彦四郎の中国生活

中国滞在記

ヴォーリズ建築を巡る❸―近江八幡市内のヴォーリズ建築―小さな城下町に25の建築が今もある

2020-07-26 08:13:01 | 滞在記

 旧豊郷小学校校舎群を後にして、6月14日(日)の午後3時近くに隣町の近江八幡市の市内に入った。この町は八幡山城の城下町として、城下の町まで琵琶湖水運とつながる堀が巡らされて、商業が発達した町でもあった。この季節、八幡堀にはアジサイや菖蒲(ショウブ)が美しい。

 この近江八幡には、ヴォーリスの旧・自宅があり、ヴォーリスが妻とともに創立したヴォーリズ学園(旧・近江兄弟社学園)があり、ヴォーリズが創立したヴォーリズ記念病院(旧・  )や近江兄弟社などがある。そして、城下町の町並みと通りにはヴォーリズが設計した建物が25か所、今も残っている。今までに近江八幡には何十回と来ていたが、この日はこの町で初めてヴォーリズ建築を何箇所か巡ってみることとなった。

 近江八幡堀の近くに、少女から花を渡されるヴォーリスの立像が建てられている。足元には生まれ故郷のアメリカ・カンザス州のレリーフも。

 この日まず最初に向かったのはヴォーリズ記念病院。この病院の前身は1918年に結核療養所(サナトリアム)として造られた近江療養院。アメリカ人ミス・ツッカーの寄付が基金となり、ヴォーリズが設計・施行して創立した病院である。創立当時のヴォーリズ設計の建物が今も3棟残っていて、改修され、今も使用されている。そのうちの一つが病院の山すそにある礼拝堂。こじんまりとして敬虔な感じのなかなかいい建物だった。次に希望館の建物。この建物にはヴォーリズの住宅建築に特徴的な煙突(※ヴォーリズ煙突ともよばれる)があった。

 そしてツッカーハウスと呼ばれる建物。多大な寄付をしてくれた人の名にちなむ。玄関入り口にはのレリーフがあった。記念病院全体は背後の山の緑と調和した美しい建物が多かった。

 次に向かったのは町の中心部に近いところにあるヴォーリズ学園。旧称は近江兄弟社学園。幼稚園・小学校・中学校・高等学校の総合学園。この学校の敷地内には2つのヴォーリス設計の建物がある。

 一つは教育会館、そしてハイド館。(ともに1931年に建設) ハイド館の前の中庭には大きなメタセコイヤの木が一本、そのそばに創立者のヴォーリスの妻・一柳満喜子の胸像が置かれていた。

 八幡堀に近い仲屋町通りに旧八幡郵便局の建物がある。ヴォーリスが設計した郵便局である。このあたりの町並みも美しい。近くに滋賀中央信用金庫八幡支店の新しい建物かあったが、旧八幡郵便局の建物をイメージして造られていた。

 町並みの通りから八幡山が見える。山頂付近には八幡山城の本丸の石垣跡が臨める。しばらくすると、ヴォーリズが最初に設計・施行したヴォーリズ建築第一号の建物がある。1907年に造られた八幡基督教青年会館(旧近江八幡YMCA)。ヴォーリズが私財で初めて創った建物だ。

 その隣には牧師館の教会建物が。ここは旧近江兄弟社地塩寮(社員寮)だったところだ。城下町の辻ゝに伝統的な家ゝが続く。

 この日は、近江八幡町の25のヴォーリズ建築のうち、8つだけを見て京都の自宅に戻ることにした。近江八幡にはヴォーリズ設計の個人の住宅も多く、またかってヴォーリズが教鞭をとった八幡商業高校にもヴォーリズ建築があるようだ。夏至の6月22日まであと1週間のこの日、陽がまだ落ちない午後7時半頃に京都の自宅に戻れた。