天然居士の独り言

主に日記主体のブログです。

とちぎ江戸絵画の底力・・・

2024年07月12日 18時25分55秒 | 日記
 宇都宮市の県庁の北西方向の住宅街に上野記念館があります。
 学校法人宇都宮学園の創立者の上野安紹氏の遺徳を偲び、
 1976年(昭和51年)に創設された私立博物館です。
 宇都宮学園は、文星芸術大学も設置しています。
 同館は栃木県指定文化財を含む2000点あまりの資料を所蔵し、
 中でも栃木県の江戸絵画史を通覧できるコレクションは
 素晴らしいものがあります。
 しかしながら、建物の老朽化とコロナ禍の影響を受け、
 2021年から休館しています。
 そのコレクションが「とちぎ江戸絵画の底力」とのタイトルで、
 県立博物館で展示されていて、
 7月15日までが会期なので、今日行って来ました。
 期間の終わり近くならないと行かないのが悪い癖です。
 実は、この展覧会第1期があったのですが、見逃してしまいました。
 全作品を入れ替えるので、2回行くつもりだったのですが・・・。

 展覧会は、椿椿山、谷文晁などの著名な画家や、
 高久靄厓、小泉斐、田崎草雲などの栃木県出身の画家の絵も出ていました。
 椿椿山が描いた、高久靄厓の肖像画は県立博物館が所蔵していますので、
 以前観た事がありましたが、やはり素晴らしいと思いました。

 田崎草雲は、足利藩士でしたが画家になり、
 明治時代に入ってからは、帝室技芸員になっています。
 帝室技芸員は、今の人間国宝以上の技量を認められたと考えても
 良いかと思います。
 田崎草雲は、国定忠治の似顔絵を描いているのでも有名です。
 実際に草雲は、忠治に会っていますので、かなり似ているのでしょう。
 今回の展覧会には、忠治ではなく、
 佐久間象山と吉田松陰の肖像が出ていました。
 共に簡単なスケッチのような作品でした。
 象山は写真が残っていますので、それと比べるとふくよかな感じでした。
 松陰は、足利学校に来た事は間違いないのですが、
 草雲と会ったかどうかは確証はないとの事でした。
 松陰は何点か肖像画が残っていますが、威厳のあるそれらとは異なり、
 若い姿で描かれていました。

 また、蒲生君平の絵も初めて観ました。
 蒲生君平は宇都宮の出身で、江戸時代に天皇陵を歩いて、
 「山陵志」を著しています。
 前方後円墳との名称を付けた人として有名です。
 山陵志には、一部の天皇陵のスケッチなども載っていますから
 不思議な事ではありませんが。
 美術展の概要は下記のアドレスです。
http://www.muse.pref.tochigi.lg.jp/exhibition/kikaku/20240427tochigiedoart/index.html

 県立博物館は、中央公園の中にあります。
 普段は、近所の方の散歩コースになっていますが、
 今日は人が少なかったですね。
 でも、傘を差して歩いている人もいましたが。
 公園の緑が濃くなっていました。
 この時期、滴翠と表現した額を見た事があります。
 雨が翠を滴らせているようだなぁと思いながら公園を少し歩いて来ました。

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4 コメント

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Unknown (井頭山人(魯鈍斎))
2024-07-13 08:45:33
県立博物館で開催ですか、今日は13日(土)ですから、まだ遣ってゐますね。町に出掛ける用事が有るので、ついでに県博に寄って来ましょう。情報有り難う御座います。山人
返信する
有難うございました。 (天然居士)
2024-07-13 18:42:00
井頭山人さん

コメント有難うございました。
はい、15日までですから是非ご覧になって下さい。
返信する
Unknown (井頭山人(魯鈍斎))
2024-07-13 21:15:34
>天然居士 さんへ
>有難うございました。... への返信
お昼ごろに行ってきましたよ。田崎早雲、椿椿山、を始め色々な人が居ました。「坂下門外の変」で亡くなった人たち、の件系図。真岡の志士たちも居ました、下野国誌を書いた河野守弘の甥の医師、甲田顕三もその一人です。この人はとても優秀な人です。皆んな、国のためになら命を捨てても好いという愛国者です。そして他にも、小山春山、横田祈綱もそうです。大橋トツ庵は佐藤一斉の弟子でもあった。義理の弟、菊池教中が二荒山神社の幟りを書いている事は分かって居ましたが、今回、山水画まで書くとは初耳でした。教中は、新田開発にも熱心で、鬼怒川右岸の岡本新田の開発にも貢献した愛国者です。田崎早雲の写生画を視ました。佐久間象山はふっくらとして居ましたが似ている。吉田松陰はランプの下で本を読んでゐる。何だかその辺に居る兄ちゃん風の挿絵でしたね。早雲は実際に会って書いているのですかね。松陰は田舎の学問好きの兄チャン風です。面白いと言えば面白い。ただ志士の考え方も分かるが、幕府側の考えも分かります。安藤信正は、当時、小笠原の日本領土をUSAに知らしめるために、測量の指示を出してゐました。それに、数学者小野友五郎も参加して居た。測量をしないと正式に領土と見なされないので、USAに取られてしまう。それで急いでいた。その最中に「坂下門外の変」です。或る意味では、岩城平藩主、安藤信正氏も外憂内憂で大変だったのだと、内心、気の毒に思います。変で、彼は籠から逃げたと誹謗され失脚して仕舞います。小笠原は危なくUSAに取られて仕舞う所でした。外敵と幕府の武力は大差があり、戦えば負けて植民地になる可能性も在ります。それで悩んで居た。攘夷論者は、武器の差を理解して居な狩った。気持ちだけは外敵を追い出すという気持ちだけは分かりますが、兵器の差は如何ともし難い。水戸学が幕末の思想を解く鍵です。特に会沢正志斎の「新論」に影響されたと思います。長く成るので、この辺で失礼します。
昼食は、食堂でハンバーグのAランチ食って帰った来ました。山人
返信する
有難うございました。 (天然居士)
2024-07-14 18:27:04
行かれましたか。
わざわざ教えて頂き、有難うございました。
坂下門外の変、宇都宮藩はかなり危なかったですが、
蒲生君平の「山陵志」で助かった感じがします。
その辺の経緯なども書かれていましたね。
返信する

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