彦四郎の中国生活

中国滞在記

映画「ラーゲリより愛を込めて」➋—四つの遺書、「最後に勝つものは道義であり、誠であり、まごころである。‥‥」

2023-02-01 11:12:43 | 滞在記

 昨年12月9日から公開されている映画「ラーゲリより愛を込めて」は、2月に入った今もロングラン上映が続く。何がこの映画に、若い人から高齢者までの幅広い年代の人々を惹きつけるのか。いくつもの要因があるかとは思うが、昨年の2月から始まり今も続くロシア軍によるウクライナ侵略戦争、ウクライナの人々にとっての祖国防衛戦争の影響もあるのかと思う。戦争というものを身近に感じる混迷の世紀の実感‥。そんな世相の中での、家族とか身近な人への思いなどなど、この映画には、人間としての尊厳など、あらゆる、人間が生きるということの大切な要素が実話として描かれている。

 映画の主人公・山本幡男さんを演じた俳優の二宮和也さん。私もこの映画を視聴して、二宮さんが演じる山本幡男さんを、素直に受け入れることができるほど、自然なものだった。山本幡男さんの長男である山本顕一さんは、「(二宮の)その演技も迫真力があって、父だったらこうしていただろうと、そういったシーンを見事に演じてくださいました」と話している。(山本顕一:東京大学卒業、立教大学名誉教授)

 山本幡男さんは、1908年(明治41年)に島根県隠岐の島にて生まれた。6人兄妹の長男として生まれている。島根県の松江中学(現・松江北高校)を卒業後、東京外国語学校(現・東京外国語大学)のロシア語学科に進学。社会主義思想に関心をもち左翼活動に参加、1928年に起きた「三・一五事件」(社会主義活動家にたいする政府の弾圧事件)に連座し逮捕され、大学から退学処分を受けた。その後、島根県に帰郷。

 1933年に結婚し、4人の子供の父親となる。1936年(昭和11年)に中国・満州国(日本が占領統治)に渡り、南満州鉄道の調査機関である満鉄調査部に入社。ロシア語学をはじめとする実力を発揮し、『北東アジアの諸民族』(中央公論社刊)など、ソ連の社会・経済・軍事などに関する書籍を執筆して高い評価を受けた。第二次世界大戦末期の1944年(昭和19年)、召集令状により二等兵として入営。1945年8月のソ連軍の満州侵攻により捕虜となりシベリアに抑留される。

 辺見じゅん著の『収容所から来た遺書』の中には、山本幡男や収容所仲間たちの、俳句や短歌、詩などがたくさん掲載されている。山本さんが詠んだ、「小さきをば 子供と思う 軒氷柱(のきつらら)」の俳句などもあった。

 シベリアでの抑留地は、ソ連(ロシア)のウラル山脈の東にあるスベルドロフスクというところにある収容所(ラーゲリ)だった。ここはモスクワからもわりと近い。その後、極東シベリアのハバロフスク近郊のラーゲリに移され、1954年に収容所内で死去した。享年45歳。山本幡男が病床の中で気にしていた、長男である顕一さんの大学受験結果(東京大学に合格したとの知らせ)は死去後に届いた。

 現在、ロシアのロシア国立軍事古文書館には、抑留中の山本幡男さんのやせこけた写真が保存されている。ここには、日本人をはじめ、ヨーロッパ各国、約310万人のシベリア抑留者の資料が保存されている。

 —マンガで読む戦争の真実—シリーズ刊(文春現代史コミック)

 辺見じゅん著『ラーゲリから来た遺書』、山崎豊子著『大地の子』、半藤一利著『日本のいちばん長い日』などが漫画化されている。

 映画館で買った『ラーゲリより愛を込めて』の映画パンフレットには、山本幡男さんが死の床で書いた遺書全文が掲載されていた。遺書は次の4つの文章からなっていた。①「山本幡男の遺族のもの達よ」、②「お母さま」、③「妻よ」、④「子供等へ」特に、④の「子供等へ」は、私たち日本人へ向けた遺書のようにも思え、心打たれる。現代の私たち日本人がよんでも、心に沁みる。①②③の冒頭文は、次のように書かれていた。①「到頭(とうとう)ハバロフスクの病院(収容所内の)の一隅で遺書を書かねばならなくなった。鉛筆をとるのも涙。どうしてまともにこの書が綴れよう!‥‥」、②「何といふ私は親不孝でせう。あれだけ小さい時からお母さんにご苦労をかけながら、お母さんの期待には何一つ副(そ)ふことなく‥‥」、③「よくやった。実によくやった。夢にだに思はなかったくらゐ、君はこの十年間よく辛抱して闘ひつづけて来た。これはもう決して過言ではなく‥‥。」そして、④は全文をここに記しておきたい。

 「子供等へ」

 山本顕一 厚生 誠之 はるか 君たちに会へずに死ぬることが一番悲しい。成長した姿が、写真ではなく、実際に一目みたかった。お母さんよりも、モジミよりも、私の夢には君たちの姿が多く現れた。それも幼かった日の姿で‥‥‥あ、何といふ可愛い子供の時代!

 さて、君たちは、之から人生の荒波と闘って生きていくのだが、君たちはどんな辛い日があらうとも光輝ある日本民族の一人として生まれたことを感謝することを忘れてはならぬ。日本民族こそは将来、東洋、西洋の文化を融合する唯一の媒介者、東洋のすぐれたる道義の文化―人道主義を以て世界文化再建に寄与し得る唯一の民族である。この歴史的使命を片時も忘れてはならぬ。

 また君達はどんなに辛い日があらうとも、人類の文化創造に参加し、人類の幸福を増進するといふ進歩的な思想を忘れてはならぬ。偏波(へんぱ)で矯激(きょうげき)な思想に迷ってはならぬ。どこまでも真面目な、人道に基づく自由、博愛、幸福、正義の道を進んで呉れ。

 最後に勝つものは道義であり、誠であり、まごころである。友だちと交際する場合にも、社会的に活動する場合にも、生活のあらゆる部面において、この言葉を忘れてはならぬぞ。

 人の世話にはつとめてならず、人に対する世話は進んでせよ。但し、無意味な虚栄はよせ。人間は結局自分一人の他に頼るべきものがない―といふ覚悟で、強い能力のある人間になれ。自分を鍛へて行け!精神も肉体も鍛へて、健康にすることだ。強くなれ。自覚ある立派な大人になれ。

 四人の子供達よ。お互いに団結し、協力せよ!

 特に顕一は、一番才能にめぐまれているから、長男ではあるし、三人の弟妹をよく指導してくれよ。

 自分の才能に自惚れ(うぬぼれ)てはいけない。学と真理の道においては、徹頭徹尾敬虔(けいけん)でなくてはならぬ。立身出世など、どうでもいい。自分で自分を偉くすれば、君等が博士や大臣を求めなくても、博士や大臣の方が君等の方へやってくることは必定だ。要は自己完成!しかし、浮世の生活のためには、致し方なしで或る程度打算や功利もやむを得ない。度を越してはいかぬぞ。最後に勝つものは道義だぞ。

 君等が立派に成長してゆくであろうことを思ひつつ、私は満足して死んでゆく。どうか健康に幸福に生きてくれ。長生きしておくれ。

 最後に自作の戒名。久遠院(くおんいん)智光日慈信士  一九五四年七月二日 山本幡男

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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