彦四郎の中国生活

中国滞在記

京都御所を歩く・閑院宮邸跡の床モミジ―学生時代の2年間、邸の門の付近で深夜弁当を食べた続けた日々

2020-07-17 15:50:16 | 滞在記

 江戸時代の第113代東山天皇の皇子・直仁親王を始祖として1710年に創立された「閑院宮(かんいんのみや)邸跡」が京都御所(京都御苑)の南西角にある。この直仁親王の直系が幕末の孝明天皇となり、そして明治・大正・昭和・平成・令和の各時代の天皇へと続いている。この閑院宮邸跡は現在、通年一般公開されている。(無料) 

 今春の5月号の『京都』という雑誌に「青もみじを楽しむ」という特集記事に、この閑院宮邸跡の建物内の「床(ゆか)もみじ)」写真とともにが紹介されていたので いつか行ってみたいと思い続けていた。京都が梅雨に入りすでに3週間あまりを経ていた6月25日(木)と6月28日(日)に、京都御苑と閑院宮邸跡を訪れた。

 6月25日、この日初めて閑院宮邸跡を訪れた。時折激しい雨が降りしきる空模様だった。何棟かの建物の中には京都御所と公家屋敷、そして、この閑院宮邸の説明などがなされている展示室もあった。

 皇室や公家の屋敷がたくさんあった京都御苑。この閑院宮邸はかなり敷地も大きく格式も高いようだ。明治維新とともにここの主は明治10年に東京に引っ越していった。そして屋敷が残ったので、その後 華族会館、裁判所となり、明治16年からは旧宮内省京都支庁の建物として使われた際に現在の建物となった。

 ここの床もみじは5月の少し曇りの日が良いのだと邸を管理している展示室の女性が言っていた。その部屋はどこですかと聞き、案内してもらった。あいにくの雨模様の日だった。でも 床に青もみじが映っていた。

 28日、同志社大学に用事があったついでに御所(御苑)内を散策する。とにかく驚くのは、何百年もの樹齢をもつ巨木・大木の多いこと。見事な枝ぶりの末の大木、ケヤキの巨木。まだアジサイが美しく咲いていた。泰山木(たいざんぼく)の大きな木に朴木(ほうのき)の花と少し似ている花が開花していた。この泰山木は中国の福建省などの亜熱帯が原産。閩江大学の旧キャンパス内にあった私の宿舎近くにも数本の大木があり、窓辺に香りを運んでくれた。

 たまたま近くの家から散歩に来ていた"かって中国の南部地方を中心に、商用などで50数回も中国にいったことがあるという70歳代とおぼしき人"と一緒にこの京都御苑の泰山木の白い高貴な花をしばらく話をした。

 もみじやカエデの巨木。6月下旬はまだ青もみじ。御苑内には小さな小川が流れていて、子供たちが水遊びをしていた。小さなグラントではサッカー少年団の小学生たちが練習をしていた。

 春の3・4月は梅や山櫻・枝垂れ桜・里桜など、5月は若葉、秋は紅葉と美しい京都御苑だが、数百年の歴史を経てきている巨木が御苑全体にはとても多いということが心に残った。

 この京都御苑には思い出がある。大学生時代、2回生〜4回生の約3年間、京都御所の南にある京都新聞社本社にある印刷部でアルバイトをしていた。このバイトのお金で大学の学費と生活費を全てまかなっていた。バイトは月に17日程度。週に4回くらいのバイトだった。勤務時間は午後10時から午前5時までの深夜7時間。50万部あまりの朝刊を印刷する現場での仕事のバイトだった。印刷ミスが毎日何千部と出る。それをひたすら束ねて、地下で待つトラックに積み込むことを3年間。午前2時ころには毎回、しばく強烈な睡魔がおそう。

 10人あまりのバイトの人たちはシフト制度をとっていて、希望をもとに出勤日を会社が決める。他のバイトの人たちは学生もいれば大学を卒業後このバイトをしている人などさまざま。全員が、京都御所近くの立命館大学や同志社大学の学生や卒業生で、私以外の人は当時の新左翼と呼ばれていた人たちだった。中国の毛沢東「鉄砲から政権は生まれる」や「紅衛兵運動」などに心酔して、中国政府の特別の計らいで中国に行ってきた人も数人いた。

 ある日、私の政治的意見と彼らの意見の違い(暴力・武力路線への賛否を巡って)に激高した彼らは、その日から口ひらいて私と会話することを拒否し始めた。そんなことで、その後の約2年間はとても辛かった。自律神経失調症の病気にも長くなった。治ったのは卒業とともにこのバイトを辞めてから2年後くらいだった。午前1時ころから「夜食」(注文した弁当)時間が20分間あった。バイトの部屋で食べられない。だから、深夜の御所に入り雨が降っていなければベンチに腰掛けて一人急ぎ食べた。雨の日はこの閑院宮などの門や塀のひさし下で立ちながら食べた。バイトはそんな状況だったので、辛くて辞めたかったが、このバイトはお金がとてもよくボーナスまでもらえた。だから、なんとしても、卒業までは辞めることはしなかった。辞めることはすなわち大学退学につながったからだ。

 アメリカ大統領が来日し京都にも来た日があった。大統領の宿泊場所は京都蹴上の「都ホテル」。たまたま深夜に一人で夜食を御苑内で食べていたら、厳戒態勢の中なのか、数人の警察官たちに尋問をされたこともある。この当時、夜食を食べていた場所が、今の閑院宮邸跡の建物や門や塀の下付近だっとは、まったくその建物の名前などは知らなかった。もう1970年代のあれから40年以上が経っている。そんな思いでもある京都御苑の地。狭隘な思想はとても怖いものだと実感もした日々だった。