◆前号ブログ「本能寺の変❶」で、「総構え」とあるのは「惣構え」の間違いです。訂正します。
全国に「信長の墓」「信長廟」とされるところは20箇所あまりあるようだ。明智勢が見つけることができず、当時、一時は生存説も語られた信長の遺体や遺骨・遺灰はどうなっていたのだろう。本能寺の大伽藍の大火災の中で遺骨以外は燃え尽き、誰の遺骨かわからない状況だったと推察されている。
だが、本能寺の変の際の一説として、次のようなことが伝わっている。それによると、信長が当時 親しく帰依していたとされる阿弥陀寺の玉誉清玉上人は、変が起きたという大事を聞きつけた直後に、僧20人とともに本能寺に駆けつけた。まだ戦いが繰り広げられていて、近づくことはできなかった。しかし、裏道堀溝に案内する者があり、裏に回って生垣を破って寺内に入ったが、寺院にはすでに火がかけられ、信長も切腹したと聞いて落胆する。
ところが、寺の墓の後ろの藪で10人あまりの武士が木や葉を集めて火をつけていたのを見つけ、彼らに信長のことを尋ねると、遺言で遺骸を敵に奪われて首を敵方に渡すことがないようにと指示されたが、四方を敵に囲まれて遺骸を運び出せそうにもないので、火葬して隠して、その後我々も切腹しようと思っているところだと答えた。上人はそれを聞いて、自身の信長とのつながりを話し、火葬は出家の役目であるからと信長の遺骸を火葬し、その遺骨や遺灰を法衣に詰めて、本能寺の僧衆が立ち退くのを装って運びだし、阿弥陀寺(当時は大宮今出川[千本今出川]付近にあった)に持ち帰ったとされる。
その京都の「阿弥陀寺」(京都市上京区鶴山町、賀茂川の近く)に昨年の4月中旬に行ってみた。枝垂れ桜やソメイヨシノの桜の季節はすでに過ぎていたが、八重桜や牡丹(ぼたん)が境内に美しく咲き誇っていた。この寺の墓地に入ると、戦国時代の山陰地方の尼子家の武将として有名な山中鹿之助の墓があった。「尼子忠臣山中鹿之助幸郷」と、墓のそばの石碑に刻まれていた。(阿弥陀寺は本能寺の変の3年後の1585年に、秀吉の命によってここに移転している)
墓地の奥まったところに、織田信長の墓があった。信忠の墓もあった。また、信長の秘書官として本能寺の変でともに亡くなった森蘭丸・坊丸・力丸の三兄弟の墓などもここにあった。もし、信長の遺骨や遺灰があるとすれば、ここ阿弥陀寺が最有力地だろうかと思う。
現在の本能寺は、1591年に時の天下人・豊臣秀吉(羽柴ひでよし)によって移転させられた場所にある。京都市の繁華街、三条川原町交差点に近い。昨年はこの寺で信長や光秀に関する展示会が開催されていた。二度あまりこの展示会に入ったが、明智家の桔梗紋が左右に施された兜(かぶと)が展示されていた。
境内の「信長公廟」に祀られているのは、信長の遺骨や遺灰ではなく、信長愛用の太刀のようだ。織田信長廟はほかには、①京都・大徳寺総見院にある。ここは本能寺の変後の天正11年6月2日、秀吉によって営まれた一周忌(3万人の警備兵を配置。香木で作られた信長の木像を燃やしたものを遺灰として祀られる。)の際に作られた廟。②滋賀県・安土城二の丸にある信長廟。(ここには遺骨・遺灰は祀られていない) ③和歌山県・高野山奥の院の信長廟。(遺骨・遺灰はない)。④静岡県・本門寺(本能寺の変の際、信長の首をもって脱出した者が、ここに首を埋めて首塚としたと伝わる)。
昨年の秋に亀岡市歴史文化資料館に2度行った。ここにはあの有名な「明智光秀公肖像画」(大阪府岸和田市本徳寺所蔵)が展示されていた。光秀の肖像画はこの1点しか現存しない。本能寺の展示会で見たものと同じ明智兜も展示されていた。
本物の光秀肖像画だけでも驚くが、これもまた有名な織田信長公木造座像が展示されていた。阿弥陀寺所蔵となっていた。織田信忠の座像もあった。この木像は現存する神戸市立博物館所蔵の信長の肖像画ととても顔が似ている。木像だけに、より信長という存在を身近に感じられるリアルな座像だった。
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