tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

柴子(1)

2007-06-30 17:31:43 | 日記
「ひさびさ、オヤジ狩りやろうぜ」
会社の仕事から帰ってきて部屋でボーッとしていると、ケータイが鳴って高校時代のダチから親父狩りに誘われた。もう、群れで遊ぶような年頃じゃなかったが、どんなにがんばっても社会の底辺から抜け出せないでいたから、どうでもいいやと返事した。
高校の頃の仲間は、みんなバラバラになっちまった。ヤクザのパシリになったやつもいれば、日雇い派遣フリーターで工場を点々とするヤツ、ネットカフェ難民で住所が定まらないヤツ。いろいろだ。みんな、いまだにだれからも必要とされずに、社会の底辺ではいつくばって生きている。どんなにがんばっても、底辺から抜け出せない。このまま生きていっても、全然今と変わらないだろう。
数年前にはなんどかオヤジ狩りに参加した。ケータイを掛け合って、バイトが終わった時間に、みんなで繁華街で集まった。ダチのダチが集まるから、お互いに名前さえ知らないヤツがいたりした。
遊ぶ金を調達するために、いや、ただフクロにするのが面白くて、金を持っていそうなオヤジを集団で襲った。オンナにカッコイイところを見せたいということもあった。相手をフクロにさえすればよかった。金を取るのは行為を補完し、正当化するための目的だった。数回やって味をしめたのだが、いつか襲ったオヤジが予想以上に強くてダチのダチが1人捕まって少年院に・・・・・・。
それ以来、まじめにやってきた。だけど、どんなにもがいてもどうにもならない。もがけばもがくほど、深みにはまっていった。

虫の予感(2)

2007-06-29 20:18:05 | 日記

今日、こんなこ難しい話をしようと思ったきっかけは、実は今の寄主の行動に問題があったからだ。私の寄主は、健康な独身のOL。ひとり暮らしOLライフをお洒落に楽しみながら、夢に向かって節約&資格取得をガンバっている。仕事は経理&営業サポート、性格は典型的なO型の性格で、イヤな事はすぐ忘れる。だが、短所は小心者なとこと短気さ。スポーツジムへ通いだしてからもうすぐ6年になる。好きな俳優はチョン・ウソン(韓)という、どこにでもいるようなOLだ。ただ、この寄主が、2ヶ月前からとんでもない男と付き合いだした。
相手の男は自称36歳。2人は某有名出会い系サイトで知り合った。相手はコンピュータ関係の某大手会社に勤めており、年に1~2回海外へ仕事で行くと言っている。外見は若々しく見え、バリバリに仕事ができるような印象を与える。結婚歴は無く、デート中には「早く結婚して子供が欲しい」と、よく口にする。
デートは、車でドライブ。ホテルのラウンジでお茶をして、夜は家まで送り、2回目のデートで結婚しようと言ってきた。デートはいつも高級レストラン。「僕は君を守る。君のような人に出会えてうれしい、結婚しよう」が、そいつのセリフだ。女性が喜ぶツボを心得ていて、知り合ってわずか1ヶ月というのにいろいろアプローチをかけてくる。あまり恋愛なれしていない寄主は、男から言われたことや、してくれることすべてに夢見心地の想いをしている。
ここまではいい。恋している女は、異性を惹きつけるために瞳孔が開いて瞳が潤んで見えたり、肌も美しくなったり、心身のバランスがとれて我々寄生虫にとっても非常に居心地の良い環境となる。しかしだ。交際が始まって1ヶ月が過ぎた頃、「結婚して欲しい」と相手の男が切り出したのだった。「結婚に機に会社を辞め独立しようと思うのだが、独立資金が少し足りないので、150万円ほど貸してほしい」と相手が言い出したのである。その言葉を聞いて以来、寄主の精神状態は危うくなった。つまり、相手に対する不安、疑心暗鬼、期待、信頼など種々の感情が沸き起こり、夜も寝られず、食事ものどを通らない状態になってしまった。もう、お気付きと思うが、寄主は我々寄生虫にとってはなはだ居心地の悪い環境になってしまったのである。
結婚詐欺にあって、寄主が自殺でもすれば、一蓮托生の身の上の我々は無理やり寄主と道連れになるしかない。言ってみれば、自覚のない無理心中だ。と、このように命にかかわる重大事だったので、私も必死だった。寄主の脳に向けて、いろいろなイメージを送って、事態の改善を図った。そして、こうした地道な努力が実って、寄主も自分ひとりでくよくよ悩んだりせずに、友達に打ち明けて相談するようになっていた。

「とにかく冷静になりなよ。燃え上がっちゃうと盲目になっちゃうよ」
「すごくやさしい人なの。いつもおしゃれなお店に連れてってくれるし、今度、海へ行こうってドライブに誘われたの」
「へー、そんな素敵な人なんだー。良かったわね。私も一度会ってみたいなあ。既婚者の目で私がみてあげるわ。でも、なにがあっても絶対にお金は貸したらダメだよ」

相手との結婚を信じていた寄主は、「どうせ結婚費用に貯めたお金だから・・・・・・」と思い、貯金をおろし150万円を用意した。そして、その週末に友達と3人で逢ってもらおうと相手の携帯に電話したところ、仕事が忙しくてしばらく会えないと相手の男は言う。そして突然、相手の男の携帯電話が不通になってしまったのだ。男との連絡方法は携帯電話しか無く、途方に暮れた寄主は男から聞いていた会社に問い合わせてみたのだが、その会社にそのような男は実在しなかったのだ。

「お金渡す前に気がついてよかったね」
「でも、いまでもあの人が結婚詐欺師だったなんて信じられない」
「メールしてて悪い人間ってわらかなかったの?」
「毎日かならずメールしてくれるから、大丈夫だと思っていた・・・・・・」
「よっぽどやり方がうまかったのね!私が会ってもだまされてたかも」
「今考えれば、2人で居る時に携帯電話が鳴っても電話に出ないことが多かったし、3人で会おうって言った時はみょうにきょどってたし。会社に電話したのは、きっと虫の知らせがあったからよ」
「よかったね」

本当によかった。これでもう少し生き延びられそうだ。寄主が若いといろいろ苦労が多い。我々の苦労、わかっていただけただろうか?あの年代の女性が、不意に気が変わるのは、実は我々のせいなんだ。
虫 の 知 ら せってやつだ。
おわり。


虫の予感(1)

2007-06-28 20:10:53 | 日記

他人から「あんたは寄生虫じゃん!ダニ!」と言われたことがある人は、そう多くはないだろう。実はこの言葉は、私にぴったりの言葉だ。なぜかと言うと、私はそういう風に生まれついているからだ。ただし、私はダニじゃない。寄生虫には寄生虫としてのプライドがある。だから、今後は私をダニ呼ばわりしないでくれ。
私たちの種と人間との係りは、それこそ太古からである。人間のような自由生活動物にとりついて寄生生活を送る種を、寄生生活種という。寄生の仕方にはいろいろあるのだが、卵の状態で食物を介して寄主を探し当て体内で孵化するのが一般的だ。ここでは詳しくは書かないが、我々の卵が性行為によって寄主から別の人間の口へという感染経路も最近は驚くほど増えてきた。
しかし、孵化してから先の手順は寄生虫の種類によって異なり、大きく分けると2つの流儀がある。寄主の体に毒液を注入して麻酔するか殺したあとでゆっくり成長するタイプ。この種の寄生虫を殺傷寄生者(idiobiont)と呼び、孵化した幼虫は動けなくなった寄主の体液をすすって成長する。人呼んでキリギリスタイプだ。今さえ良けりゃよくて先のことなんて知るかってやつ。
これに対して、寄主を生かしたまま(摂食と成長を続けさせながら)寄生するタイプの寄生虫は、飼い殺し寄生者(koinobiont)と呼ばれる。私は後者のタイプ。
しかし、寄主の体内に宿ることは決して容易いことではない。寄主の体内に宿ると、寄主の免疫機構がもたらす猛烈な生体防御機構が作動する。だから、私たちは寄主の生体防御反応を抑えたり、私たちの変態のタイミングを調節するため、さまざまな生理的機能をもつ毒液や漿膜細胞、DNAウィルスなどを寄主の体内に放り込んだりしてようやく生活しているのが現状だ。
日本では花粉アレルギーが国民病となったが、その昔にその発症例が少なかったのは、我々の毒液が寄主の免疫機能を低下させていたことによる。これの作用は、ネットを探せばあちこちで見つかるから、もうすでにご存知だろう。しかし、そうした作用以外にも、我々が人間の感情など生理的機構に与える作用はあまり知られていない。つまり、我々と寄主は実は共生しているのだ。今日は、寄主の体を借りてじっくりとその辺の説明をしようと思う。

まず、我々には脳がない。これは事実だ。一般に寄生生活への適応の結果、寄生虫の形態には進化の過程で大きな変化が起こる。
吸収や附着、生殖に関する器官が発達する一方、多くの場合に消化器官、感覚器官や運動器官が大幅に退化するのだ。我々は脳を失った結果、その代わり、寄主の脳を使って考えることができるようになった。一時的にではあるが寄主の脳を支配することもできる。だからこうして、ネットを介して他の人間(つまり、あなた)と交流ができるのだ。
我々と寄主の間を媒体するのは神経線維を流れる生体信号だ。電気信号はもちろんのこと、神経内分泌物質の授受をも行う。この神経内分泌系は、寄主のほとんどの部分にとって重要なことを調節している。例えば寄主の性行動、精子形成、卵巣周期、出産、乳汁分泌、そして母性行動に至るまで、生殖のあらゆる面を支配しているといったら驚くかもしれない。そして、種々の代謝作用を調節することで寄主の感情をもコントロールすることができるのだ。

(明日に続く)


世界最速のインディアン

2007-06-27 23:59:51 | cinema

薄闇のガレージを兼ねた家の中。作業場の棚には歴代のエンジンのパーツが並んでいる。棚に書かれた文字は Offerings to the God of speed  (スピードの神への捧げ物)。アルミ製のシリンダーやピストンヘッドなどが並んでいる。まだ朝の5時半。目覚まし時計を止めた男は起き上がり、バイクを押して庭に出る。白みかけた空の下、男はバイクのエンジンに火を入れる。この時、彼はキャブレターのエアファンネルを、手で塞いでチョークの役目をさせながらエンジンをまわす。男とバイクが朝日の中で浮かぶ時、このシーンでバイクや車好きの人は、ガッチリとハートをつかまれてしまう。

彼は63歳のバイク乗りだ。彼が21歳の時に140ポンドで手に入れた、生涯の相棒となるバイク(インディアン・スカウト)。より速く走ることを追求し、彼の人生をかけて40年以上も自らバイクを改良し続けてきた。そのバートが心臓の発作で倒れてしまう。医者には狭心症と診断され、バイクに乗ることを禁止される。覚悟を決めた彼は、アメリカのバイクのスピードレースへの参加を決断する。しかし、彼がスピードの記録を出せるとは誰も思っていない。信じているのは、隣に住む少年だけだった。アメリカへ出発する日になっても、バイククラブの仲間ですら誰も来ない。そこへ突然、かつて浜辺で競争した若いバイク乗り達が見送りに来る。「あんたならやれるよ」とバイク集団。彼らも映画を観ているぼく等も、バートのガッツと技術に惚れてしまっているのだ。

この映画で、アルミ合金製のピストンを自ら鋳込むシーンが出てくる。
Here we are, the perfect recipe...two of Chevy...one of Ford.
I think those '36 Chevy pistons must have a touch of titanium or something in them.
They come up real good, you know.
エンジンのピストンは、シリンダー内で上下運動をして吸気から排気までの力を伝える部品だ。エンジンを7000回転させると、ピストンは1分間に7000往復することになるので、軽量・精密かつ耐熱性に強い素材が要求される。この映画の当時でも、ピストンには軽くて強いアルミニウム合金が使われている。しかし調べてみたが、1940年当時から現在に至るまでシボレーにしろフォードにしろ、チタンを合金化したアルミはピストンに使われた事はないようだ。耐熱性と強度を上げるため、シリコンや銅、ニッケルなどが合金化されるのが普通だ。加えて、大気中でチタンの入ったアルミニウム合金を溶解すれば、高温酸化しやすいチタンが酸化してしまう。したがって、'36シボレーにチタンが合金化されているというバートの話は映画の中のお話と言わざるを得ない。レース用のマシンでは、このピストンを徹底的に紙やすりで磨き上げ、軽量化すると同時に、磨く事で加工硬化され材料強度を増大させる。
なお、燃焼室の燃焼温度は2000℃を超えるといわれているが、ピストンはその熱を直接受けるため、その冷却性能も重要になる。高性能エンジンのピストン内には、クーリングチャンネルと呼ばれるオイル循環路が設けられており、そこにオイルを循環させることでピストンを冷却する。映画では彼が鋳造したピストンは灰皿代わりに使えるって言ってたから、中空構造なのだろう。耐久性は二の次にして、ひとレースで部品をお終いにするつもりなのだ。

バートはちょっと前に読んだルーズベルトの本に深い感銘を受けている。大切なのは結果じゃないんだね。
"It is not the critic who counts: not the man who points out how the strong man stumbles or where the doer of deeds could have done better. The credit belongs to the man who is actually in the arena・・・・・・
「賞賛に値するのは実際に行動した人であり、たとえ失敗したとしても果敢に挑戦した人である」

驚くことに、この映画で描かれた1962年、アメリカのボンヌヴィル塩平原で世界記録に初挑戦し、世界記録を達成した以降も、彼は70歳過ぎまで毎年のようにかの地に戻り、1967年1000cc以下のクラスで世界最速記録を樹立する。そして、この記録は未だに破られていない。
下のホームインディアン・モーターバイクのホームページには Burt Munro の手紙が紹介されている。
http://www.indianmotorbikes.com/features/munro/index.htm

55 ci AMA world record 1962 at Bonneville, engine was 51ci at this time. 1966 engine 56ci 168.06m.p.h. American 61 ci record 1967 183.6. best run 190.07 qualifying. 1969 record number of runs for a streamliner, 14 in four and a half days. I had magneto and carburetion troubles and finally burned-up pistons when gas tap shut off on last chance of a qualifying run. I have hauled bike or engine to USA eight times in my attempt to get one good run but this has always eluded my greatest efforts.
それによると、彼はピストンのみならず、コンロッドやタイヤ、ブレーキなどオートバイのほとんどのパーツをすべて手作りで改良を続けていたようだ。そして、エンジンブローを繰り返しながらも世界最速マシンを、ほとんど独力でなんとか組み立てる。ここまでくれば、ただひたすら尊敬の念に浸るしかない。
"All my life Ive wanted to do something big... something bigger and better than all the other jokers"
Burt Munro


入道雲

2007-06-26 20:08:52 | プチ放浪 都会編

元暴走族の彼。いまは、電車に乗って会社に通う毎日だ。仕事は、リサイクル用鉄くずの分別。毎日、会社で作業服に着替え、薄暗い電灯の作業場にこもって、冷蔵庫やテレビなどのくず鉄と格闘している。
30過ぎてまだ独身の彼は、たまの晴れた休みの日に、ツーリングに一人で出かける。ツーリングといっても、バイクではない。バイクは25歳を過ぎた時に卒業した。もう、原付以外に2輪に乗ることはないだろう。
彼は、バイクに変えて、いまはチャリンコに乗っていた。
バイクに乗っていた時に感じていたことでもあるが、車道を走る自転車は非常に危ない。実際に自転車に乗ってみるとそうでもないのだが、バイクから見るとそれは頼りなく、フラフラしていそうでコワイ。だから、彼は、できるだけ歩道を自転車で通行するようにしていた。

前から来る自転車とすれ違う時、彼が道を譲る事はない。これは暴走族をやってた頃からの彼の信念だ。自分の決めた道を、自分のペースで走る。他人の指図は絶対に受けない。ところが、これまでに彼は2回ほど、信念を曲げざるを得なかったことがあった。
一度は、前からママチャリに乗った茶髪のオバちゃんとすれ違った時である。歩道の真ん中を、その茶髪のオバちゃんは堂々と向こうからやってきた。歩道のやや端を走っていた彼は、向こうが避けるもんだとばかり思っていた。30センチ左に寄ってくれれば、2人は何の問題もなく、すれ違うことができる。
しかし、敵は一向による気配がない。買い物かご一杯に荷物を積んで歩道のど真ん中をやってくる。2メートル、1メートル。緑色のメッシュの入った茶髪がもう目の前だ。オバちゃん特有の加齢臭が感じられそうなほど。ごく狭い空間を挟んで、目と目が火花を散らす。そして、ぶつかる瞬間に、彼は大きくハンドルを切ると、歩道の植え込みに突っ込んでいった。
彼の人生を通じて、はじめてのチキンレースでの敗北だった。といっても、チキンレースに撒きこまれたのは生まれてはじめての経験だったので、正確に言えば初戦を落としたということだ。彼は、泥だらけになりながら植え込みから立ち上がると、次の戦いではきっと勝つと心に闘志を燃やしたのだった。
次の戦いは、その敗戦のすぐあとにやってきた。前から”ぢょしこうせい”が自転車を2列に並んでやってきた。2列に並んで走っているから、すれ違おうにもぎりぎりのスペースしかない。
この時も、彼は向こうが避けるものだとばかり思っていた。しかも、敵はかなり飛ばしてこっちへやってくる。2メートル、1メートル。紺色のブレザーがもう目の前だ。レモンのようなさわやかなシャンプーの香りが鼻をくすぐる。そして、ぶつかる瞬間に、彼は思わず目を閉じた。びびって、股間に少しだけちびったのを感じた。結論を言うと、なぜ、無事にすれ違えたのかわからない。でかい派手な音を立てて自転車同士が正面衝突すると覚悟を決めていたのだが。物理的にすれ違うのが不可能な空間を彼と彼女達は衝突しないですれ違ったのだった。恐らく、時空にゆがみがあったのか、知恵の輪のような難しい空間操作を経て彼らは無事にすれ違えたのか、今となってはどうしてそれが可能となったのか解き明かすことはできない。ただ、体が無意識に一瞬大きくバンクしていたことだけを覚えている。
そして、彼の心にはチキンレースで連敗を喫したという重大な事実が重い記憶となって残っていた。

前から、やくざが来ようが、相撲取りが来ようが、絶対に道をゆずらない。彼の決意は固かった。そして、幸運なことに、これまでは歩道の向こうから、自転車に乗ったやくざも、自転車に乗った相撲取りも、さらには自転車に乗ったガメラさえも来ることはなかった。もっとも、自転車の座席にガメラが火を吹きながらそのおしりを乗せて運転していたら恐すぎる。第一、その姿勢でペダルに足が届くほどガメラの体は小さくないから、1cmだって自転車で進めやしないだろう。
そして、梅雨の合間のことだ。彼が愛車のマウンテンバイクに乗って駅前をサイクルしていた時だ。前方から、1台の自転車がヨロヨロと走ってきた。運転しているのは老齢の男性。自転車のフロントチャイルドシートには、3~4歳くらいのかわいい女の子がのっている。おそらく女の子は、おじいさんの孫なのだろう。楽しげに左右を見回す女の子。女の子がシートから落っこちないように、おじいさんは右手で自転車のハンドルを握りしめながら、左手で女の子を必死に支えている。片手ハンドルだから、ヨロヨロ運転になるはずだ。
自転車から降りて、押して歩けばいいのにとも思うが、女の子の楽しげな顔をみると、おじいさんの気持ちが伝わってきた。前から、やくざが来ようが、相撲取りが来ようが、絶対に道を譲らない彼ではあるが、この時は自転車から降りて、歩道の端により2人を通してあげた。おじいさんは、「ありがとう」といって、ヨロヨロ自転車を運転して通り過ぎていった。彼が道を譲ったのは、生まれてはじめてのことだった。
彼は、ヘルメットと額の隙間から流れ出る汗を拭うと、晴れ渡った青空を見上げた。空には入道雲が湧きあがり、草や木の葉を揺らし風が吹き抜けていった。