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「万葉夢想」、「令和」に寄せて:万葉仮名と日本人

2019年04月03日 16時17分54秒 | 文化社会
「万葉夢想」、「令和」に寄せて:万葉仮名と日本人
次の元号「令和」は、もうすでに日本人に馴染んできたようです。この時代がますます良い時代であることを願う日本人の一人です。

 この1月22日に、「 さて、次の元号は」で、そろそろ日本の古典、古事記、日本書紀、万葉集、17条の憲法あたりからとるのも、と書きましたが、万葉集からというのは特によかったと思います。

 安倍さんも言っていましたが、万葉集は、天皇から広く庶民まで、当時の多くの日本人の歌を集めています。もちろん『令和』に採用されたのは大伴旅人が開いた、梅の花をめでる歌会の記録に旅人が書いたと思われる前文からだそうで、まさに五言絶句の形ですが、あとの2行、転句と結句は、字余りですが、和歌の七、七の口調を感じさせるものです。
 ネットで種々解説が出ていますが、是非、日本語の響きを感じてみてください。

 ところで本題に入りますが、万葉集には広く庶民まで含む人々の歌を集めるという「分け隔てのない」、編集方針がとられていますが、なぜそんな形になったのか、更に言えば、なぜそこまでの歌を集めたのか、そしてそれが可能だったのか、あるいはそうするのがいいとなぜ考えたのだろうかというのが大きな疑問ではないのでしょうか。

 ご承知のように、漢字が入って来るまでは日本の文化はすべて口伝でした、北方モンゴロイドは共通に文字を持たない文化だったようです。
 そこに文字が入ってきたのはまさに大革命だったでしょう。人は死んでも記録は残るということは(今でもそうですが)素晴らしいことでしょう。

 万葉仮名の始まりは5世紀の古墳時代にみられ、貴人の名前などと漢字で表記したようですが、8世紀に至る300年ほどの間に、日本語の発音が特定の漢字に置き換えられて表記されるという万葉仮名の「いろは」が次第の標準化されてきたのでしょう。

 そして8世紀の初め720年頃には日本で「口伝」の「万葉仮名による記録」のブームが起きたのではないでしょうか。
 多くの口伝が「古事記」として記録されるのには語り部「稗田阿礼」(恐らく多数の人物)からの「聞き取り調査」が行われ、太安万侶が監修して古事記が出来たのでしょう。

 万葉集についても恐らく同じようなことが起きたのではないでしょうか。言葉としては、和歌、五、七、五、七、七、「五七調」の言い方は、そのリズム感から口伝の中でも日本人には広く使われていたのではないでしょうか。五言絶句、七言絶句は中国伝来、五と七の音節を並べると軽快です、都々逸も七、七、七、五、(ちなみに英語の「きらきら星」も7,7,7,7です)。
 そうした日本文化が文字で記録できるようになったのだから、日本中から出来るだけ沢山集めて記録しようと意気込んだ人がいても不思議ではありません。

 大伴家持が東国の歌を集めたとして有名ですが、おそらく多くに人たちが集め、万葉仮名で書く事を誇り楽しみながら、大伴家持などに伝えたのではないでしょうか。

 その後。古今、新古今など、勅撰をはじめ多くの歌集はありますが、名もない庶民の歌まで集めたこうした形の歌集はありません。
 平安という文化が咲き誇った時代、多くの日本人が、口伝を文書に記録することに日本文化の革命的な意義を感じ、その成果を後世に残そうと熱狂たことが、万葉集を生んだのではないかなどと感じてしまうのです。

 万葉の時代に生きた人々がどんな気持ちで、何に熱中したかは、想像するしかありませんが、もともとエネルギー・レベルの高い日本人のことです、和歌のたしなみは上流社会だけという、その後の時代以前の、黎明期の日本人の社会を想像するのも楽しいことのように思われます。

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