<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
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コテコテ。
ディープ。
ケバイ。
土足で上がりこんでくる。
コナモン。
吉本。
などなど。

大阪を表現する数々の言葉がテレビやラジオで溢れているが、大阪人たる私は、どういうわけかこれらの言葉大嫌いなのだ。

コテコテという言葉からは脂ぎったネッチリとした感覚を連想し、ディープには何か如何わしく喧騒な感覚を連想し、ケバイは汚い、土足は失礼、コナモンはパサパサ、吉本は芸無しを連想する。
どれもこれも大阪にとってはネガティブなイメージでしかないように感じられるのだ。

例えば、むか~しのハリウッド映画で、出っ歯で目バネをかけたチビ、というステレオタイプ的日本人が描かれていたのに非常に似ている。
ムカつく話だ。

だいたい、大阪がこのような言葉で表現されなければならないのも、大阪人に問題があるからだと思う。
なぜなら大阪人自体が「コテコテ」や「ケバイ」などと言う言葉で自分たちを表現し、喜んでいるフシが見当たるからだ。
しかし、現実は例えば、大阪の料理、いわゆる上方の料理は京料理も含めて脂っこい料理は極めて少なく、繊細で重厚さのある味付けが中心である。
一見薄味に見える出汁にしていも、化学的には関東の濃口より多くの塩分を含んでいることが知られているように、様々な味工夫を用いた食のシンフォニーというのが本当だ。

芸能にしても全国区の吉本の笑いはむしろ本筋ではなく、これも例えば上方落語ひとつとっても人気があるのは笑福亭や桂文枝一門のそれではなく、米朝一門や春団治一門のものが人気を博している。
こういうところを見てみても、もともと全国で喧伝されるドタバタな印象とは異なるものが大阪の主流なのだ。

このような大阪の街の形。

そのひとつの論議を提起しているのが江弘毅著「街場の大阪論」(新潮文庫)だと私は思う。

この本を読んでいて大阪の人に関する印象や思いが少し自分の感覚とは違うなと思うのは、この人が先週岸和田出身の人であり、私が堺市出身である土地柄なのかもしれない。
だが、この異なる見解は大阪ひとつとっても岸和田と堺が異なるように個性が様々で、一絡げにできない面白さを持った都市、あるいは地域と言えるのかもしれない。

一般論かもしれないが、首都圏の人と関西圏の人とを比べていつも思うのは、首都圏の街ひとつひとつはどうして皆個々の個性を主張しないのだろうか、ということだ。
千葉も埼玉も神奈川もみなんな一絡げに東京になっている。
駅前の光景など、まったく街としての顔が存在しない印象がある。
東京のモノマネ。
それも山の手文化や下町文化という、東京における最も魅力ある文化の影響ではなく、渋谷だとか、銀座だとか、ある意味、東京における最もつまらない部分の模倣に終始している印象の強いのが、寂しさを感じさせる時がある。

それと比較して、関西がその地域最大の街、大阪の模倣をしている部分があるかというと、まったくない。
各街は個々の個性を最も重要視するばかりか、大阪の模倣は恥ずかしい、とばかりの文化がある。
それが半径50km以内に空港が3つも4つもあるというバカげた状態につながっているわけだが、こと都市文化という意味では大阪人の私が言うのも偏り過ぎかもしれないが、関西のそれは非常に魅力的だと思うのだ。

ということで、街場の大阪。
関西のタウン情報誌ミーツリジョナルの元編集長が執筆した大阪論だけに、想像や伝聞だけで書かれたものではない、リアルさがあって、かなり真面目に面白いのだ。

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