皇は雄略天皇の第三子で、葛城韓姫(かつらぎのからひめ)を母として、生まれた時から白髪であったと言われる。

雄略天皇22年に立太子し、翌年雄略の崩御にともない即位するが、雄略天皇は死に臨んで世事全般を皇太子(清寧天皇)に託し、東漢掬直(やまとのあやのつかのあたい)らの臣下に対しても、期待を込めた遺詔を残している。

清寧天皇は、妃・世継ぎもなく崩御していることから、非実在説もあると云う。

雄略天皇の妃・吉備稚媛(きびのわかひめ)には、星川と磐城という二人の皇子がいた。
清寧天皇とは異母兄である。

吉備稚媛は以前から自分の産んだ星川皇子(ほしかわのおうじ)を皇位に就けたがっていた。

日頃から皇子に対して、「天下を取るためにはまず大蔵(諸国からの貢物を納めた蔵)を制圧しなければならない。」と言い聞かせていたと云う。

雄略天皇が崩御すると、星川皇子は母の教えに従って、長兄・磐城皇子の制止も聞かず大蔵を手中に収めた。
そして大蔵の中の官物を勝手気ままに使い出した。

事態を憂慮した家臣の大伴室屋(おおとものむろや)大連(最高執政官)や東漢掬直らは、遺詔に従って皇太子(清寧)を守ろうと兵を挙げ、大蔵を取り囲んで星川皇子を焼き殺してしまう。

そして皇位のしるしである鏡・剣を皇太子に奉ったと云う。

白髪大倭根子命(しらがのおおやまとねこのみこと)は磐余の甕栗(みかくり)に宮殿を造営し、正式に即位する。そして大伴室屋大連、東漢掬直らを従来通り重臣として治世を行う。

これが、日本書紀に記された清寧天皇即位時の状況である。

子供の無かった清寧天皇は皇統の絶えるのを恐れ、父雄略が殺害した市辺押磐皇子の皇子たちが播磨の国に居るのを聞いて、二人の皇子を皇太子にする。

そして履中天皇の孫、億計(おけ)と弘計(をけ)の兄弟が、次代の顕宗天皇、仁賢天皇となる。

父の犯した罪に対する贖罪なのか、それとも皇位継承のためなら仕方がないと割りきっていたのか?

古代天皇家の王位を巡る殺戮や、近親相姦にも近い血脈の乱れは、その一方で血族の強い結びつきをも生んでいたのかもしれない。



大阪府羽曳野市の前の山古墳・日本武尊白鳥陵とは!

2011年04月12日 | 歴史
前の山古墳は、羽曳野市のほぼ中央、羽曳野丘陵から東に延びる中位段丘上に築かれた、5世紀後葉頃・古墳時代中期の大型前方後円墳。

本古墳は、隣接する墓山古墳の南、清寧天皇陵古墳の北東に位置している。

記紀に記された白鳥伝説に基づいて、宮内庁は日本武尊白鳥陵(やまとたけるのみことはくちょうりょう)に治定して管理している。

日本武尊とは、ただ一人の英雄をいうのではなくて、5世紀頃から数百年にわたって大和朝廷の武将たちが度重なる遠征をしたが、そのときの出来事や印象が凝縮されて出来上がったものらしい。

従って“ヤマトタケル”とは、「ヤマトにおける猛々しく荒々しい武勇優れた者」という意味であって、一般名詞に近いニュアンスを持っている。

しかし物語としては一人の人物として語られているので、その点からは固有名詞であるが・・・・。

日本書紀によると「日本武尊は遠征の帰り道、伊勢の能褒野で亡くなり白鳥となって大和琴弾原を経由して古市に飛来し、また埴生野に向かって羽を曳くように飛び去った」という記述が残っており、羽曳野市の名前の由来となっていると云う。

ヤマトタケルは、第12代景行天皇の子として誕生した。幼名を小碓命(おうすのみこと)といい、兄の大碓命(おおうすのみこと)とは双子の兄弟とも言われている。

武勇に秀でていたが気性が激しく、兄を殺害してしまったため父からは疎んじられていたらしい。

日本武尊白鳥陵に関して、そのほとりの道は、推古天皇の時代に整備されたわが国最古の国道・竹内街道の一部で、奈良と大阪、当時の2大都市を結ぶ大動脈だった道。





写真は、日本武尊白鳥陵沿いのウォーキングトレイル説明看板及び同白鳥陵沿いの我が国最古の竹内街道の現在の再現姿。

本古墳の規模は、墳丘長190m・後円部直径106m・前方部幅165mほどを測る。







写真は上から、日本武尊白鳥陵の空撮光景、白鳥陵前方部正面入口光景及び同白鳥陵沿いに隣接密集した民家群。

後円部の直径を1とすると、前方部の幅が1.5倍もあり、いわゆる前方部が大きく開いていること、叉高さについても前方部の方が3m高いなどの特徴がある。

またくびれ部北側には造りだしをもち、周りには30~50mの周濠が巡っている。









写真は上から、水量豊かな周濠を伴う、日本武尊白鳥陵後円部から前方部を望むサイドビュー、二上山が遥かに望める白鳥陵後円部周濠の様子、同白鳥陵の後円部概観及び後円部墳丘の様子。

写真の通り、周濠には水を満面と湛えており、静寂な雰囲気を醸しだしている。

昭和55年、羽曳野市教育委員会の調査で、外堤の幅を画する溝が発見され、外堤の幅が約21mであることが分かった。この溝は約4.5mの幅を持ち、墳丘側に鋭く、外側に緩やかな傾斜を持っている。

叉昭和56年には、宮内庁が墳丘の裾の崩壊箇所を発掘調査した。

その結果、後円部の円筒埴輪列が確認されたほか、朝顔形埴輪や家・蓋などの形象埴輪が出土した。

円筒埴輪は市野山古墳(允恭陵)と同様な特徴が見受けられ、古墳の築造年代は5世紀後葉頃と推定されている。

大阪府羽曳野市の応神陵・誉田御廟山古墳とは!

2011年04月09日 | 歴史
日本考古学協会など考古・歴史学16学会の研究者が平成23年2月24日午後、羽曳野市の応神陵(誉田御廟山古墳)への立ち入り調査を実施した。

古代の天皇陵に、研究者が正式に立ち入るのは今回が初めて。

陵墓への立ち入りを原則禁じている宮内庁が、学会側の要望に応えて周濠外側の内堤部分のみに限定し許可した。

宮内庁は、陵墓の調査について2008年の五社神(ごさし)古墳(神功皇后陵)から順次許可しており、今回が5件目。

各学会から陵墓問題の担当者らが計16人参加。かつて内堤に並んでいたとされる埴輪の実態や内濠の東側に築造されている全長約110mの前方後円墳・二ツ塚古墳の構造、保存状況などを観察した。



写真は、現在の応神陵空撮光景。

応神陵古墳は、世界遺産暫定リスト入りした「百舌鳥・古市古墳群」のうち、古市古墳群の一つ。

推定築造は5世紀前半。墳丘の全長は425m・高さは36mほど。堺市の大山(仁徳陵)古墳(486m)に次いで国内2番目に大きい。

日本考古学協会の山田邦和・同志社女子大教授ら16人は午後1時から、宮内庁職員の案内で古墳の内堤約2kmを反時計回りに歩き、周囲を観察した。

立ち止まっては、明治時代に宮内庁が作成した測量図と比べて写真を撮ったり、墳丘本体を周濠越しに観察したりしたと云う。

同日夕方から同市内で検討会を開き、この日の立ち入り結果について意見交換したらしい。

しかし残念ながら、天皇陵の発掘調査となると、まだまだ先の可能性にかけるだけ。

大阪府藤井寺市の津堂城山古墳とは!

2011年04月07日 | 歴史
古市古墳群大型墳の出発点としての津堂城山古墳は、藤井寺市に所在する前方後円墳。

この古墳の位置は、羽曳野丘陵の低位段丘上にあり、古市古墳群の中では最も北側にある古墳。

4世紀第4四半期の造営で、墳丘長は約208m・前方部の幅約121m・後円部の直径約128mで、くびれの部分には造出しを持ち、大和地方の大型古墳に比して遜色ない存在。

現存するのは、墳丘と内濠だけだが、これまでの調査や研究により、二重の濠と堤をめぐらせた、総長約436mにもおよぶ巨大古墳であったことが分かっている。

これは、古市古墳群の中では、誉田御廟山古墳、仲津山古墳に次ぐ、三番目の大きさ。

本古墳は、室町時代の築城によって墳丘の形がかなりくずれており、外濠と外堤も埋められたり削られたりして開墾され、さらに内濠もかなりの部分が開墾されて、原形からはかなり変わってしまった。

しかし内容的には、竪穴式石室の中の装飾豊かな長持形石棺をはじめ、三角板革綴短甲、盾形の周濠を持った墳丘モデル等先駆的な遺跡であったらしい。

墓域候補地がそれ以前の大和盆地という狭い範囲にこだわらず、一挙に河内地方にまで進出したことになる。

しかし本古墳は、河内平野に最初に造られた大王の古墳だと考えられているが、墳丘が変形し、濠や堤の形も分からない状態で、大型の前方後円墳であること自体が認定されなかったため、明治期の陵墓治定作業では、全く陵墓の対象外として扱われたと云う。



津堂城山古墳丘陵の前方部から後円部を望んだ写真。

後円部は柵で囲われ侵入禁止となっているが、その他はすべて一般公開され、市民公園として利用されている。



当墳丘上から見下ろした丘陵下平面地には、写真のように、市民占拠農地と公園が同居している状況にあり、周辺一面が畑・花壇でいっぱいで、大王級墳丘の開放度に関しては抜群だが、無秩序な感は免れない。

しかしながら何故一挙にこれほどまで河内内に進出し、逆に後に徐々に大和地方に向って南下したのであろうか?

それであれば、むしろ金剛山麓から必要に応じて北上したらどうであったかと考えられる。

当時の河内地方は大和地方とは違い、スペース的にはまだまだ余裕があったと想像できるし、恐らく津堂城山古墳サイトを探し求めたスタンスは、“最高”の場所を求めてやっとこの地に辿り着いたのではないかと思われる。

以下の写真のように、このスポットが将にベストスポットと言わざるを得ないほど、先人は墓域候補地にこだわったのではないかと言える。



当墳丘頂上から望む、大和川を挟んで高井田古墳群地方の遠景。

なるほど風光明媚な好適地であることは、間違いなさそうであり、いわばベストスポットを選んだことになる。



大阪府羽曳野市の城不動坂古墳とは!

2011年04月05日 | 歴史
城不動坂古墳は、安閑天皇陵の北東約50メートルに位置し、墳丘も同じ向きに築造されているが、羽曳野市教委が発掘した6世紀中頃の前方後円墳で、横穴式石室が、民間の宅地開発で取り壊されていたことが分かった。

市教委によると、同古墳は、世界文化遺産の暫定リスト入りが決まった「古市古墳群」内の安閑天皇陵と同時期に築造された可能性が高い。

同天皇陵の近くにあることから、被葬者は安閑天皇とかかわりが深い人物とみられる。









写真は上から、城不動坂古墳の一部が壊されずに残された状況、同古墳が道路と老人施設で分断された状況、同古墳の残された部分の遠景及び同古墳出土の石室内部。

日本書記によれば、被葬者は安閑天皇の皇后、春日山田皇女(かすがやまだのひめみこ)や安閑天皇の異母妹、神前(かむさきの)皇女を、安閑天皇の陵に併せて葬ったと記述している。

城不動坂古墳は、写真の通り、副葬された土器や、石室の主室入り口の脇部分「袖部」に使用された石材などから、6世紀中ごろにつくられたと考えられるという。

周濠からは、盾を持つ人をかたどった埴輪の顔の部分が出土し、同時期にしては珍しい突起がついた口径約30~40cmの円筒埴輪片も見つかっている。

市教委社会教育課は「この時期の埴輪にしては凝ったつくりで、応神天皇陵から出土した埴輪に似ている。

小石を積んだ石室も珍しい。栄華を誇った一族の最後の見栄だったのではないかと分析している。





写真は、城不動坂古墳脇から望む二上山遠景及び同古墳墳丘の様子。

古市古墳群内で横穴式石室をもつ前方後円墳の発掘例は、極めて珍しく貴重な資料。

相当に身分の高い人が埋葬されていたと考えられる。

百舌鳥・古市古墳群の時代は朝鮮半島などから新しい文化や技術を取り入れた時代だった。

百舌鳥古墳群は早くに終焉するが、古市古墳群は継体天皇の子、安閑天皇まで続いた。豪族の消長を知る貴重な手がかりだったのに、破壊されて残念。

同古墳は、宅地開発に伴って市教委が別の遺構を調査中、偶然石室の一部が出土した。

2009年2月から本格的に調査し、石室の玄室は縦4.2m・横1.6mで、墳丘を囲む幅約2mの周濠も見つかり、全長36mほどの前方後円墳の一部だったことが判明した。

市教委は石室遺構を保存するよう業者に打診したが、交渉は難航する一方、土地の買い取りなどには数千万円の費用が必要なことなどから、やむなく保存を断念したという。

結局、宅地造成の際に、周囲の土砂などと一緒に撤去され、その後個人の住宅が造られたという。

古墳の発見段階では横穴式石室も残されていたが、前方後円墳と分かる前に石室が住宅開発で取り壊されてしまったというが、誠に残念。


大阪府羽曳野市の安閑天皇陵とは!

2011年04月03日 | 歴史
第27代・安閑天皇陵は継体天皇の第一皇子で、高屋丘陵の北端に位置し、前方部を西に向けている。

高屋丘陵に築かれた“高屋城”は南北朝時代に、北朝方に付いた畠山基国が古市城として築き、遊佐氏が居城としていたのが始まりといわれている。







写真は、安閑天皇陵が戦国時代に高屋城に取り込まれたまま残された状況、同天皇陵が取り壊された高屋城跡と城跡を上から眺めた様子。

近鉄南大阪線の踏切りを渡ったところから始まる、写真の通り小高い土盛りは、安閑御陵が畠山氏の「高屋城」本丸とされていた時代の外郭の名残だという。

その後、応仁の乱の発端となった畠山義就が、乱が終わった頃の1479年に、安閑天皇陵を本丸に取り込んだ大城郭を高屋城として築いた。

戦国時代になると畠山高政、安見直政、三好長慶の三勢力が高屋城をめぐり争って、1575年織田信長が大阪に攻め込み廃城となるまで続いたと云う。

安閑天皇は、日本書紀によれば、幼少の時期から器量に優れ、武威にたけ、寛容な性格であったと伝えられる。

この時代、各地に屯倉(みやけと読み、ヤマト王朝の直轄地)が増設された。これは磐井の反乱に荷担して破れた地方の豪族が、許しをこうために献上したと考えられている。この為国家財政は安定したと云う。













写真は上から、安閑天皇陵の正面遠景、正面光景、同陵周濠に迫る住宅地の様子、前方部に隣接する民家の様子、後円部から望む光景及び大変珍しい、同天皇陵墳丘へ直接アクセスする柵の様子。

安閑天皇陵は、世界文化遺産の暫定リスト入りが決まった、大阪府東南部の「古市古墳群」の一つで、全長約122mの前方後円墳。

日本書紀によると、第26代継体天皇の後を継ぐのは第27代・安閑天皇であり、その後は第28代宣化天皇となっている。しかしここに異説があり、継体天皇の後は欽明天皇だと言う。

「上宮聖徳法皇帝説」という記録によれば、第29代・欽明天皇の在位治世は41年間と記録しているのに、日本書紀では32年にしかならない。

しかも、継体天皇の死後、安閑天皇が即位するまで2年の空白がある。そこで、欽明の即位を認めない勢力が、継体天皇死後2年目に安閑・宣化を擁立した、というのだ。

即ち継体天皇の死後10年ほど、王権をめぐって2つの王統が紛争を続けていたと言う事になる。もしそうなら、結果的には欽明天皇がこの抗争に勝利したと言うことになるが、いささか奇抜な説のようにも見える。

しかし継体天皇が20年も大和に入れなかったことや、磐井の乱(527年、北九州におきた反乱で、度重なる朝鮮出兵による重い負担に豪族や農民が、筑紫国造(地方官)の磐井を中心として朝廷側に反抗した争い)が継体体制を不満として引き起こされたものと考えるなら、継体死後もまだ抗争が尾を引いていたと考えられなくもない。

近鉄南大阪線の踏切を渡ったところから始まる小高い土盛りは、安閑御陵が畠山氏の「高屋城」本丸とされていた時代の外郭の名残だという。

その外郭址への径を登り、小さな住宅街を抜けると、安閑御陵横に出る。





羽曳野市・藤井寺市の古市古墳群とは!

2011年04月01日 | 歴史
これからは、羽曳野市と藤井寺市にまたがる古市古墳群を巡って、生い立ち・大和政権との関係・考古学的重要性などについて検証する。

古市古墳群は、大和川に合流する石川の左岸に位置する羽曳野丘陵から北東方向へのびる国府台地をうまく利用して造られている。

そのうちの大型前方後円墳に着目した場合、築造時期や主軸線の方位によって、北群と南群に分類できるという。





写真は、羽曳野市と藤井寺市に跨る古市古墳群空撮及び同古市古墳群マッピング。

大型古墳では、右上から市野山古墳・仲津山古墳・誉田御廟山古墳・古市墓山古墳と続き、左上からは津堂城山古墳・岡ミサンザイ古墳など。

考古学的には、これらの古墳の築造時期は北群の方が南群よりやや早く、まず4世紀末に津堂城山古墳が造られ、5世紀前半から中頃にかけて仲津山古墳、古室山古墳、誉田山古墳、古市墓山古墳、市野山古墳がほぼこの順で造られたとされている。

一方、南群は5世紀中頃から後半にかけて形成されたらしい。

古墳の造営や埴輪の作成に関わった土師氏は、古市古墳群の周りに住んでいたと云う。
この土師氏(野見宿禰が殉死者の代用品である埴輪を発明し、古墳を作ったり葬送儀礼にも携わったが、渡来系とする説もある。)には2系統あったようだ。

北群の古墳群に関わった土師氏は、河内国志紀郡土師郷に本拠をおいた一族である。
この土師氏は氏寺として土師寺(=道明寺)を建立している。

一方南群の古墳群に関わった土師氏は丹比郡土師郷を本拠とした一族のようだが、この一族の実態はよく分かっていない。

日本有数の大型古墳が密集する古市古墳群は、羽曳野市・藤井寺市を中心に広がる古墳群で、4世紀末から6世紀前半頃までのおよそ150年の間に築造された。

東西約2.5km・南北4kmの範囲内に、墳丘長日本第2位の伝応神陵・誉田御廟山古墳など墳丘長200m以上の大型前方後円墳6基を含む、前方後円墳31基、円墳30基、方墳48基、墳形不明14基など計123基(現存87基)の古墳で構成されている。

いずれも標高24m以上の台地や丘陵上にある。

北部の伝応神陵・誉田御廟山古墳、伝仲津姫陵・仲津山古墳、伝允恭陵・市野山古墳、伝仲哀陵・岡ミサンザイ古墳などの古い古墳群と南方の白鳥陵・前ノ山古墳を中心とする前方部の著しく発達した西向きの新しい一群とに分けられる。

古墳造営には豪族の土師氏などが関与していたと考えられているが、2001年1月に国の史跡に指定された。

2008年9月、仁徳天皇陵を含む百舌鳥古墳群とともに世界遺産の国内暫定リストに追加された。

歴史学や考古学の一部学会には、世界遺産登録やその登録条件となる文化財指定が、宮内庁管理下の天皇陵古墳の公開や発掘調査に道を開くものとして歓迎する声がある。

堺市の百舌鳥古墳群とともに、5世紀代の近畿に覇を唱えた「大王」達の奥津城で、123基の古墳からなるが、4世紀には奈良にあった大王墓が、なぜ南河内の古市へ移動してきたのか?

河内王朝は実在したのか?なぜ覇権はまた奈良へ戻っていったのか?

発掘調査ができれば、これらの古墳達はその謎を明らかにしてくれるかもしれないと期待は膨らむ。

この古墳群の特色は、墳丘長400mを超える巨大な前方後円墳、伝応神陵・誉田御廟山古墳から一辺10mに満たない小型方墳まで、墳形と規模はバラエティに富んでいる。

超大型の大王陵を造営するには、多くの作業労働者と長い時間を必要としたと思われるが、ピーク時には1,000人~2,000人規模の作業労働者とそれを指揮・管理する人々が、造営中の墓の近くで集団生活を送っていたはず。

そうした集団の一つが埴輪制作に携わる土師氏の居住地だったと見られる。

巨大古墳が造営され続けた羽曳野丘陵地帯は、大王たちが眠る静かな墓場で、当時の日本列島でもっとも多くの人々が集まって、賑わいをみせていた場所だったと見られる。

古市古墳群や百舌鳥古墳群に大王の墳墓と目される巨大古墳が造られるのは、5世紀を中心にする期間で、この期間はまさに中国文献に登場する倭の五王の時代と重なる。

この5人の倭王の墳墓は、古市古墳群と百舌鳥古墳群に築かれ、倭の五王は国内の政治的安定と東アジアの国際社会への雄飛を巨大な墳丘に託したかもしれない。