tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

愛は奇跡(6)

2007-01-31 19:59:47 | 日記
ノー・リミッツ競技者のトレーニングはハードである。ランニングやアイソメトリックスなどの鍛錬を行うばかりか、彼らは瞑想によって心拍速度を落とすことを学ぶ。そして、暗い海の深淵に深く潜っていくにもかかわらずパニックにならないように勤める。その深さでのパニックは命取りになる。フリー・ダイバーにとって、浮上途中の水面近くの1~2mは最も危険なのだ。なぜなら、高い水圧から脳を守るために急速に集まった血が水圧の減少に伴い手足に戻る時、血流の少なくなった脳が停止してしまう可能性があるからである。彼女はまだ28歳で、ピピンよりも12歳も若く、しかも、失神も、減圧症も、耳鳴りも、フリー・ダイビングによるダメージは一切受けたことがなかった。また、彼女は、ダイバーが時より襲われるダイビング中の恐怖すら感じなかった。フリー・ダイバーが、一度でも浮上中に失神を体験すれば、彼らの勇気の拠り所となる自信を喪失してしまう。そして、本能的な恐怖が体に染み付いてしまう。その恐怖を克服するには、とても長い時間と訓練が必要である。しかし、オードリーは失神したことが無く、また、ピピンのそれまでの記録を塗り替えた時も冷静そのものだった。
彼女の最大の武器は、なんと言っても粘り強い点であった。また、オードリーにとって、フリー・ダイビングは何事にも勝る自分発見の旅であった。一方、ピピンにとっては、自己限界への挑戦はほんの一部分に過ぎず、他人の記録との競争に捉われていた。彼は常にフリー・ダイビングの第一人者でありたい思っていたのだ。そして、彼はダイビング機器のビジネスや、水中のドキュメンタリーや世界記録の認定などの仕事に手を染めており、フリー・ダイビングが彼の生活の中心だった。

愛は奇跡(5)

2007-01-30 22:26:00 | 日記
1997年にピピンがオードリーをフリー・ダイビングに誘うと、彼女はたちまち夢中になった。彼は大気よりも800倍も密度の高い水圧下でいかに耐えるか、肺の中の二酸化炭素を減らして酸素をいかに満たすのか、エネルギー消費の最も少ないトランス状態に身と心をいかに持っていくか、潜るにつれて鼓膜にかかる水圧をいかに等圧にするかなどを彼女に教えた。彼女は、生まれながらのダイバーだった。ほとんど努力しなくてもそれらのことをマスターできた。そして、彼の潜水世界記録を抜くのは時間の問題に思われた。
一般に、素潜りに必要な息こらえには性別による優位はない。優秀なダイバーは、いかに肺の中の酸素を効率よく消費するかにかかっている。だから、筋骨隆々で肺活量の大きなタフガイが有利であるとは限らず、華奢な体つきの肺活量の小さい女性の方が息が長く続くことがある。日本の海女さんなどはその典型だ。
肺の中の酸素の燃費は、車の燃料の燃費と似ている。高速でエンジンを回せば、ガソリンが無駄に消費されるように、心臓の鼓動が早いと肺に送られる血液量が増大する。肺に蓄えられた呼気中の酸素は、肺胞に達する。肺胞表面の細胞とそれを取り巻く毛細血管は、ともにそれぞれ細胞1個分の厚みしかなく、互いに密接している。壁の厚みは平均約1マイクロメートル(1万分の1センチメートル)であり、酸素はこの空気と血液の間の壁をすばやく通り抜け、毛細血管の血液中へ入る。酸素が壁を通り抜けるのを物理学では拡散現象と呼ぶ。同様に、血液中の二酸化炭素は拡散により肺胞へ入り、その後呼気として肺呼吸により体外へ排出される。酸素の拡散速度は、物理的な性質なので個人差はない。したがって、鼓動が少なく血流があまりなければ、肺の中に蓄えられた酸素はそれほど消費しないことになる。すなわち、最小のエネルギーで効率よく潜りを行えば、息が長続きすることになる。男女の差はない訳だ。

愛は奇跡(4)

2007-01-29 20:03:35 | 日記
一方、オードリーは、1974年8月11日にパリの北郊外のSaint Denisで生まれた。彼女の両親が、病院から彼女を連れ帰った時、彼女の祖父は手を叩いて喜んだ。
<この子の足を見てごらん。大きな水かきがついているよ>
祖父はダイバーだった。彼は、彼女もまた成長してダイバーとなる運命であると知ったのだった。その子はオードリーと両親から名づけられる。赤ん坊の頃から水に親しみ、2歳の時には泳ぎを覚えていた。そして、5歳になった時、ウエット・スーツと、シュノーケリングの3点セット(マスク、フィン、シュノーケル)を買ってもらい、誰の手助けもなしに道具を装着できるようになった。彼女は、自分でできると言っていつも手助けを必要としなかったのだ。
オードリーが人生の早い時期に天職を見つけたことは幸運だったが、健康にはあまり恵まれなかった。彼女は5歳ときに単核白血球が異常に増加する病気にかかり、そして6歳で完治。7歳の時には転んで角ばった鼻を骨折している。14歳の時に続けざまに、腸チフスと脊柱側湾症を発症し、背骨が曲がる後遺症が残った。それからの4年間は、彼女はプラスティック製のコルセットを起きている間中、身につけるはめになった。彼女がコルセットをはずせるのは海に来た時だけで、支えをはずして水中に分け入る時が生まれながらの彼女に帰れる時間だった。
1987年にエンジニアであったオードリーの父親がメキシコの水処理施設の工事のため転勤となった時、オードリーの最初の質問は<住まいは水辺の近く?>であった。1年ほどで仕事を終え、父親はフランスへ呼び戻される。この年にオードリーはフランスの映画監督のリック・ベンソンによって撮影された「グラン・ブルー」を観る。ジャック・マイヨールとエンゾ・マイヨルカの熾烈な競争でおなじみのフリー・ダイビングの映画であり深い感銘を受ける。彼女は程なくして両親に告げる。
<将来の職業を決めた。海洋生物学者になる>

愛は奇跡(3)

2007-01-28 18:46:40 | 日記
ピピンがオードリーと出遭ったのは、1996年2月25日。当時34歳の彼が水深130mに挑戦するため、メキシコのサンルカス岬に行ったときのことである。彼はそこで、仕事を手広く広げようとしていた。彼は、イベントを牛耳るテレビ局のオーナーで、かつ、メキシコのマスメディアの権力者のEmilio Azcarragaから12万ドルのスポンサー資金を得ていた。当時、フリー・ダイビングはヨーロッパ以外ではあまり盛んではなかった。彼はそこで世界記録を打ち立てることによって、このスポーツを広げようとしていたのだ。
ある晩、マリーナのそばにある顔見知りばかりが集まるMargaritavillaと言うバーに、彼のクルーとともにやってきた。そこに見知らぬ魅力的な女性がいた。彼が話しかけたとき、彼女は完璧なスペイン語で答えた。
<名前はオードリーよ。いくつか、あなたに聞きたいことがあるんだけど・・・>
彼女はきれいな茶色の瞳で覗き込んだ。
<もちろん、いいよ。きみはレポーター?>
<いいえ、La Pazにある大学の学生よ。>
当時、彼女は21歳、メキシコの南バハカリフォルニア自治大学で海洋生物学を学ぶ学生だった。雑誌などでピピンの記事を読み、深海で水圧に対応する方法や、血液の移動(ブラッド・シフト)に興味を持ったのだった。オードリーは、彼女のバッグからペンとメモ用紙を取り出すと、潜水中のフリー・ダイバーに起こる身体的な変化についていくつかの質問を彼にした。肺がつぶれるほど水圧が高く、だから肺を守るため、手足などの血液が脳や体の中心などの重要な部位に移動する。肺自体はオレンジのサイズまで圧縮され、血液で満たされる。心臓は胸腔の片隅に強く押し付けられる。実際、どんな風に体がなっているとピピンは考えるのだろうかと。
彼女は、非常に良く勉強していた。そして、彼は、彼女のすべてを知りたくなった。その夜、彼らは恋に落ちた。ピピンはその著書の中で、自分自身を歯並びが悪く、頭を剃ったおしゃべりなマッチョのキューバ人、オードリーを心豊かでプラチナの髪の美しい女神と表している。
二人は出会ってから、たった 4日でオードリーの両親に結婚の許可をもらいに行く。が、しかし、彼女の両親の許しがとれない。その年の3月10日、ピピンは130mの記録を達成。そして、彼は、オードリーとマイアミで生活を始める。
2年後の1998年、カリブ海アルバ島で155mの記録を達成。そして、1999年8月、オードリーの両親の反対を押し切ってピピンはオードリーと結婚。2000年、162mの世界記録を樹立。

愛は奇跡(2)

2007-01-27 19:19:40 | 日記
彼が170mの世界記録を樹立したちょうど1年前の2002年10月12日、彼は、妻のオードリーをドミニカ共和国のバヤーイベ・ビーチでのフリー・ダイビング競技で亡くしている。水深171mまでの潜り水面に浮上する途中での事故であった。彼女はまだ23歳の若さだった。彼は、オードリーと2人3脚で行って来たフリー・ダイビング競技において、つらく悲しい別れと挫折、そして栄光を経験したのだった。
ピピンは、実は妻のオードリー・メストリ(Audrey Mestre)と出会う前に、3人の女性と結婚している。最初は18歳の時、軍隊を除隊した後に結婚したものの、まもなく離婚。26歳の時にイタリアの女性と結婚する。その頃の彼の生活は、イタリアの企業から特別なスポンサー料を得て安定していた。そして、ピピンは女児を授かる。1991年に、ピピンはまた離婚して別の女性と付き合い始める。<ヤミールは野性的で反抗的な女性だった>と彼は自叙伝に書いている。
<まるで野生動物を飼いならそうとしていたようだった>
彼らはアメリカに亡命すると、マイアミに移り住んだ。そこで子供をもうける。しかし、ピピンはお金も信用も失くし、彼ら二人は次第に不満をつのらせて結局は別れた。