<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



毎年数多くの番組が生み出されるテレビ放送。
一体どれほどの数の番組が生み出されるのか。
その新作番組が新型コロナウィルス禍の影響で作れなくなってきている。
撮影や製作作業時の安全の確保が十分で出来ない可能性があるため、撮影がストップしているためだ。
この作れずにいる番組の穴を埋めるために過去の番組が再放送されるケースがみるみる増えてきている。
この再放送のテレビ番組。
なかなか楽しませてくれるので面白い。
正直言って新しい番組は製作せずに昔放送した膨大な数のドラマやバラエティ、教養番組などを再放送するだけでいいのではないか、と思えるようになってきたのだ。
新作の番組よりも過去にヒットした番組を見るほうが断然面白いケースが少なくない。
出演者も卓越した顔ぶれであったりするので今どきのおこちゃま番組を見なくて済むというメリットがある。

再放送オンパレードは過去のコンテンツの価値を再認識するとともに、番組は量より質であることを改めて感じるシビアな機会になってきているようだ。


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今年の秋でJR西日本の新快速電車が走りはじめて50年を迎えるのだという。

この新快速電車、何で有名かというと早いことで有名なのだ。
大阪〜京都 約30分。
大阪〜三宮 約20分。
大阪〜姫路 約60分。
いずれも在来線の特急なみである。

阪神大震災以降に停車駅が増えたことと、宝塚線の転覆脱線事故以降に若干のスピードダウンを図ったため所要時間が少し伸びてしまったのだが、それでも在来私鉄を圧倒する速さなのだ。
なんでも最高時速は130km/hなのだという。
乗っているときは車両が新しいこともあって揺れをあまり気にすることがないのでスピード感はあまりない。
それでも阪急や京阪なら45分以上必要な大阪〜京都間を15分以上短縮した時間で走破するのは運賃が多少高いことを考えてもメリットはある。
新快速よりも早く大阪から京都まで行こうと思うともはや選択肢は新幹線しかない。
特急サンダーバードに乗ったとしても所要時間は新快速と同じがそれより遅いという信じられないダイヤ編成なのだという。

この新快速電車。
東は福井県の敦賀か滋賀県の彦根、西は播州赤穂まで走っているのだが、かつて私の住んでいる大阪府南部も走っていたことがある。
天王寺〜和歌山間のJR阪和線で、天王寺を出ると鳳駅にしか途中停車せず、そのまま和歌山まで行ってしまうという優れものなのであった。
これは阪和電鉄時代の特急を模倣したものであったのだろうか、天王寺から和歌山までの所要時間は多分40分。
南海の難波〜和歌山が約60分なので大阪〜京都同様ぶっ飛ばしである。

当時私は堺市駅を最寄りとしていた。
このため利用駅を通過する新快速電車にはいささか関係なしの不自由さを感じながらも大胆な停車駅に「大丈夫かいな」と子供心に感じていた。
大丈夫かいな、というのは途中一駅しか停車しないし、しかも終点は和歌山というような電車をどれほどの人が利用するのか。
大いに疑問であったからだ。

当時はまだJRではなく国鉄時代。
浮世ずれした国鉄エリートのマーケティング担当がアホなダイヤを組んだのであろう。
子供だった私の予想通り、1年ほどしか存在できない幻の新快速電車になってしまったのであった。

そもそも和歌山の方には申し訳ないが和歌山は産業が偏っている。
例えば和歌山市の面積の3分の1は住友金属工業和歌山製鉄所であり、その製鉄所の隣に製鉄所の3分の1ぐらいの広さの花王和歌山工場がある。
この2社で和歌山市の圧倒的面積を占めているため移動する人が極めて限られる、というところに問題があったと思う。
今も問題だと思う。
で、その2社以外はほとんどが農業と漁業、林業の地域なのだ。
和歌山の一次産業はすごい規模なのだが農業や漁業、林業関係者はたぶんあまり電車を利用することはない。
したがって御三家のお膝元ながら和歌山は京都や神戸と比べると交通機関のマーケットの魅力としては雲泥の差があるわけだ。

ともあれ新快速50年。
京阪神ならではの電車なのだ。




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このGWの間に時間ができたのでフィルムスキャナで35mmポジフィルムをデジタル化する作業をしようと思ってソフトウェアを立ち上げた。
実に数年ぶりに起動させるソフトなのでちゃんと動くか心配だった。
で、結果的にソフトは立ち上がらない、スキャナは認識しないで何も出来なかったのだ。

メーカー名はサンワサプライ。
機種は400-SCN006。

メーカーのWEBサイトを見たらすでに販売終了品で、最新のサポートはしていないようだ。
なんでもMac0Sは10.6までしか対応していないという。
今使っているiMacのOSはMacOS 10.14。
ずいぶんと古いバージョンまでしか対応していなかったようだが、私がこのスキャナを購入したのは5年ほど前。
その時すでにMac OSは10.9ぐらいまで進んでいたはずで、最新OSに対応していない旨、そのときに書いていたのかどうか記憶にないが随分と不親切なものを買ってしまったものだと後悔した。

製品単価が1万円以下の安いスキャナだったのですぐに使用を諦めてもいいのだが、そこは自腹を切って購入した製品。
たとえ1円でも出していたらちゃんと使いたいのが人情だ。
そこでWEBサイトを見てみるとWindowsなら10でも動くようなことが書いてある。
早速CADを使うときだけ使うWindows10マシンを立ち上げ接続。
ソフトをインストールして起動させた。
ソフトは起動するがスキャナは認識しない。

なんでやねん。

一旦電源を切って、スキャナをつないだまま起動したり、Windows10のコントロールパネルからデバイスを一旦削除してソフトを入れ直したりしてみたがスキャナのランプは付くが認識しない。
システムチェックをしたらPCはスキャナを認識しており、ソフトが認識しない状態になっていた。

なんじゃい、これ。

という感じだ。

結局半日ほどあれこれやってみたものの使い物にならず。
以前はスキャンできたが、もはや使えない代物だ。

サンワサプライの無責任なのはWindows10でも使えるように書いているがトラブルに対するQ&Aはいっさいないこと。
どういう考え方をしているのかはなはだ頭にくる。
新品を買おうかと検索しても出てくる安価なものはサンワサプライばかり。
この製品で駄目だから他のを買っても無事に動く補償もないだろう。

デジカメを始める以前のスライド写真。
かなりの量があってデジタルにしておきたいのだが、大枚はたいて富士フィルムのラボに頼むか。
大いに悩んでいるところだ。


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新型コロナウィルスに関連して各都道府県の知事がテレビ番組や記者会見に登場することが多くなった。
見ていて感じたのは選挙というものは真面目に投票しなければならないな、ということだった。

それにしても大阪府は吉村知事で良かった。
正しいか間違っているかはともかくとして若いのに冷静沈着。つねに的確に判断し、ステートメントも発表するので安心感がある。
なによりも奈良県の荒井知事や兵庫県の井戸知事、愛知県の大村知事でなくてよかったとつくづく感じるのだ。

今回のケースで緊急事態が発生した場合、自治体の首長には強力なマネジメント能力が求められることがはっきりとわかった。。
広い知識と理解力、さらにスピーディな行動力はもちろんのこと、部下や外部との連携を密に図れるコミュニケーション能力が求められる。
そして絶対的に必要なのは責任感。

今回そうじゃない人の方が多いことにつくづく選挙制度と投票する側の心構えの見直しが必要だと痛感している。

たとえば、

「非常事態に知事のやる仕事なんかない」

と言い切ったのは奈良県知事。
また、

「大阪府と連携する必要はない」

と言い切ったのは兵庫県知事。

このドサクサに名古屋市に喧嘩を売っていると思ったら、自身の足元でコロナ患者の個人情報が流出したのにも気づかない愛知県知事。

この三人の共通点は実務力がないことに加え市民との価値観大きく異なっているのになぜか選挙で知事に選ばれていること。
そして元官僚であることが上げられる。

もちろん官僚出身の人にも優秀な知事になっている人も少なくないだろう。
和歌山県知事や鳥取県知事などは県政を上手く運用して危機的状況に対応している。
でも前述の三人を見る限り官僚であったことのメリットは何もなく、もしかすると単なる世間知らずが官僚をやっていて、その名刺と組織力で選挙で当選しただけに過ぎないのではないかということがありありなのが情けないところだ。

数年前。
関西の大学で開催された日本化学会の学会で目撃したある講演会でのこと。
冒頭、文部省の官僚さんが登壇してこれからの研究開発についての持論を一発打った。
そのあとに複数の大学の先生方がまったく逆の論調を発表。
するとこの官僚氏、最後の挨拶で持論を180度転換。
最初とは正反対なことを主張して有力な先生たちの意見に賛同。
正直かなりびっくりした。
官僚というものはこういうものなのか、いうことを痛烈に実感した学会の一コマなのであった。

ということで知事選挙。
肩書で選ばず、実務のできるリーダーシップを発揮できるを選びたい。
つまり政党のご都合や利益ではなく住民の利益を考える人。
宗教繋がりで何も考えずに投票するのもやめにしよう。

かくのごとく新型コロナウィルス禍は日本の政治家選びにも影響を与えるのかもしれない。
少なくとも次の兵庫、奈良、愛知の知事選挙は。


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シネコンが出現し始めたころ、これらの従来型映画館は次第に姿を消し始めた。
ちょうど時代が昭和から平成へ変わった頃のことだ。
中でも梅田シネラマOS劇場の閉館は映画ファンのわたしとしてはかなりショッキングで、あのバカでかい画面で二度と映画を見られなくなるかと思うと「なんでやねん!」という憤りさえ感じたのであった。
お別れ上映では「2001年宇宙の旅」「トップガン」を見に行ったが、どれもプリントから時間が経過したフィルムを使用した上映だったらしく少し色があせていたのが印象に残っているし、悲しくもあった。


平成になると私の社会人として脂が乗ってきたところであったし、就いた仕事が猛烈に忙しい建築業界であったことも災いして映画を見る機会を失っていた。
映画だけではない。
音楽を聴くこともテレビ番組を見ることも激減した。
友人連中もだいたい同じような状況で浮世離れした仕事人間に変わっていたのだった。
大阪府庁に入庁したT君などは、
「TRFって、トリフって言うと思ってたら役所の女の子に嗤われた」
と言っていたくらい症状は深刻であった。
私もTRFだとか、米米CLUBといえば米つながりで桂米丸、小室といえば小室等しか思い浮かばず、時間はニューミュージックで止まったままになっていたのだった。


その間、ビデオからDVDになる頃に名画座は次々に閉館。
シネコンがあちこちに出来始めた。


久しぶりにの休み。
映画を見に行くのに映画館を探していたらアポロシネマ8というシネコンがあべの橋にできていることを発見。
あべのには近映という近鉄系の映画館があったのだが、そこへはあまり行ったことがなかった。
近鉄百貨店の建て替えで消滅した近映に代わってアポロシネマ8が誕生したわけで、私はそこで初めてシネコンというものを体験することになった。
ちなみにこの時建て替えられた近鉄百貨店本店はあべのハルカスに建て替えられる前に建てられた商業施設で、設計はかの有名な村野藤吾なのであった。
著名な建築家に設計してもらったにもかかわらずわずか20年ほどでぶっ潰し、高さ300メートルの日本一のタワーを建てたいというセンスは私にはよくわからない。
なんとかと煙は高いところがお好き!というそれではないかと思っているのだが、それはまた別の機会に。


シネコンへ行って驚いたのは客席の傾斜角度だった。
これまで前の人の頭が絶対にじゃまにならない劇場は梅田シネラマOS劇場と千日前スバル座だけであった。
客席には頭が気にならない傾斜があり、スクリーンを存分に楽しめる。
そんな普通のことが旧来の映画館では難しかったのはいま考えると不思議でもある。


道頓堀松竹座で「80日間世界一周」のリバイバル上映を見に行った時のこと。
後ろに座っていた小学生に、
「頭をもう少し低くしてもらえませんか」
と頼まれたことがある。
正直ショックであった。
私の頭がスクリーンの邪魔になるほどデカかったというか、座高が高かったのは予想だにしなかった。
これも忘れられない思い出だ。
「頭を低く座ってください」なんて年上の見ず知らずの大学生のお兄さんに頼んできた小学生の勇気も大したものだが、それ以上深く腰を掛けることなんてできない松竹座の座席配置も考えものであった。
これをきっかけに先述のロビーで展開される宝石がらみのインチキ商売も相まって私は松竹座から足が遠のくことになった。
気がついたら松竹座は歌舞伎の劇場に建て代わっていたのだ。


シネコンのような中型、小型の劇場で映画を見るようになったのは、やはり観客が集まりにくくなっていたということもあるのかも知れない。


ジョン・ウエインの遺作になった「ラスト・シューティスト」をミナミの東宝敷島へ見に行った時、平日の昼間ということもあったのかも知れないが、もぎりのお姉さんから、
「今日は貸し切りですよ」
と言われた。
このことも強く印象に残っている思い出だ。
確かに劇場に入るとハリウッドの大スター「ジョン・ウエイン」の遺作にも関わらず、広い劇場に観客は私一人。
上映が終わってみると、もうひとり観客がいたものの、ほぼ貸切状態なのであった。
「ラスト・シューティスト」の記憶は共演にロン・ハワードがいたことと、貸切状態であったことが今も心に刻まれている。


消え去った映画館。
いずれの映画館も個性豊かだったことが今のシネコンとは大きく異る。
そんな思いをあれこれと想像するコロナ禍のGWなのであった。


おしまい



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ビデオが普及する前。
ロードショー公開が終わっている一昔前の映画を数本まとめて上映する「名画座」は映画好きの学生にとって貴重な存在であった。

難波道頓堀の戎橋劇場、キタ堂島の大毎地下劇場と大毎名画座は定番。
京都祇園会館は三本立てのボリュームで、まるまる一日映画三昧。
後に住んでいた地元で発見した堺国際劇場はほぼ貸し切り状態で2本立て。
名画座ではないが天王寺ステーションシネマでもちょっと遅れの映画を何本か鑑賞した。
いずれも忘れがたい映画館だ。
ついでに何度も繰り返しになるが、どの映画館も今はない。

私にとっての名画座映画館のメインは大毎地下劇場だった。

地下鉄四つ橋線の西梅田駅を下車。
駅と続いている堂島地下センターを歩いて南へ向かう。
途中、インディアンカレーで名物の酢キャベツでカレーライスを食べて腹ごしらえ。
目指す大毎地下劇場はそこからすぐで、時間があれば手前の旭屋書店で立ち読みをした。
ここの料金は確か前売りの学生価格が600円だっと記憶するが、この600円で数々の名画を知ることになった。

最も多い回数見た映画が「スティング」「明日に向かって撃て」「天国から来たチャンピオン」「大陸横断超特急」で、中でも「スティング」は何度見ても飽きない素晴らしい映画だと思っている。
初めて見たときはその結末の見事さにびっくり。
自分自身が映画の登場人物ロバート・ショー演じるシカゴの親分ロネガンみたいに何が起こったのか暫し呆然としたことを今も鮮明に思い出すことができる。
今でもたまにDVDで「スティング」を見るのだが結末を知っているのになぜかドキドキ楽しむことができる。
ポール・ニューマンの粋な感じ、ロバート・レッドフォードの若さ。
スコット・ジョプリンのラグタイム。
どれもこれも魅力的なのだ。

この大毎地下劇場のずっと上。
多分6階ぐらいだったと思うが、ここに大毎名画座があった。
ここはエレベータを降りたところがすぐ入り口。
驚くことに入り口のチケットも切りの場所が映写室になっていて客は映写機を見ながら客席に入る構造になっていた。
ここでは「俺たちに明日はない」「惑星ソラリス」なんかを見た記憶がある。

名画座の魅力をDVDやブルーレイ、オンデマンドなどで体験することはできない。
なぜなら劇場と自宅のテレビでは雰囲気が全く異なる上、音響設備も名画座とはいえ自宅のコンシュマー用音響システムに比べると上質だからだ。
数多くの作品を見ることができて、かつ劇場で、ということになると今やその選択肢はまったくないといってもいい。
私の中学、高校、大学時代は恵まれていたのかも知れないと最近つくづく感じることがある今日このごろなのだ。

つづく


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休憩時間といえば予告編を流していた映画館がある。
今ではすっかり当たり前の時間の使い方だが、昔は珍しかった。


梅田シネラマOS劇場では当時は珍しいシステムが3つあった。
一つは、やはり大画面のシネラマ方式。
そして2つ目は完全入れ替え制。
3つ目は上映開始までに予告編を上映してしまうこと、だった。


この映画館のシネラマ方式は当時すでに全国で2館しかない上映方式だった。
今で言うIMAXに似た超巨大スクリーンと立体音響が特徴だった。
ちなみにもう一館は東京のテアトル東京なのであった。
ここでは入場して指定された席についたころ、スクリーンの幕が中央から開いて半分ほどのところで停止。正面にちょこっとのぞいたスクリーン上に予告編と広告が流さた。


ちょこっとのぞいたスクリーンというが、ここのスクリーンは全開するとシネラマサイズで超デカイため、少し開いた大きさというのが普通のスクリーンよりもちょっと小さめサイズだった。
ここで予告編が流されるわけだが、現在のシネコンと違うのは「映画を見せる・魅せる」ことに徹底していたことだろう。
ここは予告編を上映し終えると一旦幕を閉めた。
そして上映時間になるとブザーが鳴り、場内が暗くなると同時に幕が全開。
さらに場内が非常灯以外消灯して真っ暗になるといきなり本編が始まるのだ。


今は本編前にもう一度予告編や広告が流れるが梅田シネラマOS劇場では幕が開くといきなり本編なので観客は度肝を抜かれ、そのまま映画の世界に引き釣りこまれることになるのだ。


私が初めてこの映画館で映画を観たのは1977年のクリスマス。
その時すでに超話題になっていたSF映画。
若き天才監督スティーブン・スピルバーグの新作「未知との遭遇」だった。


予告編が終わってしばらく経つ。
ブザーが鳴る。
場内が真っ暗になる。
幕が開きコロンビア・ピクチャーズの自由の女神のタイトルが映し出される。
もちろんソニー・ピクチャーズのロゴはまだない。
そして再び漆黒の画面。
そこに白いタイトルクレジット順番に映し出される。
周囲から聞こえるキーンという高いオーケストラの音がすこしずつ大きくなり始める。
画面ではクレジットが次から次に映し出される。
そして音が次第に大きくなり、頂点に達した時、オーケストラの大音響「ジャン!」という音ともに真っ白な砂漠の砂嵐に切り替わり、その中からライトをツケたジープが現れる。
劇場の中は嵐の音でつんざくばかりだ。
もう観客は全員、スピルバーグの世界に釘付けになっていた。


この「未知との遭遇」が始まる前に上映された予告編も注目されるものであった。
小さなスクリーンに映し出されたのは初めて見る「スターウォーズ」の予告編だったからだ。


1977年の夏前に米国のたった20館ほどで封切られたスターウォーズは口コミが口コミを呼び、夏の盛りには空前の大ヒットとなっていた。
大ヒットになっているがこっちは何もわからない。
インターネットもSNSも何もない。
情報は雑誌やテレビから、だけの時代。


日本では未だ「アメリカで何やらすごい映画がヒットしているらしい」との噂とサントラ盤のLPとテーマ曲をアレンジしたミーコのディスコミュージックと何枚かのグラビアが入ってきているだけなのであった。
だからOS劇場で観た「スターウォーズ」の予告編は初めて観た動く「スターウォーズ」で、それはそれで衝撃的だった。
ルーク・スカイウォーカーが「オルデランに行くよ」とオビワン・ケノービに語りかけるシーンから始まる数分の予告編ではXウィング戦闘機の飛ぶ姿やR2D2、C3POなどのロボット、ハン・ソロ、などの後に淀川長治が語った「おもちゃ箱をヒックリ返したような」楽しさを予見させる予告編だった。
その衝撃は公開が半年先ということも相まって大いに期待させてしまうものがあったのだ。


当然のことながら「スターウォーズ」もこの梅田シネラマOS劇場で最初の第一回を鑑賞したのは言うまでもない。


つづく




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初めて記憶に残る最初の堺市外の映画館は叔母に連れられて見に行った道頓堀松竹座。
観た映画は「タワーリング・インフェルノ」だった。
当時パニック映画が流行していて同作品はテレビに奪われた観客を取り戻すためにワーナー・ブラザーズと20世紀フォックスが垣根を超えて互いの大スターを動員した超大作ですごい話題だったように記憶する。
尤も小学生の私にはそんなこと関係なく超高層ビルでの火災の恐ろしさをドキドキしながら観ていたのだ。
重要なポイントとしてスティーブ・マックイーンとポール・ニューマンの顔の区別がつかなかったことが上げられよう。
外国人はすべて同じに見えてしまうという年代なのであった。
同時にこの映画を見ることで日本映画のショボさを意識するようになったということも言えるかも知れない。
すでに怪獣映画を卒業する年齢を踏まえ、叔母がしっかりした映画を見るようにと取り計らってくれた結果かもわからないが、この映画は映画館で初めて鑑賞した洋画にもなったのだった。


この松竹座。
今だから言えるが少々困ったところがあった。
中学生から高校生にかけてのころ、ここに映画を見に行くと入り口で抽選をさせられて当たると宝石もどきをプレゼントされるというはたまた迷惑な商売がおこなわれていた。
当選したらその宝石で「指輪を作りませんか」というやつだ。
宝石はタダだが指輪はお金がかかる。
テーマパークへ行くと勝手に写真を撮影されてその写真を使った記念品を売りつけられそうになるという商法と一緒で、映画会ではそういう手段がだいたい古風なやりかたなのかもわかならい。


なお、この古風なみみっちい商法は千日前セントラルでも展開されていたように記憶する。


おっと、懐かしい映画館に千日前国際劇場を入れるのを忘れていた。
ここはビックカメラなんば店の南隣にあった映画館で今は悲しいかなパチンコ屋になっている。
この映画館ではかつて上映時間の幕間でオルガン奏者が現れてオルガンを生演奏してくれるという趣向があった。
今のように入れ替え制ではなかった映画館なので途中から見たり、同じ映画を二度見ることも可能だったので上映時間の幕間はいわばフリータイム。
プロのオルガン弾きが演奏するなんて現在のシネコンでは考えられないことではないだろうか。
で、あのオルガンを弾いていたオジサンは今、どうしているのだろうか。
少し気になるところでもある。


つづく



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非常事態宣言下、全国の映画館は休館を余儀なくされている。
大手傘下のシネコン型映画館はこのような苦境でも無くなることはないだろうが、独立系のミニシアターは深刻な負の影響を受けているに違いない。

そんなことをつらつらと考えていたらシネコンが普及する前の子供の時代。
あんな映画館があったとか、こんな映画館があったということを思い出した。

私が子供の頃によく訪れた映画館は大阪堺市にあった堺東宝と堺東映なのであった。
堺東宝は今はマクドナルドを始めとする飲食店の入っているビルが建っているが、かつては東宝の映画館が1館ドンと構えていて色々な作品が上映されていた。
随分と大きな劇場であったように記憶している。
当然小学生なので一人で見に行くことはなく、同伴者に母や叔母と従兄弟などがいた。
父が私を映画に連れて行ってくれた、という思い出はほとんどない。
高校生の時に大学受験の結果が届く日になぜか「映画を観に行かんか」と連れていかれたのが唯一の記憶である。
で、私が母に連れて行ってもらったのはやはりゴジラのシリーズ。
この映画館で数多くのゴジラを観た。
キングギドラやヘドラもここで観たのだ。
また日本沈没、そして山口百恵の「伊豆の踊り子」もここで観たんだったんじゃないかと思っている。

この映画館があった商店街。
今も商店街はあるのだが、その堺東銀座通り商店街をさらに奥に行くと堺東映があった。
今は建て替えられて大衆演芸の劇場になっている。
ここでが東映まんがまつりで「長靴をはいた猫」「パンダコパンダ」「ちびっこレミと名犬カピ」などを見たものだ。
ここも大きな映画館であったと思うのだが、その面影はまったくない。
なお、この堺銀座商店街の名前の由来の銀座は伏見桃山時代に堺の豪商たちの組合組織会合衆が運営した銀座に由来すると言われており、東京それとは全く関係がない。

中学生になると友達と映画を見に行くようになった。
とくに大阪ミナミ・難波の映画館、南街劇場、東宝敷島、戎橋劇場、千日前セントラル、千日前スバル座、松竹座と大阪キタ・梅田の映画館、梅田シネラマOS劇場、梅田東映会館、大毎地下劇場、大毎名画座、そして京都の祇園会館にはよく足を運んだものであった。
なんでこんなに多数の映画館によく足を運んだものだ、というのかというと中学生、高校生、大学生の頃は映画を手当たりしだいに見て回ったため訪れた映画館が2、3館で済まない件数になってしまったのだ。

このうち、現在も残っている映画館は1館もない。
今、この項を書きながら愕然としてしまったが、実際そのままの姿で残っている映画館はない。
例えばシネコンに生まれ変わった映画館はある。
難波の南街劇場。
ここは日本の映画興行発祥の地で知られているちょっとした歴史スポットだが、今は複合商業ビルになっていて低層階がマルイ。上層階にTOHOシネマズなんばが入っていてシネコンに生まれ変わっている。
東宝敷島はそのTOHOシネマズなんばプラスという名前で、やはりシネコンの入った複合ビルになっていて低層階は飲食店と残念ながらパチンコ屋が入居している。
松竹座は当時と同じ道頓堀の入口に同じ外観で建て直されたが映画館ではなく歌舞伎の常設劇場に生まれ変わってる。
正直松竹座のみがグレードアップ、それも相当のレベルアップで現在も同じ名前を踏襲して営業を続けている。
千日前スバル座は入っていたビルが建て替えられ消滅。
たった3ヶ月ほど前まではインバウンドの外国人観光客で賑わっていた道具屋筋にあった千日前セントラルはスーパーマーケットに建て替え。
戎橋劇場はH&Mになっている。

一方キタの梅田シネラマOS劇場は複合ビルに建て替えられ消滅。
梅田東映会館は何度か建て替えられ今はWeWorkの拠点ビル。
大毎地下劇場と大毎名画座の入っていた毎日新聞本社ビルは複合オフィスビルに生まれ変わり出入橋に移った毎日新聞には映画館はない。
京都祇園会館はどうなったか知らない、というか会館のあった東山通りはよく自動車で通過するのだが、通過する時「ここに祇園会館があったな」と思うことはほとんどない。京都市内の渋滞をいかに回避するかばかり考えてしまうのだ。

このように、どれもこれもシネコンが主流か廃業することになってしまい、古の良き映画館は今は見ることができない。


つづく


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全部で約20人いる私の従兄弟の長兄は愛媛大学を1960年代後半に卒業した。
兄弟のいない私にとっては親ほども年が離れた兄貴みたいな存在だ。
この従兄弟は子供の頃からよく私の相手をして遊んでくれたのだが、私が高校生の頃に自分の大学生活のことを話してくれたことがあった。

「そら大変じゃったで。カネがない、食い物がない。松山は田舎じゃから今みたいにアルバイトすることも簡単じゃない。でも腹は空くじゃろ......だから下宿のみんなと近くの畑にとりにいったの」
「....なにを?」
「かぼちゃだとか、茄子だとか」
「え、見つからんかったん?」
「そらもうこっちは必死じゃったから。当時の学生はみんなカネがない。だから農家の方でもひどくない限りは大目にみてくれとったんよ。」

ほんまかいな、と私は思った。

でも井上ひさしの「モッキンポット神父の後始末」の中で上智大の学生だった筆者をモデルにした学生が学生寮の裏手のパン屋からパンの耳を盗むというシーンがあった。
井上ひさしは従兄弟よりも年上だが、東京でも同様の状況であったことを物語る一コマだなと私は思い出したのであった。

翻って新型コロナウィルス禍の今。
アルバイトが止まってしまい学費が稼げない学生が出ていて、ある学生グループが署名を集めて文科省に支援のお願いをしたというニュースが昨日流れた。
確かにバイトがいきなりなくなると生活に逼迫し、困ること街がない。
従兄弟や井上ひさしが昔やったような畑泥棒、パン泥棒はもちろんご法度だ。

でも、無くなってしまうバイトが有る一方、人手不足でどうしようもない業界もあるわけだ。
学生諸君に言いたいのはどんどん当たってみてはどうなのか、ということだ。
失業の恐怖にさらされている大人と異なり、何をやっても自由という免罪符が学生にはある。
しかも業界を回ってアルバイト仕事を探すことは近い将来必要になる就活の技術にも役立つ。
もしかすると必死な姿を企業に認められ、そのまま思わぬ幸運をつかめないとも限らない。
若いということはそういうアドバンテージを持っているということだ。

実は今、忙しい業界は少なくない。
マスメディアがちゃんと報道しないだけだ。
運送業界は急速に増加した通販を中心とする宅配でてんてこ舞いの状態だ。
それに関連して通販の倉庫業。
アマゾンドットコムは3割以上の需要増でこっちもてんてこ舞い。
おそらく楽天やアスクルなども同様だろう。
食品加工会社も大変で通販や小売を経由して流通する食品が引きこもり対策で需要が急上昇していててんてこ舞い。
食品が伸びると当然農業も忙しい。
大きな農場ほど外国人研修生に労働力を頼っていたが、それがコロナで一変。
外国人研修生が来ないので収穫、加工、包装などの人手の確保にてんやわんや。
しかも食糧生産は国の骨格なので緩めるわけにはいかないので大変だ。
そのほかZOOMを使った学習塾は先生不足。
マスクの生産は言うに及ばず医療関係は引く手あまた。

この新型コロナウィルス禍。
この厳しい状況下。
アタマとカラダを使った若者が令和時代のリーダーになる。
国や他人に頼るやりかたは必ずしも有効ではないし、関心もしないのだ。


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