彦四郎の中国生活

中国滞在記

ヴォーリズ建築を巡る❸―近江八幡市内のヴォーリズ建築―小さな城下町に25の建築が今もある

2020-07-26 08:13:01 | 滞在記

 旧豊郷小学校校舎群を後にして、6月14日(日)の午後3時近くに隣町の近江八幡市の市内に入った。この町は八幡山城の城下町として、城下の町まで琵琶湖水運とつながる堀が巡らされて、商業が発達した町でもあった。この季節、八幡堀にはアジサイや菖蒲(ショウブ)が美しい。

 この近江八幡には、ヴォーリスの旧・自宅があり、ヴォーリスが妻とともに創立したヴォーリズ学園(旧・近江兄弟社学園)があり、ヴォーリズが創立したヴォーリズ記念病院(旧・  )や近江兄弟社などがある。そして、城下町の町並みと通りにはヴォーリズが設計した建物が25か所、今も残っている。今までに近江八幡には何十回と来ていたが、この日はこの町で初めてヴォーリズ建築を何箇所か巡ってみることとなった。

 近江八幡堀の近くに、少女から花を渡されるヴォーリスの立像が建てられている。足元には生まれ故郷のアメリカ・カンザス州のレリーフも。

 この日まず最初に向かったのはヴォーリズ記念病院。この病院の前身は1918年に結核療養所(サナトリアム)として造られた近江療養院。アメリカ人ミス・ツッカーの寄付が基金となり、ヴォーリズが設計・施行して創立した病院である。創立当時のヴォーリズ設計の建物が今も3棟残っていて、改修され、今も使用されている。そのうちの一つが病院の山すそにある礼拝堂。こじんまりとして敬虔な感じのなかなかいい建物だった。次に希望館の建物。この建物にはヴォーリズの住宅建築に特徴的な煙突(※ヴォーリズ煙突ともよばれる)があった。

 そしてツッカーハウスと呼ばれる建物。多大な寄付をしてくれた人の名にちなむ。玄関入り口にはのレリーフがあった。記念病院全体は背後の山の緑と調和した美しい建物が多かった。

 次に向かったのは町の中心部に近いところにあるヴォーリズ学園。旧称は近江兄弟社学園。幼稚園・小学校・中学校・高等学校の総合学園。この学校の敷地内には2つのヴォーリス設計の建物がある。

 一つは教育会館、そしてハイド館。(ともに1931年に建設) ハイド館の前の中庭には大きなメタセコイヤの木が一本、そのそばに創立者のヴォーリスの妻・一柳満喜子の胸像が置かれていた。

 八幡堀に近い仲屋町通りに旧八幡郵便局の建物がある。ヴォーリスが設計した郵便局である。このあたりの町並みも美しい。近くに滋賀中央信用金庫八幡支店の新しい建物かあったが、旧八幡郵便局の建物をイメージして造られていた。

 町並みの通りから八幡山が見える。山頂付近には八幡山城の本丸の石垣跡が臨める。しばらくすると、ヴォーリズが最初に設計・施行したヴォーリズ建築第一号の建物がある。1907年に造られた八幡基督教青年会館(旧近江八幡YMCA)。ヴォーリズが私財で初めて創った建物だ。

 その隣には牧師館の教会建物が。ここは旧近江兄弟社地塩寮(社員寮)だったところだ。城下町の辻ゝに伝統的な家ゝが続く。

 この日は、近江八幡町の25のヴォーリズ建築のうち、8つだけを見て京都の自宅に戻ることにした。近江八幡にはヴォーリズ設計の個人の住宅も多く、またかってヴォーリズが教鞭をとった八幡商業高校にもヴォーリズ建築があるようだ。夏至の6月22日まであと1週間のこの日、陽がまだ落ちない午後7時半頃に京都の自宅に戻れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ヴォーリズ建築を巡る❷滋賀県・旧豊郷小学校校舎群—学びの場にふさわしい白亜のシンプルな建物群

2020-07-25 18:53:02 | 滞在記

 6月13日(土)に福井県の故郷に帰省し翌日14日(日)、京都の自宅に戻る途中に、琵琶湖の東岸の彦根城に久しぶりに立ち寄ってみた。彦根藩35万石の堂々たる、見事な近世城郭に惚れぼれとする。この城郭の二の丸跡にヴォーリス建築があると知り行ってみることにした。

 小さな住宅建物で、近くの滋賀大学経済学部か彦根東高校かの外国人教員用の宿舎だった建物のようだ。今も誰かが住んでいるようなようすがうかがえた。シンプルなあまり飾り気のないいい建物だった。

 ここからしばらく広大な二の丸跡地を歩いて堀を渡ると滋賀大学経済学部の校舎群があった。和洋折衷の美しい建物が正門近くにある。ここからは、彦根城の本丸曲輪にある白い3層建ての三重櫓が見える。

 彦根市の南の方にある滋賀県豊郷町。ここの旧豊郷小学校校舎群に初めて行くこととなった。この校舎群は2000年代に入って、校舎群の取り壊しを巡って大きな騒動になったことがあったことを記憶していたが、特に有名になったのは昨年の7月に京都アニメーションの放火殺人事件が起きてからだ。

 京都アニメーション(京アニ)が製作したアニメーション「けいおん」の舞台としてこの校舎がモデルとなったからだったった。特に事件の後、京アニの作品のファンがここを多く訪れるようになった。「京アニの聖地」とも呼ばれ全国から人が訪れるようになっている。そして、この校舎群がヴォーリズが設計した建物群だと私が知ったのはつい最近の6月上旬のことだった。ぜひとも訪れたくなったが福井県への帰省のこの日まで待った。 

 校舎群に到着した。広々とした正門からの眺め。白亜の殿堂という感じの校舎群だった。まるでどこかの国立大学の伝統的な歴史ある建物のようだった。そういえば、東京工業大学や東京の基督教大学のメイン校舎と全面の芝生に似ているようにも思った。

 数あるヴォーリズ建築の中でも、小学校の建物として当時、「白亜の教育殿堂」「東洋一の小学校」といわれるほど立派で、平成25年には国の登録有形文化財にも登録されている。ここ豊郷町は日本の大商社「丸紅」発祥の地であり、近江八幡市とも隣接し、近江商人が多く輩出された地域でもあった。当時の丸紅の専務だった古川鉄治郎氏の建築費寄贈で当時のお金で36万5000円で1937年に建設された。当時の町の年間予算の10倍の費用だったという。今は町立図書館や子育て支援センターなどとして利用されている。校舎内の見学は自由となっている。

 校舎内に入ると1階の長い長い板張りの廊下。趣のある低い段差の優しい階段。手すりにはウサギとカメのブロンズ像の装飾。最初は一緒に並んでいるウサギとカメだが、階段をゆっくと登って行くとだんだんカメが先を進んでいる様子が表現されている。校舎内のいたるところに見られる装飾は当時から子供たちを見守ってきたのだろう。

 階段を登って2階に、ここも長い長い板張りの廊下。教室を覗くと懐かしい木の机といす、そして教卓や黒板。2階校舎の端には小さな講堂のような音楽教室があった。校舎二階の裏手を見ると、新しく造られて10年以上は経過している3階建ての豊郷小学校が見えた。この新しい校舎はけっこう立派だがどこにでもあるような校舎。運動場では体育でサッカーの授業をしていた。

 1階に戻って酬徳館という建物に入る。日曜日なのでこの日はカフェーも営業していた。ここ旧豊郷小学校校舎群は2010年以降からさまざまな映画(「君の脾臓を食べたい」「だいじょうぶ3組」など)やTVドラマ(NHK朝ドラ「べっぴんさん」)の撮影場所にもなったようだ。べっぴんさんの主人公・すみれが通う高等女学校の校舎としても。

 2階に上がると「けいおん」関連の資料や楽器などが並ぶ。3階は「けいおん」(高校軽音楽部)の部室のモデルとなった部屋があった。

 白亜の講堂の建物があった。この講堂は椅子と机がずらりと並べられていた。講堂の隣には学校の水田が。この水田は現在も小学生たちの実習田になっているようだ。稲の苗が植えられていた。

◆豊郷小学校の解体と新校舎建設を巡る社会事件ともなった問題とは

 1999年、当選した大野和三郎町長は、豊郷小学校の建物群を解体し、新しい校舎を造ることを発表した。2000年に入り、この解体計画に多くの町民が異議を表明し始めた。住民たちにとっては自分たちも小学生時代に学んだ誇るべき校舎群。2002年には反対運動の会も作られ活動。町長は校舎の解体工事をこの年に強行しようとしたが、会の住民らを中心に校舎群に立て籠もる事態になり、それを排除する町長側との間に流血事件も起きた。2003年になり住民リコールが成立し町長は失職。

 ところが1カ月後の町長選に大野氏は立候補し当選。再び町長となる。同時に新校舎を建設し始め翌年の2004年2月下旬に完成。施行は滋賀県の高島市に本拠をおく桑原組。町長と桑原組との癒着がずっと噂され続けてきていた。3月5日には「もうすぐ卒業する6年生にも短いが新校舎での学校生活を体験させたい」との理由で、式典も行わず新校舎に移転させた。町長はゼネコン型の町長のようで、それなりに地元の支持もあったようで、その後 町長を退職後に県会議員に当選している。

 そして、世論もありこの校舎群は解体されることにはならず、2008年には耐震補強が施され現在に至っている。そして今、豊郷町の観光の目玉ともシンボルともなり、ヴォーリズの建物は今も残った。

 

 

 

 

 

 


ヴォーリズ建築を巡る❶ヴォーリズとは―「house」ではなく「home」を造った建築家、実業家、伝道者、‥

2020-07-25 13:43:46 | 滞在記

 京都の鴨川に架かる四条大橋の西端にひときわ威容を誇る優美な洋館建物がある。北京料理店である「東華菜館」の建物である。この四条大橋の東端には洋館建物の「レストラン菊水」や京都の「南座(歌舞伎座)」があり、西端には京都の「川床」がずらりと並ぶ。ここの界隈や建物は京都の人の自慢の風景の一つ。

 「東華菜館」で何度か食事をしたことがあった。特に夏場は屋上のビャガーデンで川風を浴びながら京都の街並みや鴨川や北山連山、八坂神社や東山連山などが臨め、冷たいビールをぐっと飲むのはたまらない。東洋で最も古いエレベ―ターはクラッシックな年代ものでエレベーターボーイが常駐する。40年以上もこの「東華菜館」を見続けてきたのだが、ヴォーリズという人が建物を設計したものだということを知ったのは、つい最近のことだった。

 今年、2020年の「K・PRESS」の5月号に"京の街にたたずむヴォーリズ建築―京都で出会えるヴォーリズ建築"という特集記事が掲載されていた。「K・PRESS」は京阪電鉄が毎月発行しているタブロイド雑誌。京阪電車の各駅に置かれている無料のタブロイド雑誌だ。その特集記事には、ヴ―リズの簡単な生涯や京都のヴォーリズ建築がいくつか紹介されていた。

 インターネットで日本でのヴォーリス建築を調べてみると、驚くべきことがわかった。日本の大学のキャンパスの中でも美しいあの関西学院大学の建物のほとんどはヴォーリズ建築だった。また、京都の同志社大学の建物もヴォーリズが設計したものが数棟ある。京都や大阪の大丸百貨店の建物もヴォーリズ建築。ここ京都市内にもたくさんのヴォーリズ建築があることが。なんと日本にはヴォーリズが設立したヴォーリズ設計事務所が設計した建物が1500あまりもあるという。

 ヴォーリズの立像が滋賀県近江八幡市の八幡堀の近くにある。ここ近江八幡は時代劇の撮影がよくおこなわれるところで有名だ。昔ながらの歴史的町並もよく残るが、もう一つの町の顔があった。それは近江兄弟社の町でもあった。メンタムの医薬品製造で有名な会社だが、その会社を設立したのはヴォーリズだった。そして、この町にはヴォーリズが設計した建物が30あまり現存している町でもあった。

 ウイリアム・メレル・ヴォーリズ。彼は1880年にアメリカ・カンザス州で生まれた。音楽が大好きな少年となりピアノの演奏などもするようになったが、将来は建築家になることを考え始めてもいた。マサチューセッツ工科大学の建築科(私立)に入学が決定していたが学費が高額なため断念、コロラド大学(州立)理工系課程に入学。YMCA活動の影響もあり、その後、同大学の哲学科に編入。キリスト教の海外での伝道にも関心を持ち始める。1904年に大学を卒業する。卒業後、キリスト教の精神に基づいて青少年の生活指導などを行う公共団体YMCAに勤務。その紹介で24歳の時に日本の滋賀県の高校に赴任することとなる。

 1905年、汽船チャイナ号に乗船し20日間あまりの船旅で日本に到着。滋賀県立商業高校(現・滋賀県立八幡商業高校)の英語教師として赴任する。当時、滋賀県立商業高校は近江商人の士官学校とも呼ばれ、多くの地域経済人らを輩出していた。ここでヴォーリズは、放課後に自宅アパートで聖書を使って英語を教えるバイブルクラスを開講し始めた。そして、多くの生徒に慕われる一方で、仏教徒の地盤の強いここ近江八幡の地域の反発を買い、その職を解かれる(解雇)されることとなっていく。

 1907年、伝道活動の拠点とするべく八幡基督教青年会館(旧YMCA会館)を自ら設計、建築を私財と支援を受けて行い完成させる(ヴォーリズ建築の第一号建築)も、その1か月後に高校を解任されることとなった。そして一旦、アメリカに戻ることとなる。1910年にアメリカ人建築家の一人と共に再び来日し、八幡商業高校の卒業生らとともにヴォーリズ建築事務所を近江八幡で設立した。その後、京都のYMCA会館などを設計・施行し ここに建築事務所の支社を置く。

 建築設計事務所は発展し、西洋建築に必要な建築金物の輸入を行うために近江セールズ株式会社を設立。この会社はメンソレタームの輸入も始めた。そして会社名を近江兄弟社と改名。メンタムの製造販売を行う製薬会社として発展をすることとなった。彼は「青い目の近江商人」とも呼ばれ始める。1918年、結核療養所(サナトリアム)[現・ヴォーリズ記念病院]である近江療養院もスタートさせる。

 1919年、彼が38歳の時、日本人女性で子爵令嬢の一柳満喜子(ひとつやなぎまきこ)と結婚。結婚式は彼が設計した神奈川県の明治学院大学の礼拝堂で挙げた。妻の満喜子は専門である幼児教育を活かし、近江八幡の自宅で子供たちを集めて保育を開始する。これが後の近江兄弟社学園(現在の校名はヴォーリズ学園)へと発展していく。

   1937年にf初訪日したヘレン・ケラーがここ近江八幡の近江兄弟社などを訪問している。

    第二次世界大戦が勃発し、アメリカと日本が敵国関係となる時局が近づく中の1941年(昭和16年)、彼はアメリカ国籍を日本国籍に変え、一柳米来留(ひとつやなぎめれる)と戸籍の名前を改名している。これは「米(米国)より来たりて留まる」という彼の意思と、自分のミドル・ネームを掛け合わせた彼独特のユーモアでもあった。神社で国籍変更の誓いなどもたてている。

 戦争の激化とともに、ヴォーリズの家族は軽井沢に疎開する。(※このことが縁で、現在、軽井沢にも彼が設計した建物がいくつか残っている。)  終戦の直後、連合国司令官ダグラス・マッカーサーと近衛文麿との仲介工作に尽力したことから、「天皇を守ったアメリカ人」とも称される。終戦後、家族と共に近江八幡に戻り、小・中・高校を次々と建設し、1951年に幼稚園から高等学校までを統合した総合学園「学校法人 近江兄弟社学園」(現・ヴォーリズ学園)が誕生する。この学園の運営は妻の満喜子が主に担当し、ヴォーリズは建築設計や近江兄弟社の運営を主に行った。

 1957年、仕事先の軽井沢でクモ膜下出血のため倒れ、近江八幡の自宅に帰り療養生活に入る。1958年、近江八幡市の名誉市民第1号に選ばれる。1964年、7年間の病床の間、一言もしゃべることなく83歳で他界した。病床のとこにある時、昭和天皇の弟・三笠宮殿下が見舞いに来てもいる。近江八幡市民葬および近江兄弟社の合同葬儀となった。(※建築設計事務所は1961年に大阪にも事務所を開設。現在もこの設計事務所は営業をしている。)

 ヴォーリズの建築に関する本は、『ヴォーリズの西洋館―日本近代住宅の先駆』(山形政昭著)、『ヴォーリズ建築の100年』(山形政昭著)などが出版されているようだ。また、妻の満喜子とのことに関しては、『負けんとき―ヴォーリス満喜子種まく日々』(玉岡かおる著)、『ヴォーリズと一柳満喜子―愛が架ける橋』、『目標を高く 希望は大きく』などがあるようだ。

 この5月下旬以降、京都市や滋賀県近江八幡市などにあるヴォーリズの建築をたくさん巡り続けて2カ月間あまりになる。ヴォーリスは、「私はhouse(ハウス)を設計し造るのではなく、home(ホーム)を造りたいのです」という言葉を残している。ヴォーリズの建物を見る時、「ああ、この家に住んでみたいな」とか、「ああ、この建物で仕事をしてみたいなあ」とか、「ああ、この建物がある学校の学生になって学んだり、先生になって仕事をしてみたいなあ」という想いに駆られてしまう建築群だ。建物のもつ暖かさ、建物のもつ‥‥‥。なんだろう、ちょっと言葉にあらわせないが、かっこよさ、おしゃれた、アカデミックさ‥‥とでも言うのだろうか。そんなところに惹かれる。

◆私は1960年代末に高校生となった。福井県の漁村の村の出身なので、誰も大学に行った人はいなかった。高校には進学させてもらえることとなった。中学校の同級生130人あまりのうち、約40人あまりが全日制の高校に進学。約20人は繊維工場などに就職し夜間の定時制高校に。約70人は就職をした。全日制の40人も2〜3人以外は、将来に大学に行くことなど考えもできなかったので普通科高校ではなく工業高校や商業高校に進学した。私は武生工業高校の建築科に進学できた。3年間の下宿生活。

 建築科に在籍中、近代建築の世界的3大巨匠のことを書籍で知った。①まず、フランク・ロイド・ライト。(米国人)  ライト(1867―1959年)の建築は日本では帝国ホテルや自由の森学園の明日館。なかなか見事な作品だ。②次に、ル・コルビジュエ(スイス人)。コルビジュエ(1887―1965年)の作品は、東京国立西洋美術館。上野公園内にある。③そして、ミース・ファン・デル・ローエ(ドイツ人)。彼(1886―1969年)の作品は日本にはない。

 ヴォーリズは彼ら3人と同時代の建築家だ。しかし、彼ら3人が設計した建物群とはまったく違う趣きがある。やはり3人が造ったものは「建物・hous」なのだ。当時としては前衛的な建物群と言ってもいい。ライトの帝国ホテルや自由の森学園の明日館なとは、それなりに魅力がある。しかし、そこにいて仕事をしたいとか泊まりたいというような暖かさはそれほどない。後の2人の作品は無機質な感があって、そこに行きたいともあまり思えない。やはり、ヴォーリズ建築の神髄は「home性」があることだ。それに惹きつけられる。

◆高校三年の卒業間近な時期、「卒業制作」を行う必要があった。高校3年のある日、下宿の部屋で目覚めたら、枕元に二冊の書籍が置かれていた。ライトの建築に関する書籍と京都の桂離宮に関する書籍だった。後で、土木科の山田教員が寝ている時に置いていってくれたものだと分かった。卒業制作の作品は、この桂離宮の建物に似た、別荘建築を制作した。構造計算などもしながら、建築設計図を作成し、完成見取り図なども彩色し制作した。

◆同級生のほとんどは、建築・建設会社に就職した。当時、日本はまだ建設・建築ブームの高度経済成長期の中にあった。大林組・鹿島建設・竹中工務店・飛島(とびしま)組・熊谷組・前田建設など、大手ゼネコンに就職した同級生はそのうちの半数ほどにのぼるという時代だった。何の因果か、私だけは卒業後に学費も生活費も全て自活での大学進学を目指すこととなった。

◆一度は目指し始めた建築家の道だったが、ヴォーリズの建築群を見ると、やはりこんな建築をとの想いもどこかに残っているのか‥‥。

※ブログ「ヴォーリズ建築を巡る」はシリーズとして何回か、断続的になるかとは思いますが書いていきます。

 

 

 

 

 

 

 


京都御所を歩く・閑院宮邸跡の床モミジ―学生時代の2年間、邸の門の付近で深夜弁当を食べた続けた日々

2020-07-17 15:50:16 | 滞在記

 江戸時代の第113代東山天皇の皇子・直仁親王を始祖として1710年に創立された「閑院宮(かんいんのみや)邸跡」が京都御所(京都御苑)の南西角にある。この直仁親王の直系が幕末の孝明天皇となり、そして明治・大正・昭和・平成・令和の各時代の天皇へと続いている。この閑院宮邸跡は現在、通年一般公開されている。(無料) 

 今春の5月号の『京都』という雑誌に「青もみじを楽しむ」という特集記事に、この閑院宮邸跡の建物内の「床(ゆか)もみじ)」写真とともにが紹介されていたので いつか行ってみたいと思い続けていた。京都が梅雨に入りすでに3週間あまりを経ていた6月25日(木)と6月28日(日)に、京都御苑と閑院宮邸跡を訪れた。

 6月25日、この日初めて閑院宮邸跡を訪れた。時折激しい雨が降りしきる空模様だった。何棟かの建物の中には京都御所と公家屋敷、そして、この閑院宮邸の説明などがなされている展示室もあった。

 皇室や公家の屋敷がたくさんあった京都御苑。この閑院宮邸はかなり敷地も大きく格式も高いようだ。明治維新とともにここの主は明治10年に東京に引っ越していった。そして屋敷が残ったので、その後 華族会館、裁判所となり、明治16年からは旧宮内省京都支庁の建物として使われた際に現在の建物となった。

 ここの床もみじは5月の少し曇りの日が良いのだと邸を管理している展示室の女性が言っていた。その部屋はどこですかと聞き、案内してもらった。あいにくの雨模様の日だった。でも 床に青もみじが映っていた。

 28日、同志社大学に用事があったついでに御所(御苑)内を散策する。とにかく驚くのは、何百年もの樹齢をもつ巨木・大木の多いこと。見事な枝ぶりの末の大木、ケヤキの巨木。まだアジサイが美しく咲いていた。泰山木(たいざんぼく)の大きな木に朴木(ほうのき)の花と少し似ている花が開花していた。この泰山木は中国の福建省などの亜熱帯が原産。閩江大学の旧キャンパス内にあった私の宿舎近くにも数本の大木があり、窓辺に香りを運んでくれた。

 たまたま近くの家から散歩に来ていた"かって中国の南部地方を中心に、商用などで50数回も中国にいったことがあるという70歳代とおぼしき人"と一緒にこの京都御苑の泰山木の白い高貴な花をしばらく話をした。

 もみじやカエデの巨木。6月下旬はまだ青もみじ。御苑内には小さな小川が流れていて、子供たちが水遊びをしていた。小さなグラントではサッカー少年団の小学生たちが練習をしていた。

 春の3・4月は梅や山櫻・枝垂れ桜・里桜など、5月は若葉、秋は紅葉と美しい京都御苑だが、数百年の歴史を経てきている巨木が御苑全体にはとても多いということが心に残った。

 この京都御苑には思い出がある。大学生時代、2回生〜4回生の約3年間、京都御所の南にある京都新聞社本社にある印刷部でアルバイトをしていた。このバイトのお金で大学の学費と生活費を全てまかなっていた。バイトは月に17日程度。週に4回くらいのバイトだった。勤務時間は午後10時から午前5時までの深夜7時間。50万部あまりの朝刊を印刷する現場での仕事のバイトだった。印刷ミスが毎日何千部と出る。それをひたすら束ねて、地下で待つトラックに積み込むことを3年間。午前2時ころには毎回、しばく強烈な睡魔がおそう。

 10人あまりのバイトの人たちはシフト制度をとっていて、希望をもとに出勤日を会社が決める。他のバイトの人たちは学生もいれば大学を卒業後このバイトをしている人などさまざま。全員が、京都御所近くの立命館大学や同志社大学の学生や卒業生で、私以外の人は当時の新左翼と呼ばれていた人たちだった。中国の毛沢東「鉄砲から政権は生まれる」や「紅衛兵運動」などに心酔して、中国政府の特別の計らいで中国に行ってきた人も数人いた。

 ある日、私の政治的意見と彼らの意見の違い(暴力・武力路線への賛否を巡って)に激高した彼らは、その日から口ひらいて私と会話することを拒否し始めた。そんなことで、その後の約2年間はとても辛かった。自律神経失調症の病気にも長くなった。治ったのは卒業とともにこのバイトを辞めてから2年後くらいだった。午前1時ころから「夜食」(注文した弁当)時間が20分間あった。バイトの部屋で食べられない。だから、深夜の御所に入り雨が降っていなければベンチに腰掛けて一人急ぎ食べた。雨の日はこの閑院宮などの門や塀のひさし下で立ちながら食べた。バイトはそんな状況だったので、辛くて辞めたかったが、このバイトはお金がとてもよくボーナスまでもらえた。だから、なんとしても、卒業までは辞めることはしなかった。辞めることはすなわち大学退学につながったからだ。

 アメリカ大統領が来日し京都にも来た日があった。大統領の宿泊場所は京都蹴上の「都ホテル」。たまたま深夜に一人で夜食を御苑内で食べていたら、厳戒態勢の中なのか、数人の警察官たちに尋問をされたこともある。この当時、夜食を食べていた場所が、今の閑院宮邸跡の建物や門や塀の下付近だっとは、まったくその建物の名前などは知らなかった。もう1970年代のあれから40年以上が経っている。そんな思いでもある京都御苑の地。狭隘な思想はとても怖いものだと実感もした日々だった。

 

 

 

 

 

 

 


香港国家安全維持法を施行❷―世界のどこにいようとも、中国人だけでなく全世界の人間に適用するとの法

2020-07-15 19:15:17 | 滞在記

 周庭氏は6月28日のツイートで、「今日の香港での報道によると、香港版国家安全法は火曜日(30日)に可決される可能性が高い。そして"国家分裂罪"と"政府転覆罪"の最高刑は無期懲役という。日本の皆さん、自由を持っている皆さんがどれだけ幸せなのかをわかってほしい。本当にわかってほしい‥‥。香港で自由や民主主義のために戦う人たちは、自由や命を失うことを考えないといけないということが、本当に悲しい。‥‥。」と、日本の国民に向けての祈るような悲痛なメッセージをしていた。このメッセージの内容は、7年間中国で暮らす私にはとても実感できる。日本に一時帰国すると、「しばらくは安全だ」とほっとすることも日常だからだ。

 その周氏は7月に入り「香港の警察本部前で違法集会を扇動した」などとして起訴され、迅速に7月6日に香港で裁判が行われた。8月に判決が出される予定。周氏は報道陣に「収監される心の準備もしている。政治弾圧は強まるが、香港人は民主・自由を求める信念を持ち続けてほしい」と語った。7日、香港では当局が令状がなくても家宅捜索を行ったり、通信の傍受も可能になる規則が適用され始めた。イギリスに逃れた羅氏は、「滞在中の小さなアパートから、ここ数日取材に応じている」とし、「話すのは常に一つで、香港市民はあきらめないし、私たちはくじけない。次の困難な闘いに臨む態勢を整えている」と7月13日頃にメッセージを出している。

 この「香港国家安全法」を巡る報道として、7月4日(土)の朝日テレビ「セイギのみかた」が特集としてかなり詳しく扱っていた。

 この日のコメンテーターは石平氏。石氏は「香港はもはや中国のただの一部、"一国二制度"は形だけで中身無し、香港は終わった」とコメントしていた。

 この「香港国家安全法」の内容は、2015年に中国国内で制定された「国家安全法」よりも中国批判に対して厳しく対処することが盛り込まれている。この法律のポイントは、1、国家安全に危害を加える4つの罪状を規定。①国家分裂②中央政府転覆③テロ④外国勢力と結託 2、中国政府が国家安全維持公署を新設し、香港政府を監督・指導する。3、香港政府内に国家安全維持委員会を新設する。香港政府のトップは香港行政長官だが、中央政府から行政長官への顧問を派遣する。

 そして、37条には「香港の永住者や企業・団体などが香港の外で(海外で)この法律を犯しても適用する」、38条には「香港の永住権を持たない者(中国人以外の外国人)が、香港の外(外国で)この法律を犯すと適用する」と記されている。

 つまり、この法律は外国人、全世界の人たちにも適用するとしているのには驚愕する。こんな法律内容なんて、いままでの人類の歴史の中であっただろうか。

 ニッポン放送の「飯田浩司のOK!Cozy up!」(7月8日放送)に出演していた数量政策学者の高橋洋一氏は、「香港国家安全維持法を読むと驚きますよ。何が驚くかというと、中身以前に"域外適用"という概念でつくられていることです。普通はどこの国の法律でも"属地主義"です。属地主義というのは、例えば日本国内の主権が及ぶ範囲で犯したことは、日本人も外国人も同じく罰せられます。これは当たり前のことです。香港に行って変なことを言うと捕まってしまうのは仕方ないかもしれませんが‥。域外適用というのは日本以外でもアウトだということです。ですから、香港や中国以外の外国で中国政府を批判してもアウトなのです。」と述べていた。

 要するに、例えば日本人が中国・香港以外の他の国や日本で、中国政府批判をしても適用する。その人が香港や中国に渡航したら、逮捕・拘束し裁判で裁くということだ。主権などは関係ないということとなる。また、外国人がその国で守られている表現の自由などは関係なく、とにかく、中国政府に批判をしたり行動したりしたら、世界のどこにいようとも、中国人だけでなく全世界の人間にこの法を適用するとの条文となっている驚愕する内容。

 これにより、世界的に、中国批判を制限することや自制・萎縮・自粛させることを狙いとしている。特に、世界各国の中国専門家やジャーナリストは、中国を批判することをしたら、研究や調査のために中国や香港に渡航した際に拘束される危険性がともなうため、萎縮する者もでてくるのは間違いない。ここまでやるのかと驚愕させられるのが今の中国という国なのか‥。今後、中国渡航はとても怖くとてもリスクが高いこととなる。TV番組「セイギのみかた」などで、ゲストの普通のお笑いタレントが中国に批判的なコメントをしても、マークされてくる可能性が今後あるのだ。

 国安法について香港に進出している日系企業でつくる経済団体の幹部は4日、読売新聞の取材に、「外国人はどのような行為が違法とされるのかが明確でもなく」と不安の大きさを語っていた。

 香港のいたるところで、「小さな無言のカラーカード(拘束などを防ぐため、何も書かれていない)」を模造紙に貼り付ける光景も見られ始めた。中国・香港政府への抗議の表明のようだ。朝日新聞でもこのことが報道されていた。

 今日15日の早朝、Yahoo Japan!」サイトで、古畑康雄氏の「習近平政権が改革派言論人を逮捕してまで封殺したかった"批判の中身"」というタイトルのインターネット記事を開いて閲読しようとしたら、中国政府当局からの「!存在違法信息网站」が即座に(2秒後くらいに)出てきて、記事を開く国とはできなかった。何度やってもできなかった。この記事は、7月上旬に逮捕・拘束され1週間後に保釈された清華大学教授の許章潤氏に関する記事のようだ。Yahoo Japan!にまで、中国政府の検閲の手は伸びているようだ。

 こんな中国・香港での状況下、不屈にも抵抗や民主をあきらめない香港の人たちは、9月に実施される香港立法会(議会)選挙に向けた民主派の予備選挙わ7月12・13日に実施した。香港の民主派には多くの団体があるため、今回、共倒れを防ごうと予備選挙を行って候補者を30人に絞り込むために予備選挙を実施。香港政府当局が予備選挙について香港国家安全法違反の可能性があると威嚇し、香港市民が恐れて投票へ影響が大きく出ると懸念されていた。

 主催者は17万人の投票参加者を目標としていたが、目標を大幅に上回る61万人もの人が投票を行った。朝日新聞には「香港政府 選挙活動締め付け―民主派予備選開始―国安法抵触と警告―立法会選過半数を警戒」「"屈しない"必死の1票―習指導部民意警戒」「香港選挙 国安法違反調査へ―民主派予備選挙61万人投票」の見出し記事が。予備選挙に立候補していた黄之鋒氏も、地区のトップで当選していた。香港政府当局は、今後、立法会議員選挙への立候補を国安法違反者として多くの者を認めない方針で臨むのだろう。立法会議員選挙立候補受付は7月18日から始まる。

 ◆中国は「犯罪人引渡し条約」を、現在約50か国との間で結んでいる。これらの国々では、中国政府が「国家安全法違反」適用の犯罪人として、今後 引き渡しを要求することが考えられる。このため、カナダはいち早く中国とのこの条約の停止を通告した。これに対し中国政府の趙立堅報道官は、「中国の内政に干渉するもので、強烈に非難する。さらに反応する権利を留保する」と記者会見で述べて反発、そして、中国政府はカナダへの渡航自粛などを中国国民に呼びかけた。

 台湾当局は、台湾人も摘発される恐れがあるとして香港への不急の渡航を控えるよう呼びかけた。

 カナダのような停止の動きはニュージーランドなどでもおきてきている。日本はこの「犯罪人引渡し条約」を締結している国は米国と韓国の2か国だけだ。これは、日本には死刑制度があるため他国が締結を見送ってきていた経過があるためともされている。中国にも死刑制度はあるのだが、2014年には39か国との締結だったが、その後中国は、中国から他国に逃れる人がでることを抑制するために、積極的に協定関係を締結していった経過がある。

 6月30日、スイス・ジュネーブで第44回国際連合人権理事会が開催された。同会合では、香港国家安全維持法に関する審議が行われ、同法案に対して反対する国と賛成する国で意見が分かれた。反対する国々は、日本をはじめ、オーストラリア、カナダ、フランス、ドイツ、スウェーデン、スイス、イギリス、ニュージーランドなどの27か国。米国はトランプ政権になって国連人権委員会から脱退している。同法案に賛成する国々は、中国をはじめ、カンボジア、キューバ、エジプト、イラン、イラク、パキスタン、北朝鮮、ミャンマー、ラオス、スリランカなどの53か国だった。53か国のうち、中国の一帯一路政策による、中国からの多額の資金援助を受けている国が多い。しかし、賛成の国々の方がWスコアーというのも、今の世界の情勢だ。

 この国連人権委員会とは別に、ロシアのプーチン政権は同法案への支持を表明した。国連人権委員会では韓国は反対・賛成のどちらにも表明をしなかった。このようにどちらにも表明しなかった国々も多いのだろう。

 6月下旬、中国政府は中国外交部報道局の耿爽副報道局長を、国際連合中国副代表とするとの発表を行った。耿氏は今後、国連の場で「戦狼外交」の中心となる。また、これにともない、趙立堅報道官が副報道局長に昇格したようだ。

 一昨日、京都の丸善書店に行ったら、『香港デモ戦記』(小川善昭 著)集英社新書 が置かれていた。書籍の表帯には、周庭氏の写真とともに、「絶対に 沈黙しない」と文字が書かれていた。