彦四郎の中国生活

中国滞在記

ヴォーリズ建築を巡る❼番外編―ヴォーリズの設計ではないかと推測されていた"私の故郷の村の西洋館"

2020-07-29 14:46:36 | 滞在記

 私の故郷の住所地区は、もともとは福井県南条郡河野村。平成の市町村大合併で近隣の南条町や今庄町と合わさり今は南越前町となっている。「海(河野村)、山(今庄町)、里(南条町)」の町である。この河野村の河野地区にある「北前船船主の館・右近家の西洋館は"ヴォーリズの設計したものではないかとされている"」と知ったのも、ヴォーリズ関連の色々なインターネット記事を読み漁っていたつい最近の7月上旬。「故郷の長年見続けてきたあの西洋館がヴォーリス設計なのか!」と誇らしいような小躍りする気持ちだった。

 7月20日(日)に京都から故郷に1か月ぶりに帰省した。夕日が海面に近づき始めた時刻、北前船主の館の背後の山腹にある西洋館を見る。西洋館の背後の山には、織田信長軍の侵攻に備えてつくられた越前国一向一揆軍の河野城の山城址がある。この山城は500人くらいの守備隊があったが、織田軍団の敦賀半島先端の地区から押し寄せた羽柴秀吉軍の軍船部隊により落城した。

 翌日の朝、北前船主・右近家館に入館する。ここ南越前町河野浦は、敦賀湾のほぼ入り口に位置し、古くから府中(武生市、現・越前市)と敦賀を結ぶ海陸の中継地として栄え、河野・敦賀間の船稼業に従事。江戸時代中期からの商品経済の発展に伴い、日本海海運は飛躍的に発展を迎える。

 そして、この河野浦には右近家・中村家・刀禰家などが多くの北前船を持つ船主が現れるに至った。とりわけ幕末期にはその最盛期を迎えるに至る。特に右近家は江戸時代末期に北前船を11隻を擁し、利益は1万2000両にも達している。このころ右近家は日本海海運五大船主の一つに数えられた。明治12年には船は17隻となり積石数の合計は1万8000石。その後、蒸気船7隻なども所有するようになる。(総数隻30隻あまり)  また、海運船主が共同で運営する海上保険会社の必要性から、日本海上保険株式会社(後の東京海上火災保険、現在の損保ジャパン日本興亜)を北前船主のリーダーとして右近家が中心となり設立した。その右近家の広大な屋敷である。

 大正時代となり右近家当主たちの家族は東京に移った。そして昭和になり、西洋館もつくられた。右近家の人々はたまにここの屋敷に東京から来て逗留したりもしたのだろう。現在は屋敷や西洋館は博物館的に一般公開され地元が運営にあたっている。地元の知り合いの人がボランティアでここの案内をしていた。

 受付の管理責任者の女性に、「ここの西洋館はヴォーリズという人が設計した建物ではないかと聞いたんですけど‥」と聞いてみたら、「そうなんです‥。ヴォーリズさんの‥。でも、最近、この西洋館の建築図面が発見されましてえ、大林組の設計・施行ということが分かったんやわね‥。」と。どうやらヴォーリズ作品ではなかったようだ。軽い落胆を覚えたが、「そうだったんですか…」と、西洋館の方に向かう。

 ヴォーリズの設計かもしれないと長らく思われていた理由としては、とくに1階の建築部分がスパニッシュ(スペイン風)なところがあるのもその一つかと思う。階段部分とか内装なども。

 建物1階の部屋には、「11代目右近権左衛門が造らせた。遠く海を見晴らせ、海からの眺望を意識するように、山の中腹で日本海に迫り出すように建つ右近家西洋館。大林組の設計・施行により、昭和8年(1933年)着工、昭和10年(1935年)完成。洋館附属工事概要録によれば、使役した人夫総数、石工853人、河野・赤萩地区の男7516人・女3034人、大工334人、左官214人と記録されている。」と説明されていた。実に1万人以上の人々によって建設工事がおこなわれたようだ。この時期はヴォーリズが建築家として最も活躍していた時代とも重なる。

 ヴォーリス設計の京都の大丸ヴィラの建物の上に置かれた船の飾りとよく似た船が2階に上る階段のところの窓にステンドグラス的に描かれていた。山荘的な造りの2階内部は畳敷の和室となっている右近家西洋館。ベランダからの眺めは天気条件の良い時は若狭湾の向こうの丹後半島経ヶ岬や鳥取県の大山までも見ることができる。まさに北前船主の西洋館相応しく日本海が一望できる。

 

 


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