天正10年(1582)6月2日、本能寺の変で織田信長・信忠親子を自害・焼死させた明智光秀。光秀のその後の10日間の動きは次のようだった。①6月2日、近江国大津の瀬田の唐橋付近を領し、瀬田城に拠る山岡景隆を攻める。②同日、光秀の居城・坂本城に帰る。諸方に協力を要請。③6月4日、近江全域を制圧。④6月5日、安土城に入る。7日、安土城にて皇室勅使の吉田兼見と会談。⑤京都に上洛、禁裏(御所)参内後、吉田兼見邸に赴く。
⑥6月10日、京都南部(山城)と大阪東部(河内)との国境にある洞ケ峠に出陣。6月11日、下鳥羽陣屋にて淀城普請を命じる。(京都防衛のためか)⑦6月12日、乙訓(京都)の勝龍寺付近に全軍1万6000を布陣し、山崎の地に迫り来る羽柴秀吉勢と対峙。前哨戦始まる。
本能寺の変が起きるまで、明智光秀は近江国の一部と丹波国全域、南山城(京都府)を信長より拝領していた。さらに、丹後国(京都府)の細川藤孝、大和国(奈良)の筒井順慶、北近江(滋賀県北西部)の織田信澄を与力(明智軍団の傘下・協力勢力)としていた。また、信長より毛利攻めの支援軍としての命を受けた際、摂津国(大阪府北部)を拠点としている中川清秀(茨木)や高山右近(高槻)らも与力として付けられていた。これらを合わせると6万ちかい軍団構成が可能だった。
毛利と対峙していた羽柴秀吉は6月2日の夜から3日の朝には本能寺の変の報を受けていて、急ぎ毛利方の外交僧・安国寺恵瓊を通じて毛利との停戦協定を結び、6日には戦線から2万の軍団を大阪・京都に向けて短日間で移動した。「中国大返し」である。
本能寺の変後、光秀が最も頼りとし、光秀勢力への合流を働きかけたのは、細川・筒井・織田信澄(信長に謀殺された信長の弟の息子)だった。これから対峙することとなる羽柴秀吉や柴田勝家らとの戦いに向けて、最もあてにしていた3氏だった。だが、織田信澄は四国の長曾我部攻めのために 共に大阪に集結していた織田信孝(信長3男)・丹羽長秀らの軍(1万3000)によって、本能寺の変の後に「光秀と信澄の連携を怖れた信孝・長秀」によって急襲され戦死してしまう。
光秀の盟友と目されていた細川藤孝は羽柴秀吉の動向の情報をから、「信長の死の喪に服す」として、光秀からの協力への懇願を拒否した。一説には、羽柴秀吉とも通じていたとされる。筒井順慶は居城の大和郡山城を光秀への協力のために一旦出陣を準備したが、羽柴秀吉軍の「中国大返し」の情報を受けて「城に籠城」し、中立の態度をとった。また、摂津の中川、高山らは、迷いながらも、秀吉側につくことを最終的に決めることとなる。
これによって、6月13日に開戦となった山崎の戦い(天王山合戦)は、秀吉直属軍2万・信孝と長秀軍1万3000・摂津衆の中川・高山たち7000、合計4万の軍勢となった。対する光秀軍は1万6000。2倍以上の兵力差となる。
6月10日、光秀はなんとか筒井順慶の協力を得ようと山城国と河内国の国境にある洞ケ峠(京都府八幡市・大阪府枚方市)まで進出するが、ついに筒井は動かなかった。
洞ヶ峠の標高は低い。河内・山城の双方からゆるい坂があり峠となる。今は国道1号線が通り、峠には「洞ヶ峠茶屋」がある。
洞ヶ峠がある男山丘陵の展望がよいところ(八幡市橋本地区)からは、大阪平野が一望でき、奈良・大阪の県境にある生駒山系、神戸の六甲山系、丹波山系、そして山崎の天王山や淀川を望むことができる大展望地である。ここから神戸の六甲山系に夕陽が沈む。このあたりに光秀は6月10日に一旦は軍勢を催し、桔梗紋の幟旗を立てて、秀吉方や丹羽・信孝方に圧力をかけたとの見方もできる。この男山丘陵は大阪からも展望できるからだ。
山崎の地は丹波山系の山々(天王山270mもその一つ)と淀川(この山崎-橋本で木津川・桂川・宇治川の三川が合流し淀川となる)に挟まれた狭隘な地域だ。ここの狭隘な地で秀吉の大軍を堰き止めて、かつ秀吉軍より先に天王山を占拠し合戦に臨むしか、秀吉軍の勝機は見いだせないと判断した光秀は、12日に全軍を山崎に近い場所に移動させた。
6月12日、山崎の地まで進んだ光秀・秀吉の双方の軍勢は、小競り合いの前哨戦が始まっていた。光秀軍は勝龍寺城から600mほど山崎寄りの丘に本陣を置き、前面に諸将を配置して迎え撃つ体制を整えた。円明寺川(現・小泉川)を天然の水堀とした。この円明寺川のさらに山崎寄りには大きな沼があり、迫る秀吉軍はここを廻って軍勢を分散せざるを得ない。
勝敗の帰趨を左右する天王山の占拠戦が12日から13日にかけて行われた。最終的に秀吉軍が占拠し、秀吉は天王山の麓を少し登ったところの高台にある宝積寺に本陣を置いた。天王山争奪戦によって、光秀の戦略は大きく躓(つまづ)いた。
秀吉軍4万は、先陣に摂津衆の中川・高山らを配置。その先陣軍勢を中陣の秀吉直属軍が支える。後軍に織田信孝や丹羽の軍勢と、分厚い陣容で明智軍に迫る。13日の午後4時頃、全面的な軍勢の戦いが開始される。緒戦は死に者狂いの明智勢が羽柴勢を押しに押した。
が、しかし。2倍以上の開きのある軍勢の差が、戦況にじわりじわりと影響を与えてきた。夏至間近なので午後8時ころまでは明るかったかと思われるが、4時間ほどで勝敗は決した。敗戦となった光秀軍は逃走にかかり、光秀は勝龍寺城に立て籠もるが、夜になり ほどなく城は包囲される。包囲がまだ手薄だった北門付近から、光秀は琵琶湖湖岸の居城・坂本城を目指して十数名の武士たちとともに逃れた。
昨年の3月中旬に、ここ山崎合戦(天王山合戦)の地を巡った。光秀が本陣とした御坊塚(境野一号墳)に行く。「明智光秀本陣跡」の石碑と合戦説明板が設置されている。ここは何度も来た場所だ。私の叔母さんの墓がここにあるからだ。丘の上の墓地にはたくさんの墓が並ぶ。周囲は竹藪に囲まれている。竹藪の北方にはサントリー・ビール工場の広い敷地と建物群がある。「中野忠雄夫妻の墓」と刻まれている叔母の墓。赤い藪椿の大木がたくさんの花をつけていた。
440年ほど前に、ここに光秀はいたのだなあと思う。光秀はここで目まぐるしく変わる戦況に何を想ったのだろうと、久しぶりにここにきて改めて思いめぐらす。(※一説には、光秀の本陣は、勝龍寺そばの「恵解山古墳」だっともされる。だが、現地を訪れると、明智軍の諸将が陣を敷いた円明寺川からけっこう遠い。前方に御坊塚の丘があり、戦線が見通せない。やはりこの境野一号墳が本陣だったのではないかと思う。)
「山崎古戦場跡」の石碑が建てられている公園があり、その真上を今は京都縦貫道路が走っている。ここは、明智の諸将が軍勢を配置し、秀吉軍を迎え撃ったところだ。目の前に天王山の山塊が見え、すぐ前に円明寺川が流れる。石板には山崎の戦いの絵図面や説明が書かれていた。
円明寺川(現・小泉川)に下りてみる。いまでもちょっとした水堀のような川が流れていて、三川合流地点にそそぐ。川に架かる橋々には、JRの東海道新幹線や東海道線や阪急電鉄の鉄路、国道171号線や名神高速道路などが走る。この天王山山麓の狭隘な地は昔も今も交通の要衝だ。この川は合戦で血に赤く染まったのかと思われる。
京の都の東の交通の要衝は、南近江の瀬田川(琵琶湖から流れ、中流域で宇治川となる)に架かる瀬田の唐橋。「唐橋を制する者は、天下を制する」と言われた。そして京の都の西の交通の要衝がここ天王山麓の山崎だ。山崎合戦の地は今、さまざまな高速道路が交差する大ジャンクションとなり、戦場にはダイハツ工業の自動車工場などの敷地となっている。
敗戦が決まって光秀は勝龍寺城に逃れ立て籠もった。4万の秀吉軍に完全包囲される前に、13日の夜間に十数名の主従とともにこの城の北門付近から脱出をしたとされる。
この城は当時、もともとは細川藤孝がここ乙訓の地に信長より所領を受けて拠点とした居城だった。藤孝は1580年に丹後国の攻略を信長より命じられ、1582年にはほぼ丹後を平定し、丹後国を与えられ拠点の城を築いた。(丹後宮津城) 山崎合戦の時は丹後にあった。
山崎合戦からさかのぼる4年前の1578年、光秀の三女・玉(のちのガラシャ夫人)と藤孝の嫡男・忠興の祝言がこの城でとりおこなわれたのが、ここ勝龍寺城だった。
この勝龍寺城には何度も来ているが、昨年の3月中旬に改めてここを訪れた。玉と忠興の相寄り添う像が立つ。背後の木蓮の大きな木に満開に咲く白い花々が、玉(ガラシャ)のイメージと重なった。
◆天王山には4〜5回ほど登ったことがあった。最初に登ったのは大学生1~2回生のころ。大学内の社会科学研究会(サークル)の合宿でここに来て、天王山中腹にある小さなお寺に宿泊した。季節はいつだったか記憶にない。男女同数くらいの十数人での一泊宿泊だった。よく覚えているのは、寺からさらに頂上に向かったところにある寺の墓地までの夜の肝試し。2人1組で懐中電灯を手に山道を登る。昔の古戦場だったということは知っていたので、かなり気味が悪かったのを記憶している。夜の10時頃にこの肝試しは無事終わった。
◆天王山の山頂には「山崎城」(別名:天王山城)がある。山崎の合戦で勝利した秀吉はここに山城を築いて拠点の城とした。ここは、京の都と大阪を押さえることができる要衝の地。麓に近い宝積寺付近に居館群を置き、日ごろの政務を行ったようだ。山頂の城郭、本丸跡地周囲は石垣が残り、天守跡と言われるところもあり、二の丸曲輪には井戸跡がある。山頂からは京都と大阪が一望でき、木津川・宇治川・桂川とその三川合流地、淀川が眼下に見える。また、山崎合戦の地全域が見渡せる。山崎合戦直後の7月から築城にとりかかった。1583年、柴田勝家と秀吉の賤ケ岳の合戦で、秀吉が勝利すると大阪城の築城にとりかかり、1584年に山崎城から大阪城に移り、ここを廃城とした。
本丸郭を少し下ると酒解神社がある。ここの石造りの鳥居はかなり遠方の平地からでも見ることができる。また、この神社を少し下ると「十七烈士の墓」がある。幕末のころ、長州藩が京都御所での蛤御門の変(禁門の変・1864年)に敗れ、敗残の兵士をここ天王山に集めたが、戦いに敗れ自刃した地でもある。
天王山の麓近くの山腹に、サントリー山崎山荘美術館があり、景色も抜群だ。この美術館には有名なモネの睡蓮が展示されている。天王山山頂まで麓からゆっくりと登って60分ほどで到着できる。
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