京都の鴨川に架かる四条大橋の西端にひときわ威容を誇る優美な洋館建物がある。北京料理店である「東華菜館」の建物である。この四条大橋の東端には洋館建物の「レストラン菊水」や京都の「南座(歌舞伎座)」があり、西端には京都の「川床」がずらりと並ぶ。ここの界隈や建物は京都の人の自慢の風景の一つ。
「東華菜館」で何度か食事をしたことがあった。特に夏場は屋上のビャガーデンで川風を浴びながら京都の街並みや鴨川や北山連山、八坂神社や東山連山などが臨め、冷たいビールをぐっと飲むのはたまらない。東洋で最も古いエレベ―ターはクラッシックな年代ものでエレベーターボーイが常駐する。40年以上もこの「東華菜館」を見続けてきたのだが、ヴォーリズという人が建物を設計したものだということを知ったのは、つい最近のことだった。
今年、2020年の「K・PRESS」の5月号に"京の街にたたずむヴォーリズ建築―京都で出会えるヴォーリズ建築"という特集記事が掲載されていた。「K・PRESS」は京阪電鉄が毎月発行しているタブロイド雑誌。京阪電車の各駅に置かれている無料のタブロイド雑誌だ。その特集記事には、ヴ―リズの簡単な生涯や京都のヴォーリズ建築がいくつか紹介されていた。
インターネットで日本でのヴォーリス建築を調べてみると、驚くべきことがわかった。日本の大学のキャンパスの中でも美しいあの関西学院大学の建物のほとんどはヴォーリズ建築だった。また、京都の同志社大学の建物もヴォーリズが設計したものが数棟ある。京都や大阪の大丸百貨店の建物もヴォーリズ建築。ここ京都市内にもたくさんのヴォーリズ建築があることが。なんと日本にはヴォーリズが設立したヴォーリズ設計事務所が設計した建物が1500あまりもあるという。
ヴォーリズの立像が滋賀県近江八幡市の八幡堀の近くにある。ここ近江八幡は時代劇の撮影がよくおこなわれるところで有名だ。昔ながらの歴史的町並もよく残るが、もう一つの町の顔があった。それは近江兄弟社の町でもあった。メンタムの医薬品製造で有名な会社だが、その会社を設立したのはヴォーリズだった。そして、この町にはヴォーリズが設計した建物が30あまり現存している町でもあった。
ウイリアム・メレル・ヴォーリズ。彼は1880年にアメリカ・カンザス州で生まれた。音楽が大好きな少年となりピアノの演奏などもするようになったが、将来は建築家になることを考え始めてもいた。マサチューセッツ工科大学の建築科(私立)に入学が決定していたが学費が高額なため断念、コロラド大学(州立)理工系課程に入学。YMCA活動の影響もあり、その後、同大学の哲学科に編入。キリスト教の海外での伝道にも関心を持ち始める。1904年に大学を卒業する。卒業後、キリスト教の精神に基づいて青少年の生活指導などを行う公共団体YMCAに勤務。その紹介で24歳の時に日本の滋賀県の高校に赴任することとなる。
1905年、汽船チャイナ号に乗船し20日間あまりの船旅で日本に到着。滋賀県立商業高校(現・滋賀県立八幡商業高校)の英語教師として赴任する。当時、滋賀県立商業高校は近江商人の士官学校とも呼ばれ、多くの地域経済人らを輩出していた。ここでヴォーリズは、放課後に自宅アパートで聖書を使って英語を教えるバイブルクラスを開講し始めた。そして、多くの生徒に慕われる一方で、仏教徒の地盤の強いここ近江八幡の地域の反発を買い、その職を解かれる(解雇)されることとなっていく。
1907年、伝道活動の拠点とするべく八幡基督教青年会館(旧YMCA会館)を自ら設計、建築を私財と支援を受けて行い完成させる(ヴォーリズ建築の第一号建築)も、その1か月後に高校を解任されることとなった。そして一旦、アメリカに戻ることとなる。1910年にアメリカ人建築家の一人と共に再び来日し、八幡商業高校の卒業生らとともにヴォーリズ建築事務所を近江八幡で設立した。その後、京都のYMCA会館などを設計・施行し ここに建築事務所の支社を置く。
建築設計事務所は発展し、西洋建築に必要な建築金物の輸入を行うために近江セールズ株式会社を設立。この会社はメンソレタームの輸入も始めた。そして会社名を近江兄弟社と改名。メンタムの製造販売を行う製薬会社として発展をすることとなった。彼は「青い目の近江商人」とも呼ばれ始める。1918年、結核療養所(サナトリアム)[現・ヴォーリズ記念病院]である近江療養院もスタートさせる。
1919年、彼が38歳の時、日本人女性で子爵令嬢の一柳満喜子(ひとつやなぎまきこ)と結婚。結婚式は彼が設計した神奈川県の明治学院大学の礼拝堂で挙げた。妻の満喜子は専門である幼児教育を活かし、近江八幡の自宅で子供たちを集めて保育を開始する。これが後の近江兄弟社学園(現在の校名はヴォーリズ学園)へと発展していく。
1937年にf初訪日したヘレン・ケラーがここ近江八幡の近江兄弟社などを訪問している。
第二次世界大戦が勃発し、アメリカと日本が敵国関係となる時局が近づく中の1941年(昭和16年)、彼はアメリカ国籍を日本国籍に変え、一柳米来留(ひとつやなぎめれる)と戸籍の名前を改名している。これは「米(米国)より来たりて留まる」という彼の意思と、自分のミドル・ネームを掛け合わせた彼独特のユーモアでもあった。神社で国籍変更の誓いなどもたてている。
戦争の激化とともに、ヴォーリズの家族は軽井沢に疎開する。(※このことが縁で、現在、軽井沢にも彼が設計した建物がいくつか残っている。) 終戦の直後、連合国司令官ダグラス・マッカーサーと近衛文麿との仲介工作に尽力したことから、「天皇を守ったアメリカ人」とも称される。終戦後、家族と共に近江八幡に戻り、小・中・高校を次々と建設し、1951年に幼稚園から高等学校までを統合した総合学園「学校法人 近江兄弟社学園」(現・ヴォーリズ学園)が誕生する。この学園の運営は妻の満喜子が主に担当し、ヴォーリズは建築設計や近江兄弟社の運営を主に行った。
1957年、仕事先の軽井沢でクモ膜下出血のため倒れ、近江八幡の自宅に帰り療養生活に入る。1958年、近江八幡市の名誉市民第1号に選ばれる。1964年、7年間の病床の間、一言もしゃべることなく83歳で他界した。病床のとこにある時、昭和天皇の弟・三笠宮殿下が見舞いに来てもいる。近江八幡市民葬および近江兄弟社の合同葬儀となった。(※建築設計事務所は1961年に大阪にも事務所を開設。現在もこの設計事務所は営業をしている。)
ヴォーリズの建築に関する本は、『ヴォーリズの西洋館―日本近代住宅の先駆』(山形政昭著)、『ヴォーリズ建築の100年』(山形政昭著)などが出版されているようだ。また、妻の満喜子とのことに関しては、『負けんとき―ヴォーリス満喜子種まく日々』(玉岡かおる著)、『ヴォーリズと一柳満喜子―愛が架ける橋』、『目標を高く 希望は大きく』などがあるようだ。
この5月下旬以降、京都市や滋賀県近江八幡市などにあるヴォーリズの建築をたくさん巡り続けて2カ月間あまりになる。ヴォーリスは、「私はhouse(ハウス)を設計し造るのではなく、home(ホーム)を造りたいのです」という言葉を残している。ヴォーリズの建物を見る時、「ああ、この家に住んでみたいな」とか、「ああ、この建物で仕事をしてみたいなあ」とか、「ああ、この建物がある学校の学生になって学んだり、先生になって仕事をしてみたいなあ」という想いに駆られてしまう建築群だ。建物のもつ暖かさ、建物のもつ‥‥‥。なんだろう、ちょっと言葉にあらわせないが、かっこよさ、おしゃれた、アカデミックさ‥‥とでも言うのだろうか。そんなところに惹かれる。
◆私は1960年代末に高校生となった。福井県の漁村の村の出身なので、誰も大学に行った人はいなかった。高校には進学させてもらえることとなった。中学校の同級生130人あまりのうち、約40人あまりが全日制の高校に進学。約20人は繊維工場などに就職し夜間の定時制高校に。約70人は就職をした。全日制の40人も2〜3人以外は、将来に大学に行くことなど考えもできなかったので普通科高校ではなく工業高校や商業高校に進学した。私は武生工業高校の建築科に進学できた。3年間の下宿生活。
建築科に在籍中、近代建築の世界的3大巨匠のことを書籍で知った。①まず、フランク・ロイド・ライト。(米国人) ライト(1867―1959年)の建築は日本では帝国ホテルや自由の森学園の明日館。なかなか見事な作品だ。②次に、ル・コルビジュエ(スイス人)。コルビジュエ(1887―1965年)の作品は、東京国立西洋美術館。上野公園内にある。③そして、ミース・ファン・デル・ローエ(ドイツ人)。彼(1886―1969年)の作品は日本にはない。
ヴォーリズは彼ら3人と同時代の建築家だ。しかし、彼ら3人が設計した建物群とはまったく違う趣きがある。やはり3人が造ったものは「建物・hous」なのだ。当時としては前衛的な建物群と言ってもいい。ライトの帝国ホテルや自由の森学園の明日館なとは、それなりに魅力がある。しかし、そこにいて仕事をしたいとか泊まりたいというような暖かさはそれほどない。後の2人の作品は無機質な感があって、そこに行きたいともあまり思えない。やはり、ヴォーリズ建築の神髄は「home性」があることだ。それに惹きつけられる。
◆高校三年の卒業間近な時期、「卒業制作」を行う必要があった。高校3年のある日、下宿の部屋で目覚めたら、枕元に二冊の書籍が置かれていた。ライトの建築に関する書籍と京都の桂離宮に関する書籍だった。後で、土木科の山田教員が寝ている時に置いていってくれたものだと分かった。卒業制作の作品は、この桂離宮の建物に似た、別荘建築を制作した。構造計算などもしながら、建築設計図を作成し、完成見取り図なども彩色し制作した。
◆同級生のほとんどは、建築・建設会社に就職した。当時、日本はまだ建設・建築ブームの高度経済成長期の中にあった。大林組・鹿島建設・竹中工務店・飛島(とびしま)組・熊谷組・前田建設など、大手ゼネコンに就職した同級生はそのうちの半数ほどにのぼるという時代だった。何の因果か、私だけは卒業後に学費も生活費も全て自活での大学進学を目指すこととなった。
◆一度は目指し始めた建築家の道だったが、ヴォーリズの建築群を見ると、やはりこんな建築をとの想いもどこかに残っているのか‥‥。
※ブログ「ヴォーリズ建築を巡る」はシリーズとして何回か、断続的になるかとは思いますが書いていきます。