2月25日に中国に戻ってからもうすぐ1か月余りが過ぎようとしているが、2カ月間余りが過ぎたように思えてしまうのが、私の中国生活でもある。日本での生活の2倍以上の日数の経過を感じてしまうくらい、私の中国生活がけっこう単調からだろうとも思う。特に昨年の6月から坐骨神経痛による腰や右足・右臀部(でんぶ)の痛み、9月からの右足ふくらはぎの痛み(閉塞性動脈硬化症による)を発症してから、昨年の9月から12月までの4か月間の中国生活は、大学への通勤以外はアパートを出る機会はめっきり減った。
中国生活の中で安らぎを得られるのアパート(8階)から目の前に見える福建師範大学倉山校区の丘のような山が、昨年9月の台風による集中豪雨による土砂崩れが起きた。その土砂崩れに対する工事が昨年の11月頃から始まり、この2月下旬に中国に久しぶりに戻ったら、崩れた山の斜面のかなりの部分が灰色のコンクリートで覆われてしまっていた。安らぎの緑の光景が、少し変わってしまったのは残念だ。
今回中国に戻り、少し変わっていたことの一つに、洪水の水の流れのような、ほぼ皆が信号無視をしている電動バイク(自転車扱いなので免許不要)が、赤信号の場合に停車して待つ人が少し多くなっていた。(40%余りものバイクが停車しているのには驚いた。)
3月上旬、アパートのある団地入口付近にある交差点近くに、移動本屋が店を開いていた。この11年間の中国生活で、このような移動販売本屋を見るのは3回目。けっこうたくさんの書籍が売られているが、最も多いのが日本人の作家・東野圭吾の書籍(翻訳本)。2014年頃から東野圭吾は中国でのベストセラー作家となったが、それが現在もまだ続いている。魯迅の書籍もあった。(※中国は書店というものがとても少ない。) この移動販売の本屋の書籍の値段は、重さによる秤(はかり)売りだった。
アパート近くの道路の歩道沿い。移動式の物売りも多いが、トランプを楽しむ光景がいたるところで毎日見られる。地方から来ている農民工、団地に暮らす高齢者の人たちは、少額のお金を賭けながらトランプを楽しむ光景だ。その歩道を歩く小学4年生くらいの男の子の孫とおばあちゃん。おばあちゃんの腕をとって歩く孫。中国では、小さい時から孫の世話を祖父母が日常的にすることが多いので、日本以上に祖父母と孫の関係は大きくなっても親密だ。
大学の研究室は、福万楼という教員用の9階建ての研究室棟にある。私の研究室は7階にあり、窓の外はユーカリの大木の並木があり、少し遠くに山が見える安らぎの部屋だった。でも、昨年の4月頃にユーカリは伐採され、建物の建築工事が始まった。工事の音が朝の7時頃から始まり、一日中騒音が絶えない。その建物も建設がすすみ、この3月中旬には7階の研究室の窓の高さを越え始めた。山も少ししか見えなくなってきてしまっている。早朝から働く農民工たち。(中国には現在、約2億9000万人余りの農民工がいるとされる。)
午後5時頃、大学近くのバス停からバスに乗る。しばらくすると小学校近くのバス停で、小学5・6年生くらいの女の子が4人がキャッキャと声をあげながら乗車。小学校近くの店で買ったらしい菓子を廻し食いしながら、席をたびたび移動してやかましい。その菓子も中国独特の臭いのするもの。中国社会は、大人も子供も、「車内では静かに」というようなマナーはあまりないなあと思う。
早朝の7時15分頃の大学方面に向かういつものバスの車中、小学1年生くらいの女の子が、祖母に連れられてバス停から乗車してくる。その子はいつも、一人のおじさんの隣に座る。そして二人は話し始める。祖母は別の席にいつも坐っている。おじさんと女の子は、知り合いだが親族とかそんな関係ではないようだ。でも、同じバスに乗るうちに親しく話すようになっているようだ。
3月10日(日)、アパート近くの福建師範大学構内にある散髪店で髪を切ってもらった。(料金は30元[600円]) 福建師範大学での教員時代から行きつけの散髪店。散髪後に、たくさんの若者が来る学生街の店々の前を通ると、「藤野造型 東京の最新流行のファッション髪型」(「造型」とは理容店の意味)と、日本語で書かれた看板の店があった。学生街を通って、近くの「上野一番」という名の「日本食」の店に久しぶりに行き、「かつ丼」を食べる。昨年の9月・10月には「福島原発の処理水問題」で、中国の日本料理店は大きな影響を受け、中国人客が遠のいた。しかし、現在は、完全に客足が戻ってきている感じがする。「上野一番」の店の界隈にも、道路わきには露店の店がたくさんあるいつもの光景。
「上野一番」からアパートまで戻る際、少し脇道に入って1920年・30年代に建てられた建物が多く残る古街の小道を通る。今年に入って、坐骨神経痛や閉塞性動脈硬化症による痛みがかなり軽減されてきているので、かなりの長い距離でも、少し痛みが出始めたらしばらく坐って足腰を休ませることでしのげるようになってきている。古街には、福建省特産の茶の一つである「茉莉花茶(ジャスミン茶)」専門の茶店もある。「蘆忠」と書かれた建物。この建物は、1932年に建てられたもので、蒋介石とその妻である宋美麗の英語秘書をしていた呉淑貞(女士)が10年間余り暮らした建物との紹介文が書かれている。
3月7日(木)の午後、携帯電話に中国語でのメッセージが届いた。宅急便配達員からのメッセージ。「中国四川省からの荷物が二つ届いているので、蘭天新天地団地の18棟の宅急便集配所に受け取りに来て」という内容だった。(中国での宅急便や郵送便は、個々の自宅には届けられないで、地区の集配所に取りに行くシステムとなっている。) さっそく大学からアパートに戻って、しばらくしてから近所の集配所に受け取りに行った。
商品段ボールが二つあった。「中国四川省内江市名産『血橙』」と書かれたオレンジ。アパートに持ち帰り箱を開けると一箱に24個入っていた。二箱で48個もある。この荷物は中国四川省の内江市の李さんから送られてきたものだ。実は、冬休みで日本に帰国中の2月17日、閩江大学の3回生で、現在は1年間の広島大学留学をしている康さんと、彼の故郷の友達である李さん(2週間の予定で日本旅行に来ていた)と、京都の祇園で会い居酒屋やカラオケスナックに行ったことがあった。その際のお礼ということらしい。
さっそく日本の広島にいる康さんに荷物が届いたことを連絡したら、康さんから、「李さんにも荷物が届いたことを伝えました。この血橙は、切ると血管のような血の色の脈筋が見えますが、びっくりしないでくださいと、李さんから伝言がありました」と返信が返ってきた。なるほど、試しに切ってみると血管のようなものがたくさん見える。食べてみたら、けっこう味の濃い美味しいオレンジだった。■四川省内江市は「
「血橙(けっとう)」という名前は、かなり直接的な表現だ。日本ならさしずめ、「赤橙」とでも名前をつけるところだが、中国人は直接的な表現を好む民族性がある。例えば、日本の「歯科」は、中国では「牙科」と表現される。特に料理名などは、直接表現のオンパレードだ。
二箱も一人暮らしには多すぎるので、いつも私の中国生活のサポートをしてくれている王さんに一箱渡すことになった。
その王さんと彼の婚約者の甘さん、そして閩江大学の日本語学科卒業生で、現在はここ福州で働いている林さん(日本語学校勤務)と鍾さん(日系企業勤務)の5人で、3月9日(土)の夜に「黄岐海鮮」という店で乾杯の会となった。鍾さんとは4年ぶりくらいの再会だろうか。
アパート近くの交差点を自転車にたくさんの風船(子供向けの商売品)を括り付けた男が走りすぎていく。電動バイクや自転車にキャラクターが描かれた大きな風船を運ぶようすはよく見られる光景だ。
アパートの台所にある、「味醂(みりん)」や「めんつゆ」が残り少なくなってきたので、福州市内で日本の調味料や食材が売られている店(私が知る限りこの1軒)に3月16日(土)の午後に、アパートから1時間ほどをかけて、バスや地下鉄を利用して行くことにした。もよりの地下鉄駅で下車し、店に行く前に、地下鉄駅近くの古街の観光地「三坊七巷」に立ち寄った。土曜日とあってたくさんの人出。民族服を着た女性の姿も多い。
日本食材の店で「味醂とめんつゆ、エスビーカレーのルーとソバ」(いずれも中国の日系企業で製造されている)を買ったが、やはりとても重い。雨も降り始めてきた。重い荷物を持ちながら地下鉄駅まで20分ほどを賭けて歩くと、足腰の痛みも少し出てきているが、雨で座って休むこともできず、疲れてしまった。地下鉄もたくさんの人が乗車していて座ることなどできないが、若い女性がすっと席を立ち座らせてくれた。「謝謝!」(中国では、このように若い人が高齢者に席を譲ってくれても、感謝表現はしない人がほとんどだ。)
今学期(大学の後期)は、月曜日・火曜日・木曜日の午前中に担当授業があるため、この曜日は早朝の5時50分にはアパートを出て、バスを乗り継ぎ大学に通勤する。そして、午後3時半~4時頃にアパートに戻る日々だ。(他に卒業論文の指導もあるが‥)。授業のない水・金・土・日の週4日間はアパートにいることがほとんどだ。(近所の店に買い物や食事、散歩などに行くくらい。) 単調な繰り返しの中国生活の日々は、「ああ、一人はさみしいなあ」と孤独感をいつも感じる日々でもある。この4日間のアパートでの生活の半分は、大学の授業の準備に費やされるので、多少は気もまぎれるが‥。
でも、昨年の後半に比べたら足腰の痛みの発症がかなり軽減もされてきているし、2月25日に中国に戻ってからのこの1か月余りは、インターネットがしばらくできなくなったりなどの困りごとはあったりしたが、静かな淡々とした平穏な暮らしが久しぶりに送れている。
先日、担当している「日本文化名編選読」の授業で学生に配る資料をコピーをするためにアパートの近所にあるコピー屋に行き、そのコピー屋で売られていたものを買った。「歳月静好」と書かれている。20元(約400円) 淡々と歳月が静かにながれていく私の中国生活になにかぴったりのような言葉。
この言葉(一節)をネットで調べてみたら、中国の女性文学者の張愛玲の小説『傾城之恋』の文章の一節にある言葉だった。「歳月静好」とは、平穏な日々が送れますようにというような意味と説明されていた。「人生いろいろ紆余曲折」も面白く、それはそれで振り返れば充実感もあるが、その日その日が静かに過ぎゆくのもまた好いのではと、思えもする最近の私でもある。
■張愛玲(1920-1995、享年74歳)—中国の女性近現代文学者としては最も高い評価のある文学者との評もある。その代表作の一つが1943年に書かれた『傾城之恋』。1952年には、中国共産党政権下のイデオロギーと相いれないとして「禁書」とされた。その後1980年代にはいり中国の「改革開放」政策への転換により、「禁書」が解かれ評価が高まった。その『傾城之恋』の一節にあるのが次の文章である。
阳光温热 、岁月静好、 你还不来、 我怎敢老去。(暖かい太陽があり、平穏な毎日がある。あなたがいなければ、私はどうやって歳をとっていけばよいのだろう。)
張愛玲は日中戦争の最中の1944年に胡蘭成と結婚した。その時に交わされた言葉にも「歳月静好」があった。二人はその後1946年に離婚するのだが(胡の浮気が原因ともされる)、胡は戦時中、日本に協力的な汪兆銘政権の幹部の一人だったことにより、1950年に日本に政治亡命をした。日本で暮らし1981年に亡くなった。(一時、台湾の大学で教員ともなる。)
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