<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
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非常事態宣言下、全国の映画館は休館を余儀なくされている。
大手傘下のシネコン型映画館はこのような苦境でも無くなることはないだろうが、独立系のミニシアターは深刻な負の影響を受けているに違いない。

そんなことをつらつらと考えていたらシネコンが普及する前の子供の時代。
あんな映画館があったとか、こんな映画館があったということを思い出した。

私が子供の頃によく訪れた映画館は大阪堺市にあった堺東宝と堺東映なのであった。
堺東宝は今はマクドナルドを始めとする飲食店の入っているビルが建っているが、かつては東宝の映画館が1館ドンと構えていて色々な作品が上映されていた。
随分と大きな劇場であったように記憶している。
当然小学生なので一人で見に行くことはなく、同伴者に母や叔母と従兄弟などがいた。
父が私を映画に連れて行ってくれた、という思い出はほとんどない。
高校生の時に大学受験の結果が届く日になぜか「映画を観に行かんか」と連れていかれたのが唯一の記憶である。
で、私が母に連れて行ってもらったのはやはりゴジラのシリーズ。
この映画館で数多くのゴジラを観た。
キングギドラやヘドラもここで観たのだ。
また日本沈没、そして山口百恵の「伊豆の踊り子」もここで観たんだったんじゃないかと思っている。

この映画館があった商店街。
今も商店街はあるのだが、その堺東銀座通り商店街をさらに奥に行くと堺東映があった。
今は建て替えられて大衆演芸の劇場になっている。
ここでが東映まんがまつりで「長靴をはいた猫」「パンダコパンダ」「ちびっこレミと名犬カピ」などを見たものだ。
ここも大きな映画館であったと思うのだが、その面影はまったくない。
なお、この堺銀座商店街の名前の由来の銀座は伏見桃山時代に堺の豪商たちの組合組織会合衆が運営した銀座に由来すると言われており、東京それとは全く関係がない。

中学生になると友達と映画を見に行くようになった。
とくに大阪ミナミ・難波の映画館、南街劇場、東宝敷島、戎橋劇場、千日前セントラル、千日前スバル座、松竹座と大阪キタ・梅田の映画館、梅田シネラマOS劇場、梅田東映会館、大毎地下劇場、大毎名画座、そして京都の祇園会館にはよく足を運んだものであった。
なんでこんなに多数の映画館によく足を運んだものだ、というのかというと中学生、高校生、大学生の頃は映画を手当たりしだいに見て回ったため訪れた映画館が2、3館で済まない件数になってしまったのだ。

このうち、現在も残っている映画館は1館もない。
今、この項を書きながら愕然としてしまったが、実際そのままの姿で残っている映画館はない。
例えばシネコンに生まれ変わった映画館はある。
難波の南街劇場。
ここは日本の映画興行発祥の地で知られているちょっとした歴史スポットだが、今は複合商業ビルになっていて低層階がマルイ。上層階にTOHOシネマズなんばが入っていてシネコンに生まれ変わっている。
東宝敷島はそのTOHOシネマズなんばプラスという名前で、やはりシネコンの入った複合ビルになっていて低層階は飲食店と残念ながらパチンコ屋が入居している。
松竹座は当時と同じ道頓堀の入口に同じ外観で建て直されたが映画館ではなく歌舞伎の常設劇場に生まれ変わってる。
正直松竹座のみがグレードアップ、それも相当のレベルアップで現在も同じ名前を踏襲して営業を続けている。
千日前スバル座は入っていたビルが建て替えられ消滅。
たった3ヶ月ほど前まではインバウンドの外国人観光客で賑わっていた道具屋筋にあった千日前セントラルはスーパーマーケットに建て替え。
戎橋劇場はH&Mになっている。

一方キタの梅田シネラマOS劇場は複合ビルに建て替えられ消滅。
梅田東映会館は何度か建て替えられ今はWeWorkの拠点ビル。
大毎地下劇場と大毎名画座の入っていた毎日新聞本社ビルは複合オフィスビルに生まれ変わり出入橋に移った毎日新聞には映画館はない。
京都祇園会館はどうなったか知らない、というか会館のあった東山通りはよく自動車で通過するのだが、通過する時「ここに祇園会館があったな」と思うことはほとんどない。京都市内の渋滞をいかに回避するかばかり考えてしまうのだ。

このように、どれもこれもシネコンが主流か廃業することになってしまい、古の良き映画館は今は見ることができない。


つづく


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