<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



シネコンが出現し始めたころ、これらの従来型映画館は次第に姿を消し始めた。
ちょうど時代が昭和から平成へ変わった頃のことだ。
中でも梅田シネラマOS劇場の閉館は映画ファンのわたしとしてはかなりショッキングで、あのバカでかい画面で二度と映画を見られなくなるかと思うと「なんでやねん!」という憤りさえ感じたのであった。
お別れ上映では「2001年宇宙の旅」「トップガン」を見に行ったが、どれもプリントから時間が経過したフィルムを使用した上映だったらしく少し色があせていたのが印象に残っているし、悲しくもあった。


平成になると私の社会人として脂が乗ってきたところであったし、就いた仕事が猛烈に忙しい建築業界であったことも災いして映画を見る機会を失っていた。
映画だけではない。
音楽を聴くこともテレビ番組を見ることも激減した。
友人連中もだいたい同じような状況で浮世離れした仕事人間に変わっていたのだった。
大阪府庁に入庁したT君などは、
「TRFって、トリフって言うと思ってたら役所の女の子に嗤われた」
と言っていたくらい症状は深刻であった。
私もTRFだとか、米米CLUBといえば米つながりで桂米丸、小室といえば小室等しか思い浮かばず、時間はニューミュージックで止まったままになっていたのだった。


その間、ビデオからDVDになる頃に名画座は次々に閉館。
シネコンがあちこちに出来始めた。


久しぶりにの休み。
映画を見に行くのに映画館を探していたらアポロシネマ8というシネコンがあべの橋にできていることを発見。
あべのには近映という近鉄系の映画館があったのだが、そこへはあまり行ったことがなかった。
近鉄百貨店の建て替えで消滅した近映に代わってアポロシネマ8が誕生したわけで、私はそこで初めてシネコンというものを体験することになった。
ちなみにこの時建て替えられた近鉄百貨店本店はあべのハルカスに建て替えられる前に建てられた商業施設で、設計はかの有名な村野藤吾なのであった。
著名な建築家に設計してもらったにもかかわらずわずか20年ほどでぶっ潰し、高さ300メートルの日本一のタワーを建てたいというセンスは私にはよくわからない。
なんとかと煙は高いところがお好き!というそれではないかと思っているのだが、それはまた別の機会に。


シネコンへ行って驚いたのは客席の傾斜角度だった。
これまで前の人の頭が絶対にじゃまにならない劇場は梅田シネラマOS劇場と千日前スバル座だけであった。
客席には頭が気にならない傾斜があり、スクリーンを存分に楽しめる。
そんな普通のことが旧来の映画館では難しかったのはいま考えると不思議でもある。


道頓堀松竹座で「80日間世界一周」のリバイバル上映を見に行った時のこと。
後ろに座っていた小学生に、
「頭をもう少し低くしてもらえませんか」
と頼まれたことがある。
正直ショックであった。
私の頭がスクリーンの邪魔になるほどデカかったというか、座高が高かったのは予想だにしなかった。
これも忘れられない思い出だ。
「頭を低く座ってください」なんて年上の見ず知らずの大学生のお兄さんに頼んできた小学生の勇気も大したものだが、それ以上深く腰を掛けることなんてできない松竹座の座席配置も考えものであった。
これをきっかけに先述のロビーで展開される宝石がらみのインチキ商売も相まって私は松竹座から足が遠のくことになった。
気がついたら松竹座は歌舞伎の劇場に建て代わっていたのだ。


シネコンのような中型、小型の劇場で映画を見るようになったのは、やはり観客が集まりにくくなっていたということもあるのかも知れない。


ジョン・ウエインの遺作になった「ラスト・シューティスト」をミナミの東宝敷島へ見に行った時、平日の昼間ということもあったのかも知れないが、もぎりのお姉さんから、
「今日は貸し切りですよ」
と言われた。
このことも強く印象に残っている思い出だ。
確かに劇場に入るとハリウッドの大スター「ジョン・ウエイン」の遺作にも関わらず、広い劇場に観客は私一人。
上映が終わってみると、もうひとり観客がいたものの、ほぼ貸切状態なのであった。
「ラスト・シューティスト」の記憶は共演にロン・ハワードがいたことと、貸切状態であったことが今も心に刻まれている。


消え去った映画館。
いずれの映画館も個性豊かだったことが今のシネコンとは大きく異る。
そんな思いをあれこれと想像するコロナ禍のGWなのであった。


おしまい



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