tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

精霊達が舞い降りる

2008-04-28 09:59:30 | 日記

昨夜、部屋に入るなりエアコンを止めたため、さすがに明け方には暑くて目が覚めた。これからのホテルには、アンチエアコンのオプションがつくことはないのだろうか?「セイブ・ジ・アース」。ホテルのサービスはそのままに、エアコンなどエネルギーの無駄をできるだけ省くオプション。それを実現するには、セキュリティやプライバシーの保護の問題を解決しなければならないのだろうが、カーテンも窓も開け放して眠れるようなサービスがあれば、宿泊費が多少高くてもぼくはかまわない。
 
雨季のバリの朝は最高だった。一雨ごとに清められる研ぎ澄まされた空気。朝の光の中に、きっと精霊達がたくさん舞い降りているのだろう。ゆったりとした時間に身を置く幸せ。言葉に表すことが出来そうもない。
朝の光がカーテンの隙間を通して柔らかくまどろんでいる。キングサイズのベッドから抜け出して、カーテンを開けて部屋の窓から中庭のプールを眺めるとそこは光の世界だった。
昨夜、ホテルの吹き抜けの廊下から眺めた遠くの庭の暗がりから、トッケイと思われるトカゲの鳴き声が聞こえたのが、かなり昔のことのように思い出される。夜間、廊下には大きな照明はなく、ドアナンバーの所とかにほのかな明かりがあるのみなのだが、朝の廊下から見る景色はまぶしい光の精霊であふれていた。

汗だくで寝ていたため、まずはシャワーを浴びる。暖かいシャワーだ。地球環境を考えれば水でも構わないのだが。しかし、ここは素直に温かいシャワーの贅沢を満喫。松葉杖をついて朝食へ。ぼくにとって旅の楽しみの一つはホテルの朝食だ。
エレベーターで1階に降りると正面に中庭の一部が見えて、右手に朝食をサーブするレストランがあった。オープンテラスになった中庭にもテーブルが並べられ、開放的な雰囲気の中で食事ができる。中庭は海の方に向かって伸びていて、植え込まれた木々の向こうにはブルーの水をたたえた気持ちよさそうなプールも見える。

「Selamat pagi セラマパギ」
スタッフが代わる代わる英語で話し掛けてくるなか、覚えたてのインドネシア語で挨拶すると、バリ模様のシャツを着た女性スタッフがとびっきりの笑顔で挨拶を返してくれる。
「pagi pagi パギパギ」

レストランの中は混雑しているようで、オープンテラスの一番奥で中庭がゆっくり見渡せるテーブルに案内された。そばのテーブルでは、オーストラリアの老夫婦や若いカップルたちが食事をしていた。
朝食はビュッフェスタイル。松葉杖のため皿を運べないぼくのために、先ほどの素敵な女性スタッフがぼくの代わりに料理を取り分けて運んでくれる。山盛りフルーツに、しぼりたてのオレンジジュースとマンゴージュース。たくさんの種類のペーストリー。どれもバターが効いていて美味だ。おまけにチーズがたっぷりのミックスオムレツと、カリカリに焼いたベーコン。そしてフィルターでドリップしたバリコーヒー。とても食べ切れそうもないぐらい皿の上に乗っかっているのだが、「いっぱい食べないと足が良くならないわよ」との彼女のメッセージと受け取り、ありがたくすべて完食する。
食後のドリップでいれたバリコーヒー。カフェオーレで楽しんだが、これがまた格別の味だった。香りが良く日本人好みのテイストだった。このコーヒーだけでもバリに来たかいがあったかも知れない。
そして、ホテルに滞在中、彼女と会話をするのが毎朝の楽しみとなった。
「terima kasih テリマカシ」
「Sama Sama サマサマ」
ありがとうの言葉を伝えると、輝くような笑顔。丁寧な指先、優雅な物腰。 その洗練されたゆったりとした動作に見ほれ、ついこちらまでのんびりしてしまう。 今日はこのまま一日中ぼんやりしていようかと、そんな気分にもなってみたり。
健康的で気持ちのいい一日がこうして始まる。


赤い靴

2008-04-27 22:39:47 | プチ放浪 都会編

”赤い靴 はいてた 女の子 異人さんに つれられて 行っちゃった・・・・・”

童謡「赤い靴」は、野口雨情が作詞。1921(大正10年)「小学女生」12月号に発表され、本居長世が作曲したのは翌年1922年8月のことだ。

「雲になりたや空飛ぶ雲に 気随気ままな白雲に」という自作句を好んだ野口雨情は、田園詩と自ら名付けたたくさんの童謡、流行小唄、新民謡を書き残し、大正・昭和の人々の心に深い感銘を与えた。「兎のだんす」「あの町この町」「黄金虫」「赤い靴」「七つの子」「十五夜お月さん」「青い眼の人形」などは、今も歌いつがれている。昭和20年(1945年)1月27日、疎開先の宇都宮市鶴田町で62歳で逝去。
 
”横浜の 埠頭(はとば)から 船に乗って 異人さんに つれられて 行っちゃった”

大正7年(1918年)に終結した第一次世界大戦後は、アメリカ文化模倣時代で「アメリカ」という言葉自体に神秘的な響きがあった。当時、アメリカから来た”青い眼の人形”は時代の先端をゆくアイドルだったのだろう。情報網や海外旅行が一般化した現代では想像もできないが、当時は、見知らぬ異国の地への憧れと、そして、明治初年から始まった日本人の海外移民の永遠に等しい別れを背景に、異国情緒の「赤い靴」と「青い眼の人形」はエキゾチシズムにマッチして広く庶民に流行したことは容易にうなずける。

インターネットで見ることのできる、早稲田大学図書館サイトの野口雨情と児童たちの写真。おそらく、大正時代に撮られたものと思われるが、当時の子供たちは大正ロマンで形容されるかすりの着物と袴、足元は下駄のいでたちだ。男の子の服装がそうだから、幼い女の子の服装も同様だったに違いない。だからこそ、スカートをはいた赤い靴の女の子のイメージは、当時は、庶民の憧れの的であったのだろう。

童謡「赤い靴」には、清水市出身の「岩崎きみ」ちゃんという実在のモデルがいたとする説がある。3歳の彼女は、米国人牧師の養女にもらわれることになったのだが、その米国人牧師が、日本での任期を終え本国に帰ることになった時、彼女が結核におかされていることが判明。結局、彼女は渡米できず、当時麻布十番にあった鳥居坂教会の孤児院に預けられ、3年後に9歳で亡くなったという説だ。明治44年の話。
国産の靴は、明治36年に、ようやく京橋のトモエヤで我が国で初の機械製一般紳士靴が売り出れた状況で、彼女がもらわれていった当時は、国産の幼い女の子用の赤い靴は、まだ売られていなかったと思われる。また、あったとしても、そうとう高価な手縫いの外国人の子女用のものだったに違いない。だから、もし、仮に彼女がこの歌のモデルだとしたら、海外をあちこちまわった米国人牧師が外国で買い求めた靴を履いていたのかもしれない。

歌のモデルが彼女じゃなく実在の人物ではないとしても、遠いかなたへ行ってしまった”赤い靴の女の子”のイメージは、今もなお、ぼくらの心に強く訴える。そして、週末にはたくさんの人が訪れる山下公園で、赤い靴の女の子の銅像は今日も一人、静かに横浜港を見つめている。


ヨコハマ大道芸

2008-04-26 21:54:35 | プチ放浪 都会編

小さかった頃、夕方遅くまで遊んでいると「サーカスにさらわれる」と脅されたものだった。サーカスにさらわれると鞭で打たれ、一生、旅をしなといけないと本気で信じていた時期があった。だから、大道芸も含めて、旅芸人を見ると切ない複雑な気持ちになってしまう。あの笑いを誘う道化の陰には、悲しい生活があり、サーカスに連れてこられた幼い頃のつらい過去があるのだと。
フェデリコ・フェリーニとニーノ・ロータが残したイタリア芸術が煌く『道』。ここにも、旅に生きるしかなかった切ない人々の苦悩が描かれていて、その悲しく切ない映像とメロディーに涙が溢れてくる。

 「旅」と「芸」はつながりやすいのだろう。何らかの理由で住んでいた地を離れることを余儀なくされ、あてのない場所で稼ぐ方法としての芸。だが、大昔のジプシーも含めて放浪芸人は、西洋でも東洋でも差別される立場にあった。定住者にとって、流れてきた余所者は自らを脅かす厄介な存在に感じられるからなのだろう。こうした差別に傷ついた芸人が、自らの芸によって自分自身が癒されることもあったのかもしれない。

日本にも、道の芸・街の芸とよばれるものがある。浅草の見世物や手品(てづま)、新潟地方の瞽女(ごぜ)、津軽地方のボサマ、人集めの手段としての香具師芸もそうだろう。こうした日本の古き大道芸を小沢正一が精力的に学究的な研究を行っている。彼によれば、流しの歌手も旅芸人だ。たしかに、娯楽が少なかったその昔、はやり歌が庶民の娯楽を支えていた時期があったことは間違いない。

旅への憧れはむしろ定住する者が、鳥のように大空に憧れるのと同じ気持ちで生み出した幻想なのかもしれない。旅に出ると、毎回、新しい何かに出会う。そして、その度に古い自分が壊されてゆく。ぼくには何にも芸はないけど、せめて稚拙でも文章を。・・・・・・これが新しい自分との出会い。





ぼくのバリスタイル

2008-04-25 22:28:36 | 日記

結局、はじめてのバリの夜に行ったジャズバーで、いつもなら深夜までのところを、まだ22時なのにすっかり酔いが回ってしまった。飛行機の長旅の疲れと、その日の朝は5時に起床して成田へ向かったこと、1時間の時差があることなどが原因なのかもしれない。起きていることに我慢の限界を感じてホテルに帰ることに。
異国の地で会ったのも一つの縁ということで、バリニーズと間違えてしまったお詫びもかねて、隣で飲んでいた日本人女性のビール代と合わせて飲み代を払ったのだが、例によってあまりにも桁が大きすぎてどの札がその金額に相当するのかすぐには分らない。約20万ルピアだったから日本円で2500円ぐらいだろう。ジャズの生演奏を聴けて、この値段ならかなり安い。

インドネシアはイスラム教によりお酒を飲めないのだが、ヒンドゥー教が多いバリではお酒を飲むことができる。バリの地酒に、発酵させた米とココナッツを蒸留して造られたアラックというスピリッツがある。非常に強烈な癖があり、テキーラ以上の味だ。アルコール度数は40度。しかし銘柄がいくつかあり、飲みやすいものもあるらしい。このアラックは、紀元前800年頃には既に飲まれていたといわれるエジプト発祥の世界最古の蒸留酒。アラブ圏では禁断の酒として親しまれ、日本では江戸時代に南蛮渡来の薬用酒 として珍重された幻の銘酒だ。
元々はナツメヤシ(デーツ)から作られていたのだが、蒸留技術が広まる過程で米・ココヤシ・砂糖きび・キャッサバなど様々な原料から作られるようになった。アラックはアラビア語で、蒸留の際に出る水滴を模した“汗:araq”を意味する。バリの人々は宗教上の理由から酒はあまり飲まないのだが、バーテンダーが勧めてくれたアラックの飲み方は、ストレートにライムが絞ってあった。これがぼくのバリスタイルに。
隣の女性が飲んでいたピルスナータイプのビール。これが有名なビンタンビールだ。
1929年からオランダのハイネケン社がインドネシアでビールの販売を始めたのだが、その後会社が国営化になり倒産。そして、 P.T. Multi Bintangが出来た。このため、ビンタンビールは、ハイネケンビールのデザインに似ている。ビンタンとはインドネシア語で「星」という意味であり、ビールのラベルに赤い一つ星があしらわれている。味わいは苦味の少ないスッキリとした喉越しで、ほのかな甘味も感じられる。地元のスーパーで買えばビンタンビール(350ml)が100円程度、アラックは1200円程度。なお、大き目のスーパーでは、フランスのワインやスコッチなども売っているが、日本で買うのと同じぐらいの金額でバリにしてはかなり高い。日本のイイチコ(焼酎)も見かけたが、日本円で3000円ぐらい。(・・・・・・だから、バリで飲むジンやウォッカ、ラムベースのカクテルが高いんだ!)
 地ワインとしてはHATTEN(ハッテンワイン)があり、島北部でとれる葡萄で作られている。種類も豊富で各スーパーでも購入可能。値段は5万RP(600円)位でハッテンワイン専門のSHOPもある。

このジャズバーには、後、何回来ることになるのだろう。ぼくの一つのバリスタイルは、とにかくバリを理解するため、バリニーズと会話すること。それから、地球のために、無駄なエアコンの駆動は排除すること。こんな旅のスタイルが、バリに到着した初日にぼくの中で出来上がっていた。