<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
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自国に不都合なニュースはシャットアウト。
そのかわり、他国を冒涜するニュースや情報は野放し。
そのうえ、他国非難を助長しては普段国民が自国政府に抱いている不満のベクトルを、他人に向けさせ、鬱憤晴らしをさせてごまかす。
市民のデモ行進と暴力は一種の祭り。
目指すは完全なる情報管理。

政府機関は存在するが、方針を決定している者は誰なのか、知る者はいない。
分かっているのは国の中枢は一握りの人々で占められており、しかもその人々は同じ政党のトップでもある。
というより、国には政治政党はひとつしかなく、他はことごとく違法である。
党の出したものが間違った決定や方針であっても、正しいと認めなければ思想犯として刑務所や病院などの監禁施設にぶち込まれ、再教育を施される。
共産主義なのにひどい格差社会。

どこに官憲のスパイが交じっているのか分からない市民生活。
ちょっとした発言が原因で、いつ警官が踏み込んでくるのか分からない。
もちろん、市場は計画経済。
食事は劣悪。
物資は不足し、生活状況は極めて厳しい。

というのは、中国の話ではなく、ジョージ・オーウェルの小説「1984年」(早川eps文庫)の世界。

新訳、と帯に書かれていたので以前から読んで見たいと思っていた「1984年」を買い求めた。
小説が出されたのは1950年代というから、1984年というと近未来。
その近未来がある種の共産主義に支配されている世界が描かれているのだが、その世界そのものが一種の狂気なのだ。
ところがこの狂気は妙にリアリティーがあり、現実の世界と見まがうほどの説得力がある。

1950年といえば、中国の大躍進や文化大革命、カンボジアの紅いクメール以前の物語りながら、地著者ジョージ・オーウェルの洞察力は、共産主義という一見正義に見える社会システムが、人類にとって何をもたらすのかという事実を明確に予想している。
恐怖で支配する言論統治や、言葉の管理、カメラや隠しマイクによる監視社会。
そのいずれもが1970代から80年代、いや、今も続けられている紅い世界の現実を投影している。

しかもこのセオリーは最近の日本社会にも当てはまる。
タブーが多く、個人情報保護法に雲隠れする犯罪情報やモラル崩壊。
言いたいことを言えない社会。
平気でウソをつく政治家、マスメディア。

「1984年」にはSFでありながら、SFでない恐ろしさが潜んでいる。
オススメの一冊だ。

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