tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

ブロガーの憂鬱

2007-07-11 19:57:55 | 日記

辛口の記事を書くブロガー達の間で、ある噂が流れているのはご存知だろうか?どんなタブーでも記事にしなければ気が治まらない、ある意味、勇気あふれるブロガー達が、なかなか記事にしないもの・・・・・・それは、「ダイアナ妃の死にまつわる謎」についてだ。そして噂とは、毎日ブログを更新するマメなブロガーがその謎について書くと、それから2~3日の後に決まってブログの更新が途絶えてしまうというものだ。
もちろん、ブログの筆者がたまたま偶然に個人的な事情によって、自分のブログの更新ができなくなることもあるだろう。だが、異常と思えるのは、ブログのデータそのものがインターネットから消されて、そのページにはアクセスできなくなることが度重なることだ。なにゆえに、元気で毎日更新していたブロガー達が突然、更新を止めるのであろうか。そのうえ、何故、ブログの更新を止めるどころか、これまで書いてきたページすべてを消し去ってインターネットからいなくなってしまうのだろうか?

ここに、面白いデータがある。
「ダイアナ」「謎」「ブログ」 をキーワードにネットを検索して頂くと分かるが、これらのキーワードでヒットするブログのページは85,200件ある。
(「ダイアナ妃」「謎」「ブログ」 の検索結果 約 85,200 件中 1 - 10 件目 (0.08 秒) )
このキーワードをちょっとだけ変えて、「ダイアナ妃」「陰謀」「ブログ」とした場合には検索結果がなんと1/4になってしまうのだ。
(「ダイアナ妃」「陰謀」「ブログ」 の検索結果 約 22,800 件中 1 - 10 件目 (0.16 秒) )

驚くのはこの後だ。このダイアナの死について、世界的な傾向(英語で書かれたブログのページ)を調べてみる。
「Mystery」 「Princess Diana」 「blog」をキーワードとして検索をかけると 382,000件ヒットする。
(Mystery Princess Diana blog の検索結果 約 382,000 件中 1 - 10 件目 (0.17 秒))
このキーワードを同様にちょっとだけ変えて、「Plot」 「Princess Diana」 「blog」の組み合わせでは、先の検索キーワードの組み合わせた場合の半数以上もあるのだ。
(Plot Princess Diana blog の検索結果 約 212,000 件中 1 - 10 件目 (0.19 秒))

この日本語と英語のブログページの検索結果の違いは、ロイヤルファミリーのゴシップに対する興味の国民性の違いから来るものであろうか?
この結果の一つの解釈として、日本のテレビや新聞の報道が挙げらるかもしれない。テレビや新聞メディアは、様々な方面の関係者から、放送内容に関して圧力がかけられると推測される。一般視聴者からのクレームなら、いつものことでまともに対応しようとしないのだが、例えば、朝鮮総連とかCIAとか中国公安部などからクレームがきた場合には従わざるをえないだろう。ダイアナ妃の件でも、これらのメディアが陰謀に関する情報をまともに伝達したのを見たことがない。たしかに、噂の段階で報道するのは問題があるが、先のインターネットの検索結果では、世界ではダイアナ妃の死に関してその背後に潜むと思われる陰謀を半数の人が疑っているにもかかわらずにだ。

上で述べたように、日本ではテレビや新聞のメディアが、ダイアナ妃の死に潜む陰謀の噂をまったく報道しないので、この件に関しては日本のブロガーたちも興味を持たないから、それに関するページが少ないのが実情だろう。それにしても不思議なのは、「陰謀」というキーワードのあるブログのページにアクセスしても、そこには具体的な陰謀の内容が書かれているページが皆無であるということだ。興味を持った人なら、英語ができる人なら誰でも海外のホームページに飛んで、噂の陰謀の詳細を調べることができるはずだ。調べたら、当然、自分のブログのページに記載するはずだ。ここで、話は冒頭の噂に戻る。噂の陰謀の内容を記載したブログのページは、書き込まれた後に理由なく更新が突然止まり、そしていつの間にかインターネットから消えていってしまうのだ。何故なんだろう・・・・・・。
そして、この噂自体がタブーと言っても言いぐらいに、秘密のベールに閉ざされていて、だれもこの詳細を書こうとしないのだ。

ダイアナ妃の死で利益を得た人たち。たとえば、問題の1997年8月の交通事故の際、運転手として同乗していたアンリ・ポールは、事故前にイギリスの銀行を通して7万5000ポンド(日本円にして約1500万円)を受け取っていた。これが、命をかけたリスクに対する代償として高いか安いかは別にして、当日、彼が酩酊してなければ事故を起こしても死に至る確率は低いように思える。むしろ、この場合は、事故で即死したドディ・アルファイドのことを考えると、ダイアナ妃の運の強さこそが大事故にもかかわらず彼女を内出血にとどめたとすべきかもしれない。そして、それがために、救急車ですぐ近くの病院に搬送されるに費やされた不可解な2時間もの間、ダイアナ妃は死の苦しみを味わらなければならなかったのだ。
彼女の元の夫も、ダイアナ妃の死で愛人と再婚できることで利益がある。事実、彼女の死の直前まで10年間仕えた執事に宛てた彼女の手紙によれば、チャールズ皇太子も彼女の車のブレーキに細工して彼女を亡き者にしよう企てていた形跡がある。
また、事故発生の夜、米情報機関が英当局に無断で元妃の電話を盗聴していたのはなぜなのだろう。
もちろん、ちまたで噂されているように英王室も利益がある。ダイアナ妃はドディと事故翌日に再婚を発表する予定だったらしい。離婚後も英王室にとどまったダイアナ妃が再婚してイスラム教徒の子供を産めば、英王室に与える影響が大きいのは間違いない。いずれにしても真相が明らかにならない限り、ダイアナ妃が報われることはないが、ただ、ひとつだけ確実に言えることは、ダイアナ妃の死に関する真実のひとかけらも明らかにされる事はないということだ。

思い切って言おう。「Queenよ!あなたかも」

ぼくのブログの更新が急に止まったら、それはダイアナの呪いなんかではなく・・・・・・(ry


クィーン

2007-07-10 19:57:11 | cinema

「クィーン」よ。あなたもか?

1997年8月31日にパリで交通事故死したダイアナ元皇太子妃の死因について、ロンドン警視庁は2006年12月14日、「単なる事故死」との報告書を発表したが、2007年1月、彼女自身の死因究明の審問が3年振りに再開されることが決定した。
ダイアナ妃の死には、当初より多くの謎がつきまとっていた。
8月31日0時25分。パリ市内のアルマ・トンネルのコンクリート製の柱に衝突したメルセデス・ベンツの中には、ダイアナ妃、恋人のドディ・アルファイド、ドライバーのアンリ・ポールとボディ・ガードのトレバー・リース・ジョーンズが乗っていた。ドライバーとドディはは即死だったが、助手席にいたボディガードは、なぜか事故直前にシートベルトを締めていたため、顔と手首に重傷を負ったが一命をとりとめている。ボディガードは常にシートベルトは締めないのが鉄則であるにもかかわらずである。ダイアナ妃はシートベルトをしていなかったものの、事故直後は内出血を伴う重傷ではあったが生きていたという。後日、ボディガードは、事故直後にダイアナ妃がドディの名前を呼んでいたことを証言している。また、ダイアナ妃が「My God」と呻いたのも聞いている。
事故発生の1分後に、たまたまアルマトンネルを通りかかっていた救急医のフレデリック・マイレ医師は、メルセデスの後部座席にダイアナ妃が横たわっているのを発見した。彼女は当局が伝えた”後部座席にはさまれた状態”ではなかった。メルセデスの後部座席は、事故によってもそれほど損害を受けておらず、ダイアナ妃に接近することは容易だったのである。その医師は経験を積んだ救急医療のプロで、フランス政府救急医療サービス(SAMU)に勤務したこともあるベテランだ。ダイアナ妃はひどい傷を受けており、内出血を起こしていたが、事件後の 9月29日の「スコッツマン」紙の記事によれば、マイレ医師はダイアナ妃の状態が絶望的とは考えなかったとある。
マイレ医師はダイアナ妃の頭を動かして、呼吸できるようにした。そして、事故の詳細を報告するために、携帯電話で救急車を呼び出したが、「救急車はもう出発した」との返事があった。その後、人工呼吸を行い、ダイアナ妃が窒息死したり、舌を呑み込んだりしないように処置を行う。事故発生から7分後にSAMUの1ユニットが到着した時、マイレ医師は、ダイアナ妃がすぐに近くの病院に運ばれると確信してその場を去ったのである。このとき、マイレ医師は、ダイアナ妃の内出血を予想していた。
事故発生から15分後の0時40分。救急車が到着。救急車で最初に到着した医師たちも同じく内出血の診断を下していた。一人の医師は「彼女は汗をかいていて血圧は下がっていた。内出血の兆候がはっきり表われていた」と語っている。
救急車到着時、ダイアナ妃はメルセデスの後部座席に寝そべる形で横たわり、彼女の身体の大部分は車外に出ていた。彼女はすぐさま車外に運び出された。
交通事故による犠牲者が内出血を起こしている場合、取るべき方法は一つしかない。安静にし、手術のためにすぐに病院に運ぶことである。手術で内出血を止めないと患者は出血により死亡してしまう。
しかし、それから1時間経過しても、ダイアナ妃はまだ事故現場に置かれたままだった。後日、「最初の救急車が到着して、ダイアナ妃を約6キロ離れた病院に運んでいくのに、なぜ1時間43分もの信じられない長い時間がかかったのか」という質問に対して、フランス当局は、上に書いたように「車がつぶれてダイアナ妃に近づけなかった」という説明を行っていた。
この説明がウソであることはマイレ医師の証言でわかるが、そればかりか、パパラッチの一人のロムアルド・ラットが救急隊員が到着する直前に、メルセデス後部座席に侵入して意識を失いかけているダイアナ妃の写真を撮っていたのが目撃されている。事故車内のダイアナ妃には、容易に近づけたのだ。なぜ、フランス当局はウソをつく必要があったのだろうか?

1時間たって、1時30分にダイアナ妃はようやく救急車に運び込まれ、6.15km離れたセーヌ河畔のラ・ピティエ・サルペトリエール病院に運ばれた。深夜なら川沿いの高速を使えば通常は5分~10分で着くところを、運転手はフランスの応急処置法に従って、患者に搬送による負担を与えないように時速40キロの低速度で運転した。その結果、病院に着くまでに43分もの時間が費やされている。ダイアナ妃をこの病院に運ぶ指示を下したのは、現場にいたパリ警察署長マゾーニと、内務大臣シュベヌマンだ。マゾーニはトンネル内におり、シュベヌマンはすでにラ・ピティエ・サルペトリエール病院にいた。シュベヌマンは電話でトンエル内の救急隊員と連絡を取っていた。しかし、事故現場からもっと近い病院が他にも5つあり、そのどれもが緊急患者に対応できる先進設備を整えているのである。

フランスの緊急医療専門の医師は、この事故の救急対応を振り返って、<ダイアナ妃はバル・ド・グラス病院に運ばれるべきだった。この病院は、ピティエ病院よりも事故現場から遥かに近い軍人病院だ。自動車事故に巻き込まれたり、それで怪我を負ったりした政治家たちは皆、この病院へと運ばれる。事故現場にいた救急隊員たちは軍所属だ。彼らは明らかにバル・ド・グラス病院のことを知っていたはずだ。
この病院は夜間も交替制で、ひどい事故が起きた時のトップ・チームを配置している。私なら、ヘリコプターを飛ばして彼女をそこへ運んだだろう。この病院でなら、運ばれた後、数分で手術室に運ばれたはず。ダイアナ妃は、世界で最も権力・影響力を持った人物の一人だ。それほどの人ならば通常、最高の優先と最高の治療を受けることになる。しかし、ダイアナ妃はそのようには扱われなかった>と語っている。
ダイアナ妃は、バル・ド・グラス病院に運ばれなかっただけでなく、コシャン病院、デュ病院、ラリボワシエール病院、そして民間のアメリカ病院にも運ばれなかった。これらの病院は全てラ・ピティエ・サルペトリエール病院よりも近く、血管破裂を治療するスタッフ・設備を備えていたにもかかわらずである。ダイアナ妃を救急車に運び込むまで、なぜ1時間以上もかかったのか。現場にいたフランス救急隊員から、納得のいく説明はまったくされていない。それに加えて、なぜ救急車はラ・ピティエ・サルペトリエール病院からほんの数百ヤードのフランス国立歴史博物館の前で10分間も止まっていたのだろうか?
スコッツマン紙によれば「ダイアナ妃に行われた治療について不可解なのは、危険な状態に至るまで病院に運ばれなかったことである。ダイアナ妃はトンネルの中から、ラ・ピティエ・サルペトリエール病院に搬送されるまでに何度も心拍停止を起こしている。搬送が遅れた原因について、納得できる説明は何もない。病院の手術チームは、ダイアナ妃が運ばれてくるまで長い時間待ち続けた。彼らは、事故直後からトンネルへ駆けつけた医師と電話連絡を取り続けており、午前1時からは緊急体制に入っていた。しかしダイアナ妃が運ばれてきたのは、それより少なくともさらに1時間後であった」とある。
なぜ非番の警備担当者アンリ・ポールが当日、運転手として呼び出されたのか。リッツ・ホテルの支配人たちはポールがアル中であることを知らなかったのか。ダイアナ妃はなぜ病院へ運ばれるのに2時間もかかったのか。事故現場に残されたさまざまな痕跡から推測される第二のクルマとの接触事故とは。そして、そのクルマに乗っていたのは何者で、どこへ消えたのだろうか。事故の現場で、ダイアナ妃の味方はドディだけだったのだろうか。救急車の中で医療関係者たちは、ダイアナ妃が死んでいくのをじっと見守っていたのだろうか。

冒頭に書いたように、ダイアナ妃の事故が陰謀によるものではと噂される中、ロンドン警視庁は2006年12月14日、「単なる事故死」との報告書を発表した。そして、この「ダイアナ」事件の舞台裏を、エリザベス女王を主人公にして王室の側から描いた映画「クィーン」が公開された。とにかく英国政府および王室側は、そこから世界中の視線をはずしたくて仕方がないようだ。映画では、我々が最も知りたいところ、つまり謀殺説や陰謀説について、さらにはダイアナ妃の恋人ドディ・アルファイドの素性についてすら、ほとんど触れられていない。この映画を見ても、あの事件の真実、および政治の本質などはまったく見えてこない。そのかわり、そこには王位にある者としての使命感・責任感と、英国民の世論、ひいては世界に広がったダイアナ追悼の思いと動きに挟まれて、エリザベス2世が苦悩する姿が描かれている。主演のヘレン・ミレンはデイムはアカデミー賞をはじめ2006年度の主演女優賞を総なめにしたが、10年後、20年後に、歴代の受賞を果たした数多くの映画の中で、はたしてこの映画は今ほどの輝きを保ち続けているのだろうか。この映画の各賞の受賞の背後には・・・・・・。
シェークスピアの言葉を借りれば
"Et tu, Queen?"
「クイーン」よ。あなたもか?と言わざるを得ない。


せっかくだから、天の川を見に行こう(3)

2007-07-09 19:57:00 | lesson

天衣無縫

中国の七夕伝説にも続きがあって、ちょっとエッチな内容で、しかもそれは「天衣無縫」の謂れとなっている。
昔、唐代の太原の町に郭翰(かくかん)という青年がいた。既に両親を亡くしていたが、暮らしには困らず清廉潔白な教養のある青年として勉学にシコシコ励んでいた。そんな夏のある夜半、寝台で涼んでいた郭翰の前に、芳しい香の風を伴って天上から2人の侍女を従えた「うわー、すてき!」 っていうオーラを発している美女が舞い降りてきた。黒い絹の薄衣と、霜のように白い薄絹の肩掛けを羽織った彼女は、翡翠色の鳳凰の冠を被り、雲形模様の刺繍を施した沓を履いていた。美女は自らを天帝の娘で、織姫であることを名乗る。しかも、夫である牽牛(けんぎゅう)と超スーパー長距離恋愛をしていることから、気持ちが落ち込んだため天帝の許しを得て郭翰のもとに来たというのだ。
「どうか私と契りを結ばせて頂きたいと思います (。-_-)ノ☆・゜::゜ヨロシク♪」
「ヾ(〃^∇^)ノわぁい♪」
と言ったかどうか知らないが・・・・・・。
侍女たちが調えた寝台に、郭翰と2人で横になる。織女が薄紅色の薄絹を解くと、何とも妙なる香気が立ち上り、彼女の柔らかで滑るような肌は艶やかで、しめやかにエッチした2人の夜はこの世とは思えぬ甘美なものとなった。
織女は夜明けとともに帰るが、それから毎晩のように郭翰のもとに通ってくる。そんなある夜、郭翰が<ご主人は、この事を知ってんの?>と尋ねると、<私がだれとエッチしようが、だんなには関係ない。まして、下界でエッチしても、単身赴任中のだんなには分かるはずもない。たとえ、知れたとしてもシカトしましょ♪>と答える。
それでも、さすがに七夕の夜が来ると織女は現れない。数夜の後に、ようやくやってきた織女に郭翰が焼きもちを焼くと、<天上での関係は現世のものとは違って、心を通わせるだけでエッチなことはしない。焼餅を焼く必要なんてないじゃん>と答える。そんな中、郭翰はあることに気がつく。それは織姫の着ている衣服には縫い目が全くないということだ。
そうして、1年が過ぎたある晩、織女は悲しげな表情で、郭翰に別れを告げる。天帝から得た許しの期限が来たのだ。2人は悲しみに暮れ、一晩中別れを惜しむ。別れ際、織女は来年の何時何時の日に手紙を出す告げると天へ昇り、やがて消えてしまう。
織女を忘れることができない郭翰は、ショックのあまり病気になってしまう。翌年の約束の日に、織女の手紙が届くがその後は途絶えてしまう。郭翰の織女への思いは尽きず、他の女には心を動かすことはなかったのだが、跡目を残すために、やむを得ずどこかの家の娘を娶る。しかし、織女のことが忘れられない郭翰との仲は悪く、跡目もできずに亡くなる。

「天衣無縫」とは、天女の衣には縫い目がないということから転じて、詩や文章などに、技巧のあとが見えず自然であって、しかも完全無欠で美しいことや、性格が無邪気で飾り気がない天真爛漫(てんしんらんまん)なことを指す。つまり、「この文章は天衣無縫だ」などの使い方をする。ところで、うまく「遊ばれ上手」になれなかった郭翰が、なにかしら可哀想な気もして・・・・・・...ρ(。。、)ヾ(^-^;)ヨシヨシ。

天から降ってきた人の衣には縫い目がないってのは、なにか宇宙人を想像させるのだが、それはまた別の話。


せっかくだから、天の川を見に行こう(2)

2007-07-08 19:56:32 | lesson
星座の物語(こと座)

昨日の七夕は曇り空。織姫はうまく天の川を渡って牽牛に会えたのだろうか?
昨日の記事で触れたが、織姫星(織女星)はこと座の1等星ベガにあたる。こと座の伝説は、ギリシャ神話の中の話だ。
吟遊詩人のオルフェウスは、 太陽神アポロンと芸術の女神(ミューズ)の一人で叙事詩を司るカリオペとの間に生まれた。彼は竪琴の名手で、彼のひく竪琴の音に森の木々は踊りだし、森の動物達はすべて森から出てきてオルフェウスの竪琴の調べに耳を傾けていたという。
このオルフェウスの竪琴は、もともとはアポロンのものだった。亀の甲羅に穴を開けてそれに亜麻でできた9本の糸を通して作らた竪琴は、ヘルメスが作ったものだ。アポロンはその竪琴を、牛に加えて杖とで交換することによりヘルメスから手に入れており、これを息子のオルフェウスに譲ったのだった。
オルフェウスがニンフ(精女)のエウリュディケを愛し、彼女と結婚してから間もなくのことだ。新妻のエウリュディケは、横恋慕した牧夫に追いかけられ、逃げた際に草地にいた一匹の毒蛇を踏み付けてしまい、その蛇に噛まれてあっけなく死んでしまう。新妻の死を心から悲しんだオルフェウスは、亡くなったエウリュディケを取り戻すため、竪琴を手に黄泉の国タルタロスへ行く。

黄泉の門には、三つ頭の番犬ケルベロスが守護しており、凄まじい声でオルフェウスを威嚇するのだが、オルフェウスの弾く竪琴の音に次第に大人しくなり、うっとり眠ってしまう。三途の川の渡し守カロンも、恐ろしい冥府の亡者どもも、彼の美しい竪琴の調べに感動し、涙を流して聞き入った。遂にオルフェウスは、冥府の王ハデスと 女王ペルセポネの玉座の間まで辿りつき、愛する妻を失った悲しみを切々と歌いあげ、彼女を今一度地上の自分のもとへ返してくれるよう訴えかけた。オルフェウスの歌に感じ入ったペルセポネは、涙ながらに王を説得し、ハデスもその音に深い感動を覚えてエウリュディケを地上に戻す約束をする。
ただしハデスは、 エウリュディケを黄泉の国から地上に戻すのに一つの条件を課す。二人が地上に帰り着くまで、オルフェウスは決して妻のことを振り返ってはならぬというものだった。
オルフェウスは約束を守り、一度たりともエウリュディケの方を振り返らなかった。ところが、地上が目前に迫ったとき、ふとエウリュディケの足音が聞こえなくなり、心配でいてもたってもいられなくなったオルフェウスは、とうとうエウリュディケの姿を求めて振り返ってしまった・・・・・・σ(^∇^ヾ)コッチコッチ。

たちまち、彼女は黄泉にひき戻されて、オルフェウスの伸ばした手の先でエウリュディケは瞬く間に見えなくなってしまった。オルフェウスは慌てて黄泉の国へ戻ろうとしたのだが、三途の川の渡し守は彼を渡してはくれない。オルフェウスは絶望のあまり気が狂ったようになってあてどもなく山野をさまよい、最後には酒神ディオニュソスの祭りで酔っ払った一団の中へ迷い込む。酔っ払いの女達の琴の演奏の要求を断ったオルフェウスは、怒った女達に石を投げつけられ遂には八つ裂きにされ、その首もろとも竪琴もヘブルース川へ投げ込まれてしまう。この結末を哀れに思った音楽の女神達は、オルフェウスの身体を集めリベトラの森に埋葬する。そして、今もなお、そこに鳴くナイチンゲールは哀れな声で鳴くといわれている。一方、ヘブルース河に打ち捨てられた竪琴は、やがて海へ出てレスボス島へ漂い着く。かわいそうに思ったアポロンは竪琴を天にかけ「こと座」にした。また、かつてオルフェウスの竪琴の音に聞きほれていた動物たちも星の仲間入りをし、こと座の周りでその調べに聞き入っているといわれている。オルフェウスは、黄泉の国でエウリュディケと再会し、共に幸せに暮らしたとのことだ。

この黄泉の国へ亡くなった妻を迎えにゆく話は古事記でも出てくる。
イザナキは死んだ妻・イザナミを追って黄泉路を通り、根の堅州国(ねのかたすくに)に入った。ところが妻との約束を破り、あんなに美しかった妻がゾンビのように変わり果たのを見てしまったイザナキは恐れをなし黄泉の国から逃げ帰ってくる。がイザナミは追いかけてくる・・・・・・∑(=゜ω゜=;) マジ!?。
その時、その場にあった桃の木から実をもぎ取ってを投げつけることで黄泉の醜女を追い払っている。このゾンビの話は興味深いのだが、それはまた別の話。
明日に続く
Starship - Sara

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せっかくだから、天の川を見に行こう

2007-07-07 19:04:19 | lesson

こと座のベガ、わし座のアルタイル、はくちょう座のデネブの3つの星を結んでできる細長い大きな三角形を夏の大三角形という。
こと座の1等星ベガは、全天でも4番目の明るさの星(シリウス、カノープス、アルファ・ケンタウリに次ぐ)で、中国・日本の七夕伝説では織姫星(織女星)とされる。わし座のアルタイルは、夏彦星(彦星、牽牛星)だ。この2つの星をペアにして、日本では「女夫星」(みょうとぼし)、「二つ星」(ふたつぼし)と呼ぶ。七夕伝説の主役たちだ。

日本における七夕の言い伝えは、ご存知のように以下のような悲恋物語だ。
織姫は天帝の娘で、機織の上手な働き者の娘であった。夏彦もまた働き者の牛飼いの青年であり、天帝は似合いの二人を結婚させることにした。こうして織女と牽牛の2人は、新婚生活を始めた。しかし、結婚してからの2人は、あまりにもラブラブで毎日遊んで暮らすようになり、すっかり仕事をしなくなってしまった。このため天帝は怒り、2人を天の川を隔てて引き離したが、年に1度、7月7日だけ会うことを許した。しかし、7月7日に雨が降ると天の川の水かさが増し、織姫は渡ることができず牽牛も彼女に会うことができない。その時は、2人を哀れんでどこからか無数のカササギがやってきて、天の川に自分の体で橋をかけてくれるという。
実は、織姫と牽牛の2人が7月7日にしか会えなくなったのは、カササギが「七日に一度だけ会ってよい」と伝令すべきところを、うっかり間違えて「7月7日だけ会って良い」と言ってしまったためらしい。責任を感じているカササギが2人の逢瀬を手伝っているとのことだ。すなおに訂正しておきゃいいものを・・・・・・。

この七夕伝説。中国や東南アジアには多くのバリエーションがあり、大きく分けると三つのパターンに分類される。一つは上に書いた「天人同士の結婚」の悲恋物語。もう一つは「羽衣伝説」で、人間が天界から訪れた天女の羽衣を隠し結婚に成功するが、天女は羽衣を取り戻し再び天界へ帰ってしまい、人間は天女を追って天界へ向うも様々な難題を課せられて、結局、難題をクリアできなかったために夫婦は再び別れ別れになるという「天人女房」ものだ。そして最後は、現世で引き裂かれた夫婦・恋人が、死して星となるという物語だ。

たなばたの語源として日本書紀によれば、高天原(たかまがはら)から豊葦原水穂國(とよあしはらみずほのくに)、高千穂に降り立った天孫ニニギノミコトが吾田(あた)の笠狭(かささ)の岬を歩いていた時、海辺に建てた八尋殿の中で機を織る美しい「棚機女」(たなはたつめ)と出遭ったとある。棚機女は、オオヤマツミノミコトの娘でコノハナサクヤヒメといい、後にニニギノミコトと結婚した女神だ。女神は神の衣を織っていた。その女神の職業「棚機女」から、「たなばた」の名称が来ている。また「たなばた」は農作物の収穫を感謝する大事な行事でもあった。まだ米ではなく、麦を中心として粟・稗・芋・豆などを主食としていた時代で、収穫祭として「たなばた」を迎えるのが日本古来の信仰として存在していた。この畑の収穫祭と、盆迎えの祓えの信仰が中国の「星の伝説」や「乞巧奠」(きこうでん)と合体して現在の「たなばた」になった。「たなばた」は「棚機」であり、7月7日の夕べの行事だったので「七夕」の字があてられるようになった。「乞巧奠」とは巧みを乞う祭りという意味で、機織りが上手な織り姫にあやかろうとするものだ。のちに機織りだけでなく、日常の針仕事、歌舞音楽の芸事、詩歌文字の上達を願う行事へと発展した。

七夕は旧暦(太陰太陽暦)での行事なので、季節は7月7日よりも1~2ヶ月遅い時期となる。これを太陽暦であるグレゴリウス暦でやろうとすると梅雨の真っ最中となる。だから、「仙台の七夕」を始めとする各地の八月に行われる七夕行事は月遅れの行事と呼ばれるが、旧暦の7月7日に近い時季となる。また、旧暦では7月7日は上弦の月だから、月明かりが少なく星がはっきり見える。今年は8月19日に相当する。なお、(グレゴリオ暦・旧暦どちらでも言えるが)七夕に降る雨を「洒涙雨(さいるいう)」といい、織姫と彦星が流す涙だと伝えられている。
織姫と牽牛よ。この7月7日が雨でも、あと2回チャンスがあるから、泣くなよ・・・・・・。いざとなれば、カササギが橋を渡してくれるし、上限の月のゴンドラだって1度だけだけど下流を横切るのだから。