tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

忘れ雪(花粉症のせい)

2007-03-31 20:44:35 | プチ放浪 山道編
ぼくは、理津子をピックアップするため、首都高を経由して浦和に向かった。草津国際スキー場へは、事前にメールでヒロコさんからの助言を得て、今回は練馬を経由せずに浦和ICから東北道を北進して館林ICへ向かうことにした。館林から国道354を経由して国道50号を西に向かい、北関東自動車道伊勢崎ICから高崎JCT・藤岡JCTを経由して関越自動車道渋川伊香保IC へ。渋川伊香保ICからは国道145を経て国道292で草津国際スキー場へというルートだ。館林ICから国道を50kmほど走るのだが、時間帯を選べば意外と国道はスムーズで、関越の花園・所沢付近の渋滞に巻き込まれないといった利点があるとのことだった。とりあえず浦和ICを22時到着を目指して、ぼくは京葉道路を走っていった。浦和に着いた時は、ちょうど真南付近で空の中ほどからやや上方にかけて、春の大三角形が南中していた。一番西側(右側)に見えるのはしし座のデネボラ、一番低い位置(下側)に見えるのはおとめ座のスピカ、一番東側(左側)に見えるのはうしかい座のアークトゥルスである。この星空の向こうに雪山が待っている。
浦和で理津子の自宅に寄り、彼女ををピックアップしてぼくは予定通り東北道へ入った。道すがら、シガーソケットにつないだDC/ACインバーターから電源を取ったノート型パソコンで、ぼくらのプロモーションビデオや、渡辺一樹のスキー講座のDVDを再生して見せた。
「プロのスキーヤーみたい。カッコイイですね」
PC画面を流れるぼくらのプロモーションビデオの映像を食い入るように見ていた理津子が感想を漏らす。
「だろ!」
この約3分のビデオには、ビデオカメラの撮影を一部担当したこともあって、ぼくが滑っているシーンは1カットしかない。それも、縦に3列の6人でフォーメーションを組んでウエーデルンをしているシーンなので、ぼくは前列の真ん中を滑ってはいるものの小さくしか写っていない。しかし、そのシーンは、みんなの息がぴったり合っていて自慢のシーンの一つでもあった。そのシーンに差し掛かると、理津子はぼくの姿を画面に見つけたようだ。昨年の12月にいっしょに滑って、東京ウエーデルンがどんなすべりなのかを彼女はわかっているので画面に小さくしか写って無くてもぼくのすべりは識別できるようだ。彼女には、昨年の年末から2ch掲示板のみんなと映画のプロモーションビデオを撮ることになった経緯を説明してある。そして、芸能人で言えば理津子は菅野美穂に似ていると2ch掲示板に書きこみを入れたことから、一時、掲示板で彼女のことが相当話題になったことや、発表会に出席するメンバー達のたっての希望で彼女の参加をお願いしたことなどおおよその経緯を彼女は知っている。彼女自身、2chのスレッドを時々覗きに行っているようで、ビデオのメンバー達のことはだいたいわかっているようだった。できるだけゴーグルで顔を隠して個人が特定できないように撮っているものの、ビデオに写っている背の高い若者がヒロコさんで、恰幅の良いおじさんがイズミさんで、ガイジンの青年がルソーくんであることなどを彼らとまだ会ったことが無いにもかかわらずメンバーを識別できているようであった。

忘れ雪(涙のわけは)

2007-03-30 20:20:42 | プチ放浪 山道編
3月16日の金曜日。いよいよ、発表会の前日がやってきた。インターネットで調べると、3日前に冬型の気圧配置ながら気圧傾度が緩んで、上空に寒気が入ったため日本海側では結構雪が降った。3月に入ってようやく本格的な寒気の張り出しで大雪になった。長野の石打丸山は一晩で100cmも積もり、数日前まで土が見え50cmしかなかった積雪が一気に150cmになったらしい。天候に左右される商売に携わる人たちには何とも皮肉で恨めしい雪なのだろう。これが「3月の忘れ雪」ってヤツだ。 大抵、毎年3月の忘れた頃に雪が降る。名残の雪、雪の名残、雪涅槃、涅槃雪、雪の終わり、終雪、忘れ雪。春に降る雪、降り終いの雪の呼び方はいろいろある。都内でも明け方から所々でぱらついていた雨が朝7時にミゾレに変わり、その後は一瞬だけ風花のような雪に変わった。都内の朝7時の気温は5度と高かったが、湿度が低く融けずに地上まで到達したのだった。平年より73日、昨年より95日遅い初雪だ。明治9年の観測開始以来、最も遅い記録らしい。今年は初雪で終雪となるだろう。この時期の天気は気圧配置の周期的な変化から、4日周期で天気が移り変わっていく。移動性高気圧が通過すると気温が昇り、次の日には低気圧が通り雨となり、3日目は天気があがり、強い西風が吹き気温が下がり、4日目には移動性高気圧が近づき風が弱くなりしだいに気温が上がる。関東は春がそこまで来ている。今年は桜の開花も早いだろう。
会社で仕事を終えて大急ぎで電車に乗って自宅に戻ったぼくは、前の晩にパッキングしておいたダッフルバッグ、ストックを自宅の駐車場に止めたステップワゴンのカーゴルームに詰め込み、FALKENのマイティネットチェーンを取り出しやすい場所に移動した。最後にスキー板を車に積み込むと、運転席に乗り込みシートベルトを着用した。忘れずに、発表会用に準備したアウトドア用のテーブルとイス、CDラジカセが積まれていることを確認する。エンジンを始動、ヘッドランプを点灯。おもむろにMP3プレーヤーを取り出し、カーステレオにトランスミットする。さあ、出発だ。
流れ出すVo Vo Tauのイントロと同時に、アクセルを踏み込んだ。スキーに出かける時は、この瞬間のわくわくする感じがたまらない。MP3プレーヤーには2006年に解散してしまったVo Vo Tauのbestアルバム、むちゃくちゃ古いがふと聞きたくなってしまったレベッカのリミックスアルバム Complete Edition、そしてユーミンのひこうき雲などが入っている。最初に流れたVo Vo Tauは、1998年9月にRyo-thing(G)、Pei(B)、Sugar(Dr)がLAの音楽学校で出会い、黒人ラッパーと共に結成されたHIPHOP系のR&Bバンドだ。LAのクラブで活動していた彼らは帰国して2003年10月に「Vo Vo Tau 01hz」でアルバムデビューする。1stシングル「裸~Nude~」の大ヒットにより脚光を浴び、日本では稀なR&Bバンドとして音楽シーンに新たなジャンルを示した。生バンドでの温かみのある楽器の音色と打ち込みを融合させたループ系のトラックに、紅一点のRingがソウルフルに歌い上げるメロディーがスキー場に向かう静かな興奮をさらに盛り上げてくれる。
明日の草津に集まるメンバーは、ワタナベくんを除いて先月のOFF会に集まったメンバー6名に、親戚の理津子と2ch掲示板で何度かレスをくれたマリコさんの計8名だ。ワタナベくんは、義理があって同日に苗場で開催される全日本スキー技術選手権に行くとのことだった。また、今回初めて参加するマリコさんは、ヒロコさんの車にJR長野原草津口駅でピックアップしてもらって参加する。親戚の理津子は、ぼくのステップワゴンに便乗して前の晩からスキー場に入る。ぼくらは、草津国際スキー場そばの音楽の森ヘリポートで朝10時に待ち合わせをした。草津スキー場までは、都内から上信越道碓氷軽井沢インターを経由して関越道が渋滞していなければ3時間足らず道のりだ。だが、ぼくにとっても、理津子にとってもへりスキーは初めての体験であり、また、草津までの道路の込み具合や路面状況がわからなかったので、前の晩からでかけることにした。スキー場の駐車場で仮眠して、翌朝、みんなとヘリポートで合流することになる。

忘れ雪(泣いてねーよ)

2007-03-29 20:16:12 | プチ放浪 山道編
シナリオ発表会の準備については、ぼくらはメールでやり取りして概略を決めていた。スポンサーからの資金については、集めてみなければわからないので、発表会の費用はできるだけ負担が少なくなるように手作りで行くことになった。発表会場はゲレンデのすみっことし、各自が自前のアウトドア用のテーブルとイスを持ち込んで会場を設営する。各テーブルにノート型パソコンを置き、それぞれのパソコンをシンクロさせてロングバージョンのビデオを表示させる。3月のことだから、おそらく雪はもう降るまい。もし、雨が降ったら、当日は傘などの雨具が必要になるかもしれない。発表会の司会はルソーくんが担当だ。英語でのDJ風の司会で場を盛り上げてくれるはずだ。彼のDJのかっこよさは、プロモーションビデオのナレーターで実証済みだ。司会のセリフを前もって決めておけば、あとは彼がアドリブで何とかしてくれるだろう。ルソーくん自身も結構その気になっており、まんざらではない様子だった。発表会用のオーディオ装置は、FMマイクとCDラジカセを使う。CDラジカセを3台ぐらい配置して、マイクの音を拾って拡声させる。スキー場はパブリックスペースだ。だから、他のスキーヤーにできるだけ迷惑をかけないように音量は抑える方針で行くことにした。
事前にスキー場に問い合わせたら、草津国際スキー場は3月10日でナイターリフトの営業は終了予定とのこと。だから、3月17日に開催する発表会はナイターの時間をあてる事はできない。開催時間を15:00~17:00として、夕刻迫る発表会の照明はアウトドア用のLEDランプを補助的に利用することにした。その時間にはスキー場のリフトに設置された照明も利用できるのだが、できるだけ華やかにするためには、多数のLEDランプで会場をライトアップすることが必要となる。このため、ネットで調べて安いアウトドア用のLEDのテーブルランタンをいくつか準備することにした。このランプの調達はイズミさんが担当してくれることになった。
また発表会の際に、ぼくらはショーとしてフォーメーションスキーのデモンストレーションをすることにした。パソコンの小さな画面でも先月撮ったフォーメーションスキーを見ることができるのだが、実際にスキーをして見せた方がより盛り上がるに決まっている。ぼくらメンバーは、ある程度自慢できるスキーの腕前を持っていて、これほどの技術を持ったスキーヤーがそろうのは滅多にあることではない。なによりも、発表会の当日はスキー場にいるのだから、スキーを滑らない手は無い。
心配なのはパソコンのバッテリーだった。特ににぼくが持っているIBMのA4ノートは数世代前のものでバッテリーもヘタリつつある。雪山など気温の低い所に持っていけば、30分も持たずにバッテリーが上がってしまうかもしれない。そこで、バッテリーがあがってパソコンでの表示ができなくなり次第、用意しておいた多数のデータCDを配布することにした。続きは、自宅に持ち帰って見てもらうことになる。こうして、ぼくらはお互いに発表会を盛り上げるためのアイデアを出し合って準備を進めていった。
ぼくらは、主にメールで連絡を取り合っていたが、メンバー達は以前のようにときどき2chのスレッドにも書き込んでいるようだった。定期的に2chをのぞきに行くと、スレッドが思いもかけずに伸びていることがあり、そんな時はメンバーのだれかの書き込みにいろんな人からの反応があった時だったりする。お互いにメールでの連絡がしっかりと取れているので2ch掲示板のスレッドをのぞく意味はあまりないのだが、ある意味でぼくらがやろうとしていることの良い宣伝になっているようだった。だから、一時のように毎日スレッドを巡回することはしなくなったが、たまに訪れた時にタイミングよく書き込みを見つければ、ぼくもそれにレスをできるだけ書くようにしていた。

忘れ雪(泣くなよ)

2007-03-29 00:30:08 | プチ放浪 山道編

3月17日 草津国際スキー場

志賀高原のOFF会から戻ってからは、みんなで3月17日(土)に開催を決めたシナリオ発表会の準備で結構急がしい日々を送っていた。OFF会で取ったスキーのビデオは合計2時間以上の長さがあったが、これを編集して3分程度、数10メガバイトのファイルにまとめて映画のプロモーションビデオを作った。この編集作業を担当したのはコスギくんだ。先月のOFF会の夜にタナカさんのデジタルビデオカメラのSDカードをアダプターを介して持参したノート型パソコンに接続し、そのMPEG2データをハードディスクにコピーした。そのデータを自宅に持ち帰り、AdobeのPremiere Elementsを使って編集したとのこと。OFF会の夜の宴会中に簡単な編集作業の様子を見せてもらったが、いくつかの動画(クリップ)をドラッグ&ドロップで配置するだけで面白いように映像の編集ができていた。タイトルを入れたり、特殊なエフェクトをかけられたりでプロが作るような映像の作成も可能とのことだ。1週間も待たずに、いくつかのバージョンの映像を仕上げて彼のホームページにアップロードしてくれた。ぼくらは、それぞれの映像を自宅のPCでダウンロードすることで、自分の好きな時間にその映像を鑑賞することができた。ぼくらはインターネットの利便性を充分に利用した。そのようにして、最終的に決まったのが各シーンをつなぎ合わせた約3分間の映像だった。当初の予定では、「私をスキーに連れてって」を真似て松任谷由実の初期のナンバーを映像にかぶせるつもりであったが、音楽著作権の問題などで見合わせた。そのかわり、ナレーションを入れることにした。このナレーションを担当したのがルソーくんだ。完成したプロモーションビデオは、15秒から長くても30秒程度のシーンが次々と出てくる構成で、出演したぼくらが驚くほどの躍動感にあふれた映像になっていた。それに加えて、ややたどたどしくも、ルソーくんのDJ風の英語のナレーションがスピード感があふれる映像を盛り上げている。なかなかの力作である。最初は、動画のデータは大きいので、DVDに焼き付けてと考えていたが、CD-Rでも十分なサイズに収まっていた。
そのほか、スキー場の様子や滑っているところなどを撮ったデジカメの写真の中からベストショットを20枚選び、映画の原作のテキストファイルと合わせて先のプロモーションビデオとともにCD-Rに焼きこむこととした。もちろん、スポンサーの募集要項も一緒に焼きこむ。このCDを作る作業を分担して、各個人が自宅で行っていた。データを記録したCD-Rの印刷面に、インクジェットのカラープリンタでタイトルを印刷して作業は終わり。この印刷のデザインはヒロコさんが担当した。夜のスキー場を背景にしたなかなか斬新なデザインだ。できあがったCD-Rを、めいめいが決めたスポンサーになってくれそうな企業や団体へ郵送したのだった。ぼくが送った会社は、サントリーと上毛新聞社、NHK、スキーメーカーのサロモンなどだ。いずれの企業・団体も、ネットで所在地を調べてそこに郵送した。できるだけたくさんの会社に送れば、そのうちどっかの会社や団体が興味を持ってくれて、スポンサーとして支援してくれることになるかもしれない。他のメンバー達も同様、手当たり次第、いろいろな企業へCD-Rを送って、シナリオの宣伝とスポンサー募集をしてくれていた。ぼくらは、毎日のようにメールを交換し合って、その日の活動を報告しあっていた。
プロモーションビデオの発送を開始してから1週間が過ぎると、映画の原作をテキストでアップロードしていたぼくのホームページのアクセス数がいつもの倍になっていった。あっちこっちで宣伝した効果が表れているのだろう。ぼくはこのアクセス数の増加に、ひょっとしたらとんとん拍子に映画化がうまく行くかもしれないと、あらぬ期待を抱いた。いったい、シナリオ発表会には何人の人が集まるのだろう。大盛況のイベントとなるかもしれないと期待がいやがおうでも高まっていった。


コーヒー(3)

2007-03-27 20:16:19 | old good things

珈琲1杯の値段は昭和35年に60円、昭和45年に120円、現在300円前後であろう。昭和30年の頃の物価は、ビール1本=125円、もりそば=25~30円、天丼=150円、総合雑誌=120円 であるから、コーヒーの相対価格は現在とさほど変わらない。日本では、お茶をする際の選択肢として、日本茶や紅茶、ウーロン茶などのバリエーションがあるから、コーヒーはアメリカ、西ドイツ、フランスに次いでよく飲まれているものの、1人当たりにすると西ドイツや、フランスの1/3くらいらしい。
野生のコーヒーの原木は、エチオピアをはじめ、アフリカ大陸のあちこちで見つかっている。エチオピアのアビシニアン高原にあったコーヒーの原木は、1470年に南アラビアのイエメンに移植された。そして、15~16世紀にはイスラム教と密接な関係を持ってアラビアのイスラム教圏に広まった。現在コーヒーは、赤道を中心としたコーヒーベルトと呼ばれる熱帯・亜熱帯地方の様々な国、約60ヶ国で栽培されている。
コーヒーの発見にはたくさんの伝説があるが、その内、メジャーなものは「僧侶シェーク・オマール」と「ヤギ飼いカルディ」の二つである。
「僧侶シェーク・オマール」の話は、イスラム教国での発見説で、13世紀頃のイエメン山中で、回教徒アブダル・カディの『コーヒー由来書』(1587年)に記されている。アラビアのモカ(現在のイエメン)に住む人気の高い祈祷師であるオマールが、ある日、モカ王の娘の病気を祈祷で癒した。そのとき王女に道ならぬ恋をしてしまった。それが王に発覚し、オマールはオーサバの山中へ追放された。山中をさまよい歩いたオマールは、一羽の鳥が赤い木の実を啄んでは陽気にさえずっているのを見つけた。空腹だった彼は、その木の実を持ち帰り、試しに煮出して飲んでみると疲れが嘘のように消え去って元気になった。時を同じくして、疫病が流行り苦しんでいたモカの人々に、オマールはその木の実を飲ませて沢山の病人を救った。その功績により、許されて再びモカへ戻り聖者として人々に崇められたらしい。その木の実は病気を治す薬としてそれ以降使われるようになったと言う。
「ヤギ飼いカルディ」の話は、レバノンの言語学者ファウスト・ナイロニの『眠りを知らない修道院』(1671年)に記されているものである。ヤギ飼いのカルディは、ある日放し飼いにしていたヤギたちが、昼夜の別なく非常に興奮しているのを発見した。調べてみると、どうやら丘の中腹に自生している灌木の赤い実を食べたもようだ。近くの修道院にこのことを告げると、修道僧が試しに食べてみたらしい。そうすると、気分はみるみる爽快になり、体中に活力がみなぎってきた。修道僧は、この実を持ち帰り他の修道僧たちにも勧めた。それからは、徹夜の宗教行事の時に、睡魔に苦しむ僧はいなくなったとのこと。

ワインは人を”酩酊”させるのに対し、コーヒーには”覚醒”の効果がある。カフェインは、摂取後、血流にのり約30分で脳に到達する。言うまでも無く、カフェインは計算力や記憶力の向上、疲労の抑制、運動能力の向上に役立つ上、カフェインは交感神経を刺激する作用を持つ。先の「コーヒー哲学序説」の中で、宗教は官能と理性を麻痺させる点で酒に似ており、哲学は官能を鋭敏にし洞察力と認識を透明にする点でコーヒーに似ているとある。古来、酒を重要視して人々を完全に支配下おいた宗教であるが、その昔に比べれば宗教に依存しない人々が増えた。宗教は、それを信じることによってつらい現実や死の不安に対処するかわりに、その問題から逃避し死を虚無的に捉えることによって不安を克服するすべを教える。人類の歴史においては、確かに逃避が必要な悲惨な時期もあった。しかし、先進国を中心として逃避するしか手が無かったつらい問題から徐々に解放されていくと、更なる改善を求めて現実に立ち向かうことが必然だ。宗教よりも哲学が必要になる。宗教から離脱した人々は、コーヒーを飲んで酔わなくなり、惰眠もむさぼらなくなった。芸術も含めて近代文明の急激な発展は、コーヒーが人々に与えた思考のひらめきによるところがあるのかもしれない。