近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

磐田市の兜塚古墳とは!

2012年06月29日 | 歴史
磐田市内の古墳巡りを続けます。

兜塚古墳は磐田原台地の南端にあり、直径約80m・高さ約8mの県内最大の円墳で、墳丘は2段に造られており、その姿が兜を伏せた状態に似ていることからその名がついたらしい。







写真は上から、兜塚古墳の墳丘、サイドビュー及び墳頂の光景。2段築成の様子が窺い知れる。

円墳としては全国で5番目に入るほどの大きさと云う。

国道1号線沿いに、“かぶと塚公園”として整備公開されているが、径約80mの大円墳に対して、高さが僅か8mほどしかなく、平べったい印象。

戦時中に鏡などが出土している。

5世紀前半に築造されたと見られているが、鏡・装身具・武器などが出土している。

本古墳は、市の総合体育館や総合グランドを中心とした運動公園の中心に位置している。



磐田市の御厨古墳群とは!

2012年06月25日 | 歴史
静岡県内有数の埋蔵文化財の宝庫と言われる磐田市には、御厨古墳群・新豊院山古墳群・銚子塚古墳など、大小合わせて600基を超える多数の古墳の他、国・県の文化財に指定されている史跡などが数多く存在する。

その中で、天竜川東岸の磐田原台地南東部の新貝・鎌田地区にかけての地区には、周辺の大小あわせて48基の古墳群が存在する。

中でも御厨古墳群は、古墳時代前期の墳丘長約110mの大型前方後円墳で、豊富な副葬品が出土した松林山古墳、50mを越える大型円墳である秋葉山古墳、高根山古墳、前方後円墳の御厨堂山古墳・稲荷山古墳の5基からなり、国の史跡に指定されている。

大型古墳が継続的に築造されており、遠江地方で最も有力な古墳群として極めて重要。

御厨とは、寺社に稲を供給した場所を示す言葉で、かつては伊勢神宮の荘園だったと云う。





写真は、松林山古墳の遠景。

中でも最も大きな古墳の松林山古墳は、神明中学校の北側にあり、全長約110mを測る前方後円墳。

昭和6年の発掘調査で、鏡・剣・貝製の腕輪などが見つかっている。

4世紀代という古い段階の、大型の古墳が集中しているが、中心となる松林山古墳の発掘調査の結果から、大和の王権と強い結びつきがあったことが推測されている。







写真は、連城寺裏山の稲荷山古墳と秋葉山古墳、両古墳の全景及び裏側からの光景。

かつて連城寺裏山には4基の古墳があったと云う。三白山連城寺の墓地には平清盛・重盛の供養塔がある。

その後、時代は下り、墳丘の形は、前方後円墳から円墳へと変化した。

松林山古墳の周辺では5世紀中ごろにかけて墳丘径60mほどの高根山古墳、同径50ほどの秋葉山古墳、同径30mの新貝17号墳と、大型の円墳が相次いで築かれた。

前方後円墳が衰退し大型の円墳が盛行するという傾向は、磐田原台地の他の古墳群にも見られる。

稲荷山古墳は葺石・埴輪を有する、全長46.5mの前方後円墳で、葺石を有する秋葉山古墳は、県内で4番目の大型円墳。

最も南側にあった経塚古墳は全長約90mの前方後円墳であったと伝えられるが、明治時代の東海道線の工事中に、消滅したと云う。工事中に三角縁四神四獣鏡が発見され、県の有形文化財に指定されている。









写真は、左上から高根山古墳全景とその内部及び御厨堂山古墳正面とサイドビュー。

高根山古墳は、神明中学校校庭の東にあり、墳丘が2段になった県内では3番目に大きい円墳で、直径約52m・高さ約8mもあり、壺形埴輪・円筒埴輪が出土している。

この辺りには、御厨古墳群のほかに、銚子塚古墳・小銚子塚古墳など多くの国指定の古墳群が存在。

一方御厨堂山古墳は、御厨古墳群の南東端に位置し、“芝生公園”の一角。

御厨古墳群は、その規模から、現在の磐田市がこの地方の中心地であったことが示され、畿内古墳と類似した石室・埴輪が見られるだけに、ヤマト王権との繋がりが想像される。


磐田市の銚子塚古墳と小銚子塚古墳とは!

2012年06月22日 | 歴史
引続き、磐田市の古墳群を紹介します。

磐田市寺谷、磐田原台地の北西の崖縁に、墳長46.6mの前方後方墳の小銚子塚古墳と全長約112mの前方後円墳の銚子塚古墳が隣接している。

ともに保存状態は良好。周辺には、他にも多数の古墳が分布しており、市内における大きな古墳群を形成している。

銚子塚古墳と小銚子塚古墳は並んで造られていて、2つとも4世紀中頃から後半に造られ、双方とも当時、この地方を治めた首長の墓らしい。

発掘調査の結果、前期古墳時代のこの地方には、4人の首長がいたことが明らかになっていると云う。









写真は左上から、銚子塚古墳後円部から前方部の墳頂、後円部墳頂、後円部側面及び前方部サイドビュー。

銚子塚古墳は、全長112mほど・高さ約8.5mの県内で3番目に大きい、古墳時代前期の前方後円墳で、本古墳周囲には濠が巡っており、後円部の北から東側にかけて周濠跡が、現在も残っている。墳頂の標高は100mほどと云う。

1880年の発掘調査では、地表下3mほどのところで、朱が付着した円礫が積まれた場所から、三角縁神獣鏡一面・巴形銅器・銅鏃などが出土したと云う。









写真は、子銚子塚古墳の墳丘形状、前方部から後方部の光景、前方部墳頂状況及び周濠跡と見られる窪み。

隣接する小銚子塚古墳は、全長47mほどの前方後方墳で、築造年代は銚子塚古墳より古く考えられているが、前方後方墳は県内に5例しかないらしい。

写真のように、前方後方墳は、2つの方形の塚を重ねた形をしたもので、珍しい形の古墳。

前方部の北から東側にかけて、周濠跡が見られるが、詳しくは未調査のため、内容ははっきりしない。

前方後方墳と前方後円墳が規模の大小はあれ、時代を接して存在していることで、王の系譜を示す興味深い組み合わせと云える。

双方とも国の史跡に指定されている。



写真は、銚子塚古墳から出土した、三角縁日月銘獣文帯三神三獣鏡。

この三角縁日月銘獣文帯三神三獣鏡は、直径17cmあり、“日”と“月”の銘が鋳出されている。

山梨の大丸山古墳、岐阜の坂尻1号墳と同笵鏡らしい。分有関係にあったことから、縁者・同盟関係であったことを示しているには違いはないと思われる。

2つの古墳が密接して存在しているが、向きがことなり、形態も異なる。時期はほぼ同じらしいが・・・・・。

海路で前方後円墳の本拠と、陸路で前方後方墳の本拠につながっているという、なかなか興味深い所であり、天竜川をのぞむ磐田原台地に造られている。

横から見ると「銚子」に似ていることからその名が付けられたと云う。

銚子塚古墳から三角縁神獣鏡が発見されたことで、邪馬台国や卑弥呼となにか繋がりがあったのだろうか?

時代で考えると卑弥呼が亡くなったと推定されている年代は3世紀後半。銚子塚古墳とは約1世紀のずれがあるが・・・・。

銚子塚古墳の後円部から、前方部を見ると、写真を見てもわかるように、前方部が細長く、主体部からは、日月銘が刻まれた三角縁神獣鏡が発見されている。

小銚子塚古墳の前方部の裾野から、左側が後方部で、後方部の西側は急な崖、木を全部切り倒せば、ふもとの平地から古墳が見えるはずだが・・・。



磐田市の新豊院山古墳群とは!

2012年06月19日 | 歴史
ここからは、静岡県磐田市内の代表的古墳群を巡って行きます。

先ず新豊院山古墳群は、太田川の平野を望む新豊院裏山にある、弥生~古墳時代の墓群。

この中には古墳時代に変わる頃に造られた墓や、古墳時代前期の前方後円墳があり、弥生時代から古墳時代にかけての墓の変遷を知る貴重な遺跡。

弥生から古墳時代にかけて、墓の移り変わりを知る貴重な遺跡として、又県内最古の前方後円墳として国指定史跡にもなっている。









写真は、新豊院入口に掲げられた古墳案内、新豊院墓地側から見える古墳杜、古墳群が眠る森林及び古墳群東側の急斜面。





写真は、磐田市向笠の新豊院山古墳群のうち、2号墳の墳頂及び本古墳から出土した三角縁神獣鏡。

2号墳は全長約34mの前方後円墳で、三角縁神獣鏡・鉄製品・銅製の鏃なども出土した。

本2号墳は、墳丘は前方部がバチ形に開く2段築成で、埋葬部直上より出土した土器から、4世紀前半に築造された県内最古の前方後円墳と考えられている。

本2号墳から出土した三角縁神獣鏡には、写真のように、神と思われる聖人と龍のような聖獣が描かれている。

三角縁神獣鏡のほか、剣・大刀・銅鏃・鉄鏃・槍・刀子などが副葬されるなど、畿内の4世紀の古墳と共通の要素が見られる。

埋葬部は竪穴式石室ではなく、礫と粘土を交互に積み上げた特殊な構造で、棺も板を組み合わせた箱形木棺のようなもの。

このような特徴から、畿内古墳の影響を強く受けながらも、在来墳墓のローカル要素を色濃く残す古墳と見られている。




静岡県磐田市の古墳群巡りとは!

2012年06月16日 | 歴史
ここからも引続き、畿内を中心に、現在の近畿地方に大きな支配力を制していた、ヤマト王権が、その影響力を東国にどのように及ぼしていたか、“古墳”を通じて探索してみたい。

海上アクセスが比較的容易であったと見られる、現在の磐田市の古墳群を取上げてみたい。

磐田市は近年、プロサッカー・ジュピロ磐田の活躍で知られるようになった。

静岡県西部、天竜川の東側に位置し、人口9万人弱で、地形は南北に細長く、北部は緑豊かな台地がなだらかに広がり、南部は遠州灘に面した穀倉地帯が広がった、自然の景観に富んだ温暖な気候の町。





写真は、磐田市東部の磐田原台地の淡水沼地及び菜の花が広がる磐田原台地光景。

磐田原台地は、東海道沿線に連続する丘陵地で、標高250m以下の起伏の小さな地形を有する、県下有数の淡水池沼。

沼周辺には、多くの動植物が生息しており、67種類のトンボ・マガモなどの野鳥・魚類・水生植物その他の生物も多く、まさに自然の宝庫。





写真は、遠江国分寺の七重塔基跡地及び本国分寺跡から出土した瓦・鉄釘など遺物。

天竜川にはぐくまれたこの地は、文明とのかかわりが古く、約2万年前の先土器時代からの遺跡や多数の古墳群、奈良時代の遠江国分寺遺跡など文化財の宝庫でもある。

奈良時代、磐田は遠江地方の政治・経済の中心として大変繁栄し、聖武天皇の詔によって遠江国分寺が建立されたところ。

古墳時代中期には、大型の前方後円墳・珍しい前方後方墳の存在や、三角縁神獣鏡などの数奇な埋葬品の出土など、被葬者はこの地域の有力首長と見られ、ヤマト王権との繋がりに思いを馳せる。


浜松市の馬場平古墳とは!

2012年06月10日 | 歴史
馬場平古墳は、浜松市北区引佐町井伊谷上野の丘陵端に所在する、古墳時代前期後葉から中期に築造された全長47.5mの前方後円墳。

墳丘は一部が損傷しているが、主要部分は風雪を自然な形で耐えた状態で残っている。

古墳群の通番として馬場平1号墳とも呼ばれることがある。







写真は、馬場平古墳現場標識、同古墳前方部の墳丘光景及び現場看板。

墳丘の規模は、後円部の径33m・高さ4.6m・前方部の最大幅は15m・高さ2.1mを測り、墳丘全長は47.5m。

土が盛られて造られたため、1500年あまりの年月の風雪に耐えながらも自然崩壊などもあり、これらの規模の計測数値は確定的なものではない。

墳丘の周囲には後円部背後のみ幅8~9mの周濠があり、葺石が墳丘に施されていたと見られる。

測量調査が1982年に、叉発掘調査が1988年に行われた結果、後円部墳頂の中央にある埋葬施設の中にある、組合式木棺で埋葬されていた。粘土槨は6.1m・木棺全長1.85~2.2mを測る。

1934年の当地開墾で、見つかったものとして画文帯神獣鏡、変形神獣鏡、内行花文鏡、巴形石製品、碧玉製管玉、瑪瑙製勾玉、ガラス製小玉、銅鏃、鉄剣、鉄鏃などが知られている。







写真は、馬場平古墳出土の鏡類・巴形石製品・鉄鏃、馬場平古墳出土の神獣鏡・内行花文鏡などの鏡類及び勾玉・管玉など玉類。

五花文の内行花文鏡では、鏡面に赤い顔料が付着していた。北岡大塚古墳に続く地元有力者の古墳と思われる。

本古墳後円部が破壊され、全体の4分の1が破壊されていると云う。

前方部は、少し破壊されていたと云われているが、もともと山の尾根に沿って低く造られたらしい。

本古墳群のうち、2号墳と3号墳は消滅していると云う。

浜松市の千人塚古墳とは!

2012年06月07日 | 歴史
ここからは、静岡県西部の浜松市・磐田市などを中心とした古墳群を紹介する。

千人古墳は、浜松市中区有玉西町の三方原学園敷地内にあり、市内最大の中期円墳で直径が約49m・高さが7mほどを測る。

千人古墳群は、三方原台地の縁辺部に築かれた現存9基からなり、5世紀中頃から6世紀前半まで1世紀近くにわたって築かれ続けたもので、これらを三方原園内古墳群と総称している。











写真は、三方原学園敷地入口の千人塚古墳標識、千人塚古墳墳丘の全体像、同墳頂に建てられた石碑、同墳丘の様子及び墳頂から望む磐田方面光景。

本古墳は2段築成で、北西方向に造出しが付き、幅8.5mの周濠が巡り、葺石・埴輪が見つかっている。

主体部は2基の木棺直葬で、大量の鉄製武器・農具が副葬されていた。





写真は、千人塚古墳出土の鉄製革綴冑及び同古墳出土の鉄製品。

第1主体部の南側に第2主体部が発見され、そこからは冑・短甲・鉄剣・大刀・鉄鍬など豊富な副葬品が発見されたと云う。

更に墳丘の裾にある造り出し部からは鉄剣・大刀・大量の鉄鍬・鉄斧など豊富な鉄製品や埴輪が発見された。

この場所から一望出来る、天竜川平野部に大きな勢力を得た地方豪族の墳墓と考えられている。

周辺には、このほかにも全長約45mの前方後円墳である瓢箪塚古墳をはじめ、やや大型の古墳が分布している。

三方原台地の北端には7kmにわたって160余りの古墳群があったとされ、現在三方原学園内には7つの古墳が保存されている。

1572年、武田と徳川両軍が戦った三方原合戦の激戦地は、三方原学園付近と言われていたが、当地に千人塚があり、戦没者を葬った塚とする伝説があった。

しかし千人塚古墳を発掘した結果、全く根拠がない事が判明。



千葉県印旛郡栄町の龍角寺古墳群と岩屋古墳とは!そのⅥ

2012年06月03日 | 歴史
龍角寺古墳群のうち、ここでは龍角寺53号墳を取上げる。





写真は、龍角寺53号墳裾の誘導路の突当たりが埋葬施設とその内部。

本古墳は、全長約27m・高さ2.6mの前方後円墳で、古くから写真のように、箱式石棺が露出していたらしい。

石棺は、墳丘のくびれ部にあり、筑波山一帯の雲母片岩を使っている。

石棺の大きさは、縦1.79m・横1.07m・深さ0.96mで、箱式に組み立てられている。盗掘のためか、遺物は皆無。



写真は、復元された龍角寺108号墳の横穴式石室。

墳丘は調査後消滅してしまったが、一辺約16m・高さ約1.0mの古墳時代終末期の方墳で、約2.5mの周溝を巡らせていたと云う。

埋葬施設は、写真のように、小型で特異な横穴式石室。この石室は、4枚の天井石と12枚の板石で作られた、7世紀中頃のもの。

叉周溝からは、直刀・須恵器・鉄鏃などが検出されたと云う。

龍角寺古墳群を造営した首長は、“印波国造”(下総国中部を支配した首長)と考えられているが、浅間山古墳の造営以前は、同じ印旛沼北東部にある公津原古墳群を造営した首長の勢力が、4世紀前半から6世紀前半頃までは、龍角寺古墳群を造営した首長を上回っていたと考えられている。

しかし6世紀末以降、勢力を強めた龍角寺古墳群を造営した首長が、周辺地域では最も大きい前方後円墳の浅間山古墳を造営し、その後、日本最大級の方墳である岩屋古墳を造営し、更には7世紀後半には龍角寺を創建したと見られている。

龍角寺は、県内はもとより東国でも最古に属する寺院で、東国の豪族はこの頃から、古墳に代えて寺院を造りはじめたと云える。

岩屋古墳を築いた当地の豪族が、仏教を取り入れ、“氏族の寺”として建立したものと考えられる。





写真は、現在の龍角寺の境内及び国史跡に指定されている、龍角寺境内の塔跡で、680年に建立されたが、龍角寺本堂の東側に所在する。

塔は昭和45年の発掘調査によって、12m×12mの基壇が存在することが判明。現存する花崗岩製の石は、塔の中心を通る柱の基礎となるもの。

古墳群のうち、岩屋古墳は1941年に単独で国の史跡に指定されたが、2009年2月に、浅間山古墳を含む周辺の古墳群が追加指定され、史跡指定名称は「龍角寺古墳群・岩屋古墳」と改められた。

龍角寺古墳群に隣接する、南隣の公津原古墳群が、4世紀前半から造営されたのに比べ、新しい時期に本古墳の築造が開始されたことがわかる。

更に6世紀前半には船塚古墳が造営されるなど、当初は公津原古墳群を造営した首長が地域の主導権を握っていたものが、6世紀後半には目立った古墳は築造されなくなり、龍角寺古墳群を築造した首長に主導権が移ったものと考えられている。





千葉県印旛郡栄町の龍角寺古墳群と岩屋古墳とは!そのⅤ

2012年06月01日 | 歴史
龍角寺古墳群巡りを続けます。龍角寺101号墳をご覧いただきます。





写真は、龍角寺101号円墳墳丘のサイドビューと正面像。

龍角寺101号墳は、坂田ヶ池を望む台地に位置し、6世紀に作られた古墳で、墳頂の埋葬部(木棺)の他に墳丘裾に箱型石棺が二つ埋葬されていたらしい。

本古墳規模は、この龍角寺古墳群で最大でも66mという小型のもので、墳丘の直径が24.1m・高さ3.6mで、3.5mと3.0mの二重濠を持っていたと云う。

出土遺物は、土師器・須恵器・直刀・鉄鏃・馬具・管玉・金銅製耳飾などのほか、埴輪には、円筒・人物・動物・家型など100基以上並べられていたらしい。







写真は、資料館に展示されている埴輪類。左上から、盾を持つ武人・巫女・水鳥・犬・馬・鹿や円筒埴輪。

他にも、猪・家などの埴輪が検出されたらしい。

埴輪の起源は弥生時代にまで遡るが、房総では6世紀末頃までには、ほとんど姿を消したと云う。