天正10年(1582)6月1日、亀山城を午後4時ころに出発した明智光秀の軍勢は、午後6時ころに篠村八幡宮にて部隊を結集、1万3000の兵卒が本能寺や妙覚寺に宿泊している織田信長・信忠親子を討つために、山陰道(老ノ坂越)夜間行軍を開始した。6月22日の夏至に近いこの季節、午後7時半ころに日の入りとなるが、8時頃まではほの明るかったかと思う。唐櫃越を進軍した一部部隊があったとすれば、山本城のあった唐櫃越登り口から尾根道に至る標高差280mの急峻な登山道も、8時ころまでにはかなり登り終えているかと思われる。
桂川の川原に1万3000の軍勢を再結集させたのは、翌日2日の午前3時くらいだろうか。再結集させたと思われる現在の桂大橋付近は、老ノ坂越の道から最も近い桂川河畔だ。ここから当時の本能寺まで直線距離にして6km。桂大橋付近から真東に七条通りを進むと、現在のJR京都駅に至る。光秀の本軍はおそらくここから堀川通りなどを北上し、本能寺(四条堀川近く)に迫ったのかと思われる。桂川河畔から、四条通りなどの違う通りからも別動隊が本能寺に迫ったりもしたのだろう。また、信忠が宿泊している妙覚寺(本能寺からほど近い)に向かった別動隊もあった。
午前4時45分頃に日の出となるので、午前4時ころには薄明るくなるこの季節。午前3時過ぎに桂川河畔に軍勢を再結集させ、兵士たちに「馬の沓を切り捨てさせ、徒歩の足軽に新しい草履に履き替えるよう命じ、火縄に火をつけて戦闘準備をするよう」に指示をだし、「敵は本能寺にあり」と告げたとも伝わる。午前4時すぎころには本能寺を包囲したと推定されている。
昨年の3月、本能寺跡地に行ってきた。ここは2度目になるか。四条堀川の交差点の堀川通りを少し北に行くと京都堀川高校がある。その堀川高校敷地の北側の路地を東に進むと「空也寺」、さらに進むとすぐに本能寺跡地の石碑が置かれている。
跡地一帯は住宅や商店が立ち並び、堀川高校の別館や京都市老人ディサービスセンターや本能寺自治会館などの建物もある。「此附近本能寺址」の小さな石碑も。周囲約100m四方とされた本能寺跡地の東と北の小路の道は高低差があり、かすかに坂道となっていた。当時の本能寺の東と北は周囲より一段と低い場所に位置していたようだ。
5月29日に安土城より京都・本能寺に入った信長たち一行は、本能寺の変前日の6月1日の夕方から夜にかけて、公家の近衛前久ら40人あまりを招いて茶会を催していた(信忠も参加)との説が一般的だが、招いたのは公家たちではなく博多の豪商だったとの異説もある。いずれにせよ、安土城からここに38点の名物茶器を運ばせてのことだ。信長はこの夜、囲碁をしたあと就寝したとされる。
6月2日、薄く空が明ける4時45分ころには、本能寺を完全包囲していた明智軍は周囲の小さな堀を乗り越えて境内に突入したと思われる。本能寺で信長とともに宿泊し警備にあたっていた者は100~150人あまりの少人数だった。
ほどなく本能寺は炎上をした。信長が自らの遺骸を遺さないために火を放させたとされる。「討ち入ったは光秀か‥‥、やむおえぬ。是非に及ばず」と信長はつぶやいたとの伝承も伝わる。木造の大伽藍が炎に包まれ大炎上。一説によれば、近習の森蘭丸らは、自害した信長の遺体の上に畳を2〜3枚かぶせて、遺体が完全に燃え尽きるようにしたともされる。本能寺での戦闘は午後7時~8時ころにはほぼ終結、明智勢は信長の遺体をしばらく探索したが見つけることはできなかった。焼け落ちた伽藍の中の残骸からは、特定の人物の遺骸は見つけられなかったのだろう。
『祖父物語』によれば、光秀が信長は脱出したのではないかと不安になって焦燥しているところ、これを見かねた最重臣の斎藤利三が(光秀を安心させるために)合掌して、「信長が火の手の上がる建物奥に入って行くのをしかと見ました」と言ったので、光秀はようやく重い腰を上げて二条御新造に籠る信忠への攻撃に向かったと記されている。
織田信忠は本能寺より北1.2kmほどのところにある妙覚寺(堀川御池あたり)にいた。本能寺への明智軍の討ち入りを知り、即座に救援に向かおうとしたが、包囲されている本能寺に向かうことができないと家臣たちに止められここに立て籠もった。家臣たちは京都からの脱出を勧めるが、信忠はこれを拒否。しばらくして、ここではの防衛は困難と判断し、隣のより守りに堅固な二条御新造に移り500人ほどの兵士とともに立て籠もる。本能寺からもここに明智軍が大挙押し寄せ、信忠は建物に火を放ち自害。ここでの戦闘は12時ころには集結したとされる。
本能寺の変後、信長と信忠の遺骸や首を光秀は確認できず、信長生存説を否定できなかったことが、10日後の羽柴秀吉との山崎の戦い(天王山の戦い)の帰趨をきめる一つの要因になったとも言われている。
2月上旬に放映されたNHK番組「歴史探偵」では、「なぜ、信長は簡単に殺されたのか」「なぜ、信長の遺体は見つからなかったのか」について、科学的な検証や現地検証を含めて報道していた。まず、当時の本能寺(現在の本能寺の場所とは違う)は「①131m×125mと寺院面積の狭い寺院だったこと、②当時、京都の町は戦火から家々を守るために「上京」と「下京」はそれぞれ総構えと呼ばれる町を守るための塀や柵を周囲を囲むように施していたが、本能寺はその総構えの外だったこと。③総構えの町より、本能寺は一段と低い場所にあり、攻撃されやすかったこと」
「④寺の周囲は畑が多く、明智軍の多数が寺を包囲しやすかったこと」などが挙げられていた。つまり、非常に包囲しやすく攻めやすかったのが信長の宿所・本能寺だったということだ。
「なぜ信長の死体は発見てせきなかったのか」については、「①本堂伽藍に大きな火をかけた場合、5分もたたないうちに火が天井まで上ること」、②1200度の高温が発生し、死体の判別は困難」との科学的検証結果を報告していた。つまりは人骨の一部が焼け残っていた状況だったのだろう。
その焼け残った人骨の一部は、本能寺の変にかけつけた信長と親交のあった僧侶により、京都の阿弥陀寺に埋葬されたともされる。その阿弥陀寺に行ってみた。(次号に続く)
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