彦四郎の中国生活

中国滞在記

小林多喜二と志賀直哉—志賀を敬慕した多喜二の死、志賀は「実に不愉快、暗澹たる気持ち」と‥

2021-05-26 07:00:23 | 滞在記

 1925年、国民が待望した「普通選挙法」が成立(これにより、25歳以上の男性の選挙権が認められた。全人口の5%だったこれまでの有権者率が4倍の20%となった)。これとともにまた、この年、「治安維持法」が成立した。1917年にロシア革命が起こり、社会主義国家が成立し、この影響が日本にも及び始めていることを警戒、このための法律であった。この法により、政府批判及び国体(国の政治体制・天皇制)を批判する者に厳罰が処せられることとなる。飴と鞭(あめとむち)の二つの法律の制定。

 プロレタリア作家として活動をしていた小林多喜二は、1903年に秋田県の小作農(貧農)の次男として生まれた。北海道の小樽市で苦難の末に事業に成功した叔父(多喜二の父の兄)の援助で、彼は小樽の高校に、さらに小樽高等商業学校(現・国立小樽商科大学)に進学した。1924年の卒業後は北海道拓殖銀行の小樽支店に就職。銀行に勤めながら、1928年にプロレタリア文学誌に『一九二八年三月十五日』を発表、このため、銀行は馘首(かくしゅ)となる。

 この年、彼は日本プロレタリア作家同盟の書記長となった。さらに1929年に彼の代表作でもある『蟹工船』を発表した。そして、「特高」(特別高等警察、通称・「特高」は、主に治安維持法違反を検挙・取り調べ、投獄を行う)にマークされる存在の一人となった。1930年5月23日、一度目の検挙、6月7日に釈放されるも、8月に再び検挙・逮捕され翌年31年1月まで拘留され、釈放された。同年10月に非合法の日本共産党に入党している。

 そんな小林多喜二が1931年11月上旬に奈良の志賀直哉を訪ねて来た。思想犯として特高からマークされている小林を2階の客間に一泊させ、志賀の次男・直吉と3人で奈良の"あやめ池遊園地に遊びにも行っている。これが、二人の最初で最後の出会いだった。

 小林多喜二は志賀文学の大ファンだった。小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)時代から、志賀の作品で文学を学んだとも言われ、志賀にかなり傾倒していたとも言える。小林が初めて志賀に手紙を出し、志賀との文通が始まったのはこの学生時代の二十歳前後。その頃多喜二は、叔父の製パン工場で働くかたわら、学校に通っていた。二十一歳で初めて書いた習作を志賀に郵送したりしたのもこの頃からだ。

 卒業後、銀行に勤めながら、仲間たちと同人誌『クラルテ』を主宰・発行したが、彼の志賀傾倒は同人誌仲間の間でも有名で、同人の一人が志賀直哉から彼宛の偽手紙を書いて、わざわざ東京あたりから投函した。その偽手紙には「滝井孝作と小樽へ行く」という内容が書かれていた。多喜二は非常に喜び、歓待の準備に走り回ったが、期日が来ても一向に沙汰がない。不審に思って志賀のもとに直接問い合わせてはじめて、自分が騙されたことを知った。このようなエピソードも、志賀のなかに多喜二の印象を深く刻んだようだった。

 労働者や貧農のおかれている深刻な社会的問題、特に1927年の世界恐慌の影響下、東北の寒村の小作たちの置かれている深刻な状況、娘を身売りして生き延びる状況に強い関心を多喜二は抱いた。彼は小樽の小料理屋に身売りされ、酌婦として働かされている女性(田口タキ)に惹かれ、後に金銭を工面して、見受け金を払い、彼の実家(この頃、父や母は秋田から小樽に引っ越していた)で共に暮らすようになった。

 志賀に傾倒していた多喜二だったが、志賀に「社会性」が欠けていることは気になり始める。とはいえ、ある種の文章の完璧性をもつ志賀にまた限りない敬意と心酔も、多喜二から容易に離れなかった。(※日本の近現代文学で著名な、芥川龍之介・谷崎潤一郎・川端康成・太宰治なども「社会性」はかなり欠けている。明治・大正・昭和と続くこの時代、日本文学の伝統は「私小説」的なものがとても多い。しかし、一方で、「人間性」「人間の本質」をつく洞察では世界に誇れる文学を多く生み出してもいた。夏目・谷崎・太宰はその意味では日本近現代文学の三大巨峰だと思う。)

 志賀直哉と小林多喜二というとりあわせは今日、多喜二が「革命作家」「プロレタリア作家」「天皇制・特高によって虐殺された作家」というイメージを強くもつことからひどく奇異なものとして映るかもしれない。しかし、多喜二ばかりか中條百合子(のちの宮本百合子—『播州平野』などの代表作、日本共産党の委員長・議長となる宮本賢治の妻となる。宮本賢治は1934年~45年の11年間、治安維持法違反などで獄中生活。宮本賢治が東京大学在学中に書いた『「敗北」の文学』は秀逸だ。これは芥川龍之介を論じたもの。)ら、当時のプロレタリア文学運動の担い手の多くが、志賀の文章を目標にその文学修業時代を過ごし、小説創作に取り組み、その手法の態度から多くのものを学び取ったとも言われている。

 1929年、多喜二は『蟹工船』を書き、志賀直哉に郵送し、その論評を請うたりもした。1931年6月8日付の志賀への手紙では、「私の作品で何かお読みになったものがありましたら、貴方の立場から御遠慮ない批判をして頂けないでしょうか」と書き送っている。その年の8月、やっと志賀から多喜二に批評文が届いている。便箋5枚の全文には、「‥‥私の気持ちから云えば、プロレタリア運動の意識が出てくるところが気になりました。小説が主人持ちである点を好みません。止むを得ぬことのように思われますが、作品としては不純になり、不純になるが為に効果も弱くなると思いました。大衆を教える云うことが多少でも目的になっているところは矢張り一種の小児病のように思われました。‥‥‥」と綴られてもいた。こうして、志賀は、ロシアの作家トルストイなどを引いて、「彼等は芸術家が思想家を抑え、大きい感じがして偉いと思う」なども書いている。

 そして、「運動意識から独立したプロレタリア小説が本当のプロレタリア小説で、その方が結果からいっても強い働きをするように私は考えます」と綴り、さらに、志賀が読んだ多喜二の作品の中では『蟹工船』、『三・一五』に感心したと書いている。

 このような真摯(しんし)な多喜二と志賀のやりとりがあった。そして、1930年に半年間あまり投獄されている間には、多喜二は知人の斎藤次郎に手紙で「志賀直哉全集」を差し入れてほしいとも書いている。また、志賀は多喜二の獄中生活中に差し入れをしようととまでした。階級的、思想的立場が異なっても、そうした立場の違いを認めた上で、文学という芸術を巡ってのお互いに学び合おうという姿勢がお互いにあった。そして、多喜二もこの志賀の多喜二に対する批評をとても大切な提示として心に刻んでいたことが、多くの小林多喜二研究で判明している。

 1931年の11月に初めて多喜二と志賀は会い、志賀の奈良の家の客間の仏像(谷崎潤一郎より贈られたもの)の前で、さまざまな話をしたのだろう。志賀は1968年に出版された『定本小林多喜二全集』の推薦文で、「小林君は私が奈良にゐたころ訪ねてくれ泊まっていった。目立たないやうに呉服屋の番頭のようななりをしてゐた。‥‥人間については真面目で、立派な人だと思ふ。あんな風に死んだのはそんなことがなければ今でも生きて自由に仕事が出来たと思ふと非常に残念な気がする」と書いている。

 1933年2月20日、小林多喜二は東京で逮捕され、築地署内においてその日のうちに拷問で殺された。足の両腿は拷問のため紫色に腫れあがっていた。警察の発表は「心臓麻痺による急死」。しかし、彼の遺体をみれば拷問による殺人であることは一目瞭然だった。死の翌日、遺族に渡された遺体は、全身が拷問によって異常に腫れあがり、特に下半身は内出血によりどす黒く腫れあがっていた。

 志賀はこの多喜二の死について、「小林多二二月二十日(余の誕生日)に捕らえられて死す。警官に殺されたるらし、実に不愉快。一度きり会わぬが自分は小林よりよき印象を受け好きなり アンタン(暗澹)たる気持ちになる、不図(ふと)彼等の意図ものになるべしという気する、」と書き残している。志賀直哉50歳となった誕生日の事件だった。

 3月15日に東京で多喜二の労農葬がとりおこなわれた。この小林多喜二の葬儀の参列者は、葬儀会場でその多くが検挙・拘束された。築地署の特高警察は、多喜二から、彼が会った人々の名前などを自供させようとしたのだが、黙秘を貫いたため、拷問にかけた。一度きりの志賀直哉と会った日のことも多喜二は黙秘したのだろう。

 志賀は多喜二の死後4日後の24日付で、多喜二の母に手紙を送っている。「御令息死去の赴き新聞にて承知誠に悲しく感じました。前途ある作家としても実に惜しく、又お会いした事は一度でありますが人間として親しい感じを持って居ります。不自然なる御死去の様子を考へアンタンたる気持ちになりました」と綴られていた。葬儀には弔問文と香典が志賀より郵送された。特高警察が暗躍したこの時代、とても躊躇(ちゅうちょ)せざるを得ないのにも関わらずであった。

 志賀はその後、日本が軍国主義化して、満州国の設立や日中戦争に突き進む世相に、「実に不愉快なり」との思いを持ち、この日中戦争や第二次大戦(太平洋戦争)の終結にむけての活動を行ってもいた。(敗戦が近づくと、時の外務大臣・重光葵の意向をくみ、作家や知識人らともに「三年会」を結成。この会は、終戦に向けたことを話し合う会であった。)

 1925年に成立した「治安維持法」は、1945年の終戦後廃止されるまでに実に多くの人を検挙した。1928年3月15日(3.15事件)の全国一斉検挙に於いて、数千人を検挙、このうち300人余りが起訴された。治安維持法下の20年間で検挙された人の数は何十万人にも及ぶ。このうち起訴され獄中につながれた人の数は約10万人。1941年に治安維持法は改悪され、最高刑は死刑となった。監獄につながれ、治安維持法の罪で命を奪われた人の数は約600人にのぼる。昨年2020年6月30日に中国政府主導で制定された「香港国家安全維持法」は、この日本の「治安維持法」と共通性のあるものだ。

 小林多喜二の『蟹工船』は、1953年に映画化された。監督・脚本は俳優の山村聡、山村自身もこの映画に出演している。また、1974年に映画『小林多喜二』が全国放映される。監督は今井正、主演は山本圭、恋人の田口タキ役は中野良子。私はこの映画を大学生時代に見た。

 映画『小林多喜二』のある場面の撮影に使われた老舗の喫茶店が、今も京都にある。四条河原町(鴨川に架かる四条大橋近く)のそばにある喫茶築地(つきじ)だ。学生時代から私もずっと行き続けている喫茶店の一つ。2階建てのクラッシックな内装が素晴らしい。現在も喫煙制限がまったくない。創業は1934年(昭和9年)。奇しくも小林多喜二が殺された東京の築地署の地名と同じ「築地」。

 小林多喜二ブームが2008年に起こった。この年、作家の高橋源一郎と雨宮処凛の対談が毎日新聞文化面に掲載された。この記事がきっかけにもなり、多喜二の『蟹工船』が再評価されよく読まれるようになり、文庫本は50万部のベストセラー(累計160万部)を記録した。2000年代の小泉内閣下に、竹中平蔵とともに進めた「郵政民営化」や「労働者派遣法」などにより、特に若い人における非正規雇用の拡大と働く貧困層の拡大、低賃金や長時間労働の蔓延などの社会経済活動の背景下、2008年に小林多喜二の『蟹工船』の再評価が起きる。

 2009年には、映画『蟹工船』が全国上映された。主演は松田龍平、他に西島秀俊、高良健吾、柄本時生、谷村美月、新井浩文、大杉連、遠藤賢一らが出演。

◆1938年に奈良から東京に志賀直哉一家は引っ越した。1945年8月の終戦後、自ら立ち上げに関わった雑誌『世界』の創刊号に「灰色の月」を発表。(※この「灰色の月」には小林多喜二とのことも書かれていて興味深い) 1947年に日本ペンクラブの会長に就任した。1971年、死去、享年89歳。

 昨日5月25日、午前中の中国の大学のオンライン授業2コマを終えて、午後、車を走らせて、自宅から15分ほどの「松花堂」に気分転換に行く。庭園の入り口付近に吉井勇(いさむ)の歌碑が置かれている。吉井はこの松花堂のすぐ近くの月夜田というところに、終戦後の1945年(昭和20年)10月から1948年(昭和23年)11月まで暮らしていた。

 ふと石碑の横の写真を見ると、ここ吉井の住まいを訪ねた人たちとの松花堂での記念写真が置かれていた。この写真には、志賀直哉が写っていた。他に、梅原龍三郎、湯川秀樹、谷崎潤一郎、谷崎や吉井の夫人らが‥。1947年(昭和22年)秋の頃の写真らしい。この年に志賀は日本ペンクラブの会長に就任している。

※「吉井勇」歌人・作家・脚本家—命短し 恋せよ乙女‥の「ゴンドラの唄」の作詞や、「かにかくに 祇園はこひし 寝るときも 枕のしたを 水のながるる」の短歌などが有名。長く親交のあった谷崎によれば、いままでに十八人は勇の恋人を知っていると語っている。恋多き人だったのだろう。

※この季節、松花堂庭園に「大葉大山蓮華」とい木蓮科の花が開花していた。小ぶりの白い木蓮が美しい。また、青モミジと竹林のコントラストなども美しい。

◆私は中国の大学で担当している講義の一つ「日本近現代文学名編選読」では、日本のプロレタリア文学として、葉山嘉樹の『セメント樽の中の手紙』を取り上げている。この作品は1926年に発表されたものだが、プロレタリア文学の短編の名作の一つだと思う。

 

 

 

 

 

 


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